正義が生まれる時

以下、適当に書く事。内容はグダグダ。

生きていくには、他の人間と関わる必要がある。自分自身の自由があるように感じていても、社会的なコードに従っていないと、他者の視線によって自らが異物であると感じてしまう。

「会社」という共同体に帰属する事で、平日に行く場所、スケジュール、服装等のコードで僕の行動は規定される。それらは、僕が「会社員」という身分である事を示すもので、それによって社会的承認を得ているのだと思う。

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僕の人間関係を幼少期から辿っていくと、幼稚園に入る前までは普通?に友人がいたような気がする。小学校に入ってからは、両親が新興宗教の信者であったり、茶髪・色白で日本人離れした外見であったり、外国人であったりする等、周囲の子供とどこかしら異なる部分がある子供と一緒に行動していたような気がする。

小学校の高学年からは、余った人間同士で行動している事が僕の悩みだった。修学旅行の時に、あまり仲が良くない同級生の斑に誘われた事がある。僕が常に同じメンバーと行動しているため、特定のメンバーに負担が掛かり過ぎると言われた。本当は僕の事が嫌いだけれど、一人になるのが嫌だから一緒にいる。そうした関係で悩んでいた。

中学生以降になると徐々に自分自身の人間関係を理解出来るようになる。僕に近づいてくる人間には3種類あって、最も多いのは自分に自信が無い人間。劣等感が強いため、同類である僕と仲良くなれると思っている。次は他人を見下ろす事で優位性を保とうとする人間。他人を叩けば叩くほど、相対的に自分が優勢になり、尊敬されると思っている。最後は真面目な人間。誰もが仲良くならなければならないと思っているらしい。

僕は常に自分が異物であると感じていたし、帰属しても良い場所が欲しかったと思う。少数派でいる事は圧倒的な恐怖を伴うと思う。

ある時、誰かが僕を殴ったとする。それは正しい行為として賞賛される。ほとんどの人間が表明しないだけで、皆が僕の事を気持ち悪いと思っている。さらに僕は役立たずだ。僕を攻撃する事は、皆の本音を代弁しているだけで、正しい行為である。誰かの助けは期待出来ない。仕方がなく一緒にいるだけの関係だから、誰も僕を助けない。

自分が貢献し、且つ、何かあったら助けて貰えるような集団が欲しかったのだと思う。

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高校生以降になると、稀にだが僕に特殊な才能があるとする人間が出てくる。人間の悪意を見抜く事が出来るそうだ。何故、そう言われるのか今でも分からない。僕には他人の悪意なんて見抜けない。

「何故、俺が○○の事が嫌いだと分かったんだ?」

何故、そう言われたのだろうか?

サカイリ君という同級生がいた。絵を描くのが上手くて、バレー部員だった。以下は、高校2年生の時のサカイリ君の言葉。

「この間、ア君が歩いてるとこをみてさ。俺に気がつかないんだよ。で大声で叫んだら吃驚しててさ(笑)。ねー。あれは気が付いていなかったんだよね。俺を無視したんじゃないんだよね」

喋っている時のサカイリ君は必死だった。自分が僕を嫌うのは良いが、僕から嫌われるのは駄目だ。そう言っているように見えた。サカイリ君は、自分を優しくて思いやりのある人間だと思いたいようだった。僕は、彼を嫌な人間とは思わなかったけど、少しだけ屈折していると思っていた。

以下は、高校3年生の体育祭の時に、サカイリ君から言われた言葉。

「ア君のお爺さんは、○○で△△をしていた■■クラスの凄い人だったんだよね。そんな人にコンプレックスを持って、自分を駄目な人間だと思っているんだ。それだから、そんな捻じれた性格になってしまったんだよね」

祖父というか、両親が教育系の活動をしていたせいで、僕の異質性が目立つ事はあったと思う。子供の教育に熱心な親から、何故、僕のような子供が育つのか?

サカイリ君の中では、僕は親族にコンプレックスを抱えていて、それが原因で性格が捻じれてしまった事になっていたらしい。そうした話をしている時のサカイリ君は、とても嬉しそうで、自分が普通の人間で素晴らしい存在である事を確信しているようだった。

僕の中に、親族関係のコンプレックスはあると思うけど、サカイリ君が考えていたようなものではないと思う。

サカイリ君を見ていると、僕に対して感じる嫌悪感をどうして良いか困っているように感じられた。僕は気持ち悪いから排除したい。しかし、社会規範上、それは許されない事である。だから、彼の中では僕が捻じれた人間でなくてはならないようだった。

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善悪は気持ちの悪いもので、理解は出来ないが確かに存在する。

私的な善悪、公的な善悪に分ける事が出来ると思う。

私的な善悪は2項関係だ。身近な集団の力関係によって定まる。公的な善悪は3項関係だ。神、公的機関等の絶対的な力を持つ第三者が存在し、彼我の力関係は対等である。

外部に存在する絶対的な第三者を意識するか否かで善悪は変化すると考える。最初にそう思ったのは、他人を何発か殴った時だと思う。自分が気持ち悪い人間である事を思い知らせる事が目的だった。

周囲の大人達によると、それはいけない事であるらしい。僕に殴られた人間は、普段から日常的に僕に教育的指導をしていたが、それた正しい行為とされていた。僕が同じ事をすると正しくない行為になる。

僕は謝らなければならないらしい。謝るついでに、もう一度同じ事をやった場合、今度はビール瓶で滅多打ちにすると告げた。

「イタイヨー。アタマガイタイヨー」

言った途端に、そういって喚き始める。

以下は、母の言葉。

母「あなたはね、この子にこれほどのダメージを与えてしまったんだよ。
  この子は仲直りしようって言ってたんだよ」
僕「だって、こいつは普段から同じような事をやってくるんだよ。
  お前が気持ち悪い奴って事を教えてやるって言ってさ。
  だから同じ事を同じようにやったんだ」
母「それは、あなた嫌がっているって分からなかったんだよ」
僕「でも、思い知らせてやるって言っていた。
  なあ。君らは何が気に入らないんだ。
  俺はお前の事なんてどうでもいい。
  生きてても死んでてもどうでもいい。
  だから、君らから関わってこない限り、何も起こらないんだよ」
A「昔は仲良かったじゃん」

あの時の嫌悪感を今でも憶えている。俺とお前の仲が良かった事は一度もない。何を勘違いしているんだ。気色悪い。普段は、気持ち悪い奴と侮蔑しておいて、趨勢が変わるや態度を一変させる。こんな奴は死んだ方がいい。そう思っていた。そうした感情は、周囲の人間が僕に対して普段から感じているものと同種の感情だったのだと思う。

そう思った時に、自らが少数派である事に恐怖した。母は、僕が殴られても何も感じない。それは僕が気持ち悪いからだ。その原因は、僕が他人を見下していて、思いやりの心を持たないからであるとされる。
反対に、僕が誰かを殴ると非難される。僕に殴られた人間は気持ち悪くないからだ。その原因は、思いやりの心を持っているからである。

社会的規範に従えない僕に外部からの助けは期待出来ない。常に排斥の恐怖に怯えなくてはならない。

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善悪は変化する。

高校生の時から、優しい人間と思われている人達が、僕に対して悪意を公開してくる事が多くなったと思う。僕が悪意を見抜いているのでなく、鬱憤が溜まっている人間達が、僕に不満を暴露する。僕には力も信頼性も無い事を確信しているからだ。

私的な関係では上下関係が優先される。上位者は、下位者が自らの思惑通りに動くと期待してしまう。自分は全能者であり、自らの行為に絶対的な善性を感じる。強者たる自分の意見は、物理法則を超えて通用するように思えてしまう。

公的な関係は、絶対的な力を持つ第三者が関与した際に生じる。上位者と下位者は対等になり、道徳的な優位性が勝敗を定める。悪い結果が生じた場合、自らが無知であったと主張する。社会的な規範が意識される。社会道徳と自らの意見を一致させようとする。

善悪は選ぶ事が出来ない。善悪の転換は無自覚的に発生する。ある基準で善であるとされた行為が、別の基準では悪という事になる。

人間は、自分には確固たる倫理観があるという間違った感覚と伴に生きている。

そうした前提条件から、どのように行動規範を見定めるかだと思う。

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