ビックリ!インド人の頭の中

読んだ本の感想。

宮本啓一・石飛道子著。2003年5月10日第一刷発行。



以下は、「マニカナ・ホームページ」へのリンク。

http://manikana.la.coocan.jp/

以下は、「インド哲学七つの難問」の記事へのリンク。

http://nonono7.blog12.fc2.com/blog-entry-2156.html

序章 論争の王国インド
情報技術産業において躍進するインドの思想について。

論理に対する自覚的反省 = メタ論理としての論理学を古く樹立した民族はギリシア人とインド人だけとする。

インドには知的論争を好む王が沢山おり、論争術から論証学、論理学が生み出されたとする。

もう一つのインド哲学における特徴としてサンスクリット語の伝統的文法学の影響がある。紀元前4世紀頃に完成されたサンスクリット語の文法学は、用いる記号と公理を列挙し、幾つかの運用規則で分析的に展開する。

文法学に由来する公理体系志向がインド哲学に影響するとしている。

理数系に強いインド人が多く存在し、物理学、化学、経済学等でノーベル賞受賞者を輩出するのは、理数系の学問が基本的に公理体系志向の学問であるからとする。

第一章 存在とことば
1 無はある
ヴァイシェーシカ哲学体系について。

紀元前2世紀頃に、西北インドを支配したギリシア系バクトリア王国勢力圏内で、インド古来の哲学思考とギリシア哲学が融合して生まれたもの?インド初の本格的哲学体系。徹底した実在論哲学であり、言語表現可能なものは、全て実在とする。

以下の例文について考える。

「白い牛が歩く」

「白」という形容詞は実在する白色、「牛」という名詞は実在する動物、「歩く」という動詞は実在する運動を指し示す。白と牛、歩行と牛は、観念的には分離出来るが物理的には分離不可能であり、こうした関係を「内属」とする。

言語表現には否定的なものもあり、否定辞も言語表現であるから、それは実在を指し示す。「この床に水瓶が無い」という文章は、「この床に水瓶の無が有る」と言い換えられる。

認識論では懐疑が深まって安心して語れる世界が狭くなっていくが、実在するものとして世界を語り、後から実在の在り方を厳密に考えるヴァイシェーシカ哲学の発想は魅力的であるかもしれない。

2 自己には大きさがある?
デカルトは、実体には精神的実体と物質的実体があり、物質的実体のみが拡がり(延長)を持つとした。

インド哲学では、この問題を2つに分ける。

①ムールタ(中身が詰まっているかいないか)
②拡がり(限定された大きさを持つか持たないか)

古代ギリシアの原子論は、中身が詰まっている有である原子が、中身が詰まっていない無である空間内を運動するとして、物質世界の生滅変化を説明した。

この思想がヴァイシェーシカ哲学に移入された。中身が詰まっている事は、漢訳後で「質礙」という。質は中身が詰まっている事を意味し、礙は互いに妨げ合い排除し合う事を意味する。

ヴァイシェーシカ哲学では、普通名詞の指示対象として実体を考えており、以下の9種類があるとする。

①地
②水
③火
④風(空気)
⑤虚空(音声の媒体)
⑥空間
⑦時間
⑧自己
⑨意(感覚情報を自己に伝達する内官)

上記の内で限定された大きさを持つのは、①~④、⑨である。他は限定された大きさを持たず、中身が詰まっていない。それは限定されない大きさを持つという意味である。

すると、精神的実体である自己も含め、全ての実体は拡がりを持つという結論になる。自己の根本属性である意識は偏在しており、中身が詰まっていないのだから無数の自己は排除し合う事無く重なり合って存在可能。

ヴァイシェーシカ哲学では、自己には14種類の性質(数、大きさ、別異性、結合、分離、知識、楽、苦、欲求、嫌悪、内的努力、功徳、罪障、記憶)が内属しており、自己にのみ固有の性質は知識以下の9種類である。それらは身体と結び付いている時に自己に内属しており、解脱すれば全て消えて無くなる。

自己に個性を見い出す事が出来るのは、身体と結び付いている時のみであり、その条件が外れれば自己を区別する事は不可能になる。

3 数えなくても数はあるか?
ヴァイシェーシカ哲学では、数は一に始まる言語行為の原因とする。

一という数は一つの実体に内属している。二つ以上の数を数える時は、ものの側に数と言う実在の性質が生じるとする。主観の側の生む知識によって数が生まれるとする。

ヴァイシェーシカ哲学では、数は主観の側にある純粋の観念でなく、数えられる事物に跨って存在している性質と考えられる。

西洋では①論理主義(自然数は無限の数を要素に持つ無限集合であり実在するとする)、②直観主義(数は数えるという直観が生み出したとする)、形式主義(数は何かなど分からないとする)があるが、数えられない無限集合からなるパラドックスや実在を基盤に持たない直観主義等の欠陥とヴァイシェーシカ哲学は無縁としている。

4 一瞬か恒常か
ギリシアのゼノンは、師であるパルメニデスの主張である「万物は一である」という主張を擁護するためにパラドックスを示したとする。万物が多である前提では、様々な矛盾がある事がパラドックスで示す。

彼のパラドックスは、直接には運動を否定し、それにより、時間や距離を構成する点の存在 = 多の存在を否定する。

時間や空間に「多」が存在する場合、移動する物体は有限の時間内に無限の点を通過しなくてはならず、目的地に到達出来ない。

パルメニデスの理論では、万物の根源は「有」であり、「無」は無いのだから排除され、「有」のみが残る。一切が「有」となると生成や消滅、変化や運動、多様性や多数性も否定される。

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「万物が多である」という主張は、仏教にある。全てが生成・消滅する事を、一切は瞬間的と主張する。原因と結果の不断の流れが現象を作る。瞬間(刹那)は時間の最小単位であり、存在の最小単位でもある。

刹那滅の理論を支えるのは矛盾律であり、実在するものは相反する2つの属性を持つ事は無い。熱い、冷たいの相反する属性が認められるなら、そこには2つの物があり、現象世界は「多」となる。

ニヤーヤ哲学のウッディヨータカラ(6世紀)は、仏教の教義に異議を唱え、一切が瞬間的であり、最小単位を刹那であるとすると矛盾が生じるとした。

生成や消滅に原因があるのなら、最小単位であるはずの刹那の中に原因を想定しなくてはならず、最小単位を分解しなくてはならない。それに対して、7世紀に生きたダルマキールティは消滅に原因は無いとした。

5 虚空を「虚空」と呼ぶわけ
ヴァイシェーシカ哲学では、名称について以下の理解をした。

世界には無数の個物があり、名称がある。「馬」という個物には、そう呼ばれるべき共通の属性 = 馬性があるとする。馬性が普遍であり、個々の馬に内属している。

牛は馬と呼ばず、馬性は、牛を馬と呼ばない根拠 = 特殊としても機能する。

さらに、実体性の方が馬性よりも多くの個物に内属するために、馬性よりも上位の普遍であり、有性が最上位の普遍とする。普遍は単一であるが、個物の個々に内属する属性である。

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ここで問題となるのは、虚空(波である音声を媒介する実体)である。虚空は一つしかないとされる。複数の個物があれば共通する属性としての普遍が名称付けの根拠となるが、一つしかないものは共通の属性はあり得ない。

虚空性とは、普遍擬きの似非属性である。

5世紀初頭のヴァイシェーシカ哲学書である『勝宗十句義論』では、虚空という名称の根拠を特殊とした。虚空に内属する特殊は、単一の個体である虚空を顕わにする。

対して、6世紀初頭のヴァイシェーシカ哲学のプラシャスタパーダは、虚空という名称付けの根拠を便宜性、偶然性とした。

6 無色の水がめ
ヴァイシェーシカ哲学では、不変で不滅の物質である原子の存在を認め、原子が結合・分離するとして生滅を説明した。原子には、地、火、水、風があり、共通の場所である虚空で活動する。

ギリシアにおけるデモクリトスの原子論は、パルメニデス等の批判により論理的に要請されて生まれた。「有」としての原子と、原子の自由な活動が許される虚空の対比。

ヴァイシェーシカ哲学では、論理的な整合性を重視し、事実を歪めても論理的である事を選択した。

変化を説明する場合、ヴァイシェーシカ哲学では、原子を用いて説明する。

ヴァイシェーシカ哲学の保持する形而上学の原理や原則の基で、現実の世界を因果関係によって説明可能とする。

<水瓶の例>
黒い水瓶が、熱によって赤く変化する事を以下のように説明する。

第一段階:
水瓶が火と結合すると、衝撃によって水瓶は原子にまで破壊される。

第二段階:
水瓶を構成していた原子と火の結合で、水瓶の黒色が消滅する。この瞬間の水瓶は無色である。

第三段階:
火との結合から、原子に赤色が生じる。

第四段階:
赤色の原子が結合し、水瓶が再び生じる。ここでも瞬間的に水瓶は無色となる。

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ヴァイシェーシカ哲学の原理では、「全体の性質は部分の性質によって生じる」とされる。その原理が正しいとすると、上記では水瓶を構成する部分である原子一つ一つが火と結合しなくてはならない。部分の色が変化しなくては全体の色も変化しない。それだから、原子の段階まで壊れ、内部まで熱が行き渡る事にする。

さらに、水瓶が再構成される過程は、5刹那~11刹那までの非常に短い時間とする。

水瓶が瞬間的に無色になるのは、消滅と発生には原因が存在しなくてはならず、赤色の発生は火との第二の結合が原因となって発生するために無色の瞬間が生まれるとする。

上記の第四段階における無色は、水瓶の赤色は、水瓶を質料因として生じる結果であるため、原因である水瓶が生じた一瞬後に生じるためとする。

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<全体―熱説>
ニヤーヤ哲学では、上記に反論し、原子まで破壊されずに、水瓶は全体を保ったまま色の変化が起こるとした。この説の欠陥は、水瓶の原子に火が行き渡る過程を説明出来ない事にある?

ヴァイシェーシカ哲学の「原子―熱説」は原子の特質に忠実である。部分を持たない原子に隙間は無く、原子を2つ集めた二原子体にも隙間は無く、二原子体三個を集めた三原子体になって隙間が存在する。

それだから、原子まで壊れるとしなければ全体が変化する事を説明出来ない。

7 世界は始まらない
以下の2つの意見。経験(感覚所与)を出発点としない議論は、互いに矛盾し合う同等の権利を持つ主張へと分化してしまうとし、理性の暴走を防ぐために考察対象外とした。

①カント
時間は有限であるか、無限であるか等は二律違反の主張であり、考察対象外とすべき。

②仏陀
経験的事実を出発点としない形而上学的な問いには回答しなかった。

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上記の仏陀を例外として、インドの哲学者達は形而上学の世界で思索を巡らせた。

ウッダーラカ・アールニ:
有からのみ有は生じ、無から有は生じない。世界は有のみであり、有が流出して森羅万象からなる世界が生じたという一元論的流出説を唱えた。

ヴェーダーンタ哲学:
有 = 宇宙の根本原理ブラフマン = 最高神 = 真実の自己とし、質料因であり動力因であるとした。

⇒一元論の欠陥は、根源が清浄であるのに、流出した世界に不浄がある理由を説明出来なかった事

サーンキヤ哲学:
二元論的流出説を唱えた。以下の2つから考える。
 ○自己 = 精神原理
 ○根本原質(以下の3つから成る)
  ・純質
  ・激質
  ・暗質

自己から関心を持たれた時に、根本原質の三要素のバランスが崩れて流出が始まり、世界が成り立つとする。森羅万象は、三要素の混合比率が異なるので、浄も不浄もあるとする。

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<世界に始まりがある事の困難>
○一元論
有のみが最初にあったとすると、それまで自己完結していた有が流出した原因を説明出来ない。世界が始まる時に、「他」の存在によって自己完結が崩れたとすると一元論は維持出来ない。

○二元論
自己が根本原質に関心を抱いた事が流出の原因とするが、それまで関心を持たなかった自己が関心を持った理由を説明出来ない。

キリスト教の神学においては、この難題を解決するため、神は世界とともに時間を創ったとした(アウグスティヌス)。始まりを定める事で、それ以前の時間領域を考える事を禁止した。

ビッグバン宇宙理論でも、時間はビッグバンとともに生じたとして、それ以前の時間は虚時間であたと主張し、ホーキングはローマ法王庁からお褒めの言葉を貰ったらしい。

⇒インドにおいても世界は始まらないとして、解決不能の問題から逃げたとする。

8 推論で語りうるもの
ニヤーヤ哲学 ウッディヨータカラによる批判:
自己は存在しないという文は自己矛盾している。「自己」という語は事物を指しており、それは存在しない事の否定である。ある事物の存在を否定する時は、特定の時間と場所に存在しない事を意味するのであり、他の時間と場所には存在する事になる。

ニヤーヤ哲学においては、推論は知覚に基づくという原則があり、自己に関連付けられるもので知覚出来る身体によって自己を述べた。

知覚出来ないものについて語る事は出来ない。

9 床にはいつも水がめがない?
インド実在論においては、言語表現されるものは実在するとし、「無」という言語表現があるからには、無は実在するとした。

5世紀初頭の慧月の『勝宗十句義論』によると、無は以下のように分類される。

・先行無(まだ無い)
・破壊無(最早無い)
・交互無(~でない)
・関係無(~が無い)
・絶対無(絶対に有り得ない)

8世紀頃?のミーマーンサー哲学 クマーリアは、上記の5分類を、関係無を絶対無に吸収する事で、4分類としたとする。すると、以下のような問題が発生する。

「この床に水瓶が無い」という言葉を絶対無に分類しなくてはならなくなる。すると、この床に水瓶を置くと、水瓶が消滅するという意味になってしまう。

ニヤーヤ哲学では、上記のような場合を特殊な絶対無として、時間条件的無と命名した。この床に水瓶は無いが、水瓶が置かれたという時間的条件によって、そのように認識されたとする。

10 分類するインド人
インド哲学における分類について。

一度なされた分類は、一定の順序で並べられてしまい、伝承される内に分類方法が失われてしまう。解釈や分類構造が変化するために、混乱が発生する?

項目名も厳密に系統だっておらず、機械的分類は好まれないとする。

仏教論理学のディグナーガは、機械的な分類を好み、論証を9つの場合に分類した。しかし、ディグナーガの9つには網羅しきれないものがあり、彼に対立するウッディヨータカラは2032まで分類を増やした。

簡便な論理よりも雑然とした記憶量が好まれる?

11 関係シンドローム
ナヴィヤ・ニヤーヤ学派:
13世紀に、ガンゲーシャが『真理の如意棒』を著した事を始まりとする?

世界は沢山の関係が並立して成り立っていると考えた。

因果関係:
棒を使用して水瓶を作る場合、棒は原因の一つであり、水瓶は結果である。

存在論的関係:
水瓶が床に置いてある。

認識論的関係:
水瓶が運び去られて床に無い。

法則的な含意関係:
作られた物は必ず壊れる。

⇒語りたい対象について名称(対象言語)が用いられ、どのような文脈で語りたいについては関係を示す語(メタ言語)が使われる

西洋哲学における「関係」は、集合概念と結び付いている。抽象的な「水瓶」や「棒」等の集合概念を構築し、一般的理論を構築する?対してインド哲学においては、関係は個物の中にある。

棒には、棒たらしめる棒性が存在し、水瓶にも水瓶性がある。原因性や結果性もあり、原因や結果に属性として存在する。

第二章 論理と知識
1 インドの推論は帰納的?
ニヤーヤ哲学におけるインドの演繹論理学について。

ニヤーヤ哲学においては、知覚を基礎に置く。認識根拠の第一に知覚があり、次に推論がある。

ニヤーヤ哲学では推論には形式が決まっており、「AならばB」とすると、A故にBとなる。例えば、「A(煙がある)ならばB(火がある)」とすると、「煙がある故に火がある」となる。

帰謬法が用いられ、上記では、煙があって火が無いという場合は経験出来ないから矛盾と結論付けて法則的関係が確立する。「煙があるならば火がある」という法則的関係は、特殊な個々の例を集めて帰納的に得るのでなく、個々の特殊の中に普遍を知覚する事で演繹的に得られる真知である。

ニヤーヤ哲学では、因果関係が絶対に成り立つような知覚的条件を前提に加えていく。認識根拠は真理であり、真理によって解脱を得るとしたため、認識根拠に含まれる推論は絶対に正しい知識を演繹するものでなくてはならない。

2 かたちのない知識
有表象知識論:
知識は表象を持ち、対象とするのは外界ではなく表象(感官によって心に写し出された写像)である。経量部(仏教)、不二一元論学派(ヒンドゥー教)等。

無表象知識論:
知識は形を持たず、表象を見て判断するのでなく、世界を直に知る。瑜伽行中観派(仏教)、ニヤーヤ哲学、ヴァイシェーシカ哲学。

知識には内容が伴っている。知識には名称があり、その内容は名称が指し示す事態である。インド論理学では、このような関係にある知識と内容を、「対象を持つ物」、「対象」と呼ぶ。

対象とは、例えば「これは銀である」という知識の場合には、「これ ― 銀性」という構造からなる一つの事態である。「限定されるもの ― 主要な限定するもの」という構造に一般化される?

正しい知識とは、「現実の物事通りの知識」であり、「限定されるもの ― 限定するもの」という構造を持つ。

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上記において、対象における「限定されるもの」と現実における「限定されるもの」は同一である。知識の真偽を疑う時に、「これは本当にこれであるか」と疑問に思う事は無い。

3 一蹴されたパラドックス
ナーガルジュナとニヤーヤ哲学の論争について。

ナーガルジュナが論争において用いた手法は、論詰と呼ばれ、自らは立論せずに非難のみを行う。相手の主張の否定に専念し、相手をレトリックの上の問題で応答や非難が出来なくなる状態に追い込む。

<ナーガルジュナに追及されたパラドックスの一例>
認識根拠(認識を得る手段)と認識対象(認識される対象)について。

ナーガルジュナは、この二つは成り立たないとした。

認識根拠が認識対象より先にあれば、その時に認識対象はまだ存在しておらず、認識根拠が何についての認識根拠か決定出来ない。
認識根拠が認識対象より後にあれば、認識対象が既に存在している時、何が認識根拠となるか決定出来ない。
両者同時に存在しているとすると、同時に生じたものに原因と結果の関係は無いので因果関係を指摘出来ない。

⇒ニヤーヤ哲学においては、認識根拠と認識対象を、言葉を説明する言葉(メタ言語)と説明した。それ故に、事実に従い、状況に応じて適用される

外界の対象を表す語によって示される事実が認識手段となっている時に「認識根拠」と呼ばれ、認識の対象となっていれば「認識対象」である。秤は金を計る時は、認識根拠であり、図られる金は認識対象であるが、金を基準にして別の秤を検査する時は、金が認識根拠となり、秤が認識対象となる。

以下のように実例から考える。

・認識根拠が認識対象の前に生じる
太陽の下で何かが生じた時

・認識根拠が認識対象の後に生じる
音だけ聞いて楽器を推論する時

・煙を認識の原因として火を推論する時
両者同時に生じる

⇒ニヤーヤ哲学は、立論を行う立場を崩さずに論理追及を行う事になる

4 見るだけでわかるとは?
ニヤーヤ哲学の公理:
そこに物があれば、人間は知覚すればそれと分かる。

上記は実在論であり、認識論においては推論によって物があると知る。人間は様々な場面で物を見ており、それらが一緒になって心中にイデア(観念)が纏め上げられるとする。

認識論においては、物を見ると関連する観念が呼び起こされ、知覚が生じると説く。これは仏教の思想であり、仏教では全体の存在を認めない。部分の集まりによって全体が生じるとする。

西洋哲学でも、同じように知覚の説明に表象を持ち込むため、対象が知覚通りに実在するか疑わしい事になる。ニヤーヤ哲学においては、知覚した物はその通りに実在する事になっている。

5 外界のものを生む知識
インド哲学における因果関係は、直接の関係のみを言い、間接的原因を排除する。

<数識論>
ヴァイシェーシカ哲学では、数の認識を実在論から考える。数の最初は一であり、一は全ての実体に内属しているとする。一以上の数は人間が数えない限り存在しないとする。例えば、二は二つの実体に跨って存在する実在の内属する性質となる。二が生じると、二という性質を二つの実体が持っているという知識が生じ、記憶へ転じるが、この段階で既に二という性質は消滅している。でなければ、世界に二が残存し、数えなくても二つあると認識出来る事になってしまう。

ヴァイシェーシカ哲学では、上記の二のような知識を「待つ対象としての知識」と命名し、実在の性質として実在論の体系の中に位置付けた?

6 「みえる」と「わかる」のはざま
仏教のダルマキールティの意見:
知覚(直接知)は、概念を持たない知である。それが何であるかという意識を持たない無分別な知。直接知に基づいて概念が生じたなら有分別知となり、推論の中に入る。

仏教では、実在とは効果的作用を持つ事であり、直接知に基づいて決定した間接的知識は、主観が仮構したものだから真実でない。しかし、効果的作用があれば、確実な知識である。

ニヤーヤ哲学:
「見える(直接知)」と「分かる(間接知)」は、言葉を伴っているかの違いだけであり、同一であるとする?デカルト流の思想では、正しい知識であるかは知性によるが、ニヤーヤ哲学では感覚器官の機能を重視する。

7 自己はない?
仏教の無我説について。

著者は無我説を批判しており、それは人間の意識の存在を説明出来ず、輪廻の主体を想定出来ないとしている?

8 眠っていても目覚めている
ヴァイシェーシカ哲学等の実在論哲学では、言語表現されるものは実在しているため、「自己」という名称によって自己の存在が証明される。

実在論以外の哲学においては、輪廻の主体や認識主体等を説明する時の論理的要請によって自己が必要とされる。

8世紀にヴェーダーンタ哲学を手直しし、幻影論、不二一元論を確立したシャンカラは、認識主体は断絶しないとした。シャンカラは、自己のみが実在であり、幻影である世界の中の輪廻の主体は自己でないとした。自己は認識主体としてのみ要請される。

認識主体である自己が断絶すると論理が矛盾してしまう?そこで、熟睡中も自己は断絶しないとする。熟睡中も見ているが、見る対象が無いとする。何も見ないで熟睡していたとは、熟睡中の事を想起しており、想起があるという事は記憶があるという事になる。

熟睡しているのは心と体であり、認識主体である自己は常に目覚めているとする。

9 発見の文脈と正当化の文脈
発見の文脈:
思考過程を問題にする。

正当化の文脈:
主張を正当化する根拠付けを問題にする。

ニヤーヤ哲学においては、正当化の文脈の形式を規定し、そこに至るまでの過程を別の枠組み(推考)で行うようにして発見の文脈の混入を阻止する。

推考:
真理が知られていない事について、原因・理論が成り立つか熟考する事。

10 自分のことはわからない
紀元前8世紀~紀元前7世紀頃のヤージュニャヴァルキヤは、真の自己は知り得ない事が自己の本質的特性とした。

認識主体は認識されない。何故なら、認識主体だからである。

真の自己は知り得ない故に、肯定的には言語表現不可。「○○は自己でない」という命題を無数に連ねた連言命題となる。

8世紀にヴェーダーンタ哲学を手直ししたシャンカラは、全てを幻影として否定した後に残された存在を真の自己とした。完全に世界から疎外される事が自己に至る道であり、○○は私でないと連ねて自己に至るとした?

11 インド哲学が言語と論理を重視するわけ
欧州では、哲学は個人の所有物であるが、インドでは哲学は学派の所有物?

西洋の哲学は単発的で、哲学者達が帰属する社会の情勢に影響される。インドでは、哲学思想の基本的問題は時代と関係なく一貫している。

例えば、ニヤーヤ哲学の根本典籍『ニヤーヤ・スートラ』は3世紀の作とされるが、4世紀にはヴァーツヤーヤナが注釈し、6世紀にはウッディヨータカラが副注を書いた。さらに9世紀にはヴァーチャスパティミシュラが注釈し、10世紀にはウダヤナが注釈した。さらに13世紀にはナヴィヤ・ニヤーヤ哲学に編成し直されている。

哲学問題は普遍的であり、誰が何時考えたかは大きな問題でない?

学派とするためには、一つの問題だけを扱うのでなく、様々な問題について論理的に一貫性のある体系を構築する必要がある。

学説を語る言語が整えられ、学説形成のための論理が整備された。

第三章 世界と力
1 充満する力
原因が結果を生じさせる根拠 = 力について。

麦粒から麦が発芽するのは、特定の結果を生む力能によるとする。

サーンキヤ哲学の『サーンキヤ・カーリカー』、ヴァイシェーシカ哲学の『勝宗十句義論』では、原因には特定の結果を生む力能があると表明された。

しかし、力能は、因中無果論(結果は原因の中に存在せず、新たに出てくる)と折り合いが悪い。そのため、6世紀頃のヴァイシェーシカ哲学では力能に言及していない?

2 なんでもかんでも因果関係
インド哲学を根底から支える土台は、普遍的な因果関係の法則である。

基本的には時間的先後の関係を指す。原因は必ず結果に先行し、それは機械的に進展していく。原因は質料因を意識する事が多い。インドでは、因果関係の公式は真理を導くため、物事を説明するためのメタ法則である。

欧州では、原因は動力因、作用因が中心であり、ヒュームの因果性の理解においては二つの出来事が時間的に続いて近くで発生する時に、因果関係として連合されてしまうとする(帰納的推論)?

3 最高神は木偶の坊
ヒンドゥー教は多神教とされるが、バイブルとされる『バカヴァッド・ギーター』を読むと一神教的側面があるとする。多くの神は案内人に過ぎず、最奥には全知全能の絶対最高神がいる。だからこそヒンドゥー教原理主義が成り立つ。

ヒンドゥー教の世界観では、最高神は、世界の創造と破壊を、始まりの無い過去から終わりの無い未来に向かって繰り返す。

以下の2つの疑問。

①神は無慈悲で残酷か
不平等で苦しみの多い世界が創造された理由。
1世紀に一元論哲学であるヴェーダーンタ哲学を築いたバーダラーヤナは、不平等と苦しみは個々の生き物に責任があるとした(因果応報)。最高神が世界を創造するのは、因果応報の原則を貫徹するためである。善も悪も平等になれば悪平等となる。

②神は完全無欠か
ヴェーダーンタ哲学のバーダラーヤナは、最高神による世界創造は遊戯であるとする。最高神は不完全であるために充足しておらず、その欲求によって世界を創造したのでなく、無目的に世界を創造した?

⇒上記の思想を貫徹すると、最高神は無目的に世界を創造・破壊し、何も救わない非力な存在となる。神学者は最高神を因果応報を無視して信者を救う存在とするが、哲学者たるバーダラーヤナは、最高神を規定しただけで満足した?

4 死体はただの物体
輪廻説では、死生は着物の脱ぎ換えに例えられる。

5 出しゃばる感覚器官
ニヤーヤ哲学では、知覚は外界の対象と感覚器官の接触によって生じると考える。

目から出た光線?が対象に接触し、それによって色彩等を認識する。光線は見る事が出来ないが、推論によって知る事が出来るとする。

さらに、対象と接触した感覚器官が思考器官と接触し、思考器官が内奥にある自己と結び付いて知覚が生じる。

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欧州の思想では、刺激は外界から来る。インドでは、知覚は受動的でなく能動的である。ヨーガ哲学では、制感という階梯があり、感覚器官を対象から引き戻す事が出来るとする。

6 楽は苦の種
輪廻転生は、因果応報、自業自得という論理に支えられる。

仏教では、この世を徹底的に苦と見るが、ニヤーヤ哲学でも世界観の中心に苦観を据えて、輪廻的生存からの脱却である解脱が求められるべきと強調する。

楽を得るためには、様々な苦を体験しなくてはならず、得た楽は必ず失われる。

7 ガーンディーは菩薩である
マハートマー・ガーンディーによるインド独立運動の理念として強調されたのは、「サッティヤーグラハ」という思想である。運動はぜったに非暴力・不服従によるという誓いを立てて守り抜く事を意味する。

守り抜かれた誓いによってインド独立という大願が成就した事になる。

インドでは言葉が重視され、言葉は宇宙の根本原理であり、世界を創り出す力を持つとする。

菩薩も誓願を立てて守るという修行法があり、守り抜かれた誓願は真実となって力を持つ。

そうした前提に立つと、ガーンディーは菩薩と言える。

終章 あたりまえのインド哲学
西洋哲学では、学問的真理の探究と人間が如何に生きるかという心理の探究を異なるものと考えたが、インド哲学では論理を駆使して認識対象である自己の真理を知って解脱に到達する。

論理的に信じられる世界は一つなのだから、学問的真理と生きるべき真理は一致している事になる。

西洋的観点から考えると、インド哲学は非合理的な輪廻や業を時、宗教と科学が分離されていない神秘的哲学となる?

逆にインド哲学的観点から見ると、科学的思想は人間が何なのか論理的に説明出来ない役に立たない言説となる。

インド哲学の特徴は、論理的整合性を追求する姿勢と事故に対する探究の鋭さであり、特殊性や神秘性に囚われない、あたりまえのインド哲学理解が必要であるかもしれない。

以下は、書籍案内からの抜き出し。

Ⅰ 原典和訳


アーリヤ人が持ち込んだヴェーダ宗教で最初の作品を抄訳したもの。世界は有であったか無であったかについての哲学的な話が後半部分にある。



ヴェーダの祭式の実効性を高める呪文を集めたもの。呪文は、真実であるという事で、望む世界を実現する力があるとされた。



ヒンドゥー教初期の大叙事詩『マハーバーラタ』の一部を成す小編。どうようにしたら自己救済に到達出来るかを解く。結果を顧みることなく本務を遂行すれば神の恩寵によって救われるという行動哲学がマハートマー・ガーンディーの心の支えになったとする。



ヒンドゥー教の観点から社会秩序を保つための掟を体系的に列挙した宗教法の書。英国がインドを統治する際に、マヌ法典を徹底的に活用したとされる。



サンスクリット語で書かれた様々な文献の白眉を訳し、解説したもの。



インド哲学の世界を広く知らせるために編集されたもの。



ヨガ―哲学の根本テクスト『ヨーガ・スートラ』と12世紀頃に開発され、ヨーガの主流となったハタ・ヨーガの根本テクスト『ハタヨーガ・プラディーピカー』の全訳。



5世紀に活躍した分布学派バルトリハリの主著。言語世界の構造を緻密な公理体系志向によって明らかにしようとしている?

Ⅱ 入門・解説



ヴェーダ文献の内容を紹介。



『タルカバーシャー』(ゲーシャヴァミシュラ著)という論理学、知識論の綱要書の訳と解説が収められている。



同著者による同名書の解説書。



『バガヴァッド・ギーター』の解説書。



ウパニシャッド文献群にある、神秘的同置の思想の基本的思考パターンについて?



インド人の死生観の変遷について。



6世紀にディグナーガが確立した仏教論理学を中心に、ニヤーヤ哲学も視野に入れて解説。インド論理学の帰納論理学的性格に焦点を当てて論じる。



流出論的二元論を展開したサーンキヤ哲学の概説書。



一元論哲学を展開したヴェーダーンタ哲学の概説書。

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