康熙帝の手紙

読んだ本の感想。

岡田英弘著。2013年1月30日 初版第1冊発行。



主に、清朝の4代皇帝 康熙帝から皇太子 胤礽への手紙?ガルダン・ハーンとの戦争中に書かれており、アルタイ語系の満州語で記述されている。

康熙帝がイエズス会士から数学等の講義を受ける際に、厳密な論理に従う学問用語として、漢語は明晰でない上に習得が困難であるため、イエズス会士 ジョルビヨンとブーヴェに満州語を習わせたとする記述が面白かった。豊富な語尾変化を持つ満州語は、論理を辿るのに向いていたらしい。

⇒おそらく、中国で数学等が発達しなかった原因(結果?)。ポイントは、そうした欠陥を持ちながらも、漢語が東洋において支配的な言語になった理由だと思う。

以下は、Wikipediaの「康熙帝」の記事へのリンク。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E7%86%99%E5%B8%9D

以下は、Wikipediaの「ガルダン・ハーン」の記事へのリンク。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3

以下は、「やる夫が独裁君主になるようです 第一話」へのリンク。雍正帝に関する話だけど、康熙帝の話も書いてある。

http://inzainewtown.blog.fc2.com/blog-entry-1062.html

【女真族と八旗】
中国東北部に居住した女真族は、定住型狩猟民として毛皮や朝鮮人参を漢族に売る事を生活の基本にし、清朝の太祖は明との交易許可証を持った事で支配力を強めたとする。

狩猟時の統率者を「牛彔額真」と呼び、清朝の太祖ヌルハチが、狩猟単位を戦闘単位に編成し、300人を1牛彔、5牛彔を1甲喇(1500人)、5甲喇を1固山(7500人)とする軍制を作る。固山は「旗」を意味する。ヌルハチが可汗に即位する頃には、400の牛彔 = 12万人の兵力があったとされる。

狩猟の際には、「旗」を目印にする。獲物を追い込む場所を予め決めておき、黄色の旗を立てる。鳥獣を狩り出す勢子が三隊に分かれて包囲を狭める。中央は藍旗を目印とするグループで、左右は紅旗と白旗。当初、「旗」はこの四つだったが、ヌルハチは即位直前の1615年に八旗に増やしている(新しい旗に縁取りをつけた)。

八旗は軍団であると同時に人民の所属集団でもあり、女真族全員が八つの「旗」の何れかに所属した。

八旗に帰属する旗人は、兵役・労役等の義務を負い、農工商業に従事せず、官員・兵丁を出す特権階級とその領民となった。

*************

中国西部 ジューン・ガル部の4代目族長ガルダン・ハーンは、チベットの高僧 ウェンサ・トゥルクの転生体と認定される。

ウェンサ・トゥルクは、ハルハ・モンゴル(*1)の指導者 ジェブツンダンバ・ホトクト1世(1635年~1723年)の師匠である。ジェブツンダンバ・ホトクトは、北モンゴル最高位の仏教指導者であり、1911年のモンゴル独立の際には転生後のジェブツンダンバ・ホトクト8世が元首に推薦された。

(*1)北モンゴルにあるモンゴル部族で、その範囲・住民は現在のモンゴル族に相当するらしい。

ガルダンは、オイラト族(*2)の出身であり、1644年にチベットの高僧 ウェンサ・トゥルクと認定された。1656年からチベットに留学し、1662年に師匠であるパンチェン・ラマ1世(1570年~1662年)が亡くなると、ダライ・ラマ5世(1617年~1682年)に師事し、1666年、23歳の時に帰国した。

(*2)西モンゴルのモンゴル系遊牧民で、チンギス・ハーンの子孫でない首長が率いる諸部族の連合。

ガルダンは、1671年にはジューン・ガル部族長となり、1678年にはダライ・ラマ5世からボショクト・ハーン(天命を受けた王)の称号を授けられ、北アジアを一丸とする仏教帝国の建設に乗り出す。

*************

17世紀後半に、ハルハ・モンゴルにて発生した内乱がガルダンと康熙帝の争いの原因となる。

ハルハ・モンゴル宗家ジャサクト・ハーン家と、分家であるアルタン・ハーン家の争いに端を発する。1662年に、分家であるアルタン・ハーン家がジャサクト・ハーン家の領地に侵入。中国貿易の要所を確保する目論見?宗家の反撃を受け、ジェブツンダンバ・ホトクト1世の兄であるチャグンドルジ・トゥシェート・ハーンが宗家を援護する形で介入し、その結果としてジャサクト・ハーン家を支配するようになる。

ガルダンは、宗家であるジャサクト・ハーン家が傍系のトゥシェート・ハーン家に支配されている状態を不快に思い、ジャサクト・ハーン家から、トゥシェート・ハーンに寝返った旧人民の返還を要求。

1686年に清朝 康熙帝が調停に乗り出し、ジャサクト・ハーン家とトゥシェート・ハーン家の和約が成り立ち、旧人民の返還が実現する。しかし、講和会議に出席したジェブツンダンバ・ホトクト1世が、ダライ・ラマ5世の名代と対等に振る舞った事をガルダンが問題視する。

ジェブツンダンバ・ホトクト1世は、ガルダン・ハーン(ウェンサ・トゥルク)の前世における弟子である。その弟子が、ガルダン・ハーンの師匠であるダライ・ラマ5世の名代と対等である事は間違っているとする。

そして、講和会議後もジャサクト・ハーン家とトゥシェート・ハーン家の争いは継続し、1688年にガルダン・ハーンの軍がトゥシェート・ハーン家の軍を破る。

ガルダンは、清朝に亡命したジェブツンダンバ・ホトクト1世とその兄であるチャグンドルジ・トゥシェート・ハーンの引き渡しを清朝に要求する。ジェブツンダンバ・ホトクト1世は、ダライ・ラマの権威を蔑にした不埒者であるとした。康熙帝は、旧来の友好関係を理由に引き渡しを拒否。

ガルダンは、清朝に対して示威行動を起こすようになり、1690年には北京の北方300㎞にあるウラーン・ブトンの地で衝突が発生する。この戦いではガルダン側が勝利し、南モンゴルにおける清朝の威信が傷つく事になる。

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清朝は、1691年にドローン・ノール会議を開催。北京の北方約360㎞の地にあるドローン・ノールは、元のフビライ・ハーンが上都という夏の帝都を建てた所である。

康熙帝は、南モンゴルの諸部族やハルハの首領達をドローン・ノールに集合させ、謁見式を行った。各首領達は清朝の爵位をうけ、清朝に帰属する事になる。

ハルハ人は清朝の臣民となり、康熙帝はガルダンから北モンゴルを奪回する大義名分を手にした事になる。

しかし、ガルダンの本営は、アルタイ山脈東麓のホブドの地にあって北京から3000㎞も離れており遠征には不利だった。農耕民の軍勢は、耕作を休んで出掛けるために出動する毎に収穫が減る。遊牧地帯の自然に耐えるために莫大な犠牲を覚悟しなくてはならない。

そして、1695年に、ガルダンがモンゴル高原を東に進んでケンテイ山脈を越え、ケルレン河上流のバヤン・ウラーンの地に本営を置いた。北京から1000㎞の場所で遠征可能であった。

康熙帝は、以下の三回のモンゴル遠征を決行する事になる。康熙帝自らが出陣する中で、北京に残って政務を代行したのが皇太子 胤礽であり、康熙帝は胤礽に手紙を幾度も送っている。

一回目:
1696年春に98日間に渡って行う。

二回目:
1696年秋~冬にかけて行う。一回目の遠征で逃げ延びたガルダンを追跡。ハンダイ山中のタミル河畔からオンギーン河にある清朝の食糧貯蔵庫に向かうガルダンを追う。

三回目:
1697年の春から夏にかけて行う。チベットへの亡命を狙うガルダンを討伐する。

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