古代朝鮮と倭族

読んだ本の感想。

鳥越憲三郎著。1992年7月25日印刷。



以下は、「哀しき半島国家 韓国の結末」の記事へのリンク。

http://nonono7.blog12.fc2.com/blog-entry-1998.html

序章 古代の辰国と倭族
稲作を伴って日本列島に渡来した弥生人を「倭人」と呼ぶ。彼等の渡来は紀元前400年~紀元前450年頃の縄文晩期とされる。

中国大陸の倭人居住地は長江上流域の四川、雲南、貴州であり、新石器時代初期に雲南省滇地か湖畔にて水稲の人工栽培に成功したとされる。

黄河流域の民族が畑作農耕民として土間式建物であったのに対し、倭族は水稲農耕と高床式建物を特徴とする文化を持つ。長江流域以南への漢族による介入は、秦始皇帝の全国統一時、前漢武帝による征討であったとされる。倭族は、雲南から各河川を通じて東アジア、東南アジアに広く移動分布した。朝鮮半島を経由して日本列島に辿り着いたグループを弥生人としてみる。

山東半島にあった周代の東夷は倭族を指すと思われる。

紀元前473年頃の呉の滅亡を契機として、東夷の人々は朝鮮半島の中南部に亡命したと思われる。そして、倭族を軸とし、朝鮮半島中南部に存在した辰国は180年頃?に馬韓、辰韓、弁韓に分立し、三韓分立後も馬韓の辰王が三韓に君臨していた。東晋の時代には馬韓の名が消え、百済が生まれる。

Ⅰ章 朝鮮神話の系譜を探る
1 扶余族系の神話
朝鮮半島に存在する始祖が卵から生まれたとする卵生神話。

神話は民族の主権者の権威を高めるために作られるものであり、権力の背景にある社会構造の変化に伴って修正される可能性がある。神話が一般民衆に絶対的権威をもって受容されるには、社会を反映した内容でなくてはならない。

○狩猟民から農耕民に移行した民族の卵生神話
倭族の卵生神話を取り入れる。
高句麗:
紀元前1世紀末、ツングース系の濊族によって建国され、4世紀以降は鴨緑江を中心に中国東北部や朝鮮半島北部を領土とする。

百済:
中国東北平原の扶余国が4世紀前半に滅び、亡命した王子一派によって4世紀半ばに馬韓が討滅され、建国される。扶余族は黒龍江上流域のモンゴル系遊牧狩猟民が紀元前2世紀末に中国東北平原に南下して先住民のツングース系諸族を征服して混血し、主農半猟の民族になったとされる。

○最初から農耕民であった民族の卵生神話
倭族の卵生神話を継承。
新羅:
もとは辰韓と呼ばれた。『北史』列伝には、辰韓人は海路によって辰韓に辿り着いたとし、『三国史記』新羅本紀には、朴・昔・金の各氏が交互に王位を継承し、最後は金氏が王位を独占したとある。

駕洛:
加羅、伽耶、金官とも表記される。

扶余族の始祖である東明王は、大きな鶏卵のようなものが降りて来て身籠った侍女を母とする。高句麗の始祖である朱蒙も同様。神話の内容も似ている。北方遊牧狩猟民の神話は、始祖を聖獣とするのが一般的。

「扶余」は「鹿」を意味し、扶余族が黒龍江上流域に遊牧狩猟民として存在した時は、鹿を始祖とする神話を伝えていたと考えられる。東北平原に南下して混血し、農耕を主にする国家を建設した時に、変化に見合う神話を構築したと思われる。

2 徐国の神話
倭族の中で、卵生神話を伝える最も古い文献は、『史記』殷本紀にある殷の始祖についての神話である。呉に征服された東夷の徐国の卵生神話も『博物誌』徐偃王誌に記述されており、東夷の神話の原型と思われる。

神話内容が近似している事から、徐国の神話を原型とし、扶余国が参考にして、同族のために百済に伝わり、それが高句麗に影響したと思われる。

殷帝国や周代の文化が東北平原の諸民族に波及していくに連れて、王権の権威を高めるために神話が作り変えられたとする意見。

3 新羅の神話
朴、昔、金の各氏が伝える三つの卵が生まれる神話がある。三つとも神話が伝承されている事から、智證王による統一が行われる6世紀初頭まで三つの王権が並存していたと思われる。

『三国史記』には、王位を他姓の婿に譲位する記述が多く見られるが、併立していた三つの王統を一連の王系譜として纏めたためと推測される。

4 駕洛の神話
『日鮮神話伝説の研究』(三品影英著)には、大康年間の首露廟の祭儀的実修を投影した神話があるとされる。卵から偉大なる王への変身。

Ⅱ章 耽羅国の神話と歴史
1 神話はかくつくられる
朝鮮半島南西海上にある済州島は、耽羅国と呼ばれ、百済・新羅の属国となる国を形成していた。

高・良・夫の三氏族の発祥に関する神話。

『高麗誌』、『瀛州誌』、『南槎録』、『耽羅志』、『耽羅紀年』等。創作年代が最も古いのは、朝鮮王朝初期の14世紀末か15世紀初頭に記述されたとされる『瀛州誌』。

高乙那、良乙那、夫乙那の三神人が済州島の毛興穴から湧出し、狩猟生活をしている。東海の碧浪国から木箱が流れ着き、その中の鳥の卵の形をした箱の中に三処女がいる。年次の順に三神人が三処女を娶る。

生成する自然神の物語が無い事が神話が作られた時代の新しさを示している。

①碧浪国
『瀛州誌』では三処女は碧浪国から来たとしている。『高麗誌』地理誌、『南槎録』、『耽羅志』では日本から来たとしている。実在する国と神話を結び付ける事で神話の真実性を高め、主権者の神聖性を高める?

②氏姓
文献において初めて氏姓が見られるのは、『瀛州誌』にて、高麗王朝初代の太祖二十一年(938年)の入朝を示す記事。高自堅という高姓。著者の意見として、耽羅国の星主・王子の称号を持つ重職者は耽羅式の名を公的に用いたが、高麗と関係を持つ一般人は高麗式の姓名で記録されたとしている。

耽羅式の名前は、ツングース系の女真族の名前と共通する事が多く、著者は高・良・夫の三氏族はツングース系の高句麗か百済の支配階級の系譜を受け継ぐのかもしれないとしている。三神人が乙那といい、女真族の鳥乙那、吾乙那との関係する?高麗誌では、三神人の居住地を「第一徒、第二徒、第三徒」と記すが、女真族の「徒」は部族、または部族の居住地を示す。

2 作為された歴史
著者は、耽羅国が最初に新羅に入貢し、後に百済の属国になったとする記述を疑問とする。

済州島は百済の南海上にあり、地理的に不自然。『三国史記』新羅本紀での耽羅についての初見では、文武王二年(662年)に、百済の属国であった耽羅国が新羅の属国となったとする記述がある。百済から授かった「佐平」という位階を用いている。

662年は百済が滅亡する前年であり、さらに『新唐書』には耽羅国が百済から新羅に乗り換えたとする記述がある。

新羅との関係を強調するために、歴史的事実を捻じ曲げた可能性。『耽羅紀年』によると、耽羅国という国号の由来は、新羅の領域である耽津に上陸して入貢した事から生じたとあるが、『三国史記』地理誌には、耽津県は百済の冬音県であり、新羅の景徳王(742年~764年)の御代に、百済時代の地名であった冬音県を耽津に改めたとする記述がある。国号由来の記事の年代矛盾。

耽羅国の王は、「星主」という称号であるが、独自の称号である。『日本書紀』天武天皇二年(673年)には、耽羅国の使者が来た時に「佐平」という滅びた百済の称号を用いており、新羅から位階を授かっていなかったため、滅亡した百済の位階を用いていたとする。

「星主」という称号は、星辰崇拝に基づくものであり、新羅の影響が伺える。『高麗誌』によると、靖宗九年(1043年)に、星主という記述があり、それ以前は酋長と書かれている。耽羅国の歴史の冒頭において新羅から星主という称号を授かったとする『高麗誌』地理誌の記述は疑わしい。

著者は、最も古い『瀛州誌』が朝鮮王朝初期に記述されたものであり、新羅・高麗・朝鮮の流れを意識して朝鮮に向けて耽羅王の歴史の古さをアピールする意図があったとしている?

新羅に入朝して王の厚遇を受け、耽羅王として星主の称号を賜り、高麗王朝でも星主の地位が認められたとする捏造?

Ⅲ章 邪霊の侵入を防ぐ神々
1 馬韓伝の蘇塗
馬韓の特殊な習俗としての蘇塗が、『後漢書』、『三国志』、『晋書』に記述されている。円錐状に石を積み上げた塔を含む範囲。

済州島にもタプ(塔)と呼ばれる村の入り口に設けられ、悪鬼や病魔の侵入を防ぐ防邪塔がある。その頂きには、自然石の鳥の形象物が置かれている。

鳥の形象物を付けた木を「ソッテ」と呼び、四年毎に行われる祭りを「ソッテ祭り」と呼ぶ。「ソッテ」は「蘇塗」と関係を持つ呼称?

中国東北地方では「オボ」と称して、自然石を円錐状に積み上げた頂きに、神の寄り代となる楊等の聖木を立て、宗教的対象物にするのが見られる。馬韓を征服した扶余族によって習俗が伝えられた可能性。

百済から属国の耽羅国 = 済州島に伝わる?

2 チャンスンの性格
チャンスン:
京機道(旧百済の北部地方)を中心伝わり、村の入り口に乱石を低く積み、その上に「天下大将軍・地下女将軍」と墨書された二本一組の杙と、木製の鳥の形象物を先端に付けた木を立て、周りに注連縄を廻らせた宗教的対象。

日本においては、665年に近江国神前群に400余名、669年に700余名の亡命百済人が住み着いたとする記録があり、それらの地域では、「ダイジョウゴ」と呼ぶ祭りが行われる。大将軍が訛ったもので、大将軍という杙が当時から立てられた傍証とされる。

さらに、村の入り口に置く鳥の形象物や人面杙、注連縄の習俗は、倭族の進行に由来するとする(『原弥生人の渡来』、『雲南からの道』)。中国雲南省からタイ、ミャンマー、ラオスにかけて住むアカ族の風習。

倭族に属する民族に共通する注連縄を張り渡して邪霊の侵入を防ごうとする習俗。弥生時代には村の門に鳥の形象物が置かれ、神社の鳥居となったが、アカ族でも村の門に木製の鳥を置く。アカ族では、村の門の根元にヤダ・ミダという祖先像を置き、日本では塞ノ神と呼ばれる自然石を村の入り口に置き、後に男女を示す道祖神を峠や橋の袂に置くようになる。

3 ソンドルの習俗
ソンドル:
沃川群(旧百済中部の綿江流域)に伝わるチャンスンの原型?自然石を村の入り口を挟んで置く。

石は先端が尖ったものが男性、穴が開いていると女性を示すと伝えられる。村の出入り口に邪霊の侵入を防ぐ注連縄や立石を置く習俗は、倭族が稲作を伴って朝鮮半島中南部に渡来した時に伝わったと思われ、当初は立石を性別で見る事は無かったかもしれない。

4 石人像の由来
トルハルバン:
済州島による溶岩で作られた帽子を被った石像。

文献では、『耽羅紀年』英宗三十年(1754年)にある翁仲石が初見である。本土の仏教石仏の影響を受けたデザイン。

頭巾形の帽子は、済州島が元の統治下にあった時代の蒙古帽を真似たとする説がある。本土の石仏の帽子は朝鮮式帽子で、頭巾形ではない。

日本遠征を計画した元が、遠征基地にするために、済州島を高麗から分離させて耽羅国として属国にした記録がある(1275年)。日本への遠征計画が放棄されると耽羅国は高麗に返還されたが、支配中に良馬の産地となっていた耽羅国は元の支配下となり?1374年に高麗が蒙古人を駆逐するまで所有権をめぐる争いがあったらしい。

済州島の名刹と呼ばれる仏教寺院は元によって建立されたとされ、風俗習慣に及ぼした影響があるのかもしれない。

Ⅳ章 堂信仰と蛇神
1 聖林としての堂
1000年頃に、耽羅王朝の一派である夫氏が設村したとされる兎山里。集落には、村の守護神が鎮まる聖林があり、兎山堂と呼ぶ。倭寇に強姦され、死んだ娘の怨霊が蛇神になって祭られているとする。

儒教を国是とした朝鮮王朝以降は、済州島に派遣された最高官の牧使等の官吏達は、堂を淫祠として蔑視したとされる。国から保護されずに、巫覡達が生計に追われ、精神的・宗教的に自己を修練する事が出来ずに低俗した事から、堂信仰に迷信的、呪術的要素が導入されたとする。

2 農耕神としての蛇神
聖林の神は、特殊化される前の普遍的神の属性を持つとして特殊化されていない?特殊化されるとは、名前を持ち、性別も明らかにして、他とは異なる個体として独立する事。

現代では、神を目に見えない抽象的・観念的に捉える。古代社会では神を可視化して具象的・客観的に捉えるために、現人神が必要とされる。

宗教観念の発展に伴って、個として特殊化された神の由来や系譜が語られ、神話が作られる。

3 兎山里事件の解明
倭寇によって兎山里の娘が強姦された話について。

済州島は、倭寇の碇泊拠点であったと思われる。日本において戦国時代が終了する頃に、済州島の防備施設が充実し、倭寇の進出も無くなったとしている。

著者は、『耽羅紀年』にある1552年の記事を兎山里の事件と結び付ける。済州島東南部に初めて倭寇が侵入した記録。

著者は、済州島の特性として、国家の宗教政策の下で管理保護されるべき村々の堂が、国家体制の埒外に置かれたために、自然神から人格神に昇格しなかったとしている。

朝鮮王朝は儒教を国是として、理論に拘泥する朱子学を基本とした。反論する儒者は済州島に流罪されたとして、男尊女卑の儒者の指導により堂が儒教的祭式で行われるようになったとしている。一方では儒教教育を受けない女性が旧来の祭儀を行う珍しい体制。

女性を引き止める方法として、呪術的要素が取り入れられ、蛇神と化した娘を合祀するようになったとしている?

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