古代日本外交史

読んだ本の感想。

廣瀬憲雄著。2014年2月10日 第一刷発行。



従来とは異なる東アジア史の枠組みを提唱する。

○従来の見方(東アジア世界):
中華王朝と周辺諸勢力の君臣関係から歴史を見る(冊封体制)。

⇒中華王朝が強大だった隋や唐の前半期に特化した歴史観となり、また、中国北方や西方との関係や周辺勢力の主体性が考慮し難いとする

○著者の見方(東部ユーラシア)
中華王朝を唯一の帝国とするのでなく、南の農耕王朝と北の遊牧王朝を含む諸勢力の存在を前提にする。君臣関係以外の多様な国際関係を基礎とする。

⇒古代史において中華王朝の国際秩序が大きな影響力を持つ時期は、農耕王朝と遊牧王朝が一体化した唐の全盛期という特異な時期とする

⇒著者の提唱する歴史観は、人類史に法則性が存在する事を想定する史観とは決別しているとする

◎外交文書
以下の文書について。

・慰労詔書、論事勅書
「皇帝敬問某」や「勅某」で始まる文書。君臣関係で使用される。臣下である受け取り手は、表という様式の文書を返答する。

・至書文書
中華王朝との君臣関係を拒否する場合に使用される。「某至書某」で始まる。

⇒隋唐期以外は、至書文書が使用される傾向があるとする

他に至書、献書、奉書、上書等の諸形式が存在する。

◎中華の地理的条件
北から以下のように考える。

①漠北
モンゴル国の領域と重なる。モンゴル高原のゴビ砂漠北側の草原地帯。
②漠南
ゴビ砂漠南側の遊牧地帯(農耕可能地帯含む)。フフホトと蘭州の南を結ぶ年間降水量400㎜以下の地域。
③華北
秦嶺と淮河を結ぶ線より北。年間降水量400㎜~800㎜であり畑作中心。
④江南
秦嶺と淮河を結ぶ線より南。年間降水量800㎜以上であり稲作中心。

⇒漠南と華北の境界線が万里の長城におおむね重なり、華北と江南の境界線が農耕王朝と遊牧王朝の歴史的境界線と重なる

<五胡十六国時代>
4世紀頃からの、華北や漠南で諸勢力が興亡を繰り返した時代。江南では一貫して東晋が存続している。

この時代の重要拠点は、長安を中心とする関中と、鄴、襄国、中山を中心とする関東である。五胡十六国時代に、この2拠点を支配下に置いたのは、前趙(316年~319年)、後趙(329年~350年)、前秦(370年~384年)、北魏(430年~)である。

日本史においては、前秦が勢力を築いた頃に画期があったとする。石上神宮所蔵の七支刀は、369年に百済王が倭王のために作成した物であり、その背景には朝鮮半島における高句麗と百済の対立関係があるとする。

百済は東晋にも朝貢し、高句麗は前秦との外交を始めている。413年には倭国と高句麗が東晋に使者を派遣した記録があり、朝鮮半島における優位を占めるために外交を展開した形跡がある。

<第一次南北朝時代>
華北における安定した統一政権である北魏の登場を画期とする(430年頃?)。

漠北の遊牧勢力(柔然)、漠南と華北を本拠地とする北朝(北魏→東魏・西魏)、江南と四川を支配する南朝(劉栄→南斉→梁)の三者が存在する。

北朝の軍事力に対抗するため、南朝は柔然と連携し、高句麗や百済とも通交したが、この時代には北朝の正統性が強化され皇帝位を名乗るようになる。

日本は、一時的に中国王朝との外交を断絶するが、その背景には480年頃に百済と新羅の間に羅済同盟が成立し、百済と倭国の関係が疎遠化したために、倭国が朝鮮半島における優位を求める必要性が薄れたためかもしれない。

6世紀に入ると、百済や新羅の南下政策によって半島南部の小国家が併合されていき、513年に五経博士の段楊爾を派遣する代わりに任那国の四県を割譲し、百済が全羅北道南原・長永を併合した時には、五経博士の漢高安茂の派遣を受けている。

⇒朝鮮半島南部の小国家群を見捨てる代わりに先進技術の供与を受ける

<隋>
548年に発生した侯景の乱によって南朝の梁が崩壊し、553年には西魏が蜀の成都を占領する事で南北の勢力均衡が崩れた。西魏は北周から隋へと継承されていく。

さらに552年に突厥が柔然を破り、漠北に突厥可汗国が出現する。その領域図は中央アジアのエフタルを滅ぼす等広大で、中華王朝にも優位となる。

また、朝鮮半島における変化としては、552年に新羅が旧百済王都・漢城を占領し、新州を設置した。高句麗と百済の勢力圏が直接的に接しなくなり、新羅と他国との対立関係が深まる。相対的に倭国の重要性が高まり、570年には高句麗の使者が越国に漂着し、575年には新羅が倭国に貢物を送っている。

そして、中華においては、581年の隋成立と583年の突厥分裂により、華北が優位になる。603年には隋の支援を受けた東突厥が大可汗になる。

突厥の分裂状況が収束すると、隋との間に対立関係が生じ、突厥に使者を送る高句麗に隋が遠征を繰り返すようになる。

<唐>
突厥第一帝国が滅亡した630年から、突厥が第二帝国として復興する682年の間は、南北の中華が一体化した大唐帝国の時代である。

唐は、突厥遺民をオルドスの農牧接壌地帯へ移住させ、当該地域に羈縻州という間接統治の州を設置した。その首長は武官職を与えられて長安で暮らすが、戦争時には自らの部族民を率いて遠征に従事した。

唐が東方に関心を向けた640年代には、以下の政変が発生したとする。

百済:
641年に即位した義磁王は、642年には新羅から旧伽耶地域を奪取し、倭国へ王子の豊璋を人質として派遣している。

高句麗:
642年に泉蓋蘇文によるクーデターが発生し、栄留王が殺害され、反唐政権が誕生し、644年の唐による高句麗遠征へ繋がる。

倭国:
643年に上宮王家が滅ぼされ、645年には蘇我総本家が滅ぼされる。

新羅:
647年に唐との関係を巡り、毗曇が反乱を起こし、金春秋(のちの武烈王)等に鎮圧される。648年に金春秋自らが入唐し、唐との関係を深める。

この時代に倭国の外交方針の変化があり、648年に倭国が新羅遣唐使に表を付して唐に起居を通じており、654年の倭国遣唐使は新羅道を取り入唐している。

646年には、新羅や百済の貢納義務(任那の調)を免除している。645年に百済が任那の調を貢納したのは、倭国が百済の旧伽耶諸国領有を承認したためと思われるので、この免除は領有承認の撤回を意味する?

645年の政変以後に倭国が百済重視の外交方針を転換したのなら、660年の百済以降に倭国が百済復興軍側に立つのは、653年の飛鳥遷都によって孝徳帝が失脚したためかもしれないが、基本的には朝鮮半島南部の分裂を維持する倭国の外交方針があったのかもしれない。

その後、660年代から対外膨張を開始する吐蕃への対応や、突厥の復興により唐の軍事介入能力は低下していく事になる。そして、唐と新羅の関係が改善していないために、新羅と日本の関係は日本優位で展開していく。

<第二次南北朝時代>
10世紀~13世紀頃に、中国南部(五代、北宋、南宋)と中国北部(契丹、金)が併存した時代。

907年には耶律阿保機が天皇帝に即位し、李晋の李克用と雲中の盟を結び、これが壇淵の盟まで受け継がれる南北関係の原型とされる。

五代と総称される後梁、後唐、後晋、後漢、後周では、後梁を除く四王朝はトルコ系沙陀族の流れを汲む軍事組織を中核とする。北宋の太祖 趙匡胤は後周の禁軍に擁立されている。

北朝の金はモンゴル高原の遊牧勢力の統制に失敗しており、これが国際秩序不十分と後のモンゴル台頭に繋がっていく。

**************

多くの国家が帝国(自国外部の複数集団を支配)たる事を志向している。中国王朝では、中華皇帝と周辺諸勢力君長との君臣関係を基本に構成されており、それは詔勅の発給と表の奉納、中国の爵位を周辺君長に授ける冊封等に象徴される中華王朝内の君臣関係を外部に適応する事にある(周辺君長を国内の臣下と同様に扱う)。

日本では、君臣関係ではなく貢進物の貢納により上下関係が表現される。8世紀以降に律令制が導入されてからは、口頭で行われていた外交交渉が外交文書(慰労詔書)を使用するようになり、中華的君臣関係が設定されるようになる。

8世紀の日本は、新羅や渤海に繰り返し表の提出を要求している。しかし、新羅使や渤海使との関係は君臣関係とは異なる仕奉観念(氏を持つ人々が大王にツカヘマツル意識)によるとする(新羅からの外交文書では、君臣関係ではなく、遠祖から日本に奉仕した事が強調されている)。

仕奉観念は、倭国段階の服属儀礼であり、大王に奉仕した人々が氏という名を賜り、以後、同じ氏で奉仕する(譜代性の重視)事を意味する。これは官人の参加を意味する君臣関係とは異なる。

8世紀の日本の国際秩序は、対外的には文書を使用した君臣関係を基軸にしているが、対内的には譜代性を重視する貢納・奉仕関係で説明されている。これは仕奉観念に依拠した国内の支配秩序に、律令制の導入により君臣関係の原理が持ち込まれた事が関係しているのかもしれない。

そして、新羅は日本との対等関係を求めるようになり、735年には新羅使が自国を「王城国」と称した事により放還される事件が発生し、その後の混乱を経て、779年に来日した使者を最後に、新羅使は途絶する。

著者は、王城国事件時には、日本側が新羅使いを資格審査無しで入京させていたとし、資格審査は760年以降としている。そのため、736年に日本側の遣新羅使が放還された事件を途絶の理由として提唱している。

735年に、新羅は唐との間で大同江以南の割譲で合意しており、対唐関係改善により日本への服属を止めたのかもしれない。

そして日本外交は変化していき、790年代には渤海との間で以下の展開がある。

・日本側が、渤海への上表・称臣要求を放棄する
・日本と渤海が外交文書で互いへの敬意を明確化する
・服属を説明した仕奉観念の衰退
→790年以降、「始祖から代々の天皇に奉仕する」という文言が欠落するようになり、798年からは日本が渤海を高句麗継承国家として表明しないようになる

これは、日本国内において仕奉観念が衰退したために、国内秩序を支える思想として中国的な君臣関係の比重が高まったためとする。

さらに840年代に入って、それまで外交文書の手本とされてきた唐の慰労詔書、論事勅書が参照されなくなり、支配手段としての大陸文物への関心が薄れた事を意味するとしている。外部勢力の服属を国内秩序の延長で説明しなくなり、国内外の秩序が分離していく(相手の位階に関わらず慰労詔書は国外、論事勅書は国内という使い分けが確定する)。

そして、帝国としての日本が終焉し、10世紀の日本は海外との公的交渉を断絶していく。

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