稲の日本史

読んだ本の感想。

佐藤洋一郎著。初版発行 平成十四年六月三十日。



縄文時代に渡来した熱帯ジャポニカの焼畑稲作と、弥生時代に渡来した温帯ジャポニカの水田稲作について。

著者は、縄文時代と弥生時代を明確に分けるのでなく、徐々に稲作が広まったとしている。縄文の要素とは熱帯ジャポニカと休耕田を活用した農法であり、弥生の要素とは近代の水田稲作とする。

第1時代:~紀元前4000年頃
稲の無い原始農業の時代
第2時代:~紀元前400年頃
縄文の要素が拡大した時代。稲作が日本列島南西部で広がる
第3時代:~1200年頃
弥生の要素が拡大した時代。水田稲作の技術が普及する
第4時代:~1850年頃
弥生の要素が定着した時代

第一章 イネはいつから日本列島にあったか
1989年に、青森県八戸市 風張遺跡から紀元前800年頃(縄文時代後期~晩期)の米粒が発見された。

縄文時代晩期後半(紀元前700年頃)になると、九州の一部には水田が登場するが、一般的に縄文時代の遺跡から水田が見つかる事は無い。

○プラントオパール
稲の葉の細胞に溜まったガラス成分(珪酸体)が地中から掘り出された物。稲科植物は、土中の珪酸を吸収する。有機物は分解されるが、ガラス質の珪酸体は土中に残留するため、過去の稲作跡の根拠となる。

以下の二例。

①青森県田舎館村 垂柳遺跡(弥生時代中期)
紀元前後に東北地方で水田稲作が行われた事を証明。それまで東北地方での稲作開始は八世紀頃とされていた。

②岡山県岡山市 朝寝鼻遺跡(紀元前4400年頃)
それまでの稲プラントオパールを2100年遡る。

縄文時代の遺跡におけるプラントオパールの検出例は、西日本を中心に三十にもなるが、水田は見つからない。著者は、縄文時代の稲作は焼畑によって行われたとする仮説を提唱する。

東南アジアにおいては、焼畑にて稲作を行っている事例がある。焼畑は三年周期で行うが、一年目の生産性は、籾収量で一ヘクタールあたり3.5トン。日本では2001年の収量は5.2トンなので、肥料や農薬等の投下エネルギーを考えると焼畑の生産性は高い。ただし、二年目、三年目の収穫量は減少していく。

○インディカとジャポニカ
二十万ともされる稲の品種を三つの遺伝形質により分類する。

遺伝形質①:
胚乳(米粒)のアルカリ溶解度
遺伝形質②:
中茎(稲を暗室で発芽させた時に延びる器官)の長さ
遺伝形質③:
籾の形(長さを幅で割った値が2.5以上であるか)

①インディカ
②ジャポニカ
(1)熱帯ジャポニカ
温帯に属する中国大陸中北部、日本列島を中心に分布。アルカリ溶解度が低く、中茎が長く、細長い籾。
(2)温帯ジャポニカ
熱帯に属するインドネシア、フィリピン等に分布。アルカリ溶解度が高く、中茎が短く、丸い籾。

ジャワニカという品種群もあり、熱帯ジャポニカをジャワニカ、温帯ジャポニカをジャポニカとする分類もある?

○DNAによる区別
以下の2つのDNA調査方法。

①葉緑素
細胞体の中にある葉緑素数が多く、葉緑体の中にも何十というDNAのセットがあるため取り出し易い。
②核
DNAの情報量が多い。

葉緑体DNAにおいては、PS-IDと呼ばれる部分を使用して、二つのジャポニカを区別可能としている。ジャポニカでは、四つの塩基(A、T、C、G)の内、六個のCと七個のAが連続するタイプである6C7Aか7C8Aのいずれかであり、熱帯ジャポニカはその両方があるが、温帯ジャポニカは6C7Aだけである。

***************

日本に野性の稲が無かったとする根拠は以下の通り。

①ジャポニカである事
ジャポニカ型野生稲は栄養繁殖性が強く種子の生産性は高くない。栽培化されて食料になるのは、気候の寒冷化等を考えなくてはならない。寒冷化によって植物が種子繁殖性を高めるケース。
気候寒冷化が発生した時期を紀元前1000年頃の縄文時代後晩期か、紀元前1万年頃のヤンガードリアスの頃とすると、稲渡来の時期としては遅過ぎたり早過ぎたりする。
②日照条件
野生稲が花を咲かせるには、短日条件―昼間の時間が短くなる条件を必要とする。野生稲を日本で栽培すると花を咲かせる事は少ない。日長条件は1万年の単位では経年変化せず、野生稲が古代日本にあっても栄養繁殖する系統であり、食料としては適当でない。

最古の稲作遺跡は、紀元前5000年頃の中国浙江省 可姆渡遺跡と羅家角遺跡であり、アジアにおけるいさ無くは数千年から1万年の歴史があるとする。

著者は、縄文時代の稲作を平地で行う混合農耕と考える?稲と粟や黍を一緒に植える。栽培される稲は熱帯ジャポニカに多いモチ米とする?

第二章 イネと稲作からみた弥生時代
青森県田舎館村 高瀬Ⅲ遺跡(弥生時代)から、熱帯ジャポニカの米粒が発見された話。同様の事例は多く、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカは混作されていた?

弥生時代に水田稲作が一気に普及したのでなく、開田と廃絶を繰り返していた可能性。

1995年に、静岡県曲金北遺跡から、約5ヘクタールの水田跡が見つかった事例。当時の収量を一ヘクタールあたり2000㎏(2000年現在の日本では5180㎏程度)とすると、5ヘクタールからは約1万㎏の米が取れる。大人一人が1年に食べる米の量を150㎏とすると、少なく見積もって70人ほどの人口を支えた事になるが、著者は米の消費量や栽培の手間を考えると不自然と感じ、休耕田の存在を考える。

そこで著者は雑草種子の数を調べる。現在の水田では平方あたり420個の雑草種子があり、古代農法を再現した田では1600個程度である。すると、97の区画の内、雑草種子の量が平方あたり2万個を超える区画が19あり、1600個を下回る区画が12あった。水田跡の全てが常時使用されていなかった事を示唆している?

○SSR領域
DNAにある遺伝情報を伝達しないのりしろ部分?稲の品種をSSRの型で判別可能とする。

250品種の温帯ジャポニカのSSR多型の内、RM1という領域について調べると、8種類の変形版があり、a~hと名付ける。中国には8種類全てがあるが、朝鮮半島にはbタイプが無い。日本の品種のほとんどはaかbで、少量のcがある。

これは、水稲が日本に伝来した時の稲が少量だった事を示唆している。さらに、朝鮮半島に無いbタイプが日本に存在する理由は、それが中国から直接渡来した事を示している。

稲渡来に関する以下の三つの波。

①縄文時代晩期(紀元前七、八世紀頃)
朝鮮半島から壱岐を経由して粒の丸い品種が渡来。
②縄文時代最晩期~弥生時代前期(紀元前四、五世紀頃)
中国から北部九州北岸域に渡来。短粒の品種。
③弥生時代前期~中期(紀元前二、三世紀)
長粒の品種を含む様々な品種が、有明海に入り、山陰地方から日本海岸に沿って北上。

弥生時代の稲作は、熱帯ジャポニカを含み、休耕田もあるなど、縄文時代の伝統を受け継いだとする。弥生時代の遺跡から出土した食料資源の種子を調べると、団栗が最も多く、稲が続く。弥生時代は稲作中心では無かったとする。弥生時代の人骨に含まれる炭素同位体比を調べると、米を主食とする人々と違い、海の動植物を食べた縄文人と近いとする。

また、考古学研究(第四七巻三号)に寄せられた樋上昇氏の論文では、尾張平野に限定してであるが、弥生時代の農工具とされた遺物の内、六割は土木具であったとする。木製農工具は過酷な稲作に耐えられず、田植えを伴わない簡素な稲作を実施していた可能性。

縄文時代前期に渡来した熱帯ジャポニカを焼畑的に栽培する縄文の要素が弥生時代にも残存していた?

第三章 水稲と水田稲作はどう広まったか
プラントオパールを分析すると、弥生時代から古代末(平安時代の終わり)とそれ以後で出土するプラントオパールの形に違いがあるらしい。温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカが混じっていたのが、温帯ジャポニカに揃う。

熱帯ジャポニカは、実体を失ったが個々の遺伝子は日本に残ったとする。

形質としての熱帯ジャポニカが無くなったのは、背が高く、葉が長い形質のためとしている(穂重型)。

①穂数型
背が低く短い葉で、小型で多数の穂がつく型。
②穂重型
背が高く長い葉で、少数の大型の穂がつく型。

穂重型は、葉が長いため、過繁茂の状態になり易い。すると、光合成が有効に行えないので生産性が低下する。日本では国家的事業による品種改良により、明治時代から100年で稲の背丈が約40㎝短くなったとしている。

温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカを比較すると、肥料が少ない状態では熱帯ジャポニカの方が収量が多いが、肥料を多くすると、過繁茂によって温帯ジャポニカの方が収量が多くなる。熱帯ジャポニカでは肥料を多くするほど収量が少なくなる。

2000年前の農法を再現した著者の栽培実験では、一反(10アール)あたりの収穫高は260㎏(橿原考古学研究所の実験では113㎏)。明治20年頃の収穫高は約180㎏であり、弥生時代から明治時代頃までの単位当たりの収穫高は160㎏~190㎏ほどの値で推移したのではないかと推測している(著者の栽培実験では休耕されていた土地を開いたため、高目の数値となった可能性有)。上智大学 鬼頭宏氏が、江戸時代の記録を調べると、江戸時代初期で126㎏、末期で135㎏。

肥料や除草等の水田維持は莫大な労力が必要であり、水田維持は支配者にとって重要である。東南アジアの焼畑地帯でインタビューすると、単位面積あたりの収穫量の概念が薄く、播きつけた種子の量あたりの収穫量として考えている。土地を支配した支配者の発想が、単位面積あたりの収穫量としている。

耕作者を土地に縛りつけるために宗教等の精神的縛りが活用されたとし、戸籍は寺に置かれ、菩提所が定められる。土地に対する執着心は、国家の意図を受けた寺という機関が管理したとする。

第四章 イネと日本人―終章
近代に入ってから単位面積あたりの収穫量は急増し、明治時代からの100年で約518㎏と3倍にもなっている。化学肥料の開発と品種改良、栽培技術の進歩。

著者は、弥生の要素が行き詰っており、多様性を維持するために混作をする縄文的要素復権を提唱している?

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