目からウロコが落ちるニーチェ入門

読んだ本の感想。

梅香 彰著。2001年10月5日 第1版発行。



ニーチェの思想と、ショーペンハウエル、フロイトの思想との関連性について。

以下は、Wikipediaの「フリードリヒ・ニーチェ」の記事へのリンク。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7

以下は、Wikipediaの「ジークムント・フロイト」の記事へのリンク。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%88

以下は、Wikipediaの「アルトゥル・ショーペンハウアー」の記事へのリンク。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%83%BC

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フロイトの自我―無意識の思想の源流は、ニーチェであるという説。フロイトの無意識(エス)という用語はニーチェに由来する。

<ショーペンハウエルの思想>
『意志と表象としての世界』がニーチェに影響を与えたとする。欲望から生じる意志の力の肯定。現在を生きる人間を肯定し、人間が意味あるものとして現実世界に生きるとする。理性(自我)によって欲望を意志として高めるべきとする。

<ニーチェの思想:力への意志>
人間の無意識の内に潜む力(フロイトのリピドー)が発散された時に悦びは大きくなる。そのためには、人間の主体である自我が「力」に向かって意志の眼差しを向けなければならない。

人間が生きる目的は、外界に向かって「力」を発散させて悦びを得る事である。力への意志によって自己克服をしていれば、位階(器)に見合った幸福を現世で実現出来る。

<フロイトの思想:エスの理論>
人間の自我は、全てを自覚していない。自覚出来ない無意識(エス)の中にある欲動をリピドーと名付ける。リピドーは生きるためのエネルギーでもあり、自我によって適切にリピドーが発散される事で人間は幸福になる事が出来る。

快感原則と現実原則との兼ね合い。

自我を強くして、より豊かな自我を獲得する事を目指す。

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「力」とは人間の生命力の源泉であり、フロイトはリピドーと名付けた。欲望出来るエネルギーを枯渇させるルサンチマン(怒恨)からの救済を、フロイトは欲望の発散と名付けた?

弱者の中にも力への意志があり、そのためには自己を克服しなくてはならない。より力ある人間(力の発言者)を規範とし、自己を克服し、より強い人間になろうとする。

ショーペンハウエル、ニーチェ、フロイトが生きた時代は、従来のキリスト教会の権威が揺らいだ時代であり、宗教による人工的な規則、義務、権力構造への疑問が生じていたとする。

ニーチェの思想はキリスト教会という権力に対する反権力であり、善とはキリスト教会の権力者が人々を支配するために作り出した価値観であり、自立した人間の幸福や生命力を阻害するものとした。

道徳とは、人間の幸福に役立つものでなくてはならず、道徳が人間を抑圧したり、支配してはならないとする。既成道徳が人間に強制する根拠の無い道徳への反抗。

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○悲劇の誕生
1872年に出版されたニーチェの処女哲学書。

ギリシャ悲劇を以下の二つの概念から考える。

(1)アポロン的(自我的)
視覚的(知的)、造形的(彫像的)、予言的(夢的)、救い

(2)ディオニュソス的(エス的、リピドー的)
衝動的(破壊的)、音楽的、陶酔的、苦悩(盲目的)

ギリシャ悲劇を自我と無意識の二つの特性を兼ね備えた総合芸術とする。ギリシャ悲劇を自らが演じるものとして、理想的な人間像 = 超人を見る。自我が欲望を完璧に操作している人間の意識構造。

キリスト教会に自らを預けるのでなく、自我の中にあるリピドーを意志する生き方がギリシャ悲劇の中にあるとする。

近代観念論哲学は、人間の主観が客観である世界の中に如何にして真理を見い出すかがテーマであった。ニーチェは、主観の中にある現象が全てであるという見解を示す。客観的な世界があっても、それは死の世界で人間には無意味であるとする。

主体(主観)の中にこそ、世界と美(真理)が意識現象として宿るという主張。

ギリシャ悲劇は、劇作家(主体)の中にギリシャ悲劇という客体があり、劇作家は自らの意識の内側で自らが悲劇を演じている。客観として見られる作品でなく、一人の人間の意識内で行われるドラマ。

『悲劇の誕生』においては、夢がアポロン的な予言・比喩として人間に智を齎すとしており、フロイトの見解と類似しているとする。

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○超自我
フロイトの思想では、無意識(エス)から自我の領域にかけて、欲動(リピドー)の他に超自我があるとする。

超自我は限りなく無意識であり、自我を裁く。超自我は命令形しかない。

超自我は、養育の過程で無意識的に帰属する共同体の文化や価値観が刷り込まれたものとする。幼児が言葉を覚えるように、超自我は構成される。

超自我は言語の一種として、無意識(エス)の中に沈み込んでおり、無自覚的に人間の思想・行動を縛る。

自我が超自我に支配されると、自らよりも弱い人間に攻撃性を向けるとする。超自我には価値観の裏付けが必要であり、複数の人間の超自我同士に共同幻想が生じると、守らなくてはいけない掟(集団の超自我)となる。

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ニーチェは、超自我化(共同幻想化)したルサンチマン(怒恨)が、時代を支配しているとした。原罪を持つ人間は、現世において幸福になってはならないとするキリスト教の思想。

ニーチェは、「善悪の彼岸」の視点から価値あるものを見い出す方法として「遠近法」を提唱する。あらゆる偏見を捨てて素直に物事を見る方法(デカルトの方法的懐疑、カントの超越論的認識方法やフッサールの現象学的還元と類似?)。

ニーチェは、宗教の持つ権力構造に着目し、そこにニヒリズム(虚無主義)の根源を見い出したとする。ニーチェは、イエス・キリストをユダヤ僧侶階級の腐敗を弾劾し、民衆を救うために宗教活動を行った人物とする。

イエス・キリストの死後にキリスト教会を打ち立てたパウロが、権力構造としての教会組織を構築したとする。人間には原罪があるという共同幻想を作り出し、原罪を浄化出来るのはキリスト教会のみとする。大衆を支配、教化するための理論。

以下は、Wikipediaの「セーレン・キェルケゴール」の記事へのリンク。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB

キルケゴールの父親は、自らの罪に悩み教会から免罪符を購入したとされる。キルケゴールは、キリスト教会が人々に植え付けた罪の意識は幻想に過ぎないとして教会批判を行った。

教会の所業は、死に至る病(罪という絶望へ人間を追い落とす事)であるとする。

ただし、キルケゴールはニーチェと異なり、イエス・キリストを宗教家でない唯一神とした。

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永遠回帰(自分自身を受容して生きる)を実現し、自我を強く自律して生きるべきとする。

以下の三段階。

①駱駝(汝なすべし)
一人前に行動出来るように、苦役に耐えて訓練する人生の比喩。

②獅子(我欲す)
文化を「汝なすべし」という龍に喩えて、それに対する自己主張する人間の比喩。

③幼児
上記の人生の過程を経て、自らの自由意志で行動するようになる。「我欲す」と意思表示するのと同時に、自らに対して「汝なすべし」と命令する。

自分が欲望を持つと、自分に対して犠牲を命令するという意識構造が生じるとする。人生の全ては、「今」に宿っており、どのような歴史も個人の意識の中にしか現象しない。

死後も魂が生きていて永遠の生が保証されるという死生観では永遠が手に入ることになる。しかし、永遠も回帰するのであれば、「今」に回帰する事になる。過去には過ぎ去った「今」があり、未来には永遠の「今」が待っている。

「今」とは必然の連続を示し、永遠が回帰するのであれば、それは「自分」という形でしか回帰しようがないため、自分自身を巣b手を許容して肯定しなくてはならない。別の人生は自分にとって有り得ない。

永遠回帰とは、自分の運命を全て肯定する思想であるとする。

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