思考術

読んだ本の感想。

大澤真幸著。2013年12月20日 初版印刷。



思考の深化には、触媒(他者や本)が必要となる。

やっぱり、著者の専門は社会学なのだと思う。思考というより記憶を書いており、文学や数学・物理学についての記述内容が浅いように感じられた。

序章 思考術言論
1-何を思考するか
思春期に飛躍があり、一生のテーマが見つかる?それは中期のテーマ、短期にテーマに小分けされ、その成果が蓄積されて長期のテーマに繋がる。

長期の問いに回答する事は困難であるため、思考を止めないためにも分割が必要なる?

2- いつ思考するか
出来事と思考は同時進行的に発生し?、時代と共振する?出来事は反復するために、思考は遅れて発生しているかもしれない。思考と実際の出来事が共振した時に、理論を表現出来るかが重要となる?

3-どこで思考するか
思考を身体の外に言葉として書く。一渡りで見る事が出来るくらいの纏まりがあり、他者に提示出来るように順序付ける。思考は対話であり、自分と他者の間が思考の場所であるかもしれない。

4-いかに思考するか
不安感や疑問を鮮明に持つ事が重要であり、答えよりも問いを見い出す事に思考の難所がある。感情は意識化された理屈よりも論理的であるかもしれない。衝撃を誤魔化す理屈に安住せず、感情に見合った論理を見い出す事が大切?

5-なぜ思考するか
人間は考えようとしない動物であり、他者との遭遇による不安の発生が思考の契機となる?閉じられた自説に収まらない他者によって思考は開始する。
体験を自らの中で持続させたり、他者に伝えるには考えて言葉にするしかない。

補論 思想の不法侵入者
人間は一定の水準を超えて思考しない?ジル・ドゥルーズは、人間に考えさせる外部衝撃を不法侵入に喩えた?

権威に拘泥しない自由な探究は必ずしも豊かな結果を齎さない。逆にフロイトのテクストに執着したジャック・ラカン等は深い発見をしている。

権威者の存在が超越的な他者として認知される場合、研究者は権威者の真理を我が物にしない内は衝撃を克服出来ず、思考を終える事が出来ない。権威に拘泥しない探究は、衝撃が無いために思考が中折れしてしまう?

他者が所有している真理に到達したと直観した地点で思考は停止する。思考を触発した不法侵入者は無害な客人に転換する。

○ソクラテス
産婆術を使用。相手の命題を全面的に肯定して、反対命題を引き出させる。自らも真理を知らないとするために、相手は思考を集結出来ない。自らが触媒となって相手の思考を促す。

○キリスト
キリストは神を知る者であり、信者はキリストの信仰に漸近しようとする。しかし、聖書においてキリストは死の直前に紙への疑義を呈する。キリストが所有しているはずの真理を目指した信者の思考は停止出来ない事になる。

西洋の思想・思考はキリストの会議を継承しているのかもしれない。神の存在証明は、神が存在証明をしなくてはならない存在であるとする懐疑を意味している?

第1章 読んで考えるということ 社会科学編
時間について。

時間の無限性と人生の有限性の対比から生まれる虚無感について?

1 真木悠介『時間の比較社会学』を読む



死によって全てが消滅する事は虚無主義の原因となるいう意見がある。それに対処するために、「人類は死なない(ボーヴォワール)」という意見がある。人類全体の協働作業という前提。或いは、霊魂の不死等も候補となる。

真木悠介は、上記のような実感を支える命題は、以下の2つの感覚を前提とするという。

①時間の空間化
時間を空間と同様に、未来と過去に向かって無限に伸びる次元として想像する。抽象的に無限化された関心の対象。

⇒時間が抽象的に無限であるために生の目的が未来に先送りされる

②時間の反空間化
時間を消滅していく不可逆性とみなす。

⇒過去になっていく現在が消滅していくために最終結果にのみ意味がある

************

ハイデガーによると、人間主体は「死への先駆(死が確実な可能性である事を直視する)」という形態を取る。死による挫折の可能性により、自分の超えようとする過程は未完のまま終了するしかない。こうしたハイデガーの思想の上記①、②を前提としている。人間の有限の時間に対する抽象的で無限の時間、過去を捨て去っていく脱自の前提となる時間の不可逆性。

************

そして、原始共同体の中に、上記①、②の前提は存在しないとする。

原始部族に取材すると、彼等は自らの村と外部の出来事が同時だという同時性の観念を持たない。時間は具体的な活動から抽象されない。時間は具体的作業と照応されて表示されるので、有限の射程しか持てず、無限の未来を持つ事は無い。

こうした具体的時間は単一の共同体においてのみ存在し、異なる同時間性を持った他集団との出会いがあると、複数の時間性を包括する抽象的時間が発生するとする。

<ヘレニズムの時間>
抽象的な円環する時間の表象。

地域間交易によって発生?貨幣の発生も同時期?全ての商品に抽象的で等質な量的規定性を与える普遍的概念としての貨幣。ミレトス学派の哲学探究も、宇宙の多様性を還元出来る多様性の追求に始まる。

抽象的な時間は貨幣と同型的な機制によって存率している。

<ヘブライズムの時間>
終末論を起源とする不可逆的な直進する時間。終末論はユダヤ教の弾圧期に書かれたとされ?深い絶望に対抗する希望は純化された理想郷への志向として研ぎ澄まされる。回帰を否定し、未だ存在しない未来への仮託。

上記2つの時間が交差して近代社会が生まれたとする。具象性から解放された無限なる時間は、有限の人生との対比され、共同体からの個人の解放と相まって死の恐怖と生の虚無を際立たせる事になる?

現在を生きる人間は、容易に存在化出来る「過去」との間には共感を抱き易いが、未だに不在である「未来」との間には疎外感を抱く?未来は実感出来ず、抽象的にしか知られない。

2 カール・マルクス『資本論』を読む



「抽象的人間労働時間」が鍵となる概念である。

「資本論」は、商品が使用価値(具体的有用労働の産物)であり、交換価値(抽象的人間労働の客体化)でもある事の指摘から始まる。

資本主義社会において、労働者は自らが生産した物を消費しない。他者が生産した物を消費するために生産する。従って、労働は他の労働と交換可能であるという抽象性を持つ限りで意味を持つ。

それは近代的時間意識を構成する2つの感覚を持つ。

①具体的労働の多様性を捨象した抽象的時間
②帰無する不可逆性

資本主義社会における生産者は、自らの労働が具体的に寄与する他者を認識出来ない。生産者の主観においては、労働は自分の利益のためにのみ行われる。

労働によって客体化された事物が、貨幣との交換可能性を有する時に、労働が「抽象的人間労働」と見做される。

そして、「抽象的人間労働」の時間の長さが交換価値と対応するとなるには、活動から独立する抽象的時間の概念が必要になる。時間が独立した変数であるという観念は西欧特有のもの(機械仕掛け時計等)で、他地域では時間は事象と分離しない。

時間が現象と独立に、一定に進行するという観念は特殊であり、西欧以外では時間は事象との相互作用や季節・天候等により可変的である。

都市における労働が、日の出・日の入りに規定されない抽象的な労働時間の切っ掛け?

3 ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』を読む



如何にして「国民」が形成され、普及したかについての考察。

<小説という文学様式の誕生>
リアリズムを備えた小説は、17世紀末~18世紀前半の西欧州において生まれた。

小説のリアリズムを可能にしているのは、「この間(meanwhile)」という語である。この語は抽象的同時性を表現しており、局所的空間を部分として組み込む事が出来る。

「AとBが口論していた。この間、CとDは情事をしていた」

⇒「AとBの口論」と「CとDの情事」を抽象的均質空間に属しているとして関連させる事が出来る

⇒読者の視点を超越的な場 = 抽象的均質空間に設定出来る

国民と小説は同時に現れた。国民以前の共同体は、構成員間の直接的関係によって成り立っていたが、国民は抽象的な一体感によって成り立つ。これは小説における抽象的均質空間のリアリズムと同様である。

国民を可能にする条件の一つは、抽象的同時性の観念を許容する抽象的時間である。国民は近代的概念でありながら、人々は国家に古い起源を求める。

近代になって歴史学は中核的な学問分野に格上げされ、国家の古代への愛着を継承したと解釈される。

国民は抽象的概念であり、内的結束力を持つには概念にとっての典型的イメージに対応する働きを担う要素が不可欠。自分達を投影する要素とは、他民族と違う具体的特徴であり、具体性を確信する手掛かりとなるのが物語としての歴史とする。

4 エルンスト・カントーロヴィチ
『王の二つの身体』を読む




西欧の王権は、王の内に、「自然的身体」、「政治的身体」が統合された時に完成したとする。形成は中世の全期間において行われ、絶対王政期に完成したとする。

法人としての王国は、国家、国民の先駆形態である。

法人が成立するには、時間概念の転換が必要であり、法人の構成員が入れ替わっても、法人の同一性は維持されるとする「連続性」の観念。

中世のキリスト教世界は、有限の地上世界と神に対応する永遠に時間を分けた?そして、第三の観念としての「永続」が生まれ、時間を通じた持続性を法人に与える事になる。

永続は最後の審判を通じても生き残る天使に帰属する時間とされるが、小説の読者 = 作者の視点とは天使の立場の世俗化であるかもしれない。

イスラム世界においては、人間以外の存在に擬制的主体性を与える事が許されず、法人が誕生しなかったために資本主義が発達しなかった?イスラム教にも天使は存在するが、神であり人間でもあるキリストのような存在はいない?

5 マックス・ヴェーバー
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
を読む




資本主義の精神の起源をプロテスタンティズムに由来する生活態度にあるとする。

資本主義の精神とは、「資本」の増加を義務として引き受ける生活態度である。貨幣の蓄積を目的とするため、世俗内禁欲を要求される。

カルヴァン派の予定説においては、神によって救済される者は最初から決定されているとする。ニューカムのパラドックスとして、自らが神に救済される人間である事を証明するために禁欲を信者は禁欲を受容するとする。

信者は自らの行為を選択する事により、神に祝福されたという過去を作り出す事が出来る。予定説を論理的に突き詰める事により、神は独立した他者ではなく、現在における人間の別の姿となる。

第2章 読んで考えるということ 文学編
罪について。

罪の感覚と倫理的行為、贖いの関係?

1 夏目漱石『こころ』を読む



1914年(大正三年)4月~1914年(大正三年)8月にかけて朝日新聞に連載された作品。岩波書店が刊行した最初の一冊。

作中で自殺する先生の遺書の最後に明治天皇が崩御した事が記されている。先生が自殺を決意するのは、乃木将軍の殉死の数日後である。

先生と先生の友人であるKの関係は、乃木将軍と明治天皇の関係に類似する?「心」には本源的に社会性が刻印されているとする。

Kは先生にとって超越論的なステータスを持った他者である。人間の欲望は、第三者の審級に媒介されて形成されるとすると、人間は欲望の対象を第三者の審級によって決定する事になる。

神は第三者の審級の一種であるが、「こころ」では神への信仰は個人的な恋愛の延長上で捉えられている。「こころ」における倫理は、個人的に強い関係を持っている他者との関係の中で規定される。

乃木将軍が明治天皇が死んだ事で殉死するのは、明治天皇に個人的な忠義心を持っているからである。小説内での「明治の精神」とは、政治的な指導者との関係も個人的な忠義の一環として思い描く事が出来た時代の精神?

乃木将軍が遺書で重視したのは、明治十年の西南戦争で西郷軍に旗を奪われた事であるが、先生が御嬢さんの下宿に入るのは、日清戦争の12年後である。夏目漱石の中で明治の精神は、明治時代の半ば頃に終わった事を示唆している?

Kとの個人的な関係に由来する裏切りへの償いとして自殺する事が、明治の精神への殉死であるとすると、それ以降の時代は個人的な愛情に由来する倫理だけでは足りない事になる?乃木将軍は、西南戦争以来、30年以上も明治天皇に申し訳なく思っており、先生の遺書にももっと早くしぬべきだのにと書いてある。

この選択の遅れは、選択の構造に基づいており、選択を規定する欲望が第三者の審級に媒介されている以上、人間が自分の選択を自覚するのは、第三者の審級を意識する時(第三者の審級から承認を受けられなかった時)であり、誤った選択を意識する事になる。

選択の意識は、他の選択もあり得た事の自覚を通じて罪の意識を生み出す。

2 ドストエフスキー『罪と罰』を読む



人類のため、野心の実現のためであれば殺人も肯定されるという哲学が破綻する話?

主人公の名前「ラスコーリニコフ」に含まれる「ラスコル」はロシア語で分裂を意味しており、「ラスコーリニコフ」とは分裂した者である。

「ラスコル」という言葉が固有名詞として使用されるのは、17世紀中盤に生じたロシア正教会の内的分裂を指すのが普通であり、小説内での正教会の思想(隣人愛)と正教会外部の思想(英雄的強者の絶対自由を支持する思想)との分裂を示す?

『罪と罰』の内在的限界として、隣人愛も英雄崇拝と同様に人類の幸福に資する行為であるから肯定されてしまう事にある?人類の平和や幸福を倫理的行為の基準とすると、事後の視点が必要になる。

それは行為者の主観的心情と、行為の倫理的価値とは関係が無い事を意味する。

最後の審判の判断は不可知であり、行為者の主観とも独立しているので、客観的と形容される。ここで客観性を知る者を想定すると、独裁制が生まれる?

2 赤坂真理『東京プリズン』を読んで



第二次世界大戦における戦争責任について。

1980年の主人公と2009年の主人公の語らいが物語の基盤となる?1980年の主人公が「天皇の戦争責任」について勉強し、米国人との論争に挑む?

日本社会は、第二次世界大戦での敗戦によって規定されているとする。それは個人の感情を超越した集団による規定である。

「東京プリズン」では、2009年の主人公は、最後の審判が終わった後に属しており、過去の自分の行為の結果を確定的に振り返る事が出来る。1980年の主人公も東京裁判の後に属しており、当時の日本人民が言えなかった事を言える存在とする。

主人公の過去の反復の中で、日本社会の過去が反復されたとする。

4 イアン・マキューアン『贖罪』を読む





英国に住む主人公が、従妹の恋人を強姦犯として嘘の告発を行う。小説の後半の作中作で、主人公は従妹と従妹の恋人に謝罪するが、それは虚構であり、現実の二人は戦争中に他界していた。

物語は主人公による作中作という形式を取るが、作中作を小説として完結させるために肯定性を付け加えなけらばならなかったとする。

これは小説の不可能性 = 神の不可能性であり、世界には償い得ないような罪があり、神が存在するのなら破壊的罪を許すはずがない。

旧約聖書の「ヨブ記」における神も、ヨブの苦痛を癒す事が出来ない。神は償う事を諦めて自慢話に逃避する。『贖罪』の主人公も事実を歪曲してしまう。それは神 = 創作者の無能性(不在?)への暗示である。

5 フィリップ・クローデル『ブロデックの報告書』
を読む




第二次世界大戦が集結して間もない頃、フランス辺境の寒村における旅人(Anderer)が殺された事件についての報告書を主人公が制作する話?

村においては第二次世界大戦中に「よそ者」をナチス・ドイツに供出していた。供出に由来する罪悪感を村人達が抱えており、それが旅人殺害の原因になったとする。

旅人は村の風景画や肖像画を描いたが、そこに村人達の恥辱の過去が映し出されたとする。

旅人はキリストに喩えられ、彼が騾馬を連れているのは、キリストが騾馬に乗ってエルサレムに入城した事と類似する。

この物語は、神が訪れた最後の審判の現在を示しており?神が赦しを宣言する事が賭けである事を示している?神が罪を赦しても、赦された者達がそれに値する行動をしなければ神の権威は失墜する。

全ての者を描き出す旅人は、全ての村人の過去を肯定している。このとき、贖われない者は無い。つまり、赦されない者の集団は「無」である事になる。小説内の強制収容所においては「私は無(屑)です」という言葉が強要される。実体として赦されない罪を背負っている村人達は、贖われた者に相応しい行動をしなくてはならない。

自分の罪と向き合えない者は、救世主を殺して最後の審判になっている事を否認するしかない。村人達は旅人の名前を知ろうとせず、無視しようとしたが、それが不可能になるまで追い詰められた時、殺すしかなくなった。

この時、村人は「無」に留まるしかなく、物語の最後で村は消滅してしまう。

第3章 読んで考えるということ 自然科学編
神について。

科学と現代哲学が定位する宇宙観の中心的含意

1 数学と人生
◉吉田洋一『零の発見』を読む



インドにおいて0が発見されたのは6世紀頃とされる。0は後ウマイヤ朝を通じて8世紀初頭?には欧州に伝わったが、普及したのは13世紀末とされる。

0はインドにおいて発見されるまで活用されず、その普及速度も遅い。0を用いるべき社会的活動領域が準備されていなかったのかもしれない。

◉春日真人『100年の難問はなぜ解けたのか』
を読む




宇宙はどのような形をしているのか?宇宙が丸いとして、丸の中に属している者が、どのようにして宇宙が丸い事を知る事が出来るか?この判定基準についての仮説を「ポアンカレ予想」という。

「ポアンカレ予想」を解決したペレリマンは物理学を取り入れており、さらに時間について独特の操作をしているらしい。宇宙に変化要因を加え、時間を経過させれば複雑な宇宙は綺麗な形に変化するが、整えられた宇宙は壊れてしまい計算出来なくなってしまう。そこでペレリマンは宇宙が壊れそうになったら時間を過去へ遡って良いとした。

こうして「ポアンカレ予想」を解いたペレリマンは、社会から引き籠る事になる。著者の意見として、「知」は宇宙を形成しようとする傾向を持っており、宇宙は外部に対して閉じられた包括性を持つ。数学は、外部が存在しないと想定する全体を形成する力を持ち、自己充足的な宇宙を有する。ペレリマンは、「ポアンカレ予想」と対峙する事で、宇宙に入り込んでしまったのかもしれない。

**************

0が発見された時から数学と物理学は分離したとする。0は物理現象に縛られない抽象を必要としており、無限の存在と同様に物理学と数学を分かつ。「ポアンカレ予想」において数学と物理学が融合するのなら、観念論と唯物論が融合するかもしれない。

2 重力の発見
◉大栗博司『重力とは何か』を読む



アインシュタイン以降の重力理論を解説。超弦理論における重力の把握の紹介が記述の中心となる。

◉ヴィクトル・I・ストイキツァ『絵画の自意識』を読む



15世紀末から16世紀の欧州にて静物画や風景画が成立した話。この成立期は科学革命の直前から初期であり、それまで基本的に宗教画だった絵画が、宗教的な価値を持たない風景を鑑賞対象にするようになったとする。

この時期は、歴史学者ブローデル等が呼ぶ「長い十六世紀」であり、世界経済としての資本主義が出来上がる過程である。静物画は宗教画を否定しておらず、宗教を止揚し、宗教を自身の内的契機として取り込む事で成立したとする。

風景等の世俗的な物(神から切り離された物)が美学的鑑賞の対象となるには、逆に、超越的な神の存在が必要になる。

◉山本義隆『磁力と重力の発見』を読む







遠隔作用としての重力が社会的に受容されるために、磁力が一役買ったとする話?磁力という遠隔作用の起源は中世の魔術であり、自然現象を近接的なものの間の因果関係の絡まりによって説明する機械論と対立した?

ここでも神が必要とされた?ニュートンは重力を神の御業とした?

3 量子力学の形而上学とほんものの唯物論
◉リチャード・ファインマン『光の物質のふしぎな理論』、ブライアン・グリーン『エレガントな宇宙』を読む





量子力学が理解しえない理屈である事について。その核心は、物質自身が自らの振る舞い方を知っているかのように振る舞う事にある。人間世界で普通に発生する事を物質が行う事に不思議があるとする。

認識と存在が厳密に連動するので、量子力学は観念論の究極であり、観測者を「神」に対応させれば神学の現代版となる。

終章 そして、書くということ
考える事は書く事によって成就する。

著者の執筆姿勢に関して様々な事を書いている。

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