お江戸の小判ゲーム

読んだ本の感想。

山室恭子著。ニ〇一三年二月二〇日第一刷発行。



以下は、東京都公文書館のWebサイトへのリンク。

http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/

江戸時代の政権が定期的に、債務不履行を引き起こし、経済を活性化させていたという意見。

P159~P161にかけて説明されている承認のジレンマが、重要だと思った。

<前提条件>
商人が10人いる。一人当たり2枚の小判を保有。小判が流通する毎に、小判1枚あたり1の利得が発生する。一方で小判を保有している = 貯蓄すると0.5の利得が発生するとする。

その結果は、下表の通り。全ての小判が使用されると、全体で20の利得。一人当たり平均2.0の利得となる。しかし、一人の商人が1枚の小判を貯蓄すると、全体の利得は19.5(流通による利得19 + 貯蓄による利得0.5)となり、一人当たり平均1.9の利得となる。この場合、小判を貯蓄した一人の商人は、2.4(流通による利得1.9 + 貯蓄による利得0.5)という平均以上の利得を手にする。
2枚とも流通させる商人1枚は貯蓄する商人 
人数1人あたり利得人数1人あたり利得全体の利得
102.00-20.0
91.912.419.5
81.822.319.0
71.732.218.5
61.642.118.0
51.552.017.5
41.461.917.0
31.371.816.5
21.281.716.0
11.191.615.5
0-101.515.0


上記の表のように、小判を1枚は貯蓄する商人は、貯蓄する事により、平均以上の利得を手にする。しかし、貯蓄する商人が増加すると全体の利得は低下していく。10人全員が1枚は貯蓄する商人になると、全体の利得は15.0となり、貯蓄をしても平均以上の利得は享受出来なくなる。

こうして全体の利得が低下していく状態を打破するために、定期的に貯蓄を分配する必要がある?

第一章 お江戸の富の再分配
江戸時代においては、約50年に一度は、借金の棒引きが行われていた。

1746年(延喜3年)、1797年(寛政9年)、1843年(天保14年)。

借金の破棄は、長期的経済サイクルの中に位置づけられていた。『江戸幕府財政資料集成』によると、天保時代の勘定奉行は、金銀の融通のために債務破棄すべきとしている。富の再分配のための債務放棄。武家から商人へ年々移動し、固定化して流通しなくなった富を武家に再分配する。以下の事情。

公儀:
武家の借金を解消して政府を安定させる。
武家:
節約をしても、数代の間には債務超過に陥るため、定期的に者金をリセットしなくてはならない。
商人:
武家が窮乏すると、商人も商品を売れなくなる。

以下の再分配策。

○直接配分
商人から武家に直接富を移動する。

(1)債務破棄
・棄捐令
 債務は木を明確に宣言する
・金銀訴訟不受理令
 貸借に関わる訴訟を受理しない
(2)債務緩和
利率を下げたり、年賦で返済する条件を緩和する

○間接再分配
商人から武家に公儀経由で富を移動する。

(1)会所経由
公儀の肝入りで設立した「会所」を経由して富を移動させる。例として、松平定信は寛政元年(1789年)に猿屋町会所を設立。棄捐令によって営業不振に陥った札差に資金援助するため、江戸の豪商7名から3万3000両を出資させた。豪商→会所→札差→武家の流れで資金を移動させた。寛政3年(1791年)には、町会所を設立し、江戸の町から総額2万5000両を毎年積み立てさせて町人の互助組織とした。公儀の出資に依存していた飢饉等への備えを商人の資金で賄う。商人から公儀への資金移動。

(2)公儀経由
商人から公儀へ御用金を上納させる。

⇒享保、寛政、天保と直接再分配から間接再分配へと移行している。会所経由の資金移動は、寛政の時は数万両規模だったが、天保になると数十万両の規模になる。直接的に資金を移動させるより、公儀が媒介となった方が感情的反発が少ない?

当時の商人達は、信用取引の保証を公儀に依存していたとされ、金銀訴訟不受理令が定められた1720年(享保5年)には、商業に支障をきたすとの嘆願書が提出され、10年後に撤廃されている(この時以降、金銀不受理令の完全な実施は行われず、発令時以前の案件に限っての不受理となる)。

信用取引に関する訴訟の審議、裁定、etcには膨大な費用が必要とされ、そうした国家システムに商人達が依存していた事が、国家システムを維持するための債務放棄を実現させていたのかもしれない。

商人への課税は、徳川創業以来の非課税の伝統や、物価上昇への懸念があり実施困難。無税である代わりに50年に一度の再分配が行われる?

第二章 改革者たち
寛政元年に行われた債務放棄の実施について。

<会所設立>
寛政元年(1789年)に、江戸の札差96名に、債務放棄が言い渡される。

①武家への貸付金の利息を年利18%から年利12%に引き下げる
②会所を新設し、必要な資金は貸し付ける
③6年前(1783年以前)の借金は全て帳消しにする
④5年前の借金は年利6%の年賦返済とする
⑤etc

撰要類集によると、松平定信の懸念として、以下があったらしい。

①今まで上限以上に貸していた分が道理に外れた事になる
②公の場で借金するようになっては恥という武家の根幹が失われる

懸念への解決策として、禄高100俵あたり30両までを貸し出すという基準額を裏ルールとして設定したり、取引のある武家の名前をリストとして公儀に差し出すようにするという条件の明文化等。

著者の考えとして、当時の日本は負債のリスクを背負いながら国家を支えている名誉を手にする武家と、蓄財の機会に恵まれる代わりに国恩にただ乗りしている商人という2つのバランスによって成立していた。武家が名誉を手放すと、均衡が崩れてしまうとしている。

<町会所設立>
1790年(寛政2年)に勘定奉行から提案された物価抑制案が発端。全ての商品を2割引にするよう命令する。世間全体で2割引になるなら誰も損をしないという理屈。

それを受けた松平定信の提案として以下の段階を踏んだ物価抑制策。

①町入用の削減
町入用(地主が支払っている町の共益費)の削減によって、地主に余裕を作る
②地代店賃の削減
地主が徴収する地代店賃を1割~2割削減する
③物価引き下げ
地代店賃を支払っていた商人達に、物価を1割~2割引き下げさせる

上記の案を勘定奉行にて検討し、さらに町入用の削減についての政策として、町内で資金を融通するための町会所の設立が帝産される。

1790年(寛政2年)8月に町入削減用の検討をした結果の報告として、町入用は4割削減可能。その削減分を勘案すれば地代店賃を1割5分削減可能というもの(町会所一件書留より)。

上記の試算の結果、5万2000両程度の余剰資金が発生する事になり、松平定信は町の余剰資金をプールするための基金を設立する構想を思いつく。

しかし、1790年(寛政2年)8月に再調査すると、総額54万両の地代店賃の内、町入用は15万両。これでは町入用を4割削減して6万両を浮かせたとしても、地代店賃を1割5分削減するとマイナスになってしまう。

そこで案を改定し、町入用の削減だけを命じ、削減額を確定してから地代店賃値下げと積立金捻出を行う事にする。その結果、削減総額は3万9030両となり、地代店賃値下げは中止される。

削減総額の7割は積立金、2割は地主の取り分、1割は町入用予備費となった。各町からの納入金が市中に流れる事となる。

1842年(天保13年)の勘定奉行 岡本成の意見として、貧民救済や飢饉対策の資金を新税によって賄おうとしても人心が承服しない。町入用を節約して積立金に回す発想が必要であったとしている。

第三章 お江戸の小判ゲーム
1715年(享保元年)に行われた享保改鋳、1736年(元文元年)に行われた元文改鋳、1819年(文政元年)に行われた文政改鋳に関する話。

<享保改鋳>
改鋳により、以前の元禄小判の通用期限を翌々年とした。しかし、1730年(享保15年)には前令を覆して古い小判の流通を認めている。商人の協力が得られなかった。

<元文改鋳>
それまでの享保小判100両と引き換えに元文小判165両を渡すというもの。金の含有量を87%から67%と品位を落とした事による措置。しかし、市場での売買貸借については新旧区別無く流通させるようにしたため混乱が生じる。

商人から嘆願により、割合通用が認められる事となる。

公儀による威嚇や警告があっても、商人達の納得や協力が無くては通貨価値を決定出来なかった。

<文政改鋳>
同額通用を認め、旧貨幣と新貨幣の価値を同じくする状況を作り出した。新貨幣がある程度流通した1824年(文政7年)に古金銀停止を触れ出す。

以降の天保改鋳や安政改鋳においても同額通用や古金銀停止が行われている。

貨幣全体の供給量を増やしても、高額な小判等の流通は促進されない。小額貨幣を流通させる事で経済を活性化させる政策があった?改鋳は、新貨幣によって退蔵されている貨幣を引きずり出す政策である。

終章 日本を救った米相場
米相場によって物価が安定した話?

幕末の物価を調べると、1864年(元治元年)の物価を100とすると、1865年(慶応元年)から米価が上昇し、1866年(慶応2年)9月には基準時点の10倍である1002となっている。

この時期に行われたのは、幕府と長州の戦争であり、1866年(慶応2年)7月18日の石見浜田城、8月1日の豊前小倉城落城等により、江戸幕府の権威失墜が発生し、既存貨幣の信任が落ちた事が原因とされる。

しかし米価は1867年(慶応3年)4月の961から5月の624へと急落する。幕府の権威は失墜したが、米は貨幣ほど保存が出来ないため、退蔵にも限界がある。

その後、米価は安定する。相場の価格安定機能が作用したものと思われる?

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