中華帝国の興亡

読んだ本の感想。

黄文雄著。2007年4月9日 第1版第1刷発行。



中華文明とは、北部から始まった過剰開発文明であり、北部が南部に食糧依存している。中国の本質は兵営国家であり、皇帝専制によって秩序が維持される。

文明論者バグビーによると、9つの大文明の内、7つまでが国家分立から始まり統一帝国に至る共通パターンを持つ。文明全体を覆う統一国家誕生までは千年以上かかるとする。三段階(信仰の時代、理性の時代、大衆文化の時代)を持つ事が大文明と周辺文明との違いとする。

統一国家出現は文明没落の象徴である。中国史においても統一期間は短く、分裂時代が多くある。中国の正史は、易姓革命正当化のために、王朝興亡の原理を「徳」として明君暗君の対比を盛衰の法則として勧善懲悪を目的とする。

<春秋戦国時代以前以後>
夏、商(殷)、周の三王朝の記録があり、城邑国家の盟主として黄河中下流域にあったとする。文明と野蛮を分ける華夷思想は、この時代から存在したらしい。

春秋時代初期には国が多く弱小国が強大国に統合され、戦国時代には七雄にまで統合される。城邑国家から領域国家への変化。北の先進開発国(晋等)と南の後発開発途上国(楚等)との対立が基盤にあるが、戦国時代には秦と他国との東西対立が生じる。

秦の中国統一は「法による統治」の成果であり、儒家の説く礼による統治は宗族を超える国家の社会規範としては機能しないとした?祭政一致の都市国家から、中央集権制による領域国家への変貌。

◎秦
秦の法治主義の基礎は、孝公(在位:紀元前362年~紀元前338年)に仕えた商鞅の改革にあるとする。以下の改革。

第一次変法:
・五戸、十戸を単位とする隣組組織を設け連帯責任とする
・一家に二人以上男子がいる場合は分家させる
・分家した家族は東方の国境地帯に移住させ、
 農地開墾をさせる

第二次変法(櫟陽から咸陽への遷都が契機):
・父子兄弟の同室居住禁止
・各地の集落を31の群県に分け、長官と補佐を置く
・田地の区画整理と度量衡統一

⇒中央集権と小家族化による戸数増加が基本方針?

秦帝国以降の変法は、ほとんど失敗している。統一王朝が成立してしまうと、新法は祖法に勝てない。変法よりも易姓革命の方が旧弊を解決出来ている。

秦の基本方針(君主権強化による封建制廃止)は以降の中華の基本方針となり、占領地に「県」という軍事植民地を作る事が郡県制成立の起源となっている。新たな土地を開墾していく事で、限られた土地で氏族共同体を保持する必要が無くなり、氏族制家族単位が解体していく。

◎漢
漢は基本的に秦の制度(皇帝と中央集権)を引き継いだが、群国制(中央集権と封建の併用)を採用している。要地は中央直轄にし、僻地には功臣を封じて封建制にする。

紀元前8年~13年には「新」王朝が成立しており、儒教王国が志向されている。儒教思想と皇帝制度の結合は、この時代に成立したとする。

⇒以降の中華帝国では秦の法治主義(中央集権的郡県制度、官僚制)と新の儒教制度(国家祭礼を基本)の両方が受け継がれていく

易姓革命とは暴君を武力で追放する「放伐」の方式であったのが、「禅譲」という方式が採用され儀式化されていく。魏の曹操も帝位簒奪の意図がありながらも、形式的な何段階もの譲り合いの儀式を経過して、禅譲を受けたのは子の曹丕であった。

漢代の社会は豪族の社会であり、里を基本単位とする郷村共同体で、里が数個集まって出来た郷が長老を中心に共同体となる。やがて生産力向上により階級分化現象が生じ、貴族社会へと変化していく。

漢文明の崩壊は、礼教主義の限界であり豪族社会(血縁主義)から貴族社会(人格主義)への移行の中で、儒教が衰退し、より民族横断的な仏教が国家原理として夷荻の華化を推進したとする。

<隋唐時代以前以後>
隋は魏晋南北朝という400年近くの天下分裂を再統一した王朝である。この時代に科挙制度が導入された。唐の制度は基本的に隋を引き継いでおり、中央集権制度再建を志向している。科挙制度により貴族の官位独占を克服する。

国際的色彩の強い時代であり、普遍的な世界宗教として仏教が栄えた。

唐の土地制度である均田制は、屯田制(国が兵士等に土地を割り当てて開墾させる)に連なるとされ、華北と華南の流通を促進する事で北部の食糧を確保したとする。

◎宋
唐の安史後は武人が次々と皇帝になる時代であり、宋は反動として文人を重視した。科挙が盛んになり皇帝の独裁体制を強めるために利用される。中央から地方へ文官が送られ官僚体制が確立される。

皇帝自らが行う「殿試」が始まり、科挙の科目を進士科にしぼった。進士科(文)と他の科(経学)に科目が分かれていたころは、進士科の合格者に江南人が多く、質を好む華北人が不満を持つようになったため、諸科を廃止して進士科にまとめ、諸科で行われていた経義を進士科に取り入れる事で華北人の合格率を高めようとした。

この時代に南部の開発が進み、西暦2年に約1:9だった南北人口の対比は、天保元年(742年)には3.5:6.5になり、元豊三年(1080年)には6.5:3.5になった。

⇒宋の時代に君主独裁政治が確立した。それ以前の皇帝は最有力の貴族であり絶対権力は持っていない

<明清時代以前以後>
明代には皇帝独裁が一層強化され、宦官がスパイとして官僚監視に利用されるようになる。

以下は、明代の政策。

・丞相の廃止
・軍令の中枢機構を分割し、皇帝が最高統帥者となる
・戸籍帳編造による農民支配強化
・皇帝直属スパイ組織 錦衣衛設立

⇒三跪九叩頭という礼も導入され、皇帝を最高統治者とする秩序が固定化される

清は漢人将軍を利用する「以漢制漢」によって中華を支配したとする。異民族による長期支配が可能だったのは、皇帝独裁が強化された事による貴族や官僚の衰退があったからかもしれない。

<辛亥革命以前以後>
近代中国のテーマは、近代西洋文明の世界的規模の拡散との対峙とする。資本主義、民主主義、個人主義等の価値体系に秩序が対抗出来なくなった時に革命が発生する。

著者は中華民国を五胡十六国の時代と同じとし、1992年に正式に認められた「社会主義市場経済」を清朝時代の「中体西用」と同じ性質とする。

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