人類5万年 文明の興亡

読んだ本の感想。

イアン・モリス著。2014年3月25日 初版第一刷発行。





東洋と西洋の社会発展の歴史。

東洋:ユーラシア大陸コアの東端に位置し、
   二番目に早く発生した社会
西洋:ユーラシア大陸コアの西端に位置し、最も早く発生した社会
社会発展:社会が物事を成し遂げる力

モリスの定理:
変化は、怠惰で貪欲で不安にかられた人々が、手軽で安全で利益の多い方法を求める時に齎される。

黙示録の五騎士:
・飢饉
・疫病
・野放図な移住
・国家の失策
・気候変動

⇒社会を破壊する要素。

以下の問い。

①西洋が他地域よりも発展している理由
②18世紀からの200年で西洋が地球全体を支配出来た理由

上記の問いに回答するため、著者は「社会発展」を測定し、歴史の全体像とするグラフを作成。

以下の3つのツール。

①生物学
人間は環境からエネルギーを引き出して活用し、好奇心を持ち、個体差はあるが集団差は少ない
②社会学
社会変動を齎す原因を説明。怠惰や貪欲が進歩を引き起こす可能性
③地理学
地形による歴史の相違について説明

Ⅰ 黎明 東西世界の誕生
第1章 「東洋」と「西洋」の生まれる前
人類の誕生からの概説。

モヴィラス・ライン:
紀元前160万年頃に発生したユーラシア大陸東西での考古学的に異なるパターン。西洋の手斧文化と、東洋の剥片石器。

この辺りは、遺跡の発掘や技術進歩によって意見が変化し易いと思う。

西洋の特徴として、数万年前に描かれた洞窟壁画が発見される事がある。洞窟壁画は西欧州の紀元前1万1500年以前の壁画しか発見されていない。紀元前1万年頃に世界的に気温が上昇した事が原因?寒い時代の暇潰し?2009年には中国で鹿の角に描かれた紀元前1万3000年頃の小鳥の絵が発見されており、氷河期の芸術は世界的現象かもしれない。

第2章 西洋がリード
紀元前1万年頃から世界的に気温が上昇し、定住生活が始まる?

西南アジアのティグリス川、ユーフラテス川付近で定住の証拠を示す証拠が見つかっている。農業が始まり、人口が急増する。

この辺りも研究によって意見が変わる事だと思う。農業の波は、紀元前5200年までにポーランドからパリ盆地に押し寄せ、バルト海周辺の狩猟民に押し留められるが、紀元前4200年には北上を開始している。

東洋においては、米作が紀元前8000年頃に長江流域で行われ、雑穀は紀元前6500年までに中国北部で栽培されるようになる。

西南アジアの地理的優位性が農耕開始時期を早めた可能性。栄養価の高い種子を持つ56種の植物の内、32種は西南アジア、地中海沿岸に自生する。世界には45キロ以上の大型動物が148種類おり、1900年に飼育されていたのは14種だが、7種は西南アジア原産である。

タイムラグはあるが、東洋でも西洋でも犬の家畜化や植物栽培、筆記、生贄、都市建築等の同じ様な事象が発生している。その順序もほとんど同じで、西洋が東洋よりも2000年ほど早い。

第3章 過去を測る
以下の要因によって社会を測定するとしている。

①エネルギー獲得量
②都市化
③情報技術
④戦争遂行力

上記の指標によると、2000年時点では、日本人の年間エネルギー消費量は3800万キロカロリー、人口の66%が都市部に居住し、一人当たりのインターネットホスト数は73台、軍事力については国際戦略研究所の年次報告書に記載されている。

著者は、2000年頃の到達可能な各指標の上限値を250点とし、合計で1000点とする。各時代の各地域に点数を付与。どのように付与するか、どれほど頻繁に点数を出すか、どこを測定するか等の問題が発生。

⇒過去になるほど、正確な数値を算出不可能である事は著者も自覚しているらしい

グラフでは、1世紀頃に西洋のピークがあり43点前後に達し、1100年頃には中国の宋朝において42点が記録されている。1700年頃には東西の指数は両方とも40点前後に下がり、その後は停滞せずに上昇している。

現在の状態が継続すると、東洋の社会発展指数は2103年頃に西洋に追い付き、2150年頃に追い越すらしい。

Ⅱ 興亡 文明隆盛と衰退の法則
第4章 東洋の追い上げ
紀元前1万4000年頃から紀元前5000年の間に西洋の社会発展指数は2倍になった。農耕は灌漑を必要とし、組織を形成した。何をすべきか教えてくれる神へアクセスするための神殿も築かれる。

しかし、紀元前2200年頃には西南アジアやナイル川流域の降雨量が減少し、混乱が発生。それでも社会発展指数は上昇し、紀元前2000頃の数値は紀元前3000年頃の1.5倍である。

混乱が社会発展に影響しなかった理由は、周縁部の発展がある?辺境が発展したものの、支配者の権威は軍事力に頼り、神性を主張しなかったとしている。
紀元前3000年頃には社会発展には大河流域へのアクセスが不可欠だったが、紀元前2000年頃はそうでもない。やがてメソポタミア北方の新しい国は二輪戦車を戦闘に利用する事となり、ヒクソス人が紀元前1674年頃にエジプトを支配し、紀元前1595年にはヒッタイトがバビロニアを滅ぼす事になる。

地中海が新たなフロンティアになり、長距離交易の発展が地中海という水路の価値を高めた?

紀元前1250年頃の西洋の社会発展指数は24点で、紀元前5000年頃の3倍近くに達した。この頃に西洋コアでは人口の減少が始まっている。辺境の発展による戦争の激化があったのかもしれない。紀元前1000年頃には社会発展指数は、紀元前1600年頃の数値に戻っている。

東洋における王権は紀元前3000年頃に形成され、宗教的シンボルの発生は紀元前2500年~紀元前2000年頃とされる。紀元前1200年頃には二輪戦車が使用されるようになり、社会発展指数は西洋の破綻によって東洋に追い上げられるようになる。

第5章 接戦
社会発展指数は、紀元前1000年~100年の間に、東西で1.5倍に達している。

紀元前1000年頃に、東西両方において、ハイエンド国家戦略(支配者が権力を掌握するが、莫大な収入が必要)から、ローエンド国家戦略(支配者が権力を手放すが、莫大な税収を必要としない)への転換が発生。

しかし、紀元前800年から紀元前500年には、偏西風等の影響で気温や湿度が低下した。混乱に対応するため、ハイエンド国家戦略への転換が発生。公式イデオロギーとして、仏教や儒教、etcの宗教や哲学が採用された。

紀元前200年には、東洋と西洋の共通点が多かった。単一の大帝国が支配し、公式イデオロギーが発生し、大都市や交易網があった。

第6章 衰退と崩壊
社会発展指数は、紀元前1世紀から紀元後1世紀のピークを過ぎ、東洋では400年までに10%、西洋では500年までに20%低下している。帝国の崩壊が発生。

紀元前200年に継続的な軌道変化が発生し、ローマ温暖期が始まった。それは寒冷地に適応した社会を変化させる。

第7章 東洋の時代
541年に東洋の社会発展指数が西洋を上回る。700年には東洋の指数は西洋の1.3倍になり、1100年にはさらに差が拡大した。

東洋の発展の原因は、300年以降に黄河流域が分裂国家の戦場となり、何百万人もの人々が南方に逃れた事にあるとする。長江南部の納税登録者数は、280年から464年に5倍になり、稲の種類の多様化や移植栽培等が行われた。

380年代に中国北部が荒廃すると、少数民族である鮮卑が北魏を設立し、439年に華北を統一。鮮卑はローエンド国家であり、南部の都市を侵略するだけの舟や攻城兵器、補給部隊を組織するリソースが無い。略奪可能な北部を統一してしまうと、支持者の忠誠を買うために、ハイエンド国家に移行する必要が出てくる。

480年代に、北魏の孝文帝は全ての土地を国有化し、鮮卑の衣服を禁じ、30歳以下の廷臣には漢民族の言葉を話すよう義務付ける等の改革を行った。文化の戦いは内戦へと発展し、534年に北魏は近代的な東魏と伝統主義の西魏に分裂。

東魏は、漢民族を将軍に任命する等して西魏に対抗し、集権化したハイエンド国家が誕生(581年にクーデターによって隋となる)。589年に隋の文帝は艦隊を設立して長江流域を支配し、南部を制圧。

隋は長江と華北を結ぶ運河を築き、次の王朝の唐では科挙が行われた。

西洋においてもビザンティン帝国のユスティニアヌス帝が527年に帝位に就いて西洋コアの再統一を行おうとしたが、蛮族の単一連合が豊かで弱い南部を制覇した中国と異なり、豊かなビザンティン帝国が貧しいが強い蛮族の王国を征服するには無理があった。

文帝が華南を征服した時には20万人を動員したが、ユスティニアヌス帝が551年にイタリア戦争に動員した兵力は2万人である。しかも、それによって獲得したのは荒廃した土地であった。

その後、イスラム教徒が地中海に進出するが、西洋を統一するほど強力ではなく、西洋の停滞は700年頃まで続く。

***********

900年以降は、地球の軌道変化により、偏西風等が弱まった結果、900年~1300年に平均気温が0.5度から1度上昇し、降雨量は10%減少した。その結果、寒冷湿潤の欧州北部の人口は2倍になり、高温乾燥のイスラム圏の総人口は10%程度減少。

大運河の無い欧州は交易網を発達させなかったが、教会主導で農耕が盛んになる。

東洋においては907年に唐が滅亡し、960年に宋によって再統一されている。中世温暖期は中国の多くの地域を潤し、中国の人口は1100年には1億人を超え、社会発展指数は古代ローマの水準まで上昇。

第8章 世界へ向かう
12世紀には、宋の首都 開封の陥落や南北貿易の破綻等により、中国社会は停滞していた。13世紀にはモンゴル軍の侵略や飢饉と疫病等により、東洋と西洋の差は縮まろうとしていた。

モンゴルの交易網整備によって、鋳鉄製の道具等の技術移転が発生しているが、疫病も蔓延した。1世紀頃の西洋と同様に、東洋の社会発展指数も43点の壁を越えられずに破綻した。

西洋においては、15世紀のチュルク人の侵攻を契機に軍備競争が始まる。王以外には銃のような先進技術を活用出来ず、国王の権限強化が行われた。官僚制を強化し、国民から直接税を徴収して銃を購入。

西洋の新コアは、戦争によって発展し、東洋コアは中国古代の中心部から整えられた。この時代においては、短期的には中国の鎖国政策は正しかった。米国大陸の発見は意図したものではなかったし、鄭和の航海は莫大な無駄とされた。

西洋のルネサンスと同様の事象は、900年頃の中国においても発生しており、漢朝の文献や絵画の研究が行われた。11世紀の中国と、15世紀の欧州においては、両方とも蛮族に支配された過去を超えて、輝かしい古代を振り返っていた。

しかし、ヴァイキング達が800キロメートルを超えずに米国大陸に到着出来るのに対し、中国人がカリフォルニア北部に到達するには8000キロメートルを航海しなくてならない。地理的条件によって、11世紀の中国は米国大陸を発見出来ず、12世紀には中国のルネサンス精神は後退していた。

12世紀の中国では、朱子学が盛んになり、富裕層の男性の間では纏足等の風習が広がった。1148年の記録には、女性の纏足は最近始まったと書いてある。文化的保守主義は経済的苦境の現れかもしれない。経済的に栄えていた11世紀は過ぎ去った。

第9章 西洋が追いつく
東西の社会発展指数は、1750年には43点を超えた。

1500年からの300年で、東洋の社会発展指数が10点上昇したのに対し、西洋の上昇はその2倍であった。

16世紀に東西両方で導入された新大陸からの作物は人口を増加させた。東洋においては、中央集権化が解決策であり、西洋においては新大陸活用が解決策だった?

西洋においては、古代の言語は指針足り得ず、新しい解決策が求められた。近代哲学の誕生。自然の観察によって古代人の結論とは別の結論に達する。自然は欲望や意図を持つ機関で無く、機械的である。

国家も機械とみなされるようになり、観察と論理が神の意思を理解する道具であるなら、政府を運営する道具にもなる。理性が尊ばれ、啓蒙思想が流行。絶対王政への反抗。

中国においても、1630年代には東林書院等では、古典でなく自らの判断による追究が奨励され、1644年に清が成立すると、多くの知識人が満州人のために働く事を拒否した。
1640年代には、医師が疫病流行に直面して、症例を集め、現実の結果に対する理論の検証を強調。推論よりも事実を重視するアプローチは考証と呼ばれた。

⇒東洋でも西洋でも社会発展指数が43点前後で停滞した時代の知識が通用しなくなっていた。どの時代もその時代に必要な思想を手に入れる

新大陸を開拓する必要のあった西洋と異なり、東洋では新思想の必要性が薄かった?清の支配者は革新的思想を野放しにする危険性から、知識人を国務に使用するようになる?康熙帝が編纂した古今図書集成は80万ページに及び、続編の四庫全書は3万6000巻に及ぶが、同時代のフランスの百科事典のように全てを根底から覆すものでなかった。

考証はキャリアへの道になってしまい、国家の僕となる魅力が伝統的思想を学ぶインセンティブとなった。清は大陸内部(ステップ)を開拓する事で発展したが、根本的変化は必要とされなかった。対して、西洋のように小競り合いをしている地域では、新技術が導入され易い。

第10章 西洋の時代
蒸気機関の普及が西洋の優位を決定づけた。

ローマと宋において失敗した社会発展指数40点を超えた。識字率は人口の20%以上になり、都市や軍隊の規模は100万人を超えた。

以下の要因。

①技術蓄積
②銃の発達による治安安定
③航海術の発展による交易網

18世紀の西欧州は、王権が弱く、商人の自由度が高かったため、特に英国は革命を起こすのに最適だった。

1750年代には、東西コアは類似性があり、サミュエル・リチャードソンの『クラリッサ』や曹雪斤の『紅楼夢』のように、文化的類似性もあったとしている?しかし、1850年には類似性は押し流されていた。

自由市場が発達し、何を着るか、誰を崇拝するかが、どのような仕事をするか等について、従来の規則や決め事が生産性や市場成長の妨げになるなら、変えなくてはならなかった。

個人は個人の支配者となり、農奴やギルドへの法的規制は揺らぎ、宗教はに代わってナショナリズムや社会主義等が信仰される事となる。

19世紀初頭の中国の小説には、同時期の欧州の小説に頻繁に登場する自己主張の強いヒロインや上昇志向の強いヒーローは登場しない(例外?鏡花縁:商人の男性が女性となり纏足させられる)。

西洋がそれまでと異なるのは、市場化が世界の他の地域にも同化を強いる事であった。多くの活動を取り込まなくては産業は死んでしまう。

東洋も西洋の技術を取り込み、社会発展指数が高く、植民地とならなかった地域が産業化を遂げるようになる。1900年には西洋と東洋の社会発展指数の比率が2.4対1だったが、2000年には1.6対1になっている。

国民が全面的に戦争に関与する自由民主国家の普及は、前例の無い大規模な戦争を引き起こす。王朝帝国は統治形態として戦争に耐えられなくなった。

Ⅲ 未来 歴史が指し示すもの
第11章 なぜ西洋が支配しているのか……
西洋の優位性は地理にあったとしている。新大陸までの距離が短く、資源活用の面で有利。

人類の歴史は、氷河期の終わりによって狩猟採集民が成功し、その成功を支える資源を確保するために農耕が始まり、その負荷が村を都市や国家に変える。国家が資源の問題にぶつかると帝国に変化し、ステップや海洋を支配。帝国は資源の負荷によって産業国家に変貌した。

社会発展指数の上昇は、社会発展を損ねる力を生み出す。社会が限界に近づくに連れて、発展と破綻のレースが始まる。

以下の社会発展指数の限界:

24点前後:
紀元前1200年以降、西洋が停滞し破綻した水準

43点前後:
ローマ帝国や宋の限界

以下の思想。

枢軸思想の第一の波:
24点の天井を超えるために、社会を再編する思想。中央集権国家 = 帝国を構築。個人の超越性と神聖な権威との関係。

枢軸思想の第二の波
キリスト教やイスラム教、仏教等。組織化された教会が、混沌した世界で信者を守る。

⇒中国では1000年頃、イタリアでは1400年頃に、失われた枢軸時代の叡智を回復する思想が生まれる。国家の復活が、かつての中央集権国家時代の思想を必要とした。

以下の事象。

第一次旧世界交換:
ローマ帝国と漢の台頭により、商人とステップの遊牧民族によって東西が結び付いた。

第二次旧世界交換:
1000年頃の宋や西洋との交流。

第12章 ……今のところは
未来の予測。東洋が西洋を追い越すか予測するのは困難。

グローバル化が齎した奇妙な現象。中国は膨大な経常黒字を米国債に投資する事により、米国の消費を助けている。この関係は、配偶者の一方のみが貯蓄と投資を行い、もう一方が支出を行う関係である。この奇妙な関係をチャイメリカと呼ぶ。両者とも離れる事が出来ない。

世界経済を繁栄させる唯一の方法は、西洋化 = 自由で民主的である事と主張しても、東洋の力が伸長すれば見解は覆るかもしれない。東洋では、近代性の鬩ぎ合いが生じているという意見。

21世紀後半の中国中心の世界は、西洋世界とは異質になるかもしれない。この辺りの予測は錯綜している。

***************

社会発展が過去と同様の伸びを示す場合、東洋と西洋の社会発展指数が交錯する2103年には、21世紀を通じて4000点程度上昇する(紀元前1万2000年から2000年までの指数上昇は900点程度である)。

もし、4000点の社会発展指数上昇が実現する場合、2000年から2050年にそれまでの1万5000年分の2倍の上昇があり、2103年にはさらに2倍になる。

1億4000万人の都市において、住人一人当たりの消費カロリーは一日平均130万カロリーになる。戦争遂行能力が2000年時点での5倍になる状態や、情報技術が5倍になる状況は想像し難い。

技術特異点によるブレークスルーが無ければ、社会は破綻するかもしれない。それは1万年間に渡る東洋と西洋のカテゴライズを無意味にする?地理が意味を持たなくなる可能性。

発展と破綻のレースは既に行われている。どちらにしても2050年までに大変革が発生する事になる。

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