<世界史>の哲学 イスラーム篇

読んだ本の感想。

大澤真幸著。2015年4月8日 第一刷発行。



第1章 贖罪の論理
1 西洋の優位と大分裂
近現代史における西洋の優位について。経済や文化の「大分岐」と呼ばれる。

2 贈与の原理の<自己>否定
西洋の精神的核はキリスト教であり、キリスト教は神からの過剰な贈与による贈与の超克があるとする(贈与の自己否定)?インドや中国は贈与の抑制的活用(カースト)や贈与の肯定(帝国 = 再分配の中心として機能する高次第三者の存在)によって成立する社会とする。

⇒人間の原罪(負債)をキリストの犠牲によって帳消し(贖罪)にする論理は互酬的であり、キリスト教は根本的な部分で贈与に頼っているのかもしれない

3 さまざまな贖罪
供儀とは超越的な他者への垂直的贈与である。キリストの死が、人類にとっての贖罪となるには互酬的な贈与を想定しなくてはいけなくなる。神であるキリストの死により、人類が許される事には神学的困難がある。

・神が和解のために犠牲を必要とする狭量な存在になる
・神(キリスト)を殺しても人間への報復にならない
・神が課した原罪を神が許す矛盾

4 「私たちが神となるために……」
キリストの言動は、罪と罰のバランス = 貸借の清算という均衡性を停止させる試みであったとする。受け取る以上に与える。十字架上での死は、自己消滅を引き受ける事で「均衡による正義」の論理を失効させる意味がある?

贈与し、応答を求めるのは、自己を応答によって確認したいからである。従って互酬的論理が破綻するのは、自己消滅を積極的に受容した時である。

神であるキリストが自己消滅を引き受けたのだから、神は存在せず、信者達の志向性はその集合性へと回帰していく。聖アタナシオスは、「私たちが神となる」という命題を残した(偶像崇拝を禁止するキリスト教では修業等により、人間が超越的存在となる事は無い)。神が存在しない事で、人間が信者の共同性に参与するという意味になる?

5 もうひとつの一神教へ
西洋の歴史は、互酬的贈与の自己否定が齎す帰結を否認し続けたとする。同じ一神教であってもイスラーム教は西洋とは全く違う歴史を辿ったとする。

第2章 純粋な一神教
1 神への愛/隣人への愛
キリストは、重要な律法を以下の2つとした。

①神を愛する
②隣人を愛する

⇒神への愛を貫徹すると隣人への愛が自動的に発生する?

2 一神教の諸類型
キリストは神と隣人を愛すべきとしたが、イスラーム教は「アッラーの他に神は無し」とする。人間への愛と神への愛に格の違いを設ける(純化した一神教)。

以下の分類。

①拝一神教
特定の神だけを崇拝するが、他の神々の存在を認める。
②唯一神教
特定の神以外の存在を否定する。

⇒歴史的に長く刻印を留めた唯一神教は、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教のみとする。ユダヤ教が源流であり、唯一神教はユダヤ教として1回だけ誕生したとも言える

3 拝一神教から唯一神へ
ユダヤ教も最初は拝一神教であり、紀元前586年のバビロン捕囚により、共同体の苦難を契機に唯一神教に転換したとする。例外的な唯一者としての神は「謎」であり、預言者による解釈により謎を受容可能水準まで縮小しなくては、信仰を保つ事が出来ない。ヨブ記では最後までヨブの納得出来る答えを呈示出来ない。

4 イスラーム教の誕生
イスラーム教は、610年に預言者ムハンマドに示されたとする。

イスラーム教においては、信者としての条件が定式化されている(六信五行)。

・神、天使、啓典(コーラン)、預言者、来世、天命(この世の全てはアッラーの意志に基づいている)を信じなくてはならない。
・信仰告白
・礼拝
・喜捨
・断食
・巡礼

5 神の謎
ヤハウェには、ユダヤ人のみを選んだ等の「謎」があり、それが悪を感じさせる。アッラーには理不尽な苦難の設定が無いために善が印象付けられる。

キリスト教では、謂れ無き苦難を神であるキリストが担い、神にとってさえも自分が何を欲しているのかが分からないでいる。

第3章 <投資を勧める神>のもとで
1 ヴェーバーの疑問
マックス・ヴェーバーは、近代社会の本質的条件を資本主義として、その要因をプロテスタンティズムにあるとした。著者は、イスラーム教こそが資本主義と親和性が高いにも関わらず、資本主義に対応出来ない理由を考えるべきとする。

2 イスラーム世界の繁栄
イスラーム教が普及する前のアラブ地域は部族が離合集散を繰り返していたが、イスラーム教以後は戦争や文化において発展を見せる。古代ギリシアや古代ローマの伝統はイスラームで保存され、西洋に逆輸入されている。

イスラーム世界では、コーランを否定しない限りは言論の自由が確保されたとする。

3 少年・少女狩り―クリスチャンからの
デヴシルメ制(バルカン半島での少年少女の徴収)について。彼等は高級官僚となりオスマン帝国軍の中核となった。こうした方式を採用しなければならなかった理由、上手く機能した理由をイスラーム教の特性に求める。

4 神への投資
イスラーム教の根本には商人の倫理があるとする。原罪はキリスト教においては絶対の前提であるが、イスラーム教においては身に覚えのない借金となる。イスラーム教においては互酬の完全な遵守が求められる。

こうした商人倫理が称揚されるイスラーム教において資本主義が発達しなかった事は謎かもしれない。中世キリスト教も利子を否定しており、イスラーム教においても利子を得る方法はある。

第4章 「法の支配」をめぐる奇妙なねじれ
1 「法の支配」の二つの意味
法の支配の以下の二つの意味。

①生活の規定
日常生活において「法」とされる規範が遵守されている状態
②支配の規定
支配階層も「法」によって設定される制限に従う

イスラーム教においては法の支配は確立されており、宗教と日常が一体となっている。人類普遍の方であるために支配者も従わなくてはならない。

2 イスラーム法の諸法源
イスラーム教においては十種類の法源があり、上位四つが重要とする。

①コーラン(啓典)
②スンナ(慣行)
ムハンマドの言行録「ハディース」を纏めたもの
③イジュマー(決断、合意)
ムジュタヒド(イスラーム法学者)による基準
④キャース(類推)
前提条件や一般的理由から個々の具体事例を判断する

神は、人間が為し得る行為の全てについて、一般的理由に基づく善悪を判断している前提がある。神の判断は無時間的な永遠性の次元に属している。一部はコーランとなっているが、全てが明示的に伝えられている訳ではない。

キリスト教においてユダヤ教の法が廃棄された事とは対照的である。イスラーム教ではユダヤ教の法がより完備されている。

3 蒸発する「法の支配」
イスラーム社会における法の支配は近代化の助けになるどころか、西洋との接触を通じて消滅している。植民地であったアラブ諸国が独立した後は、伝統的イスラーム勢力でない世俗的国家主義者が支配者となり、人の支配が確立されている。

イランの体制も最高指導者が軍事指揮権を持っており、イスラーム的人の支配(最高指導者の支配)となっている。

4 しこりのように残る疑問
イスラーム教の限界は、人間が自由に法を創造する発想が無い事にある。速く素早い社会変動に対応出来ない。15世紀後半以降のオスマン帝国では、スルタンが自らの権限でイスラーム法とは別の法律を定める事が出来るようになった。

イスラーム法学者としても、法を執行するためには世俗権力を頼らなくてはならない。キリスト教が法の支配を可能にした事は疑問となる。

第5章 「法の支配」のアンチノミー
1 天命の支配
神の法が無い方が「法の支配」が機能するという仮説は、中国史によって棄却される。

中国では皇帝が恣意的に法を蹂躙する事が可能であり、中国の「憲法」には「中国共産党の指導を仰ぐ」と明記されている。法家を牽制する儒家思想や皇帝を規制する超越存在としての「天」があった事が「法の支配」を中和したとする。

皇帝は、天命が下っていると解釈される限りでのみ正統な支配者となれる(天命は成文化された命題でない)。皇帝が天命に従っている時は自然や社会の秩序が乱れる事は無いとする。

インドでは法が宗教に根差しており、統治者はバラマンによって承認されなくてはならない。

2 「法の支配」のアンチノミー
法の支配が成り立つには以下の二律違反を解決しなくてはならない。

①人間は必要に応じて法を改変しなくてはならない
②人は法に従わなくてはならない

⇒法を変えなくてはならず、法を変えてはならないという矛盾

フリードリヒ・ハイエクは、市場での競争や進化により社会的秩序が自生するビジョンを提示した。コモン・ローや大陸法のケース。

3 解釈者革命、再び
ユスティニアヌス法典(ローマ法大全)は、6世紀に編纂され、11世紀末に再発見された。ローマ法の解釈という形式で法律が整備される。欧州においては、神の啓示に遡及して法を基礎づけようとはしていない。よって自在に法を創造可能になる。

4 コモン・ローの「コモン」
英国におけるキリスト教は、勇敢に戦う戦士(名誉の格差を重視)から平和を愛する聖人(万人が平等)へと道徳モデルを変化させ、人々の所属意識を部族から信仰に基づく普遍的共同体に変えた。

こうした状態にコモン・ローが生まれ、その起源は王の裁判所の判決とされる。13世紀初頭には地方裁判所の自律性は失われ、司法権は王に帰属されるものとされた。王は恣意的に法を操作しているのでなく、先在しているカトリックのコモン・ローを探り当てているだけとなる。

5 解読できない聖典/紛失した聖典
大陸法もコモン・ローも「法を発見する」という同じ論理が作用している。

法は神に由来しているという形式を採るが、法の中身は人間によって決定されているため、人間が自由に法を創造しているとも言える。二律違反の解決。

第6章 人間に似た神のあいまいな確信
1 申命記改革の反復の反復
ユスティニアヌス法典のように権威あるテクストが見つかり、それを根拠に改革が遂行された事例は、旧約聖書「列王記下」の「申命記改革」(紀元前622年)と似ている。

ヤハウェの神殿を修理したヨシヤ王が「律法の書」を見つけたとされる。山本七平は、欧州における全ての改革は申命記改革の反復と論じている。それは旧約を新約に置き換えたキリストの革命の模倣とも言える。

支配者も法に従っているという体裁を取るためには、権威ある聖典が発見されたという形式にする必要がある。

2 「消失する媒介」としてのキリスト
解釈者革命においては、神とは関係無い古典的テクストが入る事により、法の創造が可能となる。この飛躍にはイエス・キリストという媒介項が必要であり、キリストは様々な法的判断を解釈によって見い出す変数となる。

「紛失した聖典」と「解読出来ない聖典」の比喩があり、解読出来ない聖典とすれば解釈が可能になる。

3 人間に似ている神
偶像崇拝を禁止しながら、神が人間に似ているとする矛盾。

ユダヤ教以外の宗教も偶像が神の表象として不十分である事を認識しており、だからこそ人間を超えた存在として怪物のように誇張して描く。しかし、ユダヤ教ではヤハウェが人間に似ていると認めている。

ユダヤ教には神を人間化しようという強い欲求があり、偶像崇拝禁止は内的本性の否認である。そして、ユダヤ教の神を人間化しようという傾向を肯定した場合、キリスト教へ転化するとしている。その場合、神と人間は同一化し、イエス・キリストとなる。

ユダヤ教は潜在的にはキリスト教であった事になる。

4 不安から愛、そして再び不安へ
ユダヤ教からキリスト教への移行は、不安から愛への移行とする。ユダヤ人が神に選ばれる理由が分からないため、ユダヤ教は不安を生む。キリスト教では神に愛される我々を代入する事で神の欲望を説明する。

キリスト教においては、「人間」が神の真実であり、人間の不安は神の不安である。これでは神も十字架上のキリストのように不安になってしまい、不安が二倍になる。

こうした神の不安が暫定的結論という状況を生み、法に揺らぎを与える事となる。

第7章 予言者と哲学者
1 ガリレイは異端か
当初はイスラーム世界が優越していた科学分野において、西洋が優越するようになった不思議。ガリレイは世界を解釈しようとする姿勢を持っている?

2 二重の真理
西洋の神学者が注目したイスラーム圏のアリストテレス解釈者は以下の二人。

①イブン・シーナ:アビセンナ(980年~1037年)
②イブン・ルシド:アベロエス(1126年~1198年)

著者は、イスラームの思想史に大きい影響を残さなかったアベロエスが西洋に大きな影響を与えた事に着目する。アベロエスは知性単一説を唱え、真理は単一であるとした。アベロエスの思想では哲学的結論と宗教的聖文が矛盾した場合、哲学的結論を優先すべきとした。

知性を単一にしようとすると、聖典と哲学という二重の真理が生まれてしまう。

3 「哲学者」の不安
アベロエスの理論には、聖典の解釈に対する不安があり、それが理性による思考を求めるとする。そのため、神の絶対性を要求するイスラームではアベロエスは受容されなかったが、キリスト教的不安に対応するために西洋世界では歓迎されたとする。

4 ブレイの教区牧師
『ブレイの教区牧師』という風刺詩について。1670年~1715年までの時代を英国南部バークシャー州の一村落の牧師が思想を変える事で生き延びたことについて。

1688年の名誉革命前後の時代においては、英国王の教義が代毎に代わったため、聖職者達が日和見的に振る舞ったとされる。神の普遍的意志が不確定とすると、不安は神の意志を見い出す事によって解消される。偶発的事象によって聖職者の意見は変化する事になる。

動的宗教としてのキリスト教。

第8章 奴隷の軍人
1 失意のロレンス
『アラビアのロレンス』という映画について。映画内では、アラブ国民会議を開催しようとしたロレンスが、各部族の利己的要求により行政が機能しない事に絶望し、英国軍人として成功したが、アラブ人として失敗し、戦士であるロレンスが必要とされなくなる事が示されている。



2 軍事奴隷システム
イスラーム系の諸王朝では、非ムスリムから強制的に徴収した者を奴隷都市、イスラーム教徒へと転換した上で軍人や高級官僚として活用する事例が多く見られる。

軍事奴隷システムはアッバース朝で発達し、第七代カリフ アル・マームーン(在位813年~833年)、第八代カリフ ムウタスィム(在位833年~842年)の時に軍事力の中核となった。この奴隷軍人が後に「マムルーク」と呼ばれるようになる。

イブン・ハルドゥーンは、『歴史序説』の中で奴隷制度によってイスラーム教徒は軍事指導者を獲得し、奴隷を神を知ったとしている。

3 部族主義に抗して
アラブ世界においては、民族 = 国家としての連帯よりも自らが帰属している部族への忠誠心が重要となっている。イスラーム国家においても部族の論理を超える高次の統一性を実現出来なかったのかもしれない。

異教徒の奴隷を軍人や高級官僚にする制度は部族主義を克服するためだったのかもしれない。奴隷は部族や家族との繋がりを断たれた純粋な個人であり、世襲もされない。

4 ジャーヒリーヤとイスラーム
イスラームの見地からは、イスラーム教が興った七世紀前半以前をジャーヒリーヤ(無道時代)とする。それは部族社会における「男らしさ」を称揚する時代概念でもある。

それは部族達が正/負の互酬性によって関係し合い、同害報復(部族の誰かが害されたら、加害者の部族に同等の害を与えなくてはならない)が成り立つ社会である。

イスラームの字義は、「無条件的な自己委託」という意味であり、神の意思に委ねる事を意味する。イスラームは部族主義という自らと相反する精神的風土から誕生した事になる。

5 法家とイスラーム
部族主義的分散に対する各社会の対応。

インド:
カースト制によって部族を再編した。

中国:
始皇帝は部族主義的イデオロギー(家族主義の儒教)を弾圧し、法家(地縁から個人を切り離し、諸個人を平等に扱う)を推奨した。しかし、家族主義が失われた空白を埋めるには法家は具体的規範に乏し過ぎた。漢以降は儒教と法家を曖昧に混合させる事になる。

中国では法家思想は公式見解から消えたが、イスラームにおいてはイスラーム法こそが公式見解である。イスラーム法は法家思想よりも法規範の点で豊かだった。

中国においては、相互監視義務等により既存家族を分解し、個人を創出しようとしたが、イスラームにおいては異教徒の領域にて個人を徴収し軍人や高級官僚としての奴隷とした。

第9章 信仰の外注
1 貴族は一代では終わらない
部族主義から脱却するためには、安全保障や行政の担い手を「個人」として皇帝直属としなくてはならないという思想が、奴隷軍人制度の根幹にある。

やがて奴隷軍人(マムルーク)が世襲化されるようになると、民族や人種の類似性を基礎にした疑似部族が生まれ、軍閥化していく。

オスマン帝国においては、イェニチェリの世襲が禁止されたが、財政逼迫や帝国防衛の必要性増大等により、世襲要求に抵抗出来なくなっていく。17世紀半ばにはデヴシルメによる徴収が廃止され、イェニチェリは世襲化されていくようになる。

2 アブドとしてのムスリム
イスラームにおいて奴隷にされたのは、非イスラームのみである。イスラーム教とを奴隷化出来ないのは、イスラーム教徒が既に奴隷(アブド)であったからかもしれない。

一般のイスラーム教徒が初めから奴隷であったとすると、奴隷軍人達も賎視されていたのではないのかもしれない。

3 信仰の外注
イスラームの信仰はキリスト教と比較して、外面的である。客観的行動に依存し、主観的内面に依存する率が少ない。日本の宗教も多くの人間は理解せずに習慣化された行動とする。

それにより、信仰を他者に転移し、委託する事が出来る。内面に裏打ちされた信仰は他者に任せれば良い。経の中身を知らずとも安心出来るのは僧侶が理解していると想定しているからである(僧侶、ギリシア悲劇における合唱隊、葬儀における泣き女)。

内面を転移出来る他者が存在している時、人間は義務から解放される。代理人が理解したり悲しむ事により、義務を客観的には果たした事になる。

奴隷軍人達は、イスラーム教の信仰が転移されたものであり、信仰が外注されている。イスラム教の以下の2つの特性がそれを可能にしている。

①奴隷の威信が一般人と変わらない
②信仰の中核が客観的に同定可能な行動にある

⇒奴隷軍人という外注先の存在により、一般人は部族主義から脱却しなくてもイスラームの一員となる事が出来る

第10章 涜神と商品
1 虹と涜神
現代においても、イスラーム諸国は軍人支配に対する脆弱性(奴隷軍人が支配を及ぼす可能性)を引き継いでいるのかもしれない。

古代日本においては、虹の立った場所でのみ市を立てる事が出来たとする。売買には、神に帰属していた「物」を人間の領域に移行させる前提が必要になる。虹は人間世界と神々の世界を繋ぐ通路となる。

2 贈与交換と商品交換
商品交換は一時的だが、贈与は持続的関係であり、与えた側が優位になる。さらに贈与が与え手に対する恭順の意を表現する事もある。非対称な権力関係の構成。

こうした関係を避けるためには、交換される事物が神に属しているとして権力関係形成を避ける必要がある。

3 イスラームのバーザールで
イスラームにおいては、贈与が根幹的価値を持つ。

イスラームにおいては人間は原理的に平等であり、他の人間に跪拝する事は一般的でない。イスラーム世界におけるバーザールには定価の概念が無く、都度の交渉によて価格が決まる。商品交換に贈与交換の要素が付加されている。

4 守銭奴の否定
資本主義の本質的条件は、無限の資本蓄積を優先するシステムである。資本の原型は貨幣蓄蔵者 = 守銭奴となる。守銭奴は、伝統的善(中庸、限度を超えた衝動への抵抗)を否定する。

さらに守銭奴が積極的に投資する事により、近代的な資本家となる。最も裕福な人間が、最も大きな借金を抱える。

第11章 イスラームと反資本主義
1 誰も解かなかった謎
『イスラームと資本主義』(マクシム・ロダンソン著)では、イスラーム世界の経済的後進性の原因を、イデオロギーとしてのイスラーム教としている。



2 利子ではない利子
イスラーム圏において利子は禁止されていたが、そsれは中世欧州でも同様である。また、イスラームの金融技術によって利子を取得する事は可能である。

3 国庫からの窃盗は窃盗にあらず
「イスラームの倫理と反資本主義」(林智信著)では、擬制的法人格が認められない事を原因としている。

法人無しでは長期的安定的な集団契約は不可能だ。イスラームでは、国庫はウンマ(ムスリム共同体)の共有財産であり、窃盗犯がウンマの一員であれば、所有権の一部を主張出来るため完全な窃盗ではないとしている。

⇒国庫やウンマをムスリム諸個人から独立した法人としていない

法人格を認めた場合、神との契約で定められた礼拝や巡礼を実施不可能な人格が誕生する事になってしまう。

4 「アッラーの御心ならば」
法人の本質的特徴は永続的承継であり、永続する存在はイスラームでは認め難い。歴史や時間は神の創造物であり、人間の業によって創造する事は出来ないとする。

時間や歴史は非連続であり、一瞬毎に神が創造している。

5 母のあらかじめの赦し
『愛と追憶の日々』から。



死に瀕した母親(エマ)が反抗期の息子(トミー)に対し、あらかじめの赦しを与える場面がある。これはキリストによる人類への赦しと近いとする。トミーは既に赦されており、罪が終わっている故に死んだ母親への負債は消えないものとなる。

有限の時間の終わりが先取りされると、時間が永続化する。キリスト教においては、最後の審判において訪れるべきメシア(キリスト)が既にきており、歴史の終わりの出来事が過去の事として生起してしまっている。

こうした罪が終わっている故の時間の永続化がキリスト教世界に発生しているのかもしれない。

人気ブログランキングへ
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

ABCDEFG

Author:ABCDEFG
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード