<世界史>の哲学 東洋篇

読んだ本の感想。

大澤真幸著。2014年1月29日 第一刷発行。



マックス・ヴェーバーの宗教社会学、真木悠介の比較社会学、柄谷行人の世界史の構造への意識。

第1章 世界史における圧倒的不均衡
1 素朴にして知的な問い
真に価値を問うに値する問題は素朴である。リーマン予想は、素数数列の規則性有無を問う素朴な問題である。

2 圧倒的な不均衡
社会システムのグローバル化が、西洋標準を受容する過程である事について。

3 「新大陸」と「旧大陸」
西洋の新大陸浸出は、西洋優位を示す。武器や馬、集権的政治機構、文字不在、病原菌等の優位。しかし、真の優位はそこに無い。

4 西洋と中国
15世紀頃まで西洋に優越していた中国が、現代において標準や規範になっていない事について。

第2章 新大陸の非西洋/ユーラシア大陸の非西洋
1 皇帝からの使者はまだ来ない
カフカの短編「万里の長城」は、領土の広大故に皇帝の言葉が臣民に届かないさまを描く。宮崎市定の「雍正帝―中国の独裁者」では、中華皇帝の城が欧州の王と比較しても広大である事を記述している。

中華皇帝の権力の本性は広さにある。

2 食糧生産の技術の発明
食糧生産の優位性について。膨大な人口、定住生活、集権化(社会の成層化 = 不平等化)。家畜の生産は感染症の抵抗力を身に付ける事にも繋がる。

3 文化伝播の速度と集団の大規模化
食糧生産方法の伝播速度は文化伝播速度と相関する。また、社会構造は人口が多くなるに連れて複雑化、不平等化していく。集団が大きくなると争いも増えるため、強い集権的権力が必要になるし、社会的意思決定を容易にする統一された権力が求められるようになる。

4 肥沃三日月地帯の失敗
環境破壊によって農業生産に有利だったメソポタミアが崩壊した事について。

5 広さへの意志と高さへの意志
以下の二つの対比。

広さへの意志:
中国の統一性は脅威である。八億人以上が北京語を話し、十二億人に対して八種類という非常に少ない文字数。

高さへの意志:
十二世紀中盤の欧州でゴシックと呼ばれる建築様式が生まれる。その特徴は昇高性にある。尖塔アーチや縦長の窓、細身の柱を支える飛梁や控壁等。

エルヴィン・パノフスキーは、自説と異説を調和させながら総合するスコラ学の大全という論の構成の建築的表現がゴシックとした。

⇒中国と西洋の権力が異なる志向に支えられていた可能性

第3章 受け取る皇帝/受け取らない神
1 カインの罪
アベルを殺したカインへの同情が、「エデンの東」のモチーフになったという話。カインにあたるキャルは、最終的に父(神)はキャルを呼び寄せる。これは、カインの嫉妬を全面的に間違っているとするユダヤの論理は自明でなく、考察に値する事を示している。

2 疑問の再・再方向づけ
中世末まで優位にあり、国際決済通貨としての銀のフローでは18世紀まで優位にあった中国(リオリエント:アンドレ・グンダー・フランク)が、優位を保つ事が出来なかった事について。

3 朝貢システム
マックス・ヴェーバーの支配類型によると、中華皇帝の支配は家産制(家長による家族支配を社会的に拡大したもの)に含まれる。

権力が広さに対抗するには軍事力と官僚制によるが、これは軍や官僚が権力を私物化する可能性と表裏一体である。中国では、皇帝の権力を裏打ちするのは朝貢システムであり、朝貢関係の中に入っていれば、周辺の共同体はそれ以上の干渉を免れた。

朝貢は、贈与の中心化に基づくシステム(再配分システム)である。

清朝では、皇帝権力は「西北の弦月」(満州族の伝統的軍事組織(理藩院)に基づく)と「東南の弦月」(科挙に合格した官僚による礼部に基づく)の二つがあった。どちらも朝貢システムであるが、軍事と官僚の両方を活用した。

明代の鄭和の後悔が長続きしなかったのは、それが朝貢システムの延長であり、威光を広げようとする皇帝を失えば、遠征の必要が無くなるからである。欧州のように経済的利益を求める競争というコンテクストは無かった。

4 受け取らない神
神が隔絶した超越性を持つほど、神は人間に返さなくても人間に贈与した事になる。

アベルの供物を受け取っただけで神は人間に返した事になる。さらに、超越しているのだから受け取らなくても神はカインに返した事になる。カインは、何か与え返される事を「受け取られる」という形で求めたために神の超越性を冒瀆した事になる。

⇒中華とは異なる一神教の論理

以下は、ユダヤ教の三つの系列。

①ファリサイ派(律法)
②サドカイ派(神に捧げ物をする)
③預言者

サドカイ派は神と朝貢的関係を築こうとした?が、それはキリストによって否定された?

第4章 「東」という歴史的単位
1 神への負債
中華帝国の支配論理においては、恭順の意として朝貢する代わりに皇帝の保護を受ける。一神教においては、キリストの死が贖いとされるが、そもそも神であるキリストを差し出す事は朝貢としてはおかしい。

神は全人類の罪の代償を神の子を捧げる事で支払っているのだから、人間に大きな贈与をしている。キリスト教徒は神に対して負債感を抱く?

2 イサクへの奉献
イサクの犠牲とキリストの犠牲には相同性がある。神はアブラハムを試すために、老いてから授かった実子のイサクを供犠として捧げるよう要求する。しかし、イサクの奉献をキリストの死に置き換えると、それは異質な論理に転化する。

3 ヘーゲルの歴史哲学
ヘーゲルは世界史は東から西に向かったと論じた。世界史を野蛮な意思が訓練され、普遍的で主体的な自由が実現されるまでの論理的過程と見做す。すると、東洋(インドや中国)は一人が自由であると認識し(専制政治)、ローマ世界は特定の人々が自由を認識し(貴族政治)、ゲルマン世界は万人が自由を認識している(君主制)。このように東から西へと自由が普遍化している。

4 一神教の見えない壁
ユーラシア大陸の中央で紀元前五世紀頃に仏教は発祥した。その伝播ルートは、南伝(紀元前三世紀頃にアショーカ王の王子マヒンダがセイロンに伝える)と北伝(紀元前二世紀頃にガンダーラ地方に入植したギリシア人に受容される)がある。

伝播ルートの特徴は、西方には広まらない事にある。アフガニスタンのバーミヤンより西にはいかない。一神教の壁に仏教は弾き返された。さらに仏教はインドでは空洞化している。

他に、中国からインドに伝播した大きい文化事項が無い事も特筆される。

5 仏教とカースト
インドの社会構造の根本的特徴を差別=序列の体系とする。

インドのカースト制は小さな地理的空間に限られた論理に規定されており、インド全体に通用するカーストの序列は無い。著者はカーストの根拠を贈与であると見做す。学問(知の贈与)、供儀(神への贈与)、喜捨(人間への贈与)等があり、神への贈与を執行出来る者が最上位となる。

第5章 解脱としての自由
1 「自由」の意味するもの
『ヨーガ』(ミルチャ・エリアーデ著)では、ヨーガは自由に依存するとしている?インド哲学では生は苦であるとされ、解脱した生が志向される。

2 無所有の理想
苦である生と、その解決策である八正道の間には、無我という媒介がある。所有を徹底的に放棄し、執着を無くす。「私」は私の行動全体によって定義されており、所有の放棄とは行為の無効化である。ヨーガでも通常の行動を全て逆にする事で、プラスマイナスを0にしようとする。それは生の外(死後や生前の状態)への移行を目指す。

こうした日常の生から離脱しようとする仏教は、日常生活を規定するヒンドゥー教と相補的関係にある。

3 輪廻の原点
中国の伝統思想には輪廻の観念が無いが、仏教を受容した。輪廻と業(カルマ:善業を積むと高い地位に転生出来る)がカーストを支える。この説明を納得させる原体験は贈与と返礼をめぐる体験とする。贈与への返礼の期待が常に満たされるとは限らないので、死後にお返しがあると考える。

仏教やヨーガが離脱を目指した苦の原型は、贈与と返礼(報復を含む)に巻き込まれた事から生じる束縛ではないか?

4 神話的な食物連鎖
食物連鎖は、贈与と返礼の枠組みで解釈出来る。弱い者が強い者に身体を贈与し、強者に統合される。こうした食物連鎖の循環理解から輪廻という思想が生じたのかもしれない。
すると、カースト上位(食物連鎖の頂点にいる存在)は、さらに上位の神々に食べられる可能性を恐れなくてはならない。神々の恩恵に依存しているのだから、神々から食べられるかもしれない。

よって武力を持ったクシャトリヤでなく、バラモンが最上位となり、人間の代理物を神に与えて神の食欲を満たす。

5 浄と不浄
贈与には返礼がつきものである。返礼しない間は負債感があって、贈与されたものが自分に所属していないと感じる。こすいた所有への執着によって、人間は贈与の関係に拘束される。

よって、徹底的に放棄する事で一切の所有から離れる事で解脱は可能になる。

完全は「浄」は自然の暴力的連関から離脱している者の属性である。食物連鎖のような自然の暴力と報復の連鎖に巻き込まれる事は悪業を重ねている事になる。

しかし、理念として贈与の連鎖から離脱した場合、現実的には他者からの布施に依存する事になる。

第6章 二つの遍歴集団
1 よく似た二つの遍歴集団
イエスの集団とゴータマ・シッダルタの集団の比較。

・圧倒的なカリスマ的指導者と信望者
・生業を持った共同体から離れて遍歴

シッダルタは35歳で覚りを開いたが、キリストが十字架上で死んだ年齢とほぼ同じらしい。イエスの隣人愛とブッダの慈悲は似ているかもしれない。

2 対照的な遍歴集団
二つの集団が異なるのは布施に対する態度。仏教では出来るだけ在家信者からの供応を回避しようとするが、イエスの一行は人々の歓待を積極的に受容した。イエスの態度は、彼に洗礼を施したヨハネの禁欲的生活とも異なる。

イエスは革命家であり、エルサレムの境内で商人の活動を阻害する等、積極的に再分配機構を破壊しようとした。ユダヤの律法を全て隣人愛と置き換える態度は、仏陀の抽象的な八正道(具体的に実現するために法が必要という解釈が成り立つ)と違う。

この違いは組織になるとより明確で、仏教での出家者集団(サンガ)は、独自の法を守らなくてはならず、社会の法に影響を与える事が無かった。

3 ふしぎなピクニック
ヨハネ福音書には、イエスがガリラヤ湖畔で集まった五千人の人々全員にパンと魚を分けた話がある。

この話をイエスが気前よく食料を分けた事で、他の人々も食糧を持参した食料を分けた話と解釈する事が出来る。自分の持参した食物を奪われる恐怖を、分け与える事で克服する。

人は過去の行為から逃れられないというアKン各派、以下の二つの水準の混同にあると見做す事が出来る。

①存在論的水準:何かを引き起こす事
②倫理論的水準:引き起こした事に責任がある事

上記を混同すると、何かをする度に責任を問われる事になる。しかし、イエスのピクニックでは、他者に負い目の感覚を植え付ける事無く、自発的に歓んで与えている。これは存在論と倫理論の分離だ。

原始仏教では存在論と倫理論が重なっており、因果関係に規定される限りは倫理的にも規定されており、そこから自由になれない。よって人間の行為の産物である現実の制度を否定する事は不可能になる。現実を否定するために、現実外部にある涅槃を目指す事になる。

4 マヌ法典が規定する奇妙な人生
マヌ法典は、紀元前六世紀から紀元前二世紀にかけて、ダルマ・スートラという文献が蓄積され、そこに記された行為の原則や価値観が紀元前後に編纂されたものとされる。

人生を以下の四つの段階で辿るの事が望ましいとする。

①学生期
ヴェーダ(バラモン教の宗教書)の学習に注力
②家長期
家族を守り、仕事をする
③林住期
折を住いとし、ヴェーダを復唱しながら苦行に専念する
④遍歴期
家を持たずに遍歴する。

上記③、④は仏教の修行者と似ている。バラモン教が規定する人生の一部を切り離せば、仏教的な生となる事は、仏教徒バラモン教の関係を暗示する。

第7章 カーストの内部と外部
1 キリストと菩薩
イエスは当時のユダヤ人社会に積極的に介入したが、仏陀は古代インドの支配体制を放置した。菩薩にとって涅槃は良い場所で、敢えて地上に留まって功徳を施す。イエスは最後に死を厭い、『世界諸世代』でシェリングは紙にとっては永遠の潜在性に留まる事が耐え難く、経験的な世界に向かう事が解放と書いている。

抽象的な永遠を捨て去り、有限で不完全な個人になる事が、キリストの愛の真実という意見。『ニーベルンゲンの指輪』にて、ジークムンテは妻ジークリンデがヴァルハラ(天国)に行けないためにヴァルハラを拒否する。 

2 カエサルのように/カエサルと逆に
抽象的な普遍概念としての皇帝(カエサル)が出現するためには、生身の個人としてのカエサルは殺害されなくてはならない(ヘーゲル)。理性の狡知として、矛盾を解消するために個人を殺さなくてはならない。

カエサルは単独個人を指し示す固有名詞だったが、本人の死によって普遍概念となる。キリストは逆で死によって普遍概念であった神が個人(キリスト)である事が証明される。キリストの死には普遍概念への変化と、故人である事を示す事の二つの側面がある。

3 古代インドにおける供犠の中心性
バラモン教と仏教は相補的である。バラモン教は供儀が中心で、人間は存在を開始した事で超自然的存在に債務を負っており、人間は供儀によって固有の文化水準に上向く。そのため、供儀によって捧げられるものは、料理されたものである(生のものではない。)。

4 四つのフェーズをもった人生
バラモン教では人間は食物連鎖に縛られて神に食される運命にある。禁欲主義は食物連鎖から逃れる手段。しかし、多くの人間が禁欲主義的になれば社会システムを維持出来ないため、人生の一時期に禁欲的になる(学生期、家長期、林住期、遍歴期)。高齢期のみを禁欲的に過ごせば、人生全体を禁欲的に過ごした事になる。

5 カーストとその二つの外部
上記の個人に人生における原理を社会システム全体に適用すると、一部の人間が禁欲主義的である事により、全体の浄性が保証される事になる。バラモンが最も禁欲主義的であり、クシャトリアは他者の命を奪う事で秩序を維持し、ヴァイシャは富に執着する事で生産活動を維持する。

浄の水準は相対的であるために、どこまでの禁欲的である人々(共同体から離脱した遁生者)と、どこまでも不浄である人々(不可触民)が社会的に誕生する。

第8章 救済のための大きな乗り物
1 大きな乗り物
仏教はカーストの不平等を否定するが、それはカースト的社会体制の外部で行われる。カーストが浄と不浄の混合によって成立している以上、社会的に仏教は究極の浄として隠遁生活を送る事で許容される。
しかし、隠遁が仏教の本質となると、仏教によっては少数しか救済されない。そこで紀元前100年頃に大乗仏教が発生し、在家の修業によっても救済されるとした(他者を救う事で自分も救われる)。

2 ブッダの骨
大乗仏教は、出家者の共同体を頼りとせずに、仏塔(仏陀の遺骨を納めた塔)に在家信者が集まって、そこを拠点に発生したという平川彰の説。仏陀の骨とキリストの血肉の違いは、骨は具体性を伴わず、生前の仏陀のイメージを喚起する(具体から抽象)とする。

3 例外の普遍化
大乗仏教は「例外を伴う普遍性」を克服するために生れた?普遍的な規定に「但し、○○は例外である」という条件を付け足していくと、例外が支配的になる(非軍事の中の自衛力等)。
仏教は普遍性を主張しながらも、社会の中では少数の出家者としてしか存在出来ず、その例外的な少数者が存在しなくてもカースト体制に支障は生じない。
仏教徒も不可触民もホモ・サケル(聖なる人間、ジョルジョ・アガンベンの概念)であり、西洋におけるホモ・サケルの至高例はキリストである。
キリスト教においては、磔にされたキリストが神への懐疑を口にする事から、信者はキリストを信仰しつつも、キリストの懐疑が自分には当て嵌まらない事を点検しながら信仰するという緊張状態にある。

第9章 「空」の無関心
1 眼差しを排除する眼差し
絵画における仏陀の穏やかな眼差しを手にするには、他者性(他者も自分を見ているという感覚)を排除しなくてはならない?他者の眼差しは西洋の絵画において強調される点であるらしい。

2 テクストの野放図な増殖
仏教は正典が確定されていないために、派閥に分裂し易い。対して唯一神からの啓示に基づく一神教はテクストの確定に拘る。仏教においては、法は世界中に満ちているのだから、仏陀でなくても能力があれば法を知る事が出来る。仏陀の言葉と弟子の論に大きな格の違いは無い。

3 「空」の思想
2世紀~3世紀に龍樹による中観派では、全てを関係性(縁起)から説明しており、浄不浄はそれ自体では存在出来ず、浄なる存在は不浄な存在と関係する事で浄なる存在となる。
中間派は全ての空(無?)を前提にしているため、論理的に「有」を前提にせず、「○○でない」という否定を重ねる論法を取る。一切を空と考えると、幸福を齎す存在も空であり、存在しないものを求める事が苦の原因となる。

このような思想からは、社会の現実を変えずに、個々の認識を変えるべきという思想が生じるため、どのような社会状況も正当化出来る。

4 「空」の前にある同一性
『中論』では、実態を縁起(関係性)へと還元する事で、存在を空(無?)に転換する(認識操作)。そして、関係性への還元のためには、その還元の操作の対象外となる実体の存在が前提となる。

父は子があって父であり、子は父があって子である。これは縁起(関係性)へと還元した例だが、この還元のためには家族という基盤が存在する事が前提になる。家族が空に還元されないからこそ父と子が存在する。

「○○でない」という否定の反復は、縁起に還元されない単一の実体(否定の対象とならない)が前提になる。それは問い質す事の出来ないものとして思考領域から排除されており、それによって思考は一貫性を保つ。

第10章 曼荼羅と磔刑図
1 「何もない」ところに「何か」がある
素粒子物理学の話。物理空間で温度を下げると、その領域に含まれるエネルギーが小さくなっていき、極限では何も無い状態になる。しかし、幾つかの現象を整合的に説明するには何も無い真空状態に何かある事になる。その何かを取り除くためにはエネルギーを増やすしかない。

その何かは「ヒッグス場」と呼ばれる。ヒッグス場とは、物質運動の妨げになる液体に例えられ、ヒッグス場においては物体に質量が与えられる。ヒッグス場は素粒子と相互作用し、粒子の運動状態変化を妨げるが、光子に対してだけは抵抗しない。

さらにヒッグス場の出現によって対照性(物体に操作を加えても変化が見出せない)が低くなる。ヒッグス場が存在しない時には、電磁力の粒子と核力(放射性崩壊に関わる)の粒子の間に完全な対照性があり、それらを入れ替えても区別出来ない。ビッグバン直後は、これらの二つの力は同じものだったとされる。

⇒全てを排除しても残るものがあり、それが無ければ何も無い状態を構成出来ない

2 曼荼羅
認識における空の実践における対応物がニルヴァーナ(涅槃)である。全ての実体(法)を縁起(関係性)に還元すれば空の境地に到達するという論理は、空間から物質やエネルギーを排除すれば真空になるという仮定と似ている。

仏教では空が重要だが、曼荼羅(宇宙の実相を表現した図表)は存在への執着を示すという。曼荼羅には仏や幾何学模様が空白無く描かれる。

著者は、空を追及する事は、その内部の存在者や地を所与の背景として前提にするのではと推測する。

3 マレーヴィッチの「人物画」
カジミール・マレーヴィッチの絵画では、白い表面に黒い正方形や円を置いただけの絵画である(黒い十字架と赤い卵等)。マレーヴィッチが晩年に描いた人物画は抽象的で幾何学図形のようであり、指の形等で透明の何かを持っているように見える時がある。

それらの人物は、人格を否定されて磔刑にされたキリストの現代的再現ではないか?

4 磔刑図
仏教の曼荼羅とキリスト教の磔刑図は対応するとしている。16世紀初頭にグリューネヴァルトが描いた『イーゼンハイムの祭壇画』では、十字架と人物の向こう側に余白があり、それは曼荼羅ではあり得ない。

キリスト磔刑死する瞬間は、個人としてのキリストの身体が、教会という信者の共同体の中に消え去る瞬間であり、不透明で真っ暗な背景と磔刑死するキリストは、個としての身体と共同体的な身体を同時に表現しているのかもしれない。

5 一神教と仏教
磔刑図は個人の身体が抑圧されているという事実 = 抑圧の過程をえがくために、背景と個人を同時に提示している?キリスト教会は、内部に多様な人間が入る事の出来る地であり、それと同じ契機を仏教では空とする。空は多様な存在者が出現出来る地なので、それらを表象すると隙間無くイメージが詰め込まれた曼荼羅になる。

仏教では差異化されていない一者を予見として様々な存在が調和するが、キリスト教では教会を成立させるために、抑圧されるキリストの個体を顕在化させる。

固体としてのキリストは、教会が成り立つためのヒッグス場のようなもの。

第11章 インドと中国
1 複雑性の縮減
社会システムの基本的機能は複雑性の縮減である(ニクラス・ルーマン)。「図/地」の構図では、複雑な地(環境)から図(システム)が切り出される。
曼荼羅はシステムの内的複雑性の表象であり、複雑性縮減のために、システムの内的複雑性を増大させる。磔刑図では複雑性が縮減する瞬間を描く(個人としてのキリストが消滅し、教会として生成する)。磔刑図では背景(環境)が無である事が重要になる。

2 東の優位?西の優位?
現代の世界は、西欧のシステムが優位になっている。しかし、歴史的には西欧の優位は絶対的でない。

3 統一された社会/分裂した社会
中国とインドを比較すると、中国は集権的権力を前提にし、インドでは部族が乱立する。インドでは大帝国が崩壊し、再来を繰り返す事が無い。
中国では家産的選良ではなく、官僚が行政を担う。インドでは家産制的貴族が上位カーストが権力を握る。インドでは統一王朝が実現されても、内的には風習や宗教、言語、インフラ等の面で中国よりも分裂している。

4 歴史的定数のごとく
中国では秦による統一の前に五世紀以上も継続する春秋戦国時代があったが、インドではそれほど長い戦争は経験していない。その後の流れでも権威主義的、中央集権的な中国と、限定的権力が多元的に乱立するインドの相違は継続しており、インド社会の特性はカーストの独特な宗教的世界観から生じるとしている?

第12章 カーストの基底としての贈与
1 マルクス主義的な図式の格好の素材?
マルクス主義では、宗教的理念を社会科学的に説明する(宗教とは選良支配を正当化する御伽噺)。経済的分布を正当化する観念体系としての宗教を考えると、それに最も都合が良いのがカーストを有するバラモン教である。

しかし、以下の点からバラモン教はマルクス主義的見解と相違する。

①豊富な教義
カースト支配を正当化する道具と解釈するには、複雑な形而上学や神話など領域が広過ぎる。それは、より集権的な中国の体制と比較するとより明らかになる。
②バラモン
武力を有するクシャトリアでなく、儀礼の力を保持するバラモンがカースト上位である。物理的に意を押し付けるはずの武装者達が最上位でないのはマルクス主義的には奇妙。
③長続き
バラモン教は紀元前7世紀より前から成立しており、少数者の利益のみを正当化しているのなら、これほど長続きするのはおかしい。

2 カースト体制の基底に
バラモン教は、自由な労働移動を前提とする資本主義とは相性が悪い?カースト体制は経済的分業としてだけでなく、贈与交換として儀礼的にも理解しなくてはならない。カースト間の通婚は基本的に禁じられ、接触も制限される事から、カーストは相互依存や贈与の広がりを制限している。そのために自己充足的な共同体が乱立する事になる。

3 負債としての人間存在
下位カーストの身体は、上位カーストに対して贈与されている。その根本にあるのは、人間の存在は神によって与えられため、人間は神に負債があり、返さなくてはならないという概念だ。食物連鎖のように、神が人間を食べる。本来であればクシャトリアも紙に食べられる事は避けられないが、バラモンは神々に人間の代理物を与える事で神々を騙す。

4 儀礼的贈与交換のふしぎ
贈与は、①形式的手順に従う、②公開で執り行われるときに「儀礼的」とされる。それらは経済的に無価値であり、原初的共同体の多くで儀礼的贈与が行われる事は不可解かもしれない。

第13章 闘争としての贈与
1 贈りあうことで闘う
筒井康隆の『毟りあい』を原作とする野田秀樹演出の劇『THE BEE』では、妻子を人質に取られた男が、犯人の家族を人質に、互いの妻子の指等を送り合って脅迫し合う。

互いに真の敵であるはずの相手に友情を感じ始め、敵である他者の内に自分を認める。贈与が闘争の手段となっている。贈られれば、贈り返さずにはいられない。贈与と闘争の同値性。

アイルランド伝説の『ブリクリウの供宴』では、巨人ウアトが自分の首を切り落とす代わりに、自らの首を切り落とす者を探している。応じたクフーリンが勇者として認められる。これは戦闘を贈与へ純化させる試みである。

2 擬態された戦争
クロード・レヴィ=ストロースは敵対関係と互酬給付の間に連続性があるとしている。贈与は人間にしか見出せず、原子共同体においては重要である。

儀礼的贈与は、別部族との潜在的闘争である。加害者と被害者が同一部族である場合の対処は簡単だが、別部族によるものである場合、部族全体への攻撃と解釈される。加害主体も加害部族全体と見做される。

加害は負の贈与であり、復讐は反対贈与となる。そして贈与交換は争いを抑止する代替選択肢である。

3 三つの義務
マルセル・モースは『贈与論』にて、贈与は「殺し合う事無しに対立する」事を可能にする手段とした。以下の三つの義務。

①提供の義務(贈り物をする)
②受容の義務(贈り物を受け取る)
③返礼の義務(お返しをする)

モーセ自身は、上記が義務となる理由としてマオリ人の「贈られた物にはハウという精霊が含まれており、それが受贈者を返礼へと誘う」という説明を採用している。レヴィ=ストロースはモーセの説明を批判しつつも、ハウを「浮動するシニフィアン」という語に置き換えるだけ。

4 互酬性の二律違反
互酬の謎は、贈与を受けた瞬間に返礼するのでなく、時間が経過してから返礼する事になっている。贈与と反対贈与が時間的に分離され、単独で自立している様相になる。対価への支払いになってしまうと贈与と返礼が失敗した事になる。

従って、贈与では互酬性が養成されるのに、互酬と見えないようにしなければならない二律違反がある。そのための時間分離。

第14章 自分自身を贈る
1 スパアマン教授の誤謬推理
『経済学殺人事件』(マーシャル・ジェヴァンズ)では経済学理論によって謎を解く事になっている。

経済学者デニス・ゴッサンが殺害され、経済学者ヘンリー・スピアマンが調査する。殺害理由は、文化人類学者デントン・クレッグの著書に取材せずに書かれた虚偽がある事に気付いたから。

虚偽である根拠は、現地のヤムイモ(日常の食品)とカヌー(貴重品)の取引記録からで、貴重品の価格の変動幅が日常品の価格の変動幅より大きい事は経済学的にあり得ないとする。経済学的には安いヤムイモは価格差に拘らないが、高価なカヌーは厳しい価格競争にさらされるため価格変動幅は小さい。

しかし、儀礼的贈与や心理実験の最後通牒ゲームでは、人間は気前良く贈与しようとしており、経済合理性に基づく行動を選択していない(文明社会でも、絵画価格の変動は卵の価格変動より大きい)。

2 南フランスのレストランで
レヴィ=ストロースは『親族の基本構造』の中で、贈与交換の本性を具体化する場面として、フランス南部のレストランで隣客のグラスにワインを注ぐ風習に言及している。

他者の存在によって行為への呼びかけを感じるため、社会的距離を確定するためにワインを贈与する?

マルク・アンスパックは、『精神のコミュニケーション』と上記のレヴィ=ストロースを結び付け、意思疎通しない事自体が、「私はあなたと意思疎通しません」という否定的メッセージになってしまうため、当たり障りのない会話を交わす事になり、それが贈与交換と似ているとする。

3 結婚としての狩猟
ホモ・サピエンスが誕生したのは10万年ほど前で、農耕開始が1万年ほどまえだから、生物としての人類は狩猟採集向けの身体で、狩猟採集と違う生活をしている事になる。

シベリアの狩猟民は、儀礼的贈与交換、姻戚のシステム、狩猟が一体性を持つ事を示す。象徴的な狩猟の儀式が、狩人と獲物との結婚として理解されている。狩猟によって動物を得る事は、森の精霊から女を贈与される事に等しい。

4 自分自身を贈与する
贈与においては、贈与物に贈与者自身が託される。それは個人であるとは限らず、共同体のアイデンティティを投射する事もある。市場で購入した物の所有権は完全に購入者に移るが、贈与された物は贈与者から完全に切り離されず、捨てる事は侮辱になる。贈与は自己を受け手に延長する行為である。

第15章 双子という危険
1 双子のパラドクス
多くの原初的共同体で双子は危険と見做される。

ザンビア北西部のンデンブ族では、女性が双子を産むと、ウブワンウという儀礼によって共同体全体が治療される。儀礼の前半では水源地に男根的シニヴィアンを作り、後半では村落内部に二つの部屋を建てて、男女に分かれ、猥褻な冗談を言い合う。

水源地は自然を意味し、そこから村落(文化)に移動する。二つの部屋は結婚の隠喩になっており、女性に対応する左の部屋に男根の象徴である矢が置かれ、儀礼の締めくくりに長老が矢を取って来て、左足の指の間に挟み、女に腰を掴ませて、二人で右足で片足飛びをしながら左の部屋に入る。

⇒女性の贈与によって双子の危機を解消する?

2 構造主義の教訓
双子の難問は、それが一なのか二なのかという謎である。

構造主義においては、意味作用における差異の優越があり、多くの系列の中での示差的特徴によって定義される。差異が機能するには、差異が設定される全体が必要。男性と女性の区別は、人間という集合を前提にする。人間が無ければ、男性も女性も意味が無い。差異を経由しない全体性。

レヴィ=ストロースが、意味の担い手としての言語は、一挙に全体として出現したはずとするは、言語が差異を経由しない全体性であるために、一つ一つの語彙が有意味とするから?

3 分析哲学の教訓
分析哲学では、名前はトートロジーであり、A=Aという同一律を支えにしている。

記述説:
名前とは、「対象の性質についての記述の束」の代用品。ここでの性質とは、他の対象との差異である。

反記述説:
ソール・クリプキによる。対象の性質を常に正しく認識出来るとは限らないため、名前はトートロジーである。

4 「そこがいいんじゃない!」
与え受け取る事は、他者を承認する事を意味する。

仮に他者を有益な性質のために肯定しているのなら、それは部分的承認であり、もっと優れた他者と出会えば関係を切り替える(記述説)。しかし、同一性によって他者を承認するのなら、それは全的承認となる(反記述説)。

5 一者における二項対立
名前によって指示されるのは、「〇〇である」という事でなく、「〇〇でない」という可能性?名前の対象は差異性?名前が有効に機能するには、同一性と差異性のどちらを採用するのか無意識的に決定していなくてはならない。

双子は、一者がそれ自体において二者であるため、同一性と差異性の二項対立を可視化してしまう。ある物を「○○という性質を持っている」とするか、「〇〇という性質を持っていない」とするのかで混乱する?

第16章 贈与の謎を解く
1 メシアは一日遅れてやってくる
双子が誕生した時、婚姻(女の贈与)を儀礼的に再演する事で危機に対処する共同体がある。

ギルバート・ライル:
理解するとは、分割する事とした。一つの実体をより小さく分割していくと、それ以上は分けられない段階に至る。このような極限を想定しなければ分割が何を目指した操作か分からなくなる。

ある固有名で指示される対象が何であるか、「〇〇という性質を持っている」、「◆◆くらいの高さ」と分割していくと、それ以上は条件を付け足せない事を示すために、無という条件を付加する必要がある。

無という条件が付けたされる事により、対象は「明晰に規定し得る部分」と「無」の二項に分割される(原本的二項対立)。

*****************

上記の原本的二項対立を双子の危機に当て嵌めると、性的差異は原本的二項対立と考える事が出来るかもしれない。

カフカの「メシアの到来」では、メシアは到来の日より一日遅れてやって来る。これは到来の日が原本的二項対立の水準が排除される時で、二項対立が意識されるには、原本的二項対立の排除が終わっている必要があるという事かもしれない。

双子は、二なのか一なのか判然としない事により、同一性と無の対立を呼び起こしてしまう。

2 トーテミズム
AがBに贈与する時、Aの主観的世界においてはBに対して負債があると感じている。贈与は初めから反対贈与であり、カフカのメシアのように最初の贈与は一日遅れて反対贈与になる。互酬性が完全である状態は回避されなくてはならず、一日遅れでなくてはならない。

そして原始共同体における儀礼的贈与には、共同体を代表して行われる贈与があり、拡張された私としての共同体がある。共同体を基盤とした第三者の審級の措定。その元とも原始的形態はトーテム信仰かもしれない。

3 贈与の機制
私は、自分自身が何者であるかを不断に言語や象徴によって自己定義している。

そこに原本的二項対立が排除されたとすると、自分自身を定義するための「無」が無いため、肝心な何かが欠けている事になる。その欠けている何かを他者が所有しているように感じる。贈与によって自らに欠けている何かを受け取らなくてはならないとする。

贈与は他者からの承認であり、それが完結するには反対贈与によって贈与を受容した事を示さなくてはならない。そして自らを贈与者として位置付けた者は権威者になる。

贈与と反対贈与に時間的隔たりがあるのは、贈与者が受贈者に対して他者であり、受贈者の操作に服していない事を示す。他者性(自分には把握し難い謎)を残した他者からの贈与には、記述不可能な0が含まれ、それが欠けた何かとなる?

4 謎の「第三の人物」
モースによると、マオリ人のインフォーマントは、贈与がAとBの間で行われる時、Cという第三者を介すとする。これはサンタクロースの話と似ている。これは贈与の謎として残る。

第17章 供犠の時代の調停的審級
1 供犠の時代
農耕開始と伴に供犠という実践が出現した。マルセル・エナフは、農耕出現から近代以前までを「供儀の時代」と呼ぶ。狩猟採集民が自然の精霊に対して行う贈与は供儀と見做さない。

贈与は対等な他者に行われるが、供儀は超越的な他者に行われる。

2 女神の調停-『オレステイア』から
アイスキュロスの悲劇『オレステイア』(紀元前458年上演)は、贈与交換を基準とする社会から、供儀のシステムへ移行する危機を主題とする。

〇第一部:アガメムノン
トロイア戦争の英雄アガメムノンが、妻クリュタイムネストラに殺害される過程を描く。娘イフィゲネイアを女神に生贄として与えた事の恨み。

〇第二部:コエフォロイ
アガメムノンの子供オレステースとエレクトラが母クリュタイムネストラに復讐する物語。復讐を遂げたオレステースは復讐の女神エリニュスに取り憑かれ苦しむ。

〇第三部:エウメニデス
オレステースの裁判の様子。アテナが無罪を支持し、エリニュスは慈しみの女神(エウメニデス)になる。

上記の第一部、第二部では互酬的贈与に準拠した正義が支配している。この場合、復讐が義務になる。復讐の連鎖が止まらない。第三部では、正義を作用させる装置として、紛争を調停する審級がある。

供犠が差し向けられる超越的他者にあたるのは、調停的機能を担う第三者の審級である。供儀を行う社会と伴に、正義が当事者同士の復讐に基づいていた段階から、調停的機能を有する独立の審級を組み込んだシステムに移行する。ここれは復讐は義務でなく私的行為になる。

3 社会の内部/外部
二つの社会型がある。

①復讐による社会
共同体が贈与交換によって関係している。

②調停による社会
高次の第三者の審級を有する。

贈与によって関係している人々は内部(我々)である。贈与が成功してこそ同じ内部に属していると承認される。だから贈与交換は潜在的には闘争であり、復讐に転化する可能性がある。

調停による社会では、審級者が全体に斉しく第三者としての位置を保つため、均質な内部(我々)が実現する。

ここでカーストのシステムは、贈与を基本とした社会において、内部/外部の区別が両義的(贈与が成功しなければ内部か外部か判然としない)な域を保つ試みと言える。そのため相互カースト間での結婚や贈与を禁じる。

中華帝国のシステムは、調停による社会の大規模なケースで、華夷秩序はその延長にある。

4 七賢人を巡った後で
以下の二つの例。

①古代ギリシア
古代ギリシアの戦士は、環状に並んだ兵士の真中にメゾンと呼ばれる共通空間を構成し、その中に置かれた物を共有財産と見做す風習があった。これが公共空間の元とされる。中心への贈与、中心からの贈与として公共空間が構成される。

②七賢人
ミレトスの漁港で発見された黄金の鼎が神託によって、賢者に授けられるべしとされるが、タレースが自分よりも賢い者に鼎を贈り、七人を経由してタレースに戻ってしまい、アポロンに奉献される。著者は、循環によって価値が生じたとする。

第18章 国家に向かう社会/国家に抗する社会
1 捨てられたことによって届いた手紙
シェイクスピエアの『トロイラスとクレイシダ』は、女の贈与/略奪に付随する報復の物語である。

トロイア戦争において、トロイ王子パリスの兄弟トロイアスは神官カルカスの娘クレシダに恋し、二人は結ばれる。しかし。翌日にはクレシダはギリシア側に寝返り、ダイアミディーズの女になる。

クレシダとダイアミディーズの交歓は、トロイラス(第三者)の眼差しを前提にして演じられる。クレシダの中には統一性の規則が存在しない。

2 一般交換
母方交叉イトコ婚について、第三の主体Xの想定があるとする。父方交叉イトコ婚では、女の限定交換の中に閉じ込められてしまい、第三者が入り難い。

3 中国型システムの初期形態
中華帝国は大規模場贈与交換網と調停的審級を持つ。

「正」の本来の起源の形態は、「口(城壁で囲まれた邑)」と「止」からなり、「正」は邑の支配者を意味し、「他邑を征する」という意味があった。支配者の主な任務は、征服であり、「征」には税を取る意味があった。「政」の本来の意味も徴税である。

原初的な正義は物理的暴力に根ざしており、正義は支配者への贈与を強制していた。国家が強力な収奪を行い、その配下に勝手に復讐を行ってはならず、それは国家が独占的に行使する。共同体の間に存在していた贈与と復讐の原理を国家が全て吸い上げた時に帝国が完成した。

4 国家に抗する社会
贈与は相手に自分自身を贈る行為であり、受贈者は与え手の自己に統合される = 権威を持つ。贈与社会の中で権力者は与え続けなくてはならないが、それには限界があり、互酬的共同体においては集権的権力が発生し難い。

中国のような大規模な帝国が発生するには、贈与の連鎖が中心化するだけでなく、第三の人物という余剰が必要になる。

第19章 三国志の悪夢
1 ユーラシア大陸両端の地形
中国では広い帝国が実現出来た。さらに300年~400年の期間で統一と分裂を繰り返す。山脈等によって隔てられた欧州と違い、中国は平坦で黄河や長江によって結ばれている。そこで念頭におかれる統一手段は戦争である。

2 三国志の悪夢
『三国志』は中華帝国の本質に関わる以下の二つのテーマを伏在させる。

①中国は単一でなければ正統でない
②利他的君主(劉備)が皇帝として相応しい

中華において完璧に利他的な連帯を「幇」と呼ぶ。その外部では利己的でも構わない。そして、地方で満足するのでなく中央政権を奪取する事を目指さなくては正統性を得られない。英国王が貴族に妥協してマグナ・カルタを出したのは、地方に基盤を持つ貴族がいたからだが、中国では地方領主が皇帝に妥協を迫る事は出来ず、自分自身が皇帝にならなくてはならない。

3 恒常的戦争に基づく改革
春秋時代の300年間で1200回以上の戦争があり、少なくとも110個以上の政治的共同体が消滅した。続く250年間の戦国時代には150回を超える戦争があった。

ローマ共和国は人口の約1%、ギリシアのデロス同盟は5.2%を戦争に動員したが、秦は人口の8%~20%を動員したという。古代中国は近代以前において最も凄惨な戦争を経験している。長い戦争を通じて封建諸国家は征服・統合され、単一の帝国になる。

その理由は中原が平坦で軍隊の移動に適していたから?

多くの兵士が身分や血統とは無関係に徴収され、そのために人口調査等が行われ、そのための官僚制が整備される。

4 帝国は内面化された戦争か?
秦が採用した理念は法家の思想である。その要諦は信賞必罰によって人々を従わせる事であるが、これは戦争において人々を屈服させる方法を内政に転用したものである。

第20章 驚異的な文民統制
1 彭徳懐の孤独な敗北
中華人民共和国 初代国防部長彭徳懐は、毛沢東との戦いに敗れた。1928年に30歳で中国共産党に入党した彭徳懐は、1954年に国防部長に就任し、1958年の大躍進運動を批判する。
1959年の東欧訪問で各国の支持を取り付ける事が出来なかった彭徳懐は、帰国後の廬山会議で討論を命じられる。毛沢東は、自分に反対するのなら、農民を率いて政府転覆を図ると言った。人民解放軍は毛沢東の側につくというのだ。

2 完璧な文民統制
約4000万人の餓死者を出しても従順な中国の人民と、軍事クーデターを起こす事が出来ない彭徳懐。彭徳懐は東欧の軍隊の方をあてにしており、中国軍が毛沢東に逆らう事を想定していない。極端に強い文民統制が毛沢東の独裁を可能にしている。

文人の権威が軍人に勝るのは中国史全般に見い出せる現象。中華帝国の創始者は軍事的勝利者だが、政権に就くと軍人としての側面は二次的であるように振る舞う。

『史記』では劉邦より項羽の方が軍事的に有能であったように描かれ、『三国志』でも軍事的才の無い劉備が良く描かれる。

3 家族への攻撃
最初の中華帝国である秦は法家(軍事的統治の内政化)によって統治したが、漢に倒され儒教が中国の統治理念となる。儒教は家族・親族の内的連帯を重視する。

秦は儒教を攻撃し、家族への愛着を無効化し、皇帝を権力の中心に置こうとした。伝統的集団から個人を解放し、個人を一律に管理する。井田制廃止、人頭税導入もその目的に沿う。

しかし、恐怖によって従わせるだけのシステムには持続性が無かった。

4 法家と儒家
漢は家族的単位を復活させた。行政実務では法家を残したが、全般としては儒教を採用。

儒教には忠と孝という君主や家族への服従義務がある。法家が賞罰で強引に引き出した服従を内面的に調達する。

一方で法家は諸地域から世襲的支配を根絶し、全国一律の行政機構を導入した。漢の郡国制は、部分的には封建制を認めたが、基本的には政府に任命された官吏が行政を行い、地方領主も中央政府の中で地位を持たなければ正統性を持てなかった。

第21章 国家は盗賊か?
1 敗者の勝利/勝者の敗北
岡田英弘は、1206年のチンギス・ハーン即位を世界史の始まりとする。モンゴル帝国はユーラシア大陸の大半を支配する陸の帝国。東洋と西洋という歴史観念を持つ地域を繋いだ。

著者は軍事的に優越していたはずのモンゴルが、文化的には中華に服属していたとする。中国は絶えず蛮族の侵略を受けたが、逆に侵略者達の方が中華の伝統を導入している。そうでなくては中華帝国の広域を支配出来なかった。

2 皇帝位のアンチノミー
中華では身分や民族に囚われずに誰でも皇帝になれるが、皇帝以外は皇帝になれない。彭徳懐の例のように皇帝の位が厳格に守られているように見える。

ヘーゲルの概念:
現実は概念と一致しない。現実の君主は、君主の概念には完全には適合しない。愚かであったり強欲であったり。

儒教では正名として、概念と現実が合致する完全な君主が過去に存在したとする。周の文王等。

3 「国家=盗賊」論批判
マルオー・オルソン:
市場から独占企業が出て利益を獲得するまでの過程と同じ論理が権力闘争の場で働いているとする。一つの部族(盗賊)が強くなれば、その優位が拡大していく。そうして出来た最大規模の部族(盗賊)が国家である。

国家とは特定地域を独占的に支配する盗賊である。

F・フクヤマは上記のモデルは中国に当て嵌まらないとする。税率が理論上の最適解より低過ぎる。例えば明の大半の時代において、土地に課せられた税率は5%程度。これは極めて低い水準で侵略を防ぐだけの防衛費を用意出来なかったとする。

中国は広大であり、行政を役人達に委託しなければならないため、オルソンの一元化モデルは成り立たず、完全な独占が成立しない。税の中間搾取によって高い税は不可能?

4 「公」と「天」
中国の「公」は道義性の高い概念である。「天」は「公」の多数者よりさらに広い外延的範囲を指示する。天の一部として意味付けられる事で公に道義性が宿る。

第22章 華夷秩序
1 世界の中心
「中国」とは国名でなく中心という意味である。中国は中心に規定された空間で世界の中心 = そのものとなる。皇帝が支配している領域は本来は限界を持たず、世界全体と合致していなければならないとする。

2 華夷の序列
この中国に限界が無いという理念は、万里の長城等とは矛盾する。皇帝の権力が及ばない外部への恐怖に基づいて建設された?長城に対応する認知として中華思想があり、中心に位置する華とその外部にある人間以前の夷の世界を規定する。

しかし、夷であっても中心に侵入すれば正統支配者として承認され、中国的文化を受容した。

3 「往くを厚くし来たるを薄くする」
皇帝は君子(徳がある)として、朱子学の理論では「理」を体現する。こうした認識が確立すると、軍事力で上回っても皇帝を斥ける事が出来ない。

皇帝と朝貢国との関係は、天と皇帝との関係の再現にあり、祀っている天からの天命は皇帝にとっては最大の回賜となる。このような序列は階層関係にあり、皇帝(中心)―中華―朝貢―互市―夷となる。

朝貢は贈与関係であり、負債(国王としての資格等)を持つ朝貢国が朝貢し、皇帝は与え手である事を確認するために、朝貢を凌駕する量を返さなくてはならない。朝貢国は経済的利益だけでなく、存在の尊厳を与えられ、その前提は中華皇帝が天から承認されている事にある。

互市では経済的利益のみで、夷とは何も無い。華夷秩序は中心(皇帝)との様々な強度の贈与―反対贈与関係。

4 パーソナルな関係
「幇」は中国社会におけるパーソナルな関係を支配する原理である。幇内部では利己性は滅却され、幇全体が単一自己のようになる。そして幇内部でも自己と同一視される他者と、信用出来ない他者の間に中間的レベルが入る。自己を中心とした同心円の構造で、これは華夷秩序と同じ構造を持つ。

5 三顧の礼
『三顧の礼』では、劉備の側が孔明の方へ朝貢をして重い贈与をしている。これと同等の効果が社会システムの中で確保されれば、皇帝の権力が実効的なものになる。

第23章 人は死して名を留む
1 刺客の社会的地位
『史記』の列伝は七十巻から成るが、二十六巻目が刺客列伝で五人の事績を記録している。中国では刺客に重要性を与えており?仇を他人に依頼し、その動機も親の仇等でなく、自尊心を傷つけられるような屈辱である。

高い身分の者が法外な大金を提供しようとしている事実が、刺客にとって尊厳の贈与になっている。『三顧の礼』における実現しなかった二回の訪問が贈与になるように、実際に大金を支払わなくても贈与になっている。

2 己を知る者のために
刺客にとっては、主君である他者が自分を国士として承認する事が大切。庶人としての義務は限定的だが、国司としての無限の責任がある。

3 持続の帝国
歴史に名を残す事は中国人にとって人生最大の目標であった。中国型の歴史は天命の正統が継続している事を証明しているものであり、同一なるものの継続である。

4 「存在」を与えられる
中国史では徳ある皇帝が天命に沿って統治しており、他の皇帝も同じようにすれば上手くいくはず。中国史に名を残す事は、天命の正統なる継承に対して有意味な貢献をした事の証明である。

キリスト教徒は救済によって神の国で永遠の命を手にするが、中国人にとっての歴史は同様の意味を持つ。

5 個人档案
中国共産党は、「個人档案」という文書を管理している。これは一種の履歴書であり、上司が管理する。中国共産党の人事システムの根幹。これは伝統中国の己を知る他者に徹底して帰依し、歴史に名を留める事を人生の意味とした中国人の現代的現象形態と著者は推測する。

第24章 皇帝権力の存立機制
1 トップに直訴する
『ワイルド・スワン』は、ユン・チアンの祖母(1909年生まれ)から文科大革命が終わる1978年までの現代史の証言である。その中に、ユン・チアンの母親が夫を不当逮捕から救うために周恩来首相に直訴しに行く話がある。

現代中国でも地方から北京への陳情が年間50万件ほどあり、陳情する者達が生活する村まである。行政が機能していれば、陳情は地方政府に対して行われるはず。目前の役人は信頼されていないが、共産党幹部は信頼されている。

官僚は統治対象である人民に応答責任があるとせず、自らへの上司に応答責任を自覚している。その階梯上位に共産党幹部がいる。

2 自己チューに先立つ脱中心化
中国史では、侵略者達が中原を支配して中華となる(脱中心⇒中心)流れがある。

3 「第三の人物」はどこから?
「我々」という同一性の到達には他者の存在が不可欠。黒が黒として同定されるには、黒と区別される他の色が必要。他者は自己が存在するために必要な何かを最初から所有しており、「我々」の存在は他者からの贈与の形を取る。

他者は私の志向作用の最大到達範囲の外部にある相対化を許さない無限の距離である。他者は常に裏切る可能性を持っており、それが愛の対象である事の条件である。

このように他者を現前している他者とは別の、より抽象的な実体として定義すると、贈与において抽象的第三者を介入させる意味が出てくる?

4 至るところにハウが
抽象的第三者を経由した贈与は、社会的有用性に還元出来ない付加物を宿しているように感じられる?お菓子のおまけが二次的付加物でありながら、本品よりも魅力があるようなもの?

5 皇帝の生成-基軸的な論理
贈与交換が盛んになっていくと、第三者が共通の性質を持っていくと思われる。それこそが調停的審級である高次の第三者の審級なのではないか。

第25章 「母の時代」から「父の時代」へ、
     そしてさらなる飛躍

1 「統一性の規則」がない
統一性の規則が無いとは、裏切る可能性が消去出来ない事 = 還元しきれない他者の不確定性を指している。人間だけが猥褻の感覚を持ち、第三者の視点は他者の眼差しにおける性的意味と関係している(オーソン・ウェルズの『不滅の物語』)?

2 皇帝からの「先験的な贈与」
黄金の鼎がギリシア七賢人を循環した後にアポロンに献呈されたように、贈与の繰り返しによって高まった物品が超越的権威を帯びる。高次の第三者が共通の贈与者となる。

贈与を通じた社会システムには与える事の限界による内在的限界があるが、高次の第三者は常に与える立場にあるため、皇帝から国士として認められる事が自尊心の根拠となる。

高さへの意志を持つ西洋と対照的に、中華皇帝が広さへの意志を持つのは、皇帝の超越性が無限に広がる贈与の連鎖の代表制に由来しているからかもしれない。皇帝は全体に君臨していると見做される限りで敬意を集める。

3 「母の時代」から「父の時代」へ
中国では外婚的な宗族の前に、交叉イトコtの結婚による父系家族のモデルと、母系親子関係を基軸にするモデルがあったとする仮説がある。姓は女偏である。

マルセル・グラネ、ジュリア・クリステヴァ:
①禹の伝説
禹は夏王朝の創始者とされるが、彼の治水事業の途中で妻が石化した逸話がある。石を禹が叩き割って妻を救出する逸話は、禹が母性的機能を奪い取り、家父長的権威を確立した事の暗示?
禹歩とされる身体技法は、農民の祭りにおける舞踏法に近く、禹は女の動作を真似る事で、女性性を統合したのかもしれない。

②女媧
人間を創造した女神。他に西王母等の母的存在への崇拝。

紀元前11世紀の後半から父系的モデルへの変化が起こったと推定する。父権における権力の帰属先は、祖先(抽象化された父)に帰属する。父を媒介にして死んだ父を見通す。

4 「天」への飛躍
「公」は多数者間の公平な分配を概念の中心とする。それは天によって裏打ちされる。皇帝とは、神の配偶者ではないか。始皇帝の統一の前に存在した都市国家の多くは大地母神を祀っており、各地の大地母神の正式な配偶者が天の神であり、それが以下度の本来の意味である。

一人の個人だけが天命を代表する。それがシステムの当店であり、天意に直接従う皇帝の権力は軍人より大きい。不動点である皇帝からの距離によって序列が決まる。

5 ゾルとゲル、あるいはその中間
中国史はゲル(準固体状態)とゾル(流動状態)の繰り返しである。贈与の機制を活用する事で、中心に単一の権力の原点を生み出し、それが秩序をゲル状に固定するための起点である。

インドではカーストによる贈与が規制されており、それが社会システムの根幹になっている。

インド社会は、中華のような贈与原理の積極的活用を拒否しているため、中華の様々な文化要素が適合しなかったが、中華においては仏教のようにインドの社会システムの例外として付加されている要素であれば部分的に導入出来たとする。

インドでは贈与という価値形態が中国のように大規模には展開せず、そのため贈与の一般的価値形態としての皇帝が出現しなかった。

第26章 文字の帝国
1 国家形成の一般理論
以下は、国家の特徴。

①権力が派生する中心を持つ
②権力の源泉は軍事力の独占によって支援される
③国家の同一性は地縁や領土に基づく
④階層化された不平等な社会

マーク・マンコールは、清の皇帝権力には以下の二面性があるとした。

①東南の弦月(礼部)
朝貢国と儒教的礼に基づいて関係する。
②北西の弦月(理藩院)
ロシアやモンゴル等と相互尊重に基づく軍事同盟を結ぶ。

上記の二つでは社会システムの異なる論理の層が活性化しているのではないか。

2 文字の帝国
中華帝国における基本的な成層的序列は漢字であり、文字を読める事が区別の基本となる。日本では江戸時代でも帯刀によって軍事力を誇示した事等からも、中華のように軍事を小さく見せようとする面が少なく、ために文民統制の成功例である科挙を導入しなかったのかもしれない。

3 文字の三つの戦略
独自に発明された文字は少ない。

①一つの文字が一つの音素を表す
②一つの文字が一つの音節を表す
③一つの文字が一つの単語を表す

漢字は上記③の音声から自由になろうとしている文字である。

4 正名としての漢字
中国は広いために多様な言語があり、表意文字でなければ円滑な意思疎通が不可能。さらに中国は漢字によって規定されており、八種類という人口や広さの割りに少ない言語は二千年以上も漢字を使用しているために音声多様化が抑制された結果かもしれない。

漢字こそが正名の実体かと考えると、漢字は古代中国の人々に普遍的真理の表現として受容されたのかもしれない。

第27章 漢字の呪力
1 文字を知る官僚
高級官僚のカリスマは漢字を駆使する能力によって保証される。文字を使いこなす官僚は、皇帝の代理人として君臨した。皇帝は天命を受けているが、一人では実務をこなせない。行政用スタッフとして、科挙によって有徳性を確認された官僚が採用される。

2 漢字の呪術性
漢字の起源は甲骨文字であり、紀元前1400年頃から使用された。商の22代の武丁の頃と推測する。甲骨文字は1899年に発見されたが、現在の漢字とそれほど変わっていないため10年ほどで解読出来た。

以下の論点。

①神強制
甲骨文字と一緒に神に提示される供犠は神に回答を迫る技術だった。
②食べる神
甲骨文字使用にあっては、人間を食べる神が想定された。
③人間を生贄とした

周は漢字を契約に使用し、文字化された言語の呪術性を活かしたとする。

3 文字以前
「文」は人間の身体を正面から捉えた形。「字」は家の中に子供が立つ形。子が生まれて一定期間が経過すると、顔z区の一員として先祖に報告し、参拝させる加入儀礼があった。

両者を総合すると、子供が成人した時に、体に模様を描き込む習俗の可能性が伺える。「産」の頭は文の形であり、子が生まれた後に額に徴を書き込んだ事を示す?

漢字は体に刻印された図形が転態したものと推測。身体に図形を描く事は、自然的状態から規範的な社会水準への転身であり、文字が普及した事でその風俗は失われる。

第28章 「天子」から「神の子」へ
1 全称命題と特称命題の間のギャップ
全称命題:全てのXはPである
特称命題:あるXはPである

神学者アベラールは上記二つのギャップに気付いた。全称命題が成り立てば配下の特称命題が成り立つが、特称命題を積み重ねても全称命題にはならない。

2 「正名」の機能
ヘーゲルの『精神現象学』では「精神は骨である」という命題があり、精神を文字に置き換えると甲骨文字を骨に刻んだ事と関係するかもしれない。

ヘーゲルがこの命題を提起するのは人相学によって身体表面の特徴から精神を読み取る事に失敗し、頭蓋論の項に移行したところである。身体表面に描かれた文字が、骨に刻まれた文字に代わられた事と合致する?

************

儒教における「正名」は圧縮された全称命題である。ここで普遍概念(全称命題)が存在と無関係とすると、普遍概念 = 理想像によって規定されている実体はどこにもいないかもしれない。

漢字は普遍概念と存在を架橋している。例えば「父」という正名は、あるべき父を規定しているだけでなく、理想の父の存在を保証している。父という集合が空集合でないように、一つの要素を与えている。全称命題と特称命題のギャップを埋める作用。

3 「名前」のトートロジー
名前を意味の一部とすると、その名前のみで社会的に機能する場面がある。

4 「天子」の指名
名前に普遍概念としての意味を付与するのは、高次の第三者としての「天」とする。そして皇帝は天によって承認される。名前 = 漢字が天によって保証されているから、科挙が官僚の登竜門となった?

5 天子/神の子
一神教における神はヤハウェ = 「私はある」と名乗り、曖昧にしか名乗らない。

それは偶像崇拝禁止とも結びつく。

全称命題と特称命題のギャップにより、存在しているものはそれだけで普遍概念と合致しない。神に名前を付与すると、経験的な実在となり、普遍概念とは合致しなくなってしまう。

ここで普遍概念に合致した実在を仮定する場合に、中国では天子や君子が実在すると仮定し、それが正名によって指示されるとした。西欧では具体物は絶対に存在しないという方法で偶像崇拝禁止等の政策を取った。

キリスト教では、普遍概念である神がイエス・キリストとして具体的に存在した事により、普遍的な神が非存在になってしまう。

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