倭人と韓人

読んだ本の感想。

上垣外憲一著。2003年11月10日 第1刷発行。



1 稲と鉄の道
沖ノ島の女神
玄界灘に位置する沖ノ島は、4世紀後半~8世紀に至る莫大な異物の発見で知られる。島に祀られた宗像女神への献納品であるらしい。
宗像女神は、古事記や日本書紀にも登場し、日本書紀の別伝には、宗像女神が天孫を助けて、高天原から筑紫へ降下している。天孫降臨の地について、古事記の天孫降臨の条に「此処は韓国に向かひ」という記述が有る事から、高天原は朝鮮半島であるという意見がある。

宗像女神は玄界灘の航海の女神であり、朝鮮半島から玄界灘を伝って天孫が来た?

魏志倭人伝では、金海(加羅)→対馬→壱岐→松島半島の路線が記述されている。北九州で弥生文化が栄えたのは、奴国のあった福岡平野、那珂川流域であり、対馬→沖ノ島のルートは、下関方面を目指す時に便利なルートである。沖ノ島は、日本の中心が畿内に移動した時に栄えたと推測する。

楽浪への海上の道
天孫降臨の主人公、ホニニギノミコトの「ホ」は、稲穂の意であると、本居宣長が古事記伝で書いている。天孫降臨は、稲作農民の渡来と解釈する。
日本の稲(ジャポニカ種)の原産地は、中国江南 浙江省あたりであり、最も古い稲作遺跡の河姆渡文化は、紀元前4000年代である。長粒の籼と短粒の粳の両方があったが、日本の稲は短粒の粳のみである。
韓国では、日本の弥生時代の開始より少し古い無文土器文化前期の稲が発見されており、全て短粒の粳である。中国江南から、短粒の粳だけが朝鮮半島に渡り、半島南部、洛東江流域から北九州に至るルートが推測される。

日本で最も古い稲作遺跡である福岡市 板付遺跡(紀元前3世紀頃)では半島式の無文土器が発見されており、最初から技術的に完成された形で開発されている。佐賀県唐津市の菜畑遺跡は、板付遺跡よりも100年古いとされており、唐津は加羅津 = 加羅に向かう港の意であり、加羅から稲作が齎されたと推測される。

鉄の道、青銅器の道
魏志倭人伝には、対馬の人々が南北に交易を行ったと記されている。
以下の記述から、日本側の輸出品は奴隷であったと考える。

後漢書:
安帝の永初元年(107年)に倭国王が後漢の皇帝に奴隷160人を献上した記述。

魏志倭人伝:
卑弥呼や壱与が魏に奴隷を献上した記述。織物や曲玉、真珠も献上しているが、品目の中心は奴隷である。

魏からは青銅鏡、絹織物が下賜されており、通常交易でも輸入されたと考えられる。他に鉄が重要な品目であったと予想する。魏志東夷伝の弁辰の条では、弁辰(洛東江流域の小国家群)では鉄を産出し、周囲の国家や倭、漢人植民地の楽浪郡、帯方群に輸出したという記述がある。

紀元前100年頃から日本でも鉄器の製作が始まるが、輸入された鉄素材を鍛造して製作している。製鉄技術は青銅器製造技術と連続しているという意見がある。

日本の青銅器の内で早い時期の細形銅剣は弥生前期末(紀元前100年頃)に現れ、北九州・山口県西部の遺跡から出土する。初期の細形銅剣は朝鮮半島から輸入されたものであり、弥生中期中頃(紀元前後)には銅剣の鋳型が北九州で出現するので、青銅器の製作は、この頃始まったと考えられる。

細剣銅剣は、中国遼寧省十二台子遺跡から発見される琵琶型短剣を祖形にするが、十二台子遺跡の青銅器は、南シベリアのカラスク文化と同系統と考えられる。

⇒朝鮮半島で紀元前6世紀頃から用いられた青銅器は、北方系民族に由来すると考えられ、南部ロシアや黒海沿岸のスキタイ人の青銅器文化と結ばれる。

紀元前4世紀~紀元前3世紀の稲作民の渡来とは別に、紀元前100年頃の青銅器に特徴のある渡来の2つの波があったと考える。紀元前100年頃は、漢の武帝による楽浪郡設置と同時期であり、紀元前108年に漢によって滅ぼされた衛氏朝鮮の人々の一部が北九州に逃れた可能性。

日本神話と朝鮮半島
イザマミの黄泉行とオルフェウスの神話のように、ギリシア神話と日本神話には共通点が見られる?黒海沿岸のスキタイ人から遊牧民経由で神話が伝播した可能性。

三国史記 地理篇では、慶尚南道高霊の大伽耶国の始祖を伊珍阿鼓(イジナシ)としている。イジナシとイザナギを同音と考えると、イザナギ神話は紀元前2世紀頃の朝鮮半島 洛東江流域で行われ、青銅器文化と伴に日本に齎された可能性がある。三国遺事 駕洛国記に記述されている加羅国 建国神話では古事記と同様に、王家の始祖が天から山に降り立っている。

古事記では、天孫の降り立った場所を高千穂の久士布流多気、日本書紀では高千穂の槵触峯としている。クジは、駕洛国記に記される降臨の山、亀旨と同音である。

イザナギ神話前半部の国生み神話の類話が中国南部の苗族等に発見される(中国江南の神話とスキタイ神話が融合した可能性)。
 ・伏羲、女禍の兄妹神
 ・高くそびえる物を回る形で婚姻する
 ・最初に生まれる子は不具児
 ・世界を生成する婚姻

江南に住んでいた民族の一部が日本に渡来した可能性。中国江南の呉が、山東省付近の斉を攻撃したのが紀元前485年であり、紀元前468年には越王勾践が山東の狼邪に都を移している。この時に、山東の先住稲作民が朝鮮半島や日本に移住した可能性。

高天原と朝鮮半島
乱暴な弟神の悪行に太陽が身を隠す神話は、インドシナにも見られる。洞窟に隠れた太陽をおびき出す神話は、中国南部 苗族やアッサム地方にもあるらしい。

スサノオがアマテラスの良田を羨んで乱暴をした神話は、稲作の適地である洛東江流域南部が新羅等の侵略を受けた話となる?

神武東征は、日向→豊前の宇佐→岡田宮→瀬戸内海を東に渡った事になる。遠賀川河口近くの岡田宮に西行するのは、東征の道筋からは逆コースである。実際には、玄界灘から遠賀河流域に定着して東征したのではないか?

神武天皇の母である玉依姫が海神の娘であり、日向を本拠地とする海人族の神話との融合が成された可能性。

東アジアの稲作の起源伝承としては、鳥が稲穂を落として稲を人類に齎した形が多い。対馬の伊奈久比神社でも同様の神話があり、稲作儀礼が整備されるに連れて具象的な動物から抽象的な神格へと稲作の守護者が変化したと解される。

ホニニギノミコトに関する古い伝承を持つ福岡県嘉穂町牛隈の荒穂神社では農耕神としてのホニニギの性格が強いが、記紀では支配者としての性格が強い。天孫降臨型の神話を持つ人々が支配的な地位に着く事によって、土着的な神が支配者の祖神に変容した可能性。それは渡来民の土着化の過程でもある。

嘉穂群の東にある田川群 英彦山の祭神は、ホニニギノミコトの父アメノオシホミミノミコトである。田川群の神社?ではオシホミミはホニニギの父でなく、田川郡の祖神となっており、ホニニギの助力者である。最高神から天降りを命じられた者が子を代わりに降らせる話は、ブリヤート・モンゴル族の神話との類似が指摘されており、記紀の編者が別々の神をモンゴル神話のような話型を利用して万世一系に纏めた可能性。

神武東征と鉄
神武東征を3世紀中頃(邪馬台国の覇権が確立して魏の使者が往来していた時期)とする。遠賀川流域の稲作地帯を後背地とし、青銅を交易品に、沖ノ島との繋がりを利用して朝鮮半島と交易する勢力があったとする。

沖ノ島ルートは、邪馬台国が確保していた対馬・壱岐ルートと比較して航海の距離が長く不利である。しかし、瀬戸内海方面との交易を考えると、東に寄った沖ノ島が有利となり、それが東征の要因だった可能性。

ホニニギの子の名前には、一致して火が冠されている。洛東江流域の古地名にも火を冠するものが多く、製鉄・鍛冶との関連が伺える。

北九州では3世紀前半に武器・農具が石器から鉄器に取って代わるが、畿内地方での鉄器の普及はその100年後である。神武東征は、鉄器製作に強味を持つ集団の移住なのではないか?

出雲の繁栄と玉貿易
古代日本の主要輸出品である玉(真珠、水晶、翡翠等?)について。山陰から佐渡までの日本海沿岸各地には弥生時代末期の玉作りの遺跡が発見される。
 ・佐渡(新穂村を中心に何カ所も玉作り遺跡が発見)
 ・新潟県姫川上流域(翡翠の原産地)

出雲の大国主が、新潟県頸城群姫川(ヌナカワ)の人間を妻にしようとした神話。宗像~出雲~北陸を通じる交易ルートの可能性。弥生時代後期の北陸地方の土器は山陰の影響を強く受けており、古墳時代最初期の四隅突出型方墳が出雲を中心に富山県にも分布する。2世紀~3世紀に出雲を中心とする日本海文化圏が存在し、曲玉類の交易を行っていた可能性。

脱解王の神話
三国史記、三国遺事の伝える新羅第四代 脱解王の神話。倭国の東北千里(100里 = 約400㎞)にある竜城国(三国史記では多婆那国)の出身。京都府北部の丹波地方出身?脱解が朝鮮半島に来た時には、七宝と奴婢が満載された船に乗っていたとされており、交易の話かもしれない。脱解王が即位するのは57年であり、丹波で玉作りが盛行した時代と一致している。峰山町扇谷遺跡では、弥生中期初から玉作りが行われなくなっており、勢力争いの結果として丹波の玉作りの王が新羅に渡った可能性がある。

2 巨大古墳と征服者の世紀
ツヌガアラシト伝説と崇神天皇
朝鮮半島から来着したと伝えられる都怒我阿羅叱等について。300年前後の崇神天皇の頃に、長門から北海を回って出雲を経由して福井県敦賀市に至ったとされる。意富加羅国の王子と名乗っている。任那という名はアラシトが帰国する際に、崇神天皇の名前、御間城から取ったと日本書紀は記す。

しかし、アラシトを祀る角賀神社の伝承では、アラシトが気比神功の祭祀と敦賀地方の政治を司ったとされており、アラシトは崇神天皇の配下では無いのではないか?崇神天皇の皇子である豊城入彦命が近江南部を平定した伝承が、豊城入彦を祀る滋賀県 下新川神社にあり、崇神天皇の勢力範囲は大和から山城までと想定される。

古事記 開化天皇の条にある系図の人名から推測される地名を調べていく。開化天皇(崇神天皇の父)の息子である日子坐王を祀る神社は敦賀から山を越して琵琶湖側にある伊香群(琵琶湖東北部)に所在する。

日子坐王は、天之御影神(琵琶湖東南部 野州群 三上山の神)を祀る坂田群(伊香群と野州群に挟まれる琵琶湖東岸中部)の息長氏の人間を娶っている。

⇒開化天皇からの流れは、琵琶湖の北部から南部への方向性を持っている。開化天皇の本拠地は敦賀であり、近江や福井平野、丹後への水路を利用して勢力を伸ばした可能性。

著者の思考として、古事記の系図が正しいと仮定すると、孝元天皇が日本海貿易の要地、敦賀を押さえ、子の大昆彦命が福井平野を征服し、その異母弟(開化天皇)が近江北部に力を伸ばす。

崇神天皇は、大昆彦命の娘であるミマキヒメの婿となるが、崇神天皇の名前はミマキイリビコイニエとなっている。ミマキヒメに婿入りした男の意である。崇神天皇の後に、イリヒコ、イリヒメの名が頻出するのは皇族の称号のように考えたから?

次の垂仁天皇の場合、イクメイリビコイサチであり、皇后の実家が来目にあった事から来目に入婿した男と解される。

⇒ツヌガアラシトが伽耶地方から敦賀に来た伝承は、実際には崇神天皇の頃より少し古い時期に発生し、渡来者が玉を求めて来航し、大昆彦命の祖となった記録なのではないかと著者は想像する。

崇神天皇の治世―古墳・戸籍
ツヌガアラシトの別解釈。
日本書紀によると、ツヌガアラシトは崇神天皇の末年に敦賀に至り、垂仁天皇の2年(3年?)に任那に帰った。先帝の末年に必要になり、次の天皇の即位によって不要になる人物 = 古墳の造営の指揮者とも解釈出来る。

崇神天皇が在位したとされる4世紀初頭は、畿内に全長200m以上の巨大古墳が出現する時期である。日本書紀によると、崇神天皇の晩年には灌漑用の池等の大規模な土木工事が行われている。

半島系の技術で築かれたとしても、楽浪郡の古墳の中でも規模屈指の道済里五十号墳でも南北約30m、東西約32mの規模であり、日本の古墳よりも規模が小さい。
日本書紀には、崇神天皇の時代に戸籍を作り、税を課したという記録があり、租税の徴収体系が巨大な古墳の造営を可能にした?

また、楽浪郡の古墳の規模は小さいが、土城の規模は600m×700mほどあり、土城の築造に資源が振り向けられた可能性もある。日本では大規模な戦争が無かったから土城の規模も小さくて良い。

鉄器の普及が楽浪郡→加羅→倭と100年くらいの時間差を伴ったのとは対照的に、半島南部で古墳が造られ始めるのは、日本と変わらない3世紀末~4世紀初頭である。大規模な土木工事を行う技術の導入や、中央集権的国家体制の整備は半島南部や機内で同時期に行われたようである。

313年に楽浪郡が高句麗に滅ぼされた事との関連。南部に避難した漢人が技術を伝えた可能性。

膨張志向の精神
前方後円墳の祖型は、伽耶等の古墳において円墳の前に祭祀を行う方形の祭壇を設けたものとする説がある。しかし、半島で愛好された円墳とは異なる形式が日本で大規模に発展した事も事実である。

日本独自の文化としては、銅鐸もある。これは青銅製の馬に付けるベルが楽器となったとされており、半島で発見されるのは高さ10㎝~15㎝ぐらいである。日本では、初期で高さ50㎝、後期で高さ1m~1.5m程度となる。銅剣、銅矛も同様に大型化し、祭祀用に変形した事が伺える。

大型化は、新技術の導入に夢中になり、能力を極限まで発揮したい欲求の表れかもしれない。

イツツヒコ・イソタケル・イタテ
北九州から出雲に崇神天皇の影響力が及ばない地域があった可能性。ツヌガアラシト伝説では、下関付近でイツツヒコと名乗る人物が王を称していたとしている。

下関では、後の仲哀天皇の時代に五十迹手(イトテ)という人物が三種の神器を捧げて降伏した話が伝えられる。出雲神話では似た音の神として五十猛神(イタケル)が登場する。スサノオに従って新羅に天降りし、東遷して日本に木を植えたとしている。

延喜式神名帳には、韓国伊太氐神社が記されている。伊太氐 = 五十猛で同音異写と考えると、韓国と冠される事から朝鮮半島系の神である。

大和勢力とは別の新羅系勢力が下関を中心に、北九州から出雲までを制圧していた可能性。

下関の新羅系王朝
山口県 忌宮神社には、仲哀天皇の話として、新羅の賊軍が長府(瀬戸内海航路の終着点)に押し寄せた話が伝えられる。
日本書紀では、イトテの出自を伊蘇国としており、通常は福岡県糸島群(古代の伊都国)と解される。しかし、朝鮮半島 慶尚に伊西古国が存在しており、出自は朝鮮半島ではないか。

⇒加羅系の大和の指導者と新羅の領域である伊西古国出身者の争いと考える?

三国史記、新羅本紀に見える倭国関連の記述では、3世紀末に倭人の来襲があった話等が記されている。それ以降の倭の記述は途絶える。楽浪郡、帯方群の支配が弱っており、韓族との間に争乱が発生している。3世紀後半の半島南部は激動期であり、闘争に敗れた人物が倭国に渡来し、拠点を獲得した可能性。

「延鳥郎と細鳥女」と天之日矛
新羅本紀に現れる312年に新羅の大臣の娘を娶った倭国王は、同様の記述が日本書紀には無いため、イツツヒコではないかと著者は推測する。

三国遺事が伝える「延鳥郎と細鳥女」の説話では、新羅の男(延鳥郎)が倭国の王になった説話と、彼の妻(細鳥女)が夫を探して倭国に行き、再会した説話である。イツツヒコが新羅から倭に渡り、新羅の女が嫁入りした話とも解釈可能。

新羅から日本に渡った伝承を持つ人物で、「延鳥郎と細鳥女」のモデルに擬せられるのは天之日矛である。但馬に定着した事になっており、兵庫県 出石神社の祭神となっている。出石という地名から、古代は玉の生産地だったのではないか。 古事記の説話では、天之日矛の妻は玉の化身であり、妻を追って日本に来た天之日矛は、実際には玉の交易を行っていたのではないか。

天之日矛の4代後の子孫である多遅摩毛理は、垂仁天皇に仕えた人物とされており、多遅摩毛理の孫娘は神功皇后の母であるとされる。垂仁朝を4世紀中葉とすると、その4代前は280年~290年頃であり、天之日矛は楽浪と辰韓の争いによって渡来した人物であったのかもしれない。出雲や丹波等の古代の中心地の隙間を埋める形で但馬(兵庫県の日本海側)に勢力を張った?垂仁天皇の時代に、天之日矛が来帰したと記されているのは、天之日矛を祖神とする但馬の豪族が垂仁天皇の時代に帰順した事を示しているのではないか。

二人の景行天皇
垂仁天皇の次の景行天皇の事績は、息子のヤマトタケルの征服として記される。九州の熊襲征伐と尾張以東の東国の物語。

古事記に記される系図では、ヤマトタケルの子が仲哀天皇とされ、仲哀天皇と神功皇后の子が応神天皇となり、仲日売を娶って仁徳天皇が生まれた事になっているるが、古事記 分注にある系図では、景行天皇―五百木之入日子命―品陀真若王―中日売と続き、中日売に応神天皇が婿入りして仁徳天皇が生まれている。

⇒仲哀天皇がヤマトの血縁であるとするために、ヤマトタケルという架空の人物が生み出された可能性。

景行天皇の名前は、オオタラシヒコオシロワケと二人の名前が合体している。北九州出身とされる応神天皇がホムタワケという名前である事から、オシロワケは九州の覇者の名前ではないか。

景行天皇は、東国・美濃・尾張を巡幸した説話を持つが、東国の景行天皇と九州の景行天皇は同一人物ではないと考える。

神功皇后とイツツヒコ王国の滅亡
神功皇后(息長帯比売命)の出身氏族である息長氏は、近江の坂田郡を本拠地とする。母方は但馬の天之日矛の子孫とされる。日本書紀では、神功皇后は敦賀の笥飯宮にいたとされ、近江と但馬の交通中継点にいた事になる。

仲哀天皇は長門豊浦宮から下関を狙う態勢にあり、息長族は但馬からさらに西部の対朝鮮半島交易ルートを確保しようとしており、両者の間で新羅系のイツツヒコ王国に対する同盟が結ばれた?

イツツヒコ王国が弱体化した背景には新羅との争いに敗れた事が原因と著者は考える?三国史記によると344年に倭国が新羅に通婚を求めており、断った事から争いが発生している。新羅本紀によると新羅遠征は失敗しており、それがイツツヒコ王国が滅亡した要因ではないか?

古代船の構造
住吉大社神代記には、住吉大神の子として船玉神を挙げ、注として紀氏神、志摩神、静火神、伊達神としている。伊達神はイタテ = イツツヒコであり、新羅から造船技術が齎された可能性。

丸木舟から、鉄製の釘を使用して板を接合した縫合船への進歩。日本書紀 崇神天皇十七年の条には、始めて船舶を造るという記述がある。

外交紛争事始
三国志記 列伝には、沾解王7年(253年)に、倭国の使いと新羅の于老角干との間のトラブルが記述されている。以下の理由から、これは313年の事件ではないか。

①新羅本紀には、阿達羅尼師今二十年(173年)に卑弥呼が
 魏に使いを出したという記述があり、繰り上げて記述している。
②新羅16代の訖解尼師今は、于老角干の子とされるが、
 訖解の在位は310年~356年であり、父が253年にトラブルを
 起こしたとするのは無理がある。

三国史記 于老伝には七年癸酉と干支年が記されており、本来干支年のみが伝わっていたとすると、干支年は60年で一巡するので、60年古く年代が記述された可能性。

日本書紀 神功皇后の条にも同じような記述があり、于老は新羅王となっている。戦いの勝敗は日本書紀と三国史記で異なる。事件が本当にあったとすると、訖解王は倭人に父を殺された事になる。それが344年にイツツヒコ王国からの通婚願いを拒絶した理由?

「仲哀紀」・「神功紀」の記述
于老角干の話は、日本書紀 神功皇后の条の新羅遠征の時の事とされている。百済の近肖王との通行も神功皇后の条に記載されており、367年の事とされる。両者が神功皇后の事績として語られる事で、神功皇后の実在性が疑われている。

神功皇后について以下のように著者は考える。

①神功皇后の三韓征伐は、倭国内の新羅系王朝を倒した部族の
 伝承である。
②新羅系の王朝を倒した集団は、近江に起源を持ち、敦賀を根拠地に
 西の海上交易路に勢力を伸ばした集団である。

忌宮の伝承では、新羅の賊と熊襲が手を組んで仲哀天皇と戦った事になっており、状況を打開するために仲哀天皇が神功皇后の部族と手を組んだ可能性。日本書紀 仲哀天皇の条では、仲哀天皇は神功皇后に婿入りした事になっている。

日本書紀における仲哀天皇の具体的な事績は北九州と山口に限られ、神社の伝承では山口県 忌宮神社が最も詳しく、仲哀天皇は豊善から長門にかけての地方的覇者と考えると実在性が確かになる。神功皇后もヤマトとの血縁が薄く、ヤマトタケルの子とする事で万世一系の建前を通そうとした?

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神功皇后は神懸かりの状態となり託宣を語るシャーマンでもあった。邪馬台国の卑弥呼と似ている。垂仁天皇は古墳に人を埋める行為を止めており、天照大神を遠く伊勢神宮に祀っている。女性司祭の介入を防いだ?

支配領域が拡大して租税徴収や軍事行動が拡大すれば、政治・軍事の実務的指導者に主権が移る。神功皇后は100年前の卑弥呼に近く、大和から遠い地方にあって原始的な政治・宗教体制を保持する部族がいた可能性。

日本書紀では、合理的な垂仁天皇の記述の後に、ヤマトタケルや神功皇后の説話があるが、神功皇后の一族が中国的な歴史記述を知らずに、語部的伝承を行っていたために全体が英雄譚仕立ての物語となったのではないか?

三種の神器
鏡・剣・玉の三種の神器は、王の支配権の象徴であり、差し出す事は支配権の譲渡を意味する。弥生時代の支配権を表す宝器は銅鏡、銅剣、銅鐸であるが、九州地方では銅鏡、銅剣の二種である。

卑弥呼と弟の王権は、ポリネシアの聖王と俗王の二重王権や、インドネシアの動かない王と執政の関係に類似している。魏志倭人伝に見られる倭人の風俗は東南アジアと似ており関連が伺える。王権が二分法的(女・内・聖、男・外・俗)な構造を持っていたために、宝器も二種だった?

三種の神器は、ユーラシア北部の騎馬民族の神話と関連が深い。アマテラス、スサノオ、オオクニヌシの三つの神格に相当する。社会の階層を主権者(祭祀者)、戦士、生産者の三つに分けて役割りを規定する思考方法はインド=ヨーロッパ語族の神話に特徴的である。朝鮮半島経由で三分化のイデオロギーが伝わった可能性。

ポリネシア型の二分法の社会に、200年頃に神武天皇の祖先によって三分法の観念が伝わった?日本書紀における三種の神器の奉呈の記事は、福岡県東部と山口県西部の海岸地帯であり、受け取り手は景行天皇と仲哀天皇である。三分法の定着は、この時であるか?

組織化についても北方アジアの騎馬民族系統の思想が伝わっており、組織を五部に分ける考えは、古事記の天孫降臨の場面で、五伴緒という5人の様々な職業を分掌する神が天孫と降下する事に表れている。同様に、高句麗や百済、突厥等も五部の軍事組織を持っている。遊牧民族の支配形態。

神木とタカミムスビ神
三種の神器に関する降伏儀礼では、神器を賢木に取り掛けている。こうした儀礼は、魏志馬韓伝にも見られる。

高御産巣日神の別名は、高木神であり、日本書紀の伝える異伝ではタカミムスビ神のみが指令を下すものが多い。タカミムスビは男神で天空神であり、北アジアの騎馬民族的な最高神の性格が強い。

タカミムスビを祀るイトナを神功皇后の部族が服属させたとする。神功皇后の部族は女性を主権者とするシャーマニズムを奉じており、イトナの部族の出雲征服神話を取り込んだとしてみる。その結果、タカミムスビとアマテラスが並ぶ事になったのではないか?

3 戦略と外交の世紀
倭―百済同盟の成立
5世紀を通じて倭と百済の通交が盛んだった事は王仁博士の来日に示されている。日本書紀では、最初の倭と百済の接触の翌年367年には新羅を共同で攻めており、対新羅の同盟であったと推測される。

新羅本紀では、346年、364年、393年に倭からの侵入があったとしている。

近肖古王の同盟戦略
この辺りから、著者の想像で書く度合いがより大きくなっている気がする。三国史記、百済本紀には近肖古王の時代に、百済では文字で記述する文書作成が始まったとしている。
中国的な外交術を百済が学んだ可能性。
高句麗や馬韓との勢力争いにおいて倭との同盟が重要となる。馬韓の勢力は帯方から加羅に至る海上交通路に面した海岸地域におり、唐津(トムタレ)は水上勢力の中心である。造船用木材を大量に供給出来るために海軍力を持つ倭との同盟を望んだ可能性。

七枝刀
日本書紀 神功皇后摂政五十二年の条には、372年に百済から七枝刀が送られた記述がある。谷那鉄山という固有名詞があり、これは371年に百済が高句麗に勝利して獲得した鉄山ではないか(黄海道谷山群)。

“新羅征伐”の失敗
日本書紀 神功皇后摂政六十二年(382年)には倭の将軍サチヒコが新羅に調略されて、加羅国を討伐した話が記述されている?

応神天皇
日本書紀の紀年を通例に従って干支を二運下げると、神功皇后の没年は389年になる。息子である応神天皇は新羅を討った年に産まれた事になっており、367年(新羅本紀では364年)とすると、応神天皇の生年は360年代後半である。

応神天皇はホムタワケという名前を持つ。筑紫国風土記には、磐井の墓に関する記述として、墳丘の一部に別区という役所を持つとしている。別区は官僚的支配の中枢と考える。ワケとは、聖―俗の二重王権の内、俗 = 外を掌る支配者ではないか。

応神天皇は、新羅征伐の翌年に仲哀天皇の異腹の皇子達が叛心を抱いて帰途を遮ったため、大和に攻め入ったと記されるが、応神天皇が景行天皇の3曾孫である中日売に婿入りする形で王位を継いだとすると、垂仁天皇の盛時を過ぎて衰退期に入った大和王朝が新興勢力に呑み込まれたと考える事が出来る。

再び半島へ
新羅攻撃の年である382年の直後に大和征服が行われたとすると、385年前後には結着がついたと考える事が出来る。朝鮮半島北部では391年に広開土王が即位し、392年には百済に侵入している。同年に新羅と高句麗の同盟が成立している。

高句麗の攻撃によって黄海道、忠清南道の海岸部を奪われた百済は、同時に倭と伽耶諸国によって全羅南道南部、慶尚北道西北部を奪われたと著者は推測する。この時に、百済の王子 腆支が倭に人質として送られている。

広開土王碑には、400年頃に高句麗の騎兵隊に倭軍が敗れた記述があり、日本書紀には対応する記述が無い。

新羅の親高句麗策
402年に、高句麗に人質として送られていた実聖が新羅王として即位する。実聖は先代の奈勿王の子である未斯欣を人質として倭に送っている。これは王位争いの対向者を排除する意図があったのではないか。

馬の導入
4世紀末から5世紀初にかけて倭国の兵は半島での戦闘を幾度か経験している。強味は水軍にあり、騎兵隊に敗れる事が多い?倭国には馬を手に入れようとする動機が生まれる。

日本で出土する最も古い馬具の例は、4世紀末頃から北九州地域に見られる。古事記、日本書紀では応神天皇の時に百済から馬が献上されている(応神天皇在位は385年頃~410年代?)。

5世紀後半からは古墳からの馬具の出土例が多くなり、馬の埴輪も製作されている。古墳から出土する馬具の形式は伽耶地方のものと並んで新羅の形式と一致するものが多い。半島からの輸入品が高級品とされたものと思われる。神功皇后の伝説の中には、新羅を降伏させて馬具を献上させる記述があり、著者は倭人の願望としている。

服飾革命
5世紀~6世紀の古墳に立てられた埴輪から推測される衣服は、魏志倭人伝によって知られる3世紀の倭人の衣服とは全く異なる。

3世紀:
東南アジア風の服装。
女性については、貫頭衣(単衣の中央に穴を開けて、頭を通す)が記述される。東南アジアからオセアニアにかけて分布する形式であり、漢書、後漢書では中国南部の蛮族の服装とされる。
男性については、腰巻や一枚の布を肩から袈裟がけしたものであり、やはり中国南部から東南アジアの系統に属する。

5世紀~6世紀:
北方騎馬民族風の服装。
女性については上衣にスカート。
男性については上位にズボン。ズボンは、乗馬の際の便のために膝下の部分で紐で括られている。

古事記には、百済から馬が送られた記述と並んで鍛冶工と服造りの者が送られた記述がある。中国の六朝時代に南朝に朝貢した諸国の使者を描いた『職貢図巻』(539年頃製作)では、倭の使者は腰巻に裸足である。

倭の五王が中国南朝に朝貢した記録では、413年には倭国が贈物を献上したと記すだけなのに、42年には称号まで授かっている。さらに438年には安東将軍の号を受けている。

413年の遣使の伝承と思われる日本書紀 応神天皇三十七の条に、呉国の工女を求める記述がある。中国風の衣服を持たない事で交渉が上手くいかず、衣作りの工女を連れ帰って中国風の服装を導入したと著者は想像している。

王仁博士とウジノワキイラツコ
儒教の伝来について。
儒教の経典が齎されたのは、百済の阿直岐、王仁によってであるとされる。直支 = 腆支と音が通じるので、応神天皇の時代の百済からの人質が儒教を伝えたのではないかと著者は考える。

応神天皇の息子であるウジノワキイラツコは王仁の指導を受けた秀才であったとされる。日本書紀には、ワキイラツコが高句麗からの文書に「教ふ」という記述がある事を見つけ、「教ふ」の文字は、倭を見下すと指摘した記述がある。

二人の仁徳天皇
仁徳天皇は聖帝として記述されており、東南アジア系か北方アジア系の記述が多い記紀が中国風の政治理念で記述されるようになる。
しかし、記紀の記述の他の部分は皇后イワノヒメの嫉妬を恐れつつ浮気を続ける記述であり、ワキイラツコの逸話が仁徳天皇の逸話に混ざっている可能性。現実にはワキイラツコが大王として政治を行う時期があった可能性。

ワキイラツコは渡来系であったために、皇位が抹消された?播磨国風土記 揖保群の条には宇治の天皇という語があり、ワキイラツコが天皇であったように伝えられている。
記紀が作成された当時、皇族は4代までという原則があり、神功皇后が新羅の王子天之日矛の5代の孫とされるのは、4代前が外国人では皇后たるに問題があるとされたためではないか?とするとワキイラツコが渡来人の子であるとすると、皇位自体を認めない方針を記紀の編者が取った可能性がある。

仁徳天皇の時代は、朝鮮半島情勢も安定しており、壮大な仁徳陵に象徴されるように倭国が安定と繁栄を享受した時代と考えられる。その後、次第に支配力は減衰し、豪族の力によって皇位が左右される状況が続く。

朝鮮半島の支配も弱まり、562年には新羅が倭 = 百済の反撃を排除して伽耶の領土を獲得している。

倭人と韓人―むすびにかえて
7世紀に朝鮮半島で統治新羅が成立し、日本列島で大和朝廷の全国支配が確実になって以降、倭人と韓人の区別は固定化し、今日に至ったと考える。

それ以前の状況を推測すると、言語では現代日本語と現代韓国語では文法組織、語順、動詞の活用、助詞の使用法は似ているが、基礎語彙の一致は皆無である。

日本書紀には、月夜見尊と保食神の神話で、保食神の死骸の各部分から、各種の穀物が生じたとあり、日本語では関連が無いが、韓国語では身体の部位と穀物の語形が似ている。

頭(mari) = 馬(mar)、額(cha) = 粟(cho)、眼(nun) = 稗(nui)、腹(pai) = 稲(pya)、女陰(poti) = 小豆(pat)。

保食神の神話は、現代韓国語の祖先にあたる言語を話す人々に伝えられていた。現代韓国語は新羅語に由来する。朝鮮半島の古代三国の言語はアルタイ語系統のグループにあり、新羅語と百済語は近い関係にある。

日本語は、高句麗語や伽耶の言語と近い?しかし、日本語の基礎語彙の相当部分はインドネシア、フィリピン、南洋諸島に分布する南島語の系統に属している。縄文時代中期(紀元前3000年頃)に日本列島に南方から渡った人々が日本語の基礎を形成した可能性。

そうした人々と朝鮮半島南部の洛東江流域の稲作民(スキタイ要素、青銅器)を持つ人々が紀元前100年頃に日本列島に流入し、また、衛氏朝鮮の征服や楽浪郡の設置に伴い、大きな民族移動の結果、高句麗語が日本語と混じったと推測出来る。

日本語は、南島系語彙とアルタイ語系の文法組織を持つ混成語である。稲作民は技術変化の点では革命的だったが、言語や人種には決定的な変革を引き起こすほど多数では無かったと考える。

稲作中心の洛東江と百済、山地で雑穀栽培中心の新羅の文化・言語は異なっていたと推測する。原日本語が形成された以後も伽耶人と倭人の言語の共通点は大きかったと思われるが、政治的変動によって伽耶の文化・言語が変容し、倭人の文化も地方に残存する南方的要素を取り込む形で変化したと考える。

朝鮮半島との文化上、民族上の差異は6世紀の伽耶の滅亡で決定的になった。それは上古の終焉であり、民族国家の母胎の形成である。古代国家成立は、この時に始まった?

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