竹島密約

読んだ本の感想。

ロー・ダニエル著。2008年11月1日著。



以下は、「慰安婦問題という名の泥沼」の記事へのリンク。権力者同士の談合によって成立していた日韓関係が変化していく過程について。

http://nonono7.blog12.fc2.com/blog-entry-1174.html

「竹島密約」とは、1965年1月(日韓基本条約締結は1965年6月)に、河野一郎国務大臣と丁一権国務総理の間で、日韓の領土問題(竹島問題)について結ばれた以下の取り決めを指す。

・竹島問題は、解決せざるをもって、解決したとみなす。したがって、条約では触れない。
 (イ)両国とも自国の領土であると主張することを
    認め、同時にそれに反論することに異論はない。
 (ロ)しかし、将来、漁業区域を設定する場合、
    双方とも竹島を自国領として線引きし、
    重なった部分は共同水域とする。
 (ハ)韓国は現状を維持し、警備員の増強や
    施設の新設、増設を行わない。
 (ニ)この合意は以後も引き継いでいく。

⇒国交正常化のために領土紛争を永久に棚上げする事を目的とする

竹島密約に関わったのは、河野一郎、丁一権、宇野宗佑衆議院議員(後に総理大臣)、嶋本謙郎読売新聞ソウル特派員、金鐘珞(金鐘泌元韓国総理の兄)、佐藤栄作総理大臣、朴正煕大統領とされる。

⇒竹島密約は、1965年の日韓基本条約締結時の韓国代表団にも知らされていない。朴正煕大統領は秘密外交と公式外交の二輪体制を敷いており、金鐘珞と河野国務大臣の交渉は朴正煕大統領に直接報告され、外務長官や駐日大使には伏せられていた

⇒日本代表団の椎名外務大臣は竹島密約の存在を知っており、軍事作戦のような機密管理によって竹島問題を扱っていた韓国との間に温度差があり、後にそれが表面化していく?

1648年のウェストファリア条約以降、世界は「国民国家」を基本として構成され、国民国家は領土への執着を共同体が存続する第一条件としてきた。そのため、一時的に政権を委ねられただけの政治集団が、共同体存続の第一条件である領土問題を裁く事は不可能。

この密約の成立には、日韓の文化が関わっており、義理人情を重視する意思決定であったとする。日韓の政治家は外交交渉の相手を敵ではない「身内の人間」として認識していた。特定集団の同類意識によって日韓関係が成立する。

⇒韓国の職業軍人達は、満州士官学校や日本陸軍士官学校卒業生であり、基本的に親日的価値観を持っていたとする

関東軍参謀朱子院の瀬島龍三を部分的にモデルにした『不毛地帯』が、韓国軍将校の間で愛読されたとする。



それが変化したのは、以下の変化のためとする。

①文民政権
1961年に始まった韓国の軍事政権は、朴正煕、全斗煥、盧泰愚の三代で終わり、1993年2月に金泳三が率いる文民政権が始まった。軍事政権文化は払拭され、「歴史を正しく立て直す」運動が始まる。

1997年の金融危機によるリストラは世代交代を加速させた。韓国の様々な分野で働く人々の平均年齢は、日本より10年ほど低くなった?

三八六世代:
1960年代生まれで、1979年の朴正煕暗殺から1980年の光州事件に触発された反政府運動を主導した人々。1980年代に大学生活を送り、1990年代に30代だった事から、そのように呼ばれる。

三八六世代が台頭する中で、1961年の朴正煕大統領が主導した「漢江の奇跡」を生み出した価値観が揺らぎ、社会的葛藤が生じる。旧世代は否定され、その中には親日主義も含まれた。

⇒民主政権に貢献した道徳的優越感やOECD国家としての自尊心は、民族主義に繋がり、過去の親日世代の権威は否定されていく

②プライベート・オーダーリング
法律が社会秩序を定めるのでなく、私人の集団によって左右される。それを主導するのが市民団体であり、市民団体が司法を批判する事で、司法が萎縮する社会的空気が醸成される。

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<竹島密約の喪失>
以下の2つにより、竹島密約は喪失した。

①紙の喪失
竹島未着は軍事政権下では守られたが、文民政権の金泳三大統領は存在を知らなかった。1982年に総理大臣になった中曽根康弘は、竹島密約を記した用紙について全斗煥に尋ねたが、紙は無いと返答された。

著者のインタビューによると、金鐘珞が竹島密約の用紙を燃やしたらしい。1979年の朴正煕暗殺による「一0・二六事態」を収拾する過程で、全斗煥が主導権を握るが、金鐘珞はスケープゴートとなる事を回避するために竹島に密約の用紙を燃やしたらしい。

②精神の喪失
1993年に金泳三が大統領になると、軍人親日主義は終わり、歴史の清算が主張されるようになる。それまで慣行となっていた日本外務省と韓国外務部が挨拶状のように「竹島(独島)は我が領土」と主張する口上書を交換する行為は悪い行事となった。

金泳三は、竹島に新しい接岸施設を作り、近隣海域で機動訓練を実施した。

反日を国内政治に使用する金泳三大統領の出現により、竹島密約の精神は失われた。「静かな外交」では日本の主張に静かに対応するが、「強かな外交」では日本に強硬に対処する。韓国の外交は「強かな外交」を基調とするようになったとする。

『決定の本質』(グレアム・アリソン著)では、以下の3つの型が外交政策のツールとして概念化されている。

(1)ラッチョ(rational choice)
社会的行動を利益の合理的計算に基づく選択の概念で説明する。

(2)組織的仮定
政府関連組織の目的や利益で説明する。

(3)政治
最高指導者の政治や妥協によって説明する。

⇒以前は日韓の最高指導者による政治の色彩が強かった外交関係に、利害や論理の要素が強く介入するようになっている



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<竹島問題の起源>
1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ講和条約の第二条第一項において、日本が放棄する韓国の領土に、竹島(松島)、独島の文字は無く、竹島は韓国に返還すべき権利の対象でない。

対日理事会の米国代表部では、1949年11月14日まで竹島は韓国の領土と認識されていた(連合国軍最高司令官総司令部覚書677号では、日本から除かれる地域として鬱陵島、竹島、済州島が規定されている)が、日本側がウィリアム・シーボルド大使に働き掛け、サンフランシスコ講和条約の第六次草案を検討する段階で竹島は日本領となった。

その後、1952年1月18日に、李承晩大統領が、李承晩ライン(北緯38度、東経32度50分までを韓国の排他的主権領域とする)を宣言する。その理由として、1945年に設定されたマッカーサーラインによって日本列島周囲に漁業が可能な限定線が設定されていたが、対日講和条約発効以降もマッカーサーラインが維持される事が条約に明記されなかったためとする。韓国の漁業資源維持。

1952年4月25日にはマッカーサーラインが廃止され、日韓の意志が不統一のまま、韓国軍による日本漁船の拿捕が行われ、1953年2月4日の「大邦丸事件」では韓国警備艇によって日本人漁師が射殺された。

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