インド哲学七つの難問

読んだ本の感想。

宮本啓一著。2002年11月10日第一刷発行。



哲学とは、人間が扱う論理の体系化であるとする?自然の営みである論理を反自然的に解釈する?人情を受容する異文化理解とは対極の関係にあり、文化相対主義(自らの帰属する文化への判断中止を強要する)とは無縁とする。

以下は、Wikipediaの「インド哲学」の記事へのリンク。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E5%93%B2%E5%AD%A6

<インド学>
英国の東インド会社が、1784年にインドの文物を研究する機関としてベンガル・アジア研究会を創立した事に端を発するとする。植民地化政策のための研究。法学、経済学、考古学、歴史学、ヴェーダ学、言語学、民族学、宗教学、文学、哲学を包括する。

言語学では、ヴェーダ語、サンスクリット語が欧州を構成する主要民族言語と起源を同一にする事を発見し、インド・ヨーロッパ語族という概念を打ち立てた。

日本においては、インド侵攻が計画された1942年にインド学研究者が動員されたとする。

<インド哲学>
インドにアーリヤ人が持ち込んだバラモン教は、神話や説話による祭式解釈によって宗教的儀式の実効性が高まるとした?ブラーフマナ文献群が生み出され知を重視する傾向が強まる。

紀元前八世紀頃には、祭式に纏わる世界の全てを知る事に意味があるとし、ウパニシャッド文献群が生み出される。数多くの論客が、宇宙の本質等について議論し、論争術が論証学へ発展し、人間が如何にして真理に到達し得るかについての考察から、紀元前後には演繹論理学の体系が完成した。

以下は、ウパニシャッドの二大哲人。

○ウッダーラカ・アルーニ
紀元前八世紀~紀元前七世紀の哲学者。
流出論的一元論:
世界の全ては、根本有(ブラフマン)が自己のみを契機として流出した結果である。
唯名論:
世界は名称によって多様に感じられるが、本質的には一つの「有」である。

○ヤージュニャヴァルキヤ
自己は認識主体であり、認識対象とはなり得ない。自己を認識しようとすると、自己を認識するための別の自己を生み出さなくてはならず、無限後退に陥る。

以下は、ヒンドゥー教を哲学的に表出する六つの哲学体系。

①ヴァイシェーシカ哲学
紀元前二世紀半ばに登場。
ギリシア哲学のカテゴリー論(概念の分類、定義、階層付けの普遍的規定)、原子論(物質は、それ以上分割出来ない最小単位である原子から成る)を引き継ぎ、文法学の影響の下に公理体系としてまとめた。多元論的実在論。全てのものは知られる(知覚や推論可能)し、言語表現可能。知られるし言語表現可能なものは全て実在する。

②ミーマーンサー哲学
紀元前後に登場。
ヴェーダ聖典の内、祭事部と言われるブラーフマナ文献群に対する解釈学を出発点とする。ヴァイシェーシカ哲学から多くを借りてきて多元論的実在論を展開。

③ヴェーダーンタ哲学
紀元前後に登場。
ヴェーダ聖典の内、知識部と言われるウパニシャッド文献群に対する解釈学を出発点とする。唯名論的流出論的一元論。

④ニヤーヤ哲学
二世紀に登場。
論証学、論理学を主要関心事とする。形而上学的側面をヴァイシェーシカ哲学から借用し、仏教論理学を批判。

⑤サーンキヤ哲学
三世紀~四世紀頃に登場。 
精神原理と非精神原理を峻別し、流出論的二元論を展開。

⑥ヨーガ哲学
ヨーガという瞑想法によって、サーンキヤ哲学の二元論哲学を解明しようとする。

<サンスクリット語>
紀元前六世紀~紀元前五世紀にかけて登場した仏教やジャイナ教等に対抗するため、バラモン教は先住民族の宗教と習合してヒンドゥー教となる。

その一方で、ヴェーダ聖典の学問的正当性を守るために、サンスクリット語(完成された言語)が作り出される。時代や地域によって変遷する自然言語であるヴェーダ語を、規則によって不動な人工言語とする。世界最古の公理体系。

以下は、Wikipediaの「サンスクリット語」の記事へのリンク。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88

インドの伝統的知識人は、サンスクリット文法学を学ぶため、文法学に由来する公理体系志向があり、哲学体系間の論争は公理体系同士の優劣を決定する凌ぎ合いとなる。西洋哲学のように、分析と綜合を繰り返す弁証法的発想法は希薄。

第一問 ことばには世界を創る力があるのか?
言葉が世界を創るというインドにおける共通感覚について。

宇宙の根本原理をロゴスにあるとし、自らの誓戒を守る事で、大願を叶える事が出来るとする。ヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教においても、誓戒という概念において徳目が規定される。

第二問 「有る」とは何か、「無い」とは何か?
唯名論と実在論の対立。

唯名論:
普遍概念は実在の対象を持たない名称に過ぎないとする。仏教や初期インド哲学。言葉や概念によって把握される世界は仮象に過ぎないとする。

実在論:
普遍概念は実在の対象を持つとする。ヴァイシェーシカ哲学等の多元論哲学。言葉や概念で記述出来ない真実の世界の否定。

仏教においては、経験的に知る事の出来る事実を出発点としない。形而上学的問題は水掛け論となるため、議論を避けた。仏陀の死後に、形而上学的色彩の濃い無我説が主張されるようになる。

○ヴァイシェーシカ哲学
世界の全てを言語で構築された論理空間の中で考える。以下の文法学的カテゴリー。

①名詞
実体のカテゴリーに対応。
②形容詞
性質のカテゴリーに対応。
③動詞
運動のカテゴリーに対応。

上記の三要件は具体的個物において不可分の関係にあり、内属関係と命名される。

【普遍】
個々の実体において共通する属性。牛、馬、机、ETC。階層性があり、牛は動物であり、動物は生物であり、階層性を上位にたどると最高の普遍は有性である。

【特殊】
実体を区別する属性。牛ではない馬や机から全ての牛を排除する属性。具体物を単一の事物として特定する作用。

【虚空】
波である音声を伝える媒体。単一の実体であるため、複数の実体に共通する属性である普遍を持たず、特殊だけがある。単一ではあるが、虚空性という属性を考える事が出来る。これは普遍ではなく添性と呼ぶ。

インド哲学においては、普遍の属性は考えない。普遍として、牛性があり、その属性として牛性性、牛性性性等を認めると、無限に属性が誕生するため公理体系が破壊される。

<インド実在論における無>
インド実在論においては、無を実在の存在論的に扱う。

抽象的な無を考えず、「この床に水瓶が無い」という文は、インドの言語では、「この床は水瓶の無を有する」と言い換えられる。

認識論を主体にする西洋哲学では、「真四角の円」という言語表現は、意義は持つが指示対象(意味)は持たないと考える。ヴァイシェーシカ哲学においては、「真四角の円」は、「絶対に有り得ない物として実在する物」と規定する。

西洋においては存在論全盛時の古代ギリシア哲学においては、「魂」という言葉が用いられたが、認識論的視点(方法的懐疑)を導入したデカルトでは「心」と言うようになり、ドイツ観念論では「精神」と言うようになり、フッサール現象論では「純粋意識」と言うようになり、懐疑が深まって確実に語れる領域が狭くなっていく。

ヴァイシェーシカ哲学は、唯名論において言語表現不可能な世界を認めないため、世界の在り方を厳密に規定可能とする。

<無の分類>
インド実在論では、八世紀以降、無を次のように分類したとする。

○関係無(~が無い)
 ・先行無(まだ無い)
 ・破壊無(最早無い)
 ・絶対無(絶対に有り得ない)
○交互無(~でない)

八世紀の哲学者クマーリアによる以下の例文。

生乳には凝乳が先行無として有り、凝乳には生乳が破壊無として有り、水瓶には布が交互無として有り、兎には角が絶対無として有る。

著者は、八世紀以前の関係無と絶対無を同列にする説を保持すべきとする。絶対無は時間を超越して無いのであり、時の流れによって有無が変化する関係無に包括すべきでないとする?

<知識について>
四世紀後半に、ニヤーヤ哲学者ヴァーツヤーヤナは、知識が成立するための四要件を示した。

①知識(認識)
②知識手段(認識根拠)
③知識対象(認識対象)
④知識主体(認識主体)

以下の知識手段

・知覚
感官と対象との接触。唯物論は知覚のみを認める。

・推論
知覚された事柄からの推理。仏教とヴァイシェーシカ哲学は知覚と推論のみを知識手段として認める。

・言葉
信頼出来る人の言葉。サーンキヤ哲学は、上記二つと言葉のみを知識手段として認める。

・類比
類似性を頼りにして、新しい知識を得る。例えば、○○が牛に似ていると思えば、牛から○○についての情報を類推可能。ニヤーヤ哲学は、上記三つと類比を知識手段として認める。

ミーマーンサー哲学とヴェーダーンタ哲学は、上記に加えて以下の二つも知識手段として認める。

・論理的要請
普通の推論とは異なる方法での変則的推論。「太っている○○は日中は食事をしない」→「○○は夜に食事をしている」。

・不知覚
無の知識手段。「この床に水瓶が無い」。

無の実在を認めない流派、無の実在を認めても無の知覚を認めない流派等、様々な思想があるとする。

第三問 本当の「自己」とは何か?
自己は心身と関わりがないとする。

インド哲学では、自己は身体や心、環境の中にあるが、それらとは異なるとする。自己は認識不可能であり、認識主体として世界の外部にある。

自己をあえて言語表現しようとすると、「○○は自己でない」、「××は自己でない」という無数の命題を連ねる事になる。

ヴァイシェーシカ哲学では、自己を含む世界の外部にある超越的存在を認めないため、自己は世界を透かして鏡のように映し出された写像とする。

第四問 無我説は成り立つか?
無我説は理論的には成り立たないとする。

紀元前八世紀頃に確立された輪廻説と無我説との対立。因果応報思想に支えられた輪廻説は、自業自得の主体となる自我の存在を論理的に必要とする。

輪廻の原因は欲望とされ、欲望を滅ぼせば輪廻という苦も無くなるとされた。

仏陀は、欲望を滅ぼすため、思考停止を目指す瞑想を行ったが、瞑想を止めれば欲望が出る事に疑問を覚え、欲望を抑え込むための苦行も、苦しみに耐える力が身に付くだけで苦しみを消し去る事は出来ないとした。

仏陀は、輪廻の原因を欲望を生み出す根本的生存欲(渇愛、無明)にあるとして、智慧を身に付ける事によって輪廻から解放されるとした。智慧とは、輪廻的生存についての根本的事実を繰り返し観察、考察し不動となった知識である。

著者は、無我説は我執から解放されるための実用的なものであり、理論としては立てるべきでないとしている。

第五問 名付けの根拠は何か?
名称を与える根拠として、「普遍」と「特殊」が実在論において要請された。

インド実在論の旗手であるヴァイシェーシカ哲学では、普遍を名称付けの根拠とした。

無数の個物に対して、例えば「馬」という名称を与え、そう呼ばれてしかるべき普遍的属性 = 馬性があるとする。馬を馬と呼ぶ根拠は馬性という普遍にある。

馬性は、牛を馬と呼ばない根拠 = 特殊としても機能する。特殊は、当該個体のみを顕わにする働きを持つ。

インド唯名論においては、名称付けは社会的取り決めによるものとする。

第六問 知識は形をもつか?
有形象哲学:
知識が形象を持つとする。人間は、外界を認識しているのでなく、心中に写し出された形象を認識するとする。無形象哲学との対比。

インド論理学においては、知識には以下の二段階があるとする。

第一段階:無弁別知
言語化されていない知識。対象情報が感じられるだけの状態。

第二段階:有分別知
言語化された知識。対象と、対象を限定するものとの関係性を複合的に把捉する知識。

知識には必ず内容が伴い、知識名称とセットになる。命題(ヴイシヤヤ)と命題を持つもの(ヴィシヤイン)の関係。

命題は、以下の命題構造の下に配置される。

限定されるもの ― 関係 ― 主要な限定するもの

上記の三つを結ぶ線は、同じ言語を共有する社会における暗黙の取り決めとなる。具体的には、限定される物として、目前の対象を視認し、その内属関係を把握し、主要な限定するものとして「銀性」を認めると、目前の対象物は銀であるという知識を入手した事になる。

知識の真偽は、知識に基づいて行為を起こして後に確定される。知識の真偽は外部から確定される。

主要な限定するものは「命題」であり、以下のような関係性との合致が真偽を確定する。

限定されるもの ― 関係 ― 限定するもの

上記の限定するものは、現実の物事である。

この図式の中には、知識と現実の間に介在する写像や表象、形象は想定されておらず、主観や客観を持ち込む必要も無い。

知識に添付される命題には文法構造があり、命題には命題構造があり、現実の物事にはその構造がある。社会の取り決めによる命題構造が現実の物事と一点を共有する。

第七問 どのようにして、何が何の原因なのか?
因果論の紹介。

以下の二つの因果論。

①流出論
世界は唯一無二の根本有から流出して発生したとする。世界の様々な結果は、根本原因である根本有の中に予め存在していたと主張。

②新造論
世界は無明の産物で幻影に過ぎないとする。かつて無かった物が結果として生じるとして、原因の中に結果が存在する事は無いとする。

<カントの二律背反>
カントは、大陸合理主義である形而上学に英国経験論を取り込んだ。そして、経験(感覚所与)を出発点としない議論は、同等の権利を持つ二つの主張に逢着するとした(時間は有限か無限か等)。そうした二律背反の主張を考察の対象外に置き、理性の暴走を食い止めようとする。

結果に原因があるとする流出論は、原因の原因を考えなくてはならず、原因を考えない新造論が宇宙論等で優位にあったとする?

<無分別知と有分別知の区別>
六世紀前半のヴァイシェーシカ哲学者プラシャスタパーダの著作『パダールタ・ダルマ・サングラハ』より。

テクスト1:
地、水、火の大きな三種の実体については、光、色等との接触による一揃いの原因がある時に、本質をただ眺める事がある。

テクスト2:
自己と意との接触から、普遍、特殊、実体、性質、運動という限定するものを持つ知覚が生じる。

テクスト3:
その場合、普遍と特殊について以下の知識が得られる?

知識手段:本質をただ眺める知覚
知識対象:実体等のカテゴリー
知識主体:自己

テクスト4:
普遍と特殊についての知識が生じる時には、分離されていない、ただ眺める事が知覚という知識手段である。この場合には他の知識手段は無い。結果を持たないからである。

「本質をただ眺める事」は、感官と接触した実体を限定するものを捉える知識、限定するものの知識である。本質とは限定するものである。「ただ」という用語は、最終的知識に至る中途の知識である事を示すとする。

眺める事としての知識は、それ自体が最終的な知識でありが、非確定知は「ただ」眺める事として、最終的知識を生み出し得るが対象の名称を知らないために中途半端で終わる知識である。

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