聖書の物語と人間の階層的認識構造

インターネット上の記事からのコピペ。

人間の概念構造は、限定されたモデルという形式を取る。選択肢は限定されており、新しい選択肢を考えるには、別のモデルを構築する必要がある。

神の物語は、人間の利得を「天国」という報酬で代表させたモデルであり、そこに現世利益等の別の利得を追加するのなら、別のモデルとなる。現世での利得が「天国」の何割になるかを見積もって再評価しなくてはならなくなる。

「生態系」というモデルは、宗教と似ている。生態系は階層構造になっており、植物は一次生産者である。希薄な太陽光を集めて、エネルギー密度の高い化学物質に変えて蓄える。太陽光は地球全体に降り注ぐから、奪い合いは殆んど無いとする。植物の世界は動きの少ない穏やかな世界だ。

動物は、階層上位の存在であり、植物から高エネルギー密度の化学物質を奪う事で生命を維持する。

植物は被搾取者であり、動物は搾取者とすると、搾取すべき植物が存在しなければ動物も滅ぶ。多数の植物と少数の動物で世界は階層化して安定する。これは神と人間の関係に似ている。

植物は動物の糞を肥料として活用し、昆虫が受粉を仲介し、種子を遠くに運ぶが、これは動物が存在する事を前提にして、どうにもならない搾取者が存在するため、出来るだけ搾取者を利用しようとする戦略である。これは宗教と似ている。

⇒人間の認識構造自体が、自らより上位の存在である「神」を生み出す可能性。





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「旧約聖書」は、迫害されていたユダヤ民族が、苦境を説明するために構築した物語?

神は人間の模範ではないし、人間的な存在でもないし、人間にとって都合の良い(お助け)存在でもない。世界の恩寵であると同時に常に生者を滅ぼそうとする脅威でもある。

古代のユダヤ民族の最盛期ではヤハウェは疎かにされていた。その後、ユダヤ民族はバビロン捕囚に代表される受難の時代を迎え、当時のユダヤ民族はその原因をヤハウェを疎かにしたからだと考え、ヤハウェだけを熱心に信仰すれば、いつかヤハウェが救いを齎すとした。そのため、ヤハウェは嫉妬深くて信仰しない者には無慈悲だが、信仰する者には救いを与える神になってる。

ユダヤ民族の古い慣習が旧約聖書には残存しており、一年が発見される前の年齢が記述されている?太古の昔は日か月齢でしか自分の生きた時間を測れなかった。月齢だと現代の一歳は約13歳。ノアの930歳は70歳くらい。聖書に登場する人物が長命なのは、年齢を年単位に変更して定着させる事が困難であったためかもしれない。

複数の地方の神話、伝説、口伝を、宗教指導者に都合良く統合・編集する。モーゼの十戒は「目には目を歯には歯を」で有名なハンムラビ法典の282条の中から10個だけ選んだ。創世記等は1000年以上かけて伝えられたもので、一神教の口伝と多神教の口伝を合せるため矛盾する。編集も数百年かけて多くの人が関わり、「新約聖書」はゾロアスター教の影響が大きい?

非常に長く継続した伝言ゲームであり。徐々に変化して、都合が良い解釈となる。

そのようにして、雑多な神の逸話を唯一神ヤハウェに置き換えたため、神の性格や設定が不自然で世界観が固まっていない。「旧約聖書」は一神教かどうか怪しい記載も多数ある?

アブラハムの信仰を試すため息子を生け贄にする場面は、「旧約聖書」では直前で神が止めるが原案の伝承だと殺している。「イスラエル」の語源に纏わる話では元になった伝承の土着神が「神」として登場し、一神教の設定と矛盾している。

「神」を名乗るモノは実際には複数存在しており、互いに自分こそが至高であり、相手が悪魔であると主張して争う。神を王に読み替えれば違和感が無い?

理不尽な王達の物語。古代人の感覚では、王は神であったのかもしれない。

「旧約聖書」の神は、以下のパターンを延々と繰り返す。

「お前達は俺の言う事に良く従った。褒美としてあそこの街を攻めて皆殺しにし、宝を全部奪って良い。俺が勝たせてやる」
「あれから随分経ったが、お前達は俺に背くようになった。罰としてお前達をあっちの街に占領させて全員奴隷にする」
「あれから随分経って、お前達は反省したようだ、褒美として……」

「旧約聖書」に登場する神は嫉妬や怨みの神という存在であり、服従を誓った者には祝福を、そうでない者には災いを齎す。人々が神に対して盲目的に服従するのも、信じているからでなく逆らったら何をされるか分からないからである。『神への隷属』が基本であり、思考停止して神という存在の奴隷になる。

神の言動が理不尽に思えたり、意図が理解出来ないとしても、それは人間の知能が不完全だからであり、神の真意は万能の神にしか分からない。故に人間は神の言葉を疑ったり、試したりしてはならない。

⇒王に仕える奴隷の思想?

神は自らを全知全能と主張するが不完全に人間を作り、意にそぐわなければ殺す。これは当時のユダヤ民族の状態を説明するものかもしれない。

日本人の倫理の根底には因果応報があり、因果応報に反する事象を突き付けられると拒否反応が出る?日本のように人口密度が高く古くは盆地で暮らしてた民族にとっては高確率で因果応報は実現される公算は高い?

しかし、ユダヤ民族は弱小で砂漠に住み、周囲に遊牧民族がいる。不条理に因果応報は「無い」。その不条理が無慈悲なヤハウェであり妬む神の所業とする。

普通に世界を眺めれば理不尽で無い部分が無い。だから神は理不尽だ。神は信じない人間に対して厳しい。神を信じたい、信じなければ今よりも辛くなるという思いから生まれた文章が聖書である。執拗に信じろと主張するのは、かつての編纂者達にとってそれだけが拠り所だったためと思われる?

ヨブ「神様、何故こんな事をしたのですか?」
神「人間ごときが神の考える事を理解出来る訳が無い。
  人間が神のように振る舞える訳でも無い。
  いいから神を信仰しておけ」

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昔の人々にとって神は圧倒的な力を持った恐ろしいもの(自然災害や圧政の擬人化)だった?恐ろしいから崇め奉った。やがて、豊穣や恵みを齎すと解釈され信仰の対称になる。

以下の違い?

旧約聖書:神KOEEEEE
「天罰を喰らえ!」「ぐわー!」

新約聖書:俺TUEEEEE
「神の愛を喰らえ!」「ぐわー!」

聖書は倫理や社会契約を教えるための教材となる。神という絶対者を用意し、神に逆らったら酷い目に遭うという前提を叩き込んだ上で、人間が集団で生きていくために必要な規律を学ばせる。

神が理不尽であるのは不幸は神が罰を与えている訳ではないとする意図がある?不幸な人間が自らの不徳のためとさらに非難されないための訓示。

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ユダヤ教もキリスト教も契約であり?、神は十戒を作ったが、聖書は人間が書いた。そして、モーゼは十戒を叩き割ったが罰せられていない。 聖櫃に触れただけで雷で撃った神がモーゼを罰しない事は聖書における謎と言える。

聖書は人間が勝手に作ったもので神が与えたものでも神が作れと命じたものではない。途中まで口頭で伝承していた物語をエジプト虜囚で失わないよう文章に筆記しただけ。神が創ろうとしたものでない。

それについては、人間の意思も神の御業とする解釈がある?大坂城を建てたのは、豊臣秀吉とされる。誰も当時の職人達とは言わない。

聖書も人の書き留めた文章を編纂して出来たが、神の御意思が反映されているため、作者は神となる?これを逆に考えるとモーゼが罰せられない理由となる?

天使は創造された時に神を直観した。愛したくなる存在か否かは、見れば直ぐに理解出来る。実際に”見た”から。人間はアダムとイブの時代にそれが出来たが、蛇の誘惑で林檎を食し、神を裏切ったので、神を明確を認識出来なくなった。これを原罪と言う。

十戒と聖書の相違は、人間の原罪を反映しているのかもしれない。

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仏教では、「当たり前」を問題視する?

観察を行うには、「当たり前」は邪魔になる。記憶は妨げ。だから集中の瞑想をして、過去の記憶から作られる思考を鎮める。そこで観察をしたら終わり。

以下二つの瞑想を止観と呼ぶ。

①数息観(止瞑想):
雑念を鎮める瞑想法。マントラを唱えて(特定の言語、読経、題目、聖音アーメン等)集中するマントラ法と違い、数字を1~10、10~1と数えていく。

②ヴィパッサナー:
観察の瞑想。今、この瞬間に正知を見出す瞑想。手を上げ下げするのにサティ(気付き)を入れたり、歩くのに気付きを入れる。

上記の二つを日々行うと、無常が分かる?雑多な知識は塵同然だと気付き、自由になる?知識探求に決着が付いて、悩む事が無くなる?要求を無常の中で抱く事が無くなるので失望も無い。欲しいと思うものも、イメージであると智慧が開発されているので気付く。

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宗教が苦難を説明するための物語から、教化のための物語となっていくに連れて、人々の間に共通認識が育まれる?

人間は誕生して、親の顔を覚え、言語を覚え、社会のルールを覚える。記憶していく事が、生きる過程だ。記憶とは、前例があって知識により関連付けられた事柄で、思い込みである。個々人の当たり前が擦れ違うと争いに発展する。

多くの人間が共有する「当たり前」の前では、権威も、法律も人道も敵わない。人間社会も成熟すれば、ほどほどに「当たり前」を共有するようになる。さらに、法律で「当たり前」が明文化される。

世界人権宣言により、法治国家では人間が何よりも尊重されるのが基本的な考え方として浸透しているが、フランス革命以前は違う。近代以前の世界では、神の振る舞いは残酷だと言っても仕方ない。神は神。「神が好き放題振る舞うのは奇妙だ。人権を侵害している。聖書は人間の論理に照らして矛盾している」と主張しても狂っていると思われる。

現代の人が、「神は死んだ」という「当たり前」を共有すると、また新しい時代が始まる。人間の歴史は未だそこまで到達していない。

「レ・ミゼラブル」でジャヴェルが最期に身を投げるのは信仰の裏返し。自らが善であるため法(信仰であり善の定義)に命懸けで縋った結果、法を破りながらもバルジャンが体現する性善説を見せつけられ、拠り所にしていた法を疑ってしまう。自己同一性の崩壊。信仰を失う事は「レ・ミゼラブル」執筆時にそれほど絶望的な事だった。

新しい時代ではどうなるか?

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