飛鳥の都

読んだ本の感想。

吉川真司著。2011年4月20日 第1刷発行。



7世紀の日本の歴史について。601年(推古九年)は、聖徳太子が斑鳩宮を立てた年であり、701年(大宝元年)以降は年号による紀年が行われる。7世紀は飛鳥時代とも呼ばれ、中央集権国家建設や、中国からの文化が流入した時代である。

7世紀に王宮が営まれた飛鳥は、飛鳥集落、飛鳥川、ミハ山、飛鳥丘に囲まれた、南北約1キロ半、東西約500メートルの狭い地域である。

第一章 飛鳥の王法と仏法
1 飛鳥寺創建
崇峻元年(588年)に、飛鳥真神原において、倭国初の本格的寺院の建設が始まる。寺院の完成は、推古四年(596年)とされる。本尊の完成は、609年頃であるらしい。

飛鳥寺は、一塔三金堂という高句麗の清岩里廃寺に似た形態を持つが、百済の王興寺に源流を求める意見がある。飛鳥寺でも王興寺でも、塔基壇の地下に心礎があり、舎利容器が納められている。

大化元年(645年)に、蘇我本宗家を滅ぼした改新政権は、飛鳥寺に僧尼を集め、蘇我氏が主導した仏教興隆を天皇が引き継ぐと宣言する。天武九年(680年)に大化の造仏援助策が打ち切られ、天皇が経営する寺院を国大寺に限ったが、飛鳥寺は例外として同じ扱いを受ける事になる。

飛鳥寺は、日本最初の瓦葺き建築である。創建時の飛鳥寺では、百済の瓦に酷似している素弁蓮華紋の軒丸瓦が用いられた。瓦には以下の二種類があり、別のグループが作ったと思われる。

①花組
蓮弁の先端に切り込みを入れて桜花状にする型。飛鳥寺近傍の瓦窯で焼かれ、中金堂等の伽藍中枢部で用いられた。7世紀第1四半期に創建された豊浦寺金堂、斑鳩寺金堂、四天王寺の瓦にも使用されている。

②星組
蓮弁の先端を角張ったままにして点珠を置く型。葛城地方?で製作され、中門や回廊に用いられた。蘇我氏、上宮王家に関わる寺院(豊浦寺、奥山廃寺、軽寺)の瓦にも使用されている。

⇒飛鳥寺造営に関わった技術者は、畿内各地に派遣され、様々な文化を伝えたと考えられる。観勒(推古一〇年-602年に百済から暦法、天文を伝える)、曇微(推古十八年-610年に高句麗王が派遣し彩色、紙墨、碾磑の技術を伝える)等。技術者達は、僧侶として飛鳥寺に止住したと推定される。観勒の名前は、飛鳥池木簡にも見られる。

2 アジアの中の推古朝
飛鳥寺創建には、百済と高句麗の援助が必要とされた。その背景には6世紀後半のアジア情勢がある。中国では581年に隋が建国され、589年に中国を統一する。朝鮮半島では新羅が台頭し、551年には漢江流域に進出し、562年には加耶全域を領有する。

高句麗は新羅に対抗するために、570年に倭に使者を送る。高句麗は589年に隋にも攻められ緊張状態が続く。隋を中心とする国際秩序の形成に倭も影響される事になる。

倭国においては、天皇が権力の頂点として、部民(領民)が権力の基盤となっていた。王権には畿内を本拠とする豪族達が臣従し、上級豪族は大夫と呼ばれ、国政審議に携わる。王族や豪族の権力基盤は部民制である。

6世紀の倭国では、父子直系が皇位継承のあるべき姿とされ、天皇を父に持ち、皇女(歴代天皇の娘)を母に持つ人物だけが直系と認められたという説。本来ならば、蘇我氏を母に持つ天皇は一代限りの傍系であるが、推古朝の政権中枢部は、蘇我色の濃いものと想定される。

推古八年(600年)には、新羅との戦争、遣隋使派遣と倭国の外交が動いた年であった。新羅との戦争は任那復興、遣隋使の目的は仏法と礼儀の受容による倭国の文明化や新羅への牽制と考えられる。

3 小墾田宮の王権
倭王朝は、推古十一年(603年)に新羅侵攻中止を決めると、儀礼整備に乗り出す。同年には王宮を豊浦宮(甘樫丘の北西)から小墾田宮(飛鳥寺北方)に移す。遣隋使の影響により、儀礼空間としての王宮が整備された?

さらに、同年には冠位十二階が制定され、推古十三年(605年)には、聖徳太子の命令で、諸王・諸臣の全てが「摺」を着用する事になる。摺は、天武十一年(680年)まで用いられる男性装束である。唐制に近い律令衣服制の形成。

須恵器も、推古朝頃には金属器を模倣した形態が出現し、蓋に宝珠形の摘みが付くようになる。これらに、礎石建ち・瓦葺きの建築を加えると、衣食住の全てに文明化が始まった事になる?

4 二つの王家
聖徳太子の宮が置かれた斑鳩は、飛鳥の北北西十五キロほどの所にある。飛鳥と難波の間を大和川を通じて結ぶ川船は、全て斑鳩を経由しなければならない。小墾田宮と斑鳩を結ぶ道路が敷かれ、馬で一時間~二時間で到達可能になった。この道は太子道と呼ばれる。

以下は、「天孫降臨の夢」の記事へのリンク。

http://nonono7.blog12.fc2.com/blog-entry-1551.html

著者の見解は、「天孫降臨の夢」の著者である大川先生と以下のように異なるようだ。

①薬師像光背
東野治之氏の実物調査で、光背は最初から銘文を入れるように製作されてた。書かれている言葉は、623年当時の史実・用語と考えて差し支えない。

②天寿国繡帳
これについては怪しいとしている?聖徳太子の異能伝承が図象化されており、聖徳太子没後の621年に製作されたとしているが、太子信仰の高まった時代に作成されたと見るのが自然。

押坂王家:
聖徳太子の属する上宮王家を蘇我系とすると、非蘇我系の王族もあり、その中で有力な王家を押坂王家と呼ぶ。継体天皇―欽明天皇―敏達天皇(宣下の皇女 石姫の子、用明・崇峻・推古は蘇我稲目の血統)―彦人大兄―舒明という王統。

彦人大兄は、押坂彦人大兄皇子とも呼ばれる。押坂(奈良県桜井市忍坂付近)には、舒明天皇の押坂内陵を始め、非蘇我系の陵墓が営まれている。押坂宮には巨大な部民集団が奉仕し、オシサカ部 = 刑部であり、戸数一万五千戸(倭国の支配人口の一割程度)を支配したとされる。

彦人大兄皇子が死去したのは、推古朝初年であり、墓は奈良県広陵町の牧野古墳であるらしい。彼の墓がある広瀬は、押坂王家の押坂以外の勢力拠点と考えられ、六世紀後半(上宮王家が斑鳩を開発したのと同時期)に大和西部の副拠点として開発された?やがて広瀬の領地は、川原寺や長屋王家の荘園として存続したらしい。

628年に推古天皇が死去すると、上宮王家の山背大兄王と押坂王家の田村皇子との間で皇位継承問題が発生する。629年には田村皇子が舒明天皇として即位する。舒明天皇は、639年に詔を発し、百済川のほとりに百済大寺、百済宮を建設する。初めての天皇家の勅願寺であり、九重塔の基壇面積は飛鳥寺の7倍とされる。

5 隋から唐へ
舒明天皇は、即位した翌年(630年)に初めての遣唐使を派遣する。唐による中国統一は628年であり、統一直後の派遣となる。舒明天皇の時代は、中国に学んだ留学生が帰還した時代であり、推古三一年、舒明四年、舒明十一年、舒明十二年と留学生の帰国が記紀に記載されている。

この時に齎された儒教知識が大化改新の思想的基盤になったとされる。

第二章 大化改新
1 乙巳の変
642年に、舒明天皇の皇后であった宝皇女(彦人大兄王子の孫)が即位し、皇極天皇となる。
この時代は、唐の版図拡大が盛んで、630年の東突厥滅亡、635年の吐谷渾敗北、640年の高昌滅亡等があった。北方、西方の諸国家が潰え、次は東方の高句麗が狙われる事になる。

こうした状況により、朝鮮半島の三国は権力集中を図る事になる。

百済:
641年に即位した義慈王は、翌年に新羅に攻め込み旧加耶地域を占拠。さらに扶余豊を太子位から退けて、人質として倭国に赴かせる。倭王権との同盟を維持しながら旧加耶地域領有の承認を得る目的?

高句麗:
642年に、大臣位にあった泉蓋蘇文がクーデターを起こし、新たに宝蔵王を擁立。自らは莫離支(兵部尚書、中書令を兼ねた役職)になる。唐と645年、647年、648年に戦うが持ち堪える。

新羅:
647年に親唐自立派の金春秋、金庾信が、真徳王を擁立。金春秋は、648年に朝貢使として唐に赴き、その後、新羅は唐制を取り入れた国家整備を巣埋める。

倭王朝が、高句麗のクーデターを知ったのは、皇極二年(643年)と考えられる。その影響か、643年冬に蘇我入鹿が天皇候補者である山背王子を廃し、蘇我系の古人大兄皇子を天皇にしようと斑鳩宮を急襲する。

そして皇極四年(645年)には蘇我入鹿が暗殺される。これが宮廷クーデター「乙巳の変」である。上宮王家の滅亡は、高句麗、百済の政変の直後であり、蘇我本宗家の滅亡は、唐による高句麗攻撃の最中である。朝鮮半島の三国が軍事力強化のために権力集中を強める中で、舒明朝以来、上宮王家・押坂王家・蘇我本宗家と権力の三極構造が継続した倭国でも短期間に権力一元化が達成されたものと思われる。

2 改新のプログラム
645年6月14日に、孝徳天皇即位、中大兄皇子の皇太子就任等により、真政権が樹立される。倭国最初の公式年号『大化』が定められる。

政権はクーデター勝利によって莫大な数の部民を統治する事になる。敗者の財産を没収した事による権力集中。

日本書紀が詳述する改新之詔は、以下の四カ条。

①部民・屯倉の廃止
②地方行政組織の改革
③籍帳制と班田収授法の創始
④税制の改革

⇒これらは、改新の趨勢を集約表現した記事と著者は考えている。

部民制度廃止:
大化二年(646年)三月に、中大兄皇子は押坂王家が伝領した刑部と屯倉を孝徳天皇に献上する。これは部民制廃しの地ならしと思われる。同年の部民制廃止の詔が発令される。支配層が領有する全ての部民を公民に転換する。
支配層に対しては、新たに位階制を発足させて叙任する事にする。公民制と官僚制の創出。

旧体制では、屯倉という施設が部民支配の拠点となり、刑部では80戸~90戸に一つの屯倉があったらしい。公民制への転換が図られると、屯倉に代わって、<国―評―五十戸>という上下三段階の公民支配機構が置かれ、地方行政区画として機能する。

評:
コホリと読まれ、大宝令以後の令につながる。約500と推定される初期の評の内、国造が官人となったのは1/3で、新興の中小豪族が登用される事が多かったらしい。

五十戸:
サトと読まれ、調の徴収や仕丁徴発の基準となる。

位階制については、大化三年(647年)に十三階冠位制、大化五年(649年)に十九階冠位制が施行される。この枠組みは大宝令制に定着し、明治まで襲用される。

⇒豪族が部民を支配するのとは異なった統一的国家業務が徐々に整備されたと考える。

3 遷都とイデオロギー
日本書紀では、大化元年(645年)に孝徳天皇が難波に遷都したとしている。王族・豪族を大和から引き離して、新天地の王権の下に結集させる。
大化五年(649年)には、中央・地方に渡る体系的制度の発令と前後して、難波の味経の原(上町台地)に新たな王宮を造営する。白雉三年(652年)に新宮の難波長柄豊崎宮が完成する。
難波長柄豊崎宮は、大化前代の王宮に比べると数倍の大きさであったと推測される。以下の革新的要素。

①朝堂院
朝堂院の中庭は臣下が列立する国家的儀礼空間であり、朝堂は「八省百官」の待候、政務の場として大きな面積が必要であった。
②官衙
「八省百官」が実務を行う場。大化前代の王宮には存在しなかったはずであり、豪族毎に分散していた業務を王宮に集約した事で必要になったと思われる。

⇒難波長柄豊崎宮は、官僚制、公民制の中枢施設である。

難波長柄豊崎宮では、読経のような仏教儀礼が、倭国の王宮で史上初めて仏事として行われた。仏教を国家イデオロギーの基軸として統制する。

さらに、儒教もイデオロギーとして活用。大化二年(646年)には、大化薄葬令が発せられ、墳墓の規模・方法等が身分に応じて細かに定められる事になる。儒教イデオロギーは儀礼という形で、古墳時代の旧俗を否定する事になる。
大化薄葬令は、葬儀以外にも様々な旧俗・悪習を否定し、列島社会の文明化を図った。

4 孝徳朝から斉明朝へ
孝徳天皇亡き後の655年に、皇祖母宝皇女が再び天皇位につき、斉明天皇となる。政治的実権は中大兄皇子が握ったと思われる。
孝徳朝から斉明朝にかけては、日本海岸を北上しながら越後・東北・北海道への進出が図られた。北征は、斉明六年(660年)に百済の滅亡による朝鮮半島情勢の急変を受けて終わる。

斉明六年(660年)に、百済の使者が人質として倭にいる皇子扶余豊を、国王として百済復興の旗印としたいと請う。斉明七年(661年)に斉明天皇は百済救援のために北九州へと向かうが同地で死去する。

第三章 近江令の時代
1 白村江敗戦
日本書紀によると、扶余豊は662年に百済王位を継承した。663年に倭国・百済の連合軍は、唐・新羅と戦い敗れる(白村江の戦い)。そして668年には高句麗が滅亡し、唐は669年に倭国征伐のために、軍船の修理を始めたと記録される。

白村江の戦いの敗戦により、倭国は国土防衛を強化する必要に迫られる。

①防人
天智三年(664年)に、対馬、壱岐、北九州に防人が配備され、狼煙が置かれる。
②太宰府移転
博多沿岸にあった筑紫大宰府を内陸部の福岡県太宰府市に移す。防塁を設置した。
③城
天智四年(665年)に、大宰府の南北に大野城、基肄城が建設される。城の建設は、亡命百済人である憶礼福留、四比福夫が担当したため、朝鮮式山城と呼ばれる。

⇒九州北部から瀬戸内海、畿内に至る地域に、百済の技術を用いた要塞を築く。駅馬の制度も軍事上の必要から整備されたと著者は考える。

近江遷都:
天智六年(667年)に、飛鳥から近江への遷都が行われる。畿内北限である逢坂山を越えた琵琶湖沿岸に大津宮を造営して朝廷機構を移転した。近江は瀬戸内海から遠く、東国への避難に便利である。

2 天智朝の国制
天智三年(664年)に中大兄皇子は「甲子の宣」を発令する。以下の2つからなる。

①冠位二十六階冠位制
十九冠位制を改めて、中下級冠位を細分化した。実務を担う中下級官人を細かく序列化し、官僚機構の管理強化を図る?
②氏上制
氏の代表者を定める制度。自立的な親族集団である諸氏に、王権の側から統制を加える。

⇒公民制を前提としながら、氏上に民部を与える等の特権を許し、王権への服従を求める。
⇒支配層を統制し、臨戦態勢を築く。

庚午年籍:
天智九年(670年)に、戸籍を作成する。以下の特徴。
①倭国全地域に渡る戸籍
②全人民に関する戸籍
③五十戸単位で纏められた

⇒徹底した人民支配台帳。大雑把な戸の単位でなく、公民各自から生産力・労働力を搾り取る。

近江令:
天智十〇年(671年)に、冠位・法度の事が施行される。倭国最初の体系的法典。太政官―大弁官―六官という大宝令官制の原型が成立する。

⇒唐の軍事的脅威に対応して、孝徳朝~斉明朝の初期律令制が、本格的な官僚制・公民制に整備される?

3 壬申の乱
670年に新羅は、唐が支配する旧百済領に侵攻する。670年は吐蕃がチベット高原から唐の西方領土に侵攻した年でもある。唐と新羅の対立関係もあり、倭国征討は棚上げされる。唐は、倭国と同盟して新羅を挟撃しようと考え、天智十〇年(671年)に唐の使者が来航する。
天智十〇年(671年)は、天智天皇が亡くなった年でもある。後継者である大友皇子は、672年に諸国に対して人夫を差し出し、武器を持たせるよう命じる。

隠遁していた天智天皇の弟の大海人皇子は、この状況を決起の機会とし、美濃を本拠として近江朝に反旗を翻る。東国を味方につけた大海人皇子が勝利する。

大海人皇子は、672年に飛鳥に戻り、後岡本宮の南側に新しい中枢施設を建設する(飛鳥浄御原宮)。翌673年に大海人皇子は天武天皇として即位する。
天武天皇は、近江令で整備された中央官制や庚午年籍による公民制を引き継いだ。天武天皇の時代になっても唐と新羅の戦いは継続し、臨戦態勢は解かれなかった。

4 白鳳寺院の展開
天智朝の飛鳥に創建された倭国第二の官大寺が川原寺である。伽藍配置は、塔と西金堂が東西から向かい合い、北側に中金堂が建つ特徴を持つ。
同じような伽藍配置は、南滋賀廃寺、観世音寺等の天智天皇と関わりの深い寺院に見られる。

天武天皇は、川原寺以外も整備し、国家・王権の護持を図る。天武九年(680年)には、京内二十四寺に布施を行っている。全国に使者が派遣され、仏教が流布された。

そして、神祀祭祀も尊重され、国家的祭祀は倭王朝が伝統的支配を受け継ぐ証明とされた。カミマツリは7世紀に大きく変化したと考えられ、8世紀以降に多用される律令祭祀具(斎串、型代、土馬)等の初現期の物が難波長柄豊崎宮で見つかっている。
神社についても、神殿を持たなかったはずが建設されるようになっている。天武十〇年(681年)に諸国の神社が修理された記録があり、7世紀後半から神殿建設が始まった可能性がある。神々が仏教の影響を受けた?

第四章 律令体制の確立
1 天武一〇年の転換
天武十〇年(681年)は、倭国の転換点である。律令改定の詔。浄御原令編纂の勅命 = 新しい国家基本法。浄御原令は、天武天皇没後の持統三年(689年)に諸国に配布された。
浄御原令の条文は一つも残っていないが、平時体制への以降が目的であったのか、皇太子である草壁皇子の即位に備えて国制を整備する意図があったのかもしれない。

天武十〇年(681年)には、「禁止九十二条」が立てられ、皇子から庶民まで身分に応じた服飾が定められた。天武十一年(682年)には、礼儀・言語に関する詔が出される。倭国の伝統を改め、中国風の礼法に拠ろうとする態度。
氏の構成員も確定し、束ねる氏上も決定し、官人制システムと連動するようにする。

著者は、天武十〇年の転換に始まる国家支配の根本に関わる政策が相次いだ時期を「法と礼と史の時代」と読んでいる。王権を中心とする体系的国制。

2 アジアの新秩序と倭国
天武四年(675年)に、670年から続いた唐・新羅戦争が、新羅の勝利という形で終結した。676年からは吐蕃との戦いが盛んになり、北方では突厥が復興した事で、680年代にはユーラシア東部に唐―吐蕃―突厥という三極構造の政治秩序が生まれる。新羅と倭にとっての唐の脅威はひとまず消えた事になる。

新羅においても緊張緩和によって新しい国家体制が望まれる事になる。681年に神文王が即位すると、684年には高句麗国を急襲し、執事部を頂点とする集権的中央官制が完成する。官人には官僚田と俸禄を支給する。<州―群―県>の地方行政組織の確立。五つの副都、九つの州が支配拠点となる。686年には神文王が遣唐使を送り、儀礼・文章に関する書物の下賜を受けた。

倭王朝が浄御原令という体系的法典の編纂に力を注いだのに対し、新羅は旧朝鮮三国の統一的支配を重視したとしている。

天武十五年(686年)に天武天皇は亡くなる。「一代要記」、「本朝皇胤紹運録」では、享年65歳としており、同母兄の天智天皇より年上になる。長子である高市皇子が白雉五年(654年)に生まれたので、実際には五十代で死亡したと著者は考える。

3 藤原京
持統八年(694年)に持統天皇は、藤原宮に遷居した。飛鳥を中心とする都を大きく拡張し、拡張部分に王宮を移す。著者は、藤原京建設も平時体制構築の一環としている。藤原京は、倭国で初めて、碁盤目状に建設された都城である。大極殿、朝堂院、大垣の門等が、礎石の上に建つ瓦葺き建築とされる中国風王宮であった。

藤原京は、周礼にある中国の理想的都城の影響により?正方形都城の中心に王宮を置き、全面に政治の場、背面に位置を設け、東西南北に九本の道路を通している?

4 変わりゆく列島社会
7世紀の倭国史は、基本的に外的インパクトによって方向性が決まった。

個別人身支配と呼ばれる律令公民制支配が成立し、文字文化が浸透する事で文書行政が進展した。中国の制度である暦が使用され、年号制、時刻制とともに、皇帝による時間支配を形作る事になる。

列島各地に方格地割と直線道路が広がるのは、8世紀に入ってからだが、その原型は7世紀であったとされる。

そして、701年には大宝律令が完成し、国家制度はより整備される事になる。国号は「日本」とされ、「倭」の時代は終焉する。

おわりに
著者の意見として、倭国の7世紀や律令体制を理解するには、前史である古墳時代を知る必要がある。大化の改新や律令体制は、外的インパクトによって齎されたが、それが倭国特有の形となったのは、古墳時代の政治システムによるものである。

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