加害者は変われるか?

読んだ本の感想。

信田さよ子著。2008年3月25日 初版第一刷発行。



加害・被害という関係性は、かつては公の場でしか扱われなかった。現在では、加害・被害の関係性は、職場、学校、家庭にまで波及している。

以下の変化。

・傷つく事への敏感さが増した
・自己責任とされてきた経験が、被害と名付けられるようになった

それまで夫婦喧嘩、家庭の不和等と名付けられてきた関係性を異なる視点から見るようになる。日本における契機は、1995年の阪神大震災である。震災の被害者がPTSDを発症する事例が見られ、被害者支援が注目されるようになる。

米国においては、1970年代にベトナム戦争帰還兵に行われた補償が契機?

個人の自助努力や家族のケアでは解決出来ない精神的被害が社会全体で共通認識された。

2000年には児童虐待防止法が、2001年にはDV防止法が制定された。家庭内における加害・被害の関係性が公的に示される。法律が家庭に介入しなくては防止出来ない暴力の存在が認定された。

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加害・被害の関係性には、当事者性が必要である。しかし、子供が虐待されている場合、苦痛を感じても、被害を受けている自覚が無い場合がある。その場合は、第三者が当事者となる。

児童虐待防止法は、2003年に改正され、通報義務が明文化された。第三者も虐待という判断 = 定義が可能な当事者であり、義務を有する。傍観者も加害者となった。

親子間の虐待における加害者の以下の分類。

①当事者性を持つ親
加害者としての自己意識を持つ。カウンセリングに訪れるのは、このタイプであるため?1990年代半ばまでは、虐待する親の典型例と思われていたらしい。
②当事者性を持たない親
加害者としての自己意識を持たない。第三者からの通報によって虐待が発覚する。虐待は習慣になっており、危険性に気付かない。
②´当事者性を持たない親
子供に関心が無い。

家庭内における親は最高権力者である。親の思考によって家族という小世界は支配される。自らの思い通りにする事が躾けと思っているなら、日常化した虐待が行われているのかもしれない。

虐待を防ぐには、親の心構えや愛情不足を指摘するだけでは不十分。社会全体として熟慮した計画を立てて、ネットワーク内のメンバーが役割分担して迅速に行動する事が大切。子育てに不安を感じる親を孤立させるべきでない。

家庭内における虐待にて散見されるのは、無関心な父親である。そうした人間にとって、家庭は人生の一部分であり、関与しなくとも思い通りになる家庭が理想的なのかもしれない。思い通りにならない現実に対しては暴力が発生するが、無視する事も暴力の一種であり、現実を否認する行為である。

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機能不全家庭で生き残る以下の戦略?

①病気の症状を呈して親よりも困った子供になる
②非行集団に加わる
③親を支える

上記③の戦略を選択した場合、自我意識が形成される前に他者の欲望を満たす事を優先する習慣が根付いてしまうため、成人後に問題が浮上する。

3歳~6歳までの幼児期は、あらゆる事の中心に自分が存在するという天動説的世界を生きる。快感は「自分が素晴らしいからだ」という因果による意味を形成し、そのように世界は秩序立てられる。

逆に不快感は「自分が駄目だからだ」という自らを否定する因果律を形成し、それによって世界を説明してしまう。否定的自己認知は過剰な罪悪感や責任感に繋がる。免責性の承認が必要である。

自らを被害者であると定義付けると、憎悪や怒りに苛まれる事がある。そうした感情は肯定されなくてはならないが、表出方法に注意が必要である。加害者は加害記憶を喪失するため、加害者に謝罪させようという試みは裏切られる事になる。

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家庭における「親」の立場には、親心や愛情といった「正義」が付与されている。親は自らを加害者として認知せず、愛情深く正しい躾けをしたと思う。それに異を唱える事は許されない。家庭における「状況の決定権」は親に属している(M・フーコー:権力とは状況の定義権である)。

親子関係を加害・被害というパラダイムで、権力関係というフィルターを通して把握する事は、常識や良識からの反発を招く。正義を付与されている親への反略を意味するからだ。虐待の自己認知は、反常識の立場に立つ事を意味する。中立に思える意見も、親の依拠する良識であり、無自覚に加害者側に立つ事を意味していたりする。

中立的立場 = 偏らない意見は、両者の力関係や格差を無視している。非対称の個人間での中立的地点は、強者の側に寄っている。

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被害者の側に加害者意識があり、加害者の側に被害者意識がある。加害者の主張は単純で、「自らの暴力には理由があり、その理由は被害者にある、自分は我慢してきた」というものだ。

この主張の問題点は、暴力行為とそこに至る過程を一連のものとしているところで、暴力という行為と、そこに至るまでの過程を分離する事で責任意識から、解放する必要がある。

「それに対して立腹したとしても、○○という手段を実施した方が良かったはずです」

虐待における加害者の言葉は裁判官のようで、自分の判断は正しく、従わない他者が間違っているという価値基準が構築されている。評価者である自分を疑わない。状況を定義する権利が一方にだけ委ねられており、これは権力関係である。

DV加害者の意見には、以下のように矛盾する2つの目的がある場合がある。

①伴侶を取り戻すために、反省している自分をアピールする
②自らの被害者性を承認して欲しい

伴侶を取り戻したいが、伴侶に対して怒っている。他者に共感するのでなく、他者からの共感を求めている。定形句は「お互い様」、「夫婦は五分五分」。これは最大の譲歩であり、自らが被害者であるにも関わらず、五分五分まで譲歩しているという思考である。

加害者の意見から、自らは正義の履行者であり、当然なされる事を要求しているだけだという主張が汲み取れる事がある。自分は正しい → 自分の言う通りにしない家族は間違っている → だから怒るのは当然 → 悪いのは自分ではない、という順序で意見が構成される。
そして、怒った結果の行動の有効性には触れない。正義の基準を自らが決定しているが、彼等は自分が「状況の決定権」を持っていると自覚せず、自明の「常識」に従っているだけと思う。彼等は常識の根幹にある自らの信念体系を疑わない。

ここで彼等に対して、正しいか誤っているかという正誤のパラダイムで主張する事は、彼等の主張と同一である。二項対立的パラダイムを越える必要がある。

著者は、加害者側の夫の意見を聞くと、彼等が妻に母親を求めているように感じる時があるとしている?自分の発言が受容される事が大切で、相手がどのように感じるかは関心の外だ。彼等にとって妻は思い通りになる存在であり、どのような自分でも受容するべきである。母は敬愛の対象でなく、踏みつけて貶めても自分を受容してくれる存在である。

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『心的外傷と回復』(J・L・ハーマン著)には、残虐行為の被害者の質問は、以下に集約されるとしている。「何故」と「どうして自分に」である。自らの苦痛が無意味である事に耐える事が出来ない。

・信念内の矛盾を避けようとする
・他者の行動理由を説明し、予測しようとする

単なる謝罪では被害者の世界は再構築されない。加害行為の理由は○○である、○○だから被害者となった、という被害の意味付けによる合理性の回復が世界を再構築させる。

家庭内における虐待には、加害者側の論理によって意味付けされる事が多く、「お前が悪い」、「殴った側の手だって痛い」という発言によって因果関係が加害者によって定義される。

加害者は絶えず被害者の側にいて、被害者に対して自らの論理を説明する。自分と同じ考えを持ち、自分の思い通りになる事を相手に求める事が彼等の愛情だ。

そうした世界観によって世界を構成してしまうと、自分が何者であるかは加害者が決めるという感覚に支配される。そうした世界観から脱却するためには、自らが被害者であり、相手が加害者であるという世界観の転換が必要となる。

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