供儀と権力

読んだ本の感想。

臼田乃里子著。2006年12月20日 初版第1刷発行。



「供儀」とは、犠牲を供える事。日本において、供儀と権力を真に理解しようとしたのは文学者達であり、文化や芸術は禁止を超越しようとする。

Ⅰ 聖なるもの、または供儀の「力」
供儀は生来の動物性を破壊し、残余としての非肉体的真実を存続させようとする。残虐は、日常において我慢出来ない事に過ぎず、慣れ親しんだ事について残虐とは呼ばない。他者の供儀は残虐と感じるが、自分の供儀を残虐とは感じない。

現代における供儀は芸術であるとバタイユは考えた。芸術とは、客体を破壊する事で自己を破壊する試みである。

以下は、供儀の文学。

『愛の渇き』(三島由紀夫著)



作中では、「何事もない」という言葉が繰り返され、最後に強調される。鳩鳴の隠喩が原初の供儀を示しており、それが悠久に繰り返される事を表現している。回帰する限り何事も無い。

『火祭り』(中上健次著)



供儀に道徳観を混入させると、「聖」が意味を失い、供儀の暴力性が明らかになる。原初の生贄(禁忌を犯した故の神罰)のイメージに海洋開発問題というテーマを挿入したために死が供儀でなく猟奇的な事になっている。

『異邦人』(アルベール・カミュ著)



古代アステカの供儀儀礼を連想させる太陽。人間の生命が感じる真理は、社会が強いる真理とは対極的である。神話における太陽は全てを焼き尽くす源であり、人間に狂気を与える。

『身代わり山羊の反撃』(大江健三郎著)



供儀の持つ主体的表現から他者の視線への移行。生贄である事の意識は妄想であるかもしれず、明らかにされない事が供儀の本質である。

『サクリファイス』(タルコフスキー著)



贖いが誰かに受け継がれ、再生されなければならないという事で反キリスト教的であるかもしれない。キリスト教の根本原理は、自己を生贄として差し出すキリストの狂気であり、それが巨大権力に転嫁する。

供儀が繰り返される回帰の思想に抵抗したのはユダヤ教徒である。歴史に起こる事が神の意図である限り、歴史の終焉は必然である。最後の審判を仮定する限り、苦悩は救いのために耐え忍ぶ事となる。

キリスト教では、神の子が肉体を持って顕現したために、歴史はキリストの生涯を再現するものとして作り変えられる。苦悩は目的を持ち、自己は変革可能になる。

****************

ソクラテスもユダヤ哲学者も供儀は必然的存在と信じた。孔子は、「死は生から発生する」という信念から、人身御供が人形に代替された時は不平を言ったという。

原初の農耕民にとっては、供儀は記念の祭りであり、農耕民の神話では農耕用植物は殺戮の所産だった。犠牲になった神の身体は食物に変わり、植物界が存続するためには人を殺し続けなくてはならない。

殺戮によって神が宇宙を創造したため、人間は神の行為を模倣し続ける。

Ⅱ 供儀理論の歴史的展望
以下は、学術的に分析された供儀。

『セム族の宗教』(ロバートソン・R・スミス著)



セム族(主にアラブ人、エチオピア人、ユダヤ人等)について、禁忌、初子の供犠、共食という三つのテーマからなる。禁忌の対象は超自然的性質を持ち、供儀は祭祀階級の特権である。

『金枝篇』(ジェイムス・フレイザー著)



供犠の百貨事典。

『供儀―本質と機能』
(マルセル・モース、アンリ・ユーベール著)



バラモン教の『ヴェーダ』に着目し、ソーマの供犠は植物であるソーマが押し潰される = 殺される = 破壊されるとし、供儀の破壊論を生んだ。宗教は力を必要とし、清浄と穢れは対立するものとして存在しない。

『野生の思考』(レヴィ・ストロース著)



供犠の場合において、自然は供儀執行者と神の仲介者となる。トーテミズムが類似性を基盤にしているとすると、供儀は距離間の関係である。犠牲の神聖化によって人間と神の関係が確立されると、犠牲を破壊する事によって関係が破壊され、恵みを引き起こす。

『ヌガラ』(クリフォード・ギアツ著)



パリの焼身儀礼に着目し、国家権威が作り出す演劇の企てから、儀礼とは権力と地域が絡み合う宇宙観とした。焼身する寡婦を犠牲者と思わせない権力の存在。

『歴史の島々』(マーシャル・サーリンズ著)



構造は、変化する文化的生命活動の基本形態とする。王権は回帰の表象化と権力の創出。ハワイのマカヒキ祭り等に見い出せる供儀を通して象徴的に犠牲になった者が支配的地位に付く。

『贈与の謎』(モーリス・ゴドリエ著)



人間は、あらゆる社会で上位存在に贈り物をしてきた。この義務に負債、支配という観念を導入する。贈与によって階層性が作り出される。人間の神への贈与は破壊によって実現される。供儀の宗教とは、破壊という恐怖、権力に基づいた階層的社会である。神が全能で、人間を支配し、恐怖を与える前提。

マルクスは、アジアにおいて共同体の労働が専制君主のために行われているにも関わらず、専制君主が行っているような幻想が創出されている事に疑問を持った。これは、資本家が労働者に恩恵を齎すとする資本主義も同様である。

因果関係が転倒し、社会の象徴秩序が幻想に過ぎない事を意味する。マルクスは、王、父、主体、貨幣は幻想であるにも関わらず、転倒的力が現実社会で呼び起こされているとした。

負債という観点から見ると、ヴェーダにおいてはバラモン教の信者は父祖に対する負債を支払い、輪廻転生の因果から逃れるべきとし、ユダヤ教では供儀は契約でなく義務とした。キリスト教ではイエスが負債を引き受ける。

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以下は、日本民俗学における供犠。

『宗教学と仏教史』(加藤玄智著)



仏教が人身御供に歯止めをかけた事について?

『掛神の信仰に就いて』(柳田国男著)



加藤玄智への反論。仏教が破壊性を内包しているにも関わらず、供儀文化を否定したものと描いた事について?

『人身御供論』(高木敏雄著)



物語に描かれた人身御供の創作性について?

『一つ目小僧その他』(柳田国男著)



生贄が逃げても分かるように片目を潰す?

『人を神に祀る風習』(柳田国男著)



八幡信仰について。

『水の女』(折口信夫著)



女の生贄と織物の関係について。

『動物を犠牲にする土俗』(駒込林二著)



動物を犠牲にする風習は、人身御供に代用されたとは考え難いとする。

『天皇制の神話―演劇論的構造』(山口昌男著)



演劇空間は、生贄を媒介として成り立つとする。歌舞伎には血生臭い場面が数多く、その源流である浄瑠璃においては一層顕著である。演劇において生贄を捧げる場所は、桟敷(フランスではバルコニー)と呼ばれる。生贄は、身体的欠損や近親相姦等の日常性を超えた穢れによって選ばれる。

日本王権には流浪という王の生贄の神話が潜んでおり、それが日本文化の中心とする。

『献身のフォルク』(宮田登著)



人身御供と特攻隊の関連。

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ルネ・ジラール『供犠とは全員一致で一人を殺す事』

ルネ・ジラールは、スケープゴートが供犠の唯一の機能であるように語る?人々は模倣の欲望を持っており、暴力が模倣される時、暴力は拡散していく。そこで外部脅威というフィクションが偽造され、復讐の危険が無い外部者がスケープゴートとなり暴力が抑制される。

『ノイズ』(ジャック・アタリ著)



過去の音楽が供犠の機能を持っていたとする。音楽家は排除される人々として存在し、暴力の象徴である。

『暴力のオントロギー』(今村仁司著)



暴力こそが社会関係形成の原点であり、普遍的行為である。対人関係から発する暴力は、マルクスの第三項という貨幣形態に呼応し得るとする。

貨幣とは平等主義者であり、全てを量的大小関係に還元してしまう。

資本は永久回帰であり、貨幣は商品世界から排除されながらも、絶えず商品世界の中に回帰していく。禁止と再演というスケープゴートの特徴が日常的に繰り返される。

『構造と力』(浅田彰著)



穢れを一身に背負った犠牲が、死せる王として中心0のに座に就く象徴秩序。それは犠牲という過程を通してのみ秩序化される。

Ⅲ 日本文化に潜む供儀の相貌
神社神道は、基本的に原子共同体の祭祀であり、その目的は神の力を操作する事にある。

天照は天武と持統が創り上げた神であり、伊勢内宮は政権を絶対的にするための神社であったとするが、その源は天照の祟り性であったと考察する。

スサノオは、罪を全て背負って追放されるスケープゴートと見做す事も出来る。天照が皇室の最高神となった背景には、中国道教の西王母の影響があったとし、石室にこもり生命力を復活させる西王母の逸話が岩戸隠れの神話の原型とする。

日本における仏教は、祟りを調伏する呪法という側面があり、犠牲者と加害者を転倒させる効果があった。

現代日本においても、非業の死を遂げた者の例は、鎮護祭儀によって国益に転換されるという御霊信仰は受け継がれている。

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