はじめての言語ゲーム

読んだ本の感想。

橋爪大三郎著。2009年7月20日第1刷発行。



ヴィトゲンシュタインの哲学についての説明?

【前期ヴィトゲンシュタイン】
『論理哲学論考』について、以下の7つの命題。

①世界とは、かくある事の全てである
②かくある事、すなわち事実とは、事態が存立している事である
③様々な事実の論理的写像が、思考である
④思考とは、有意義な命題である
⑤命題とは、要素命題の真理関数である
⑥真理関数の一般形は、〔 p,ξ , N(ξ)〕 である
⑦語り得ぬ事については、沈黙しなければならない

上記①、②は、世界が様々な事実から成る事を述べている。
上記③、④は、世界が思考に反映して文章になる事を述べている。
上記⑤、⑥は、命題の性質や条件 = 論理学について述べている。

上記①~⑥は、世界と言語が一対一に対応している事を示し、上記⑦には、その事以外を述べてはならないとしている?上記⑦が記述された事により、上記①~⑥は述べてはならない事になる?メタな矛盾を示す?

『論理哲学論考』は、世界は事実によって成り立っており、思考は文章で表現可能としている。世界(事実の集合)と言語(文章の集まり)が対応する(写像理論)。

以下のように解釈可能?

(1)世界は、分析可能である
(2)言語も、分析可能である
(3)世界と言語は、互いに写像関係にある
(4)以上、(1)~(3)の他は、言語表現不可能 = 思考不能である

分析可能とは、それ以上は分けられない要素に還元出来るという意味である。より分解可能かもしれないが、意味ある物であれば分解しなくて良い。例えば、薔薇は分解しなくとも要素と考えて良い。

以下は、『論理哲学論考』のポイント。

①言語と世界が一対一に対応する
名前は物と対応する。文章は出来事と対応する。文章は、対応する出来事の有無によって真偽が定まる。

②集合論
「一対一対応」、「要素」は集合論の用語である。世界を『論理哲学論考』の中に表現する試み?

【後期ヴィトゲンシュタイン】
言語は、世界と一対一に対応しないとする。

直示的定義:
世界との対応が失われた言葉を、個々の事物と結び付ける事で対応させる試み。
例えば、「机」という言葉の意味が失われた場合、現実の机を持って来て、指差して「机」と定義する。それでは、世界中にある「机」の一つしか定義不可能なので、「机」の本質を指差す必要がある。「机」の意味が失われた状態で、「机」の本質を定義する事は不可能だ。

<言語ゲーム>
規則に従った人々の振る舞い。上記の直示的定義では、人間同士が互いの言葉を理解出来る事が不可解になってくる。誰もが本質を理解出来ぬまま、似ている事を根拠(家族的類似)に分類がなされる。

人間には、有限個の「机」を見ただけで、その他の対象にも当て嵌まる規則を理解する能力があるとする。「机」の規則を記述出来ないが、理解は出来る。

社会は、そうした無自覚の規則に従った多くの人間によって成立している。社会は、言語ゲームの集合である。

言語は、言語ゲームに複数の人間が従う事で、意志疎通の道具たり得る。言語と事物が結び付く保証は、多くの人間が規則に従う事である。

前期ヴィトゲンシュタインは、写像理論によって言葉が意味を持つ事を定義した。後期ヴィトゲンシュタインは、言語ゲームを根拠とした。考えるな、見よ。

根拠の無い言語ゲームが、根拠の終点である。言語ゲームによって意味や価値が保証されるから、世界に根拠を考える業から逃れる事が出来る?

H・L・A・ハート(法哲学者):
法とは、一次ルールと二次ルールの結合である。

一次ルールは、責務を課すルールである(文章化されない自然規則)
二次ルールは、承認・裁定・変更のルールである(文章化された規則)

一次ルールに言及するのが、二次ルールである。

どのような社会にも一次ルールは存在するとする。困った事態が誰の責任で生じたのか追及する言語ゲームだ。人々が法律に従う事が法律の基本であり、法律が文章化される事は二次的である。

法律を法律として記述する事は「承認」である。記述された法律によって社会が進行していく事が「裁定」である。そして記述された法律は「変更」する事が出来る。

このような関係は、一次ルールを言語ゲーム、二次ルールを論理学と考えると、ヴィトゲンシュタインの哲学と似ている。こうした思想を「法のルール説」と呼び、国家が強制的に法律に従わせる「法の命令説」と区別する。

「法のルール説」では、法律は人々の承認によって正統性を確保するため、国家も法律に従わなくてはならない。

*************

<悟りの言語ゲーム>
仏教を言語ゲームの観点から考える。仏教徒は、宇宙の真理を覚る = 認識する事を重視する。真理 = 法 = ダルマを覚ってブッダ(覚った者)になる事が仏教の目的である。

覚りがどれほど価値がある状態なのか分からないのに、価値があると信じて必死に修行する。言語ゲームを実行していると、言語ゲームの実在が存在し始める。

多くの人間が修行を実施する事で、覚りが実在し始める。

釈尊の死後、釈尊の悟りを信じる人々がサンガという集団を作る。やがて、出家してサンガの一員となる事を否定する大乗仏教が出現する。釈尊が生きた時代にサンガは無かった。在家でも条件を整えれば覚れるとする?

大乗仏教は、サンガを完全否定した訳ではないので、小乗仏教を一部として含む事になる。これはユダヤ教とキリスト教の関係に似ている?

<本居宣長の言語ゲーム>
江戸時代の思想について。

江戸時代は、下剋上を否定する儒学が奨励された時代だった。特に朱子学は正統性を重視するのに都合が良かった。

しかし、儒学の原則は、教育を受けた者は誰でも政治に参加可能である。身分制に縛られた江戸時代とは違う。

朱子学:
南宋の朱熹(1130年~1200年)の学説。科挙を正当化し、知識人を政治に参加させるべきとする?モンゴルの侵入で滅亡しかかっていた南宋における学説。

武士(軍人)が政治を支配する江戸時代の状況は、朱子学の原則と正反対である。そこで、現状を肯定したうえで、朱子学を取り入れる必要がある。以下の三人の学者。

①山崎闇斎(1619年~1682年)
天皇による承認を幕府の正統性の根拠とした?
②伊東仁斎(1627年~1705年)
③荻生徂徠(1666年~1728年)

朱子学は、孔子孟子の原典ではなく、宋代の中国社会に合わせた解釈である。宋代の中国は春秋戦国時代と異なり、官僚制が整備されていた。

そこで、日本の実情に合わせて儒教を実施すれば良い。伊東仁斎、荻生徂徠は、朱子学を批判して、孔子孟子の原典に帰るべきとした。

山崎闇斎の天皇による承認を幕府の正統性の根拠とする思想は、大政奉還の下地となった?

本居宣長(1730年~1781年)は、朱子学の枠を取り払い、儒学が日本に渡来する前から、天皇が日本の統治者であると証明しようとした。国学の起こりである。

本居宣長は、万葉仮名のような独特の表記を残し、口承伝承を含む「古事記」を重視した。そして、「古事記」以前の日本は、統治者の命令によって文字テキストを使用しなくとも、人々が自発的に道に従ったとした?

これは一次ルールと二次ルールの関係に似ている。

本居宣長によると、天皇は儒教が渡来する前から日本の正統な統治者であり、天皇に従う事は当然のルールであるとしている?日本には、他国と事なる言語ゲームの蓄積があり、どのような言語ゲームに属するかは、歴史的偶然である。

*************

写像理論と言語ゲームの違い。写像理論では、言葉と世界は無条件に対応している。言語ゲームでは、言葉が世界を指示して意味を持つのは、人々がそのように振る舞うからである。言語は、それ自体では存在しない。

こうして後期ヴィトゲンシュタインは、価値や意味を「語り得ぬもの」として排除する必要が無くなった。

人気ブログランキングへ
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

ABCDEFG

Author:ABCDEFG
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード