他人の心は存在するのか?

気が付いたら会社の他部署の人達に顔と名前を憶えられていた。僕は相当に目立つらしい。

身体障害者の人への悪口を聞いていると気分が落ち込んでくる。全ての人間に社会的価値が認知出来るような世界はないのものか?

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人間の「心」について考えている。僕と接する人間達の奇妙な全能感について。

A「明日は朝6時に会社に来て下さい」
僕「会社に宿泊して良いのなら出来ます」
A「それは許可出来ない。今日は家に帰って明日の始発で
  会社に来て下さい」
僕「それは無理です。
  始発で出発しても朝7時前くらいの到着になります」
A「どうしてそんなに反抗的なんだ」

実際に上記のようなやり取りがあった訳ではない。しかし、現実にほとんど同じような事象が発生する。物理現象や社会的ルールを超えて、僕を意のままに操る事が出来るように感じるらしい。

自分が空を飛べと言ったら、僕が空を飛ぶと思っている。

以下は、「なぜ伝わらないのか、どうしたら伝わるのか」の記事へのリンク。

http://nonono7.blog12.fc2.com/blog-entry-1562.html

抽象的思考力が弱い場合に起こり得る事象について書いてあるのだと思う。「アスペルガー者」 = 「空気が読めない人」という誤った理解よりも役立つような気がする。

人間同士の意志疎通において、特定の条件が満たされれば、「心」の存在が感知されるらしい。人間の思考は無自覚的な前提条件に規定されており、必ず誤りを含む。ここまでは良い。個々の人間の善悪の変動や、思考形式には幾つかの形式があるように感じられる。何らかの法則化が可能と考える。

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「なぜ伝わらないのか、どうしたら伝わるのか」の「第五章 答えの傾向を知る」の「34 あいまいな時間軸」の記述が面白いと思う。

以下は、フリン効果について書いた記事へのリンク。

http://nonono7.blog12.fc2.com/blog-entry-858.html

過去においては、現代よりも大幅に抽象的思考能力が劣る人間達の社会が形成されていた可能性。

神話や伝承は、時間を超越しており、発生した出来事の日時を記録するようになったのは比較的最近の事であるとしてみる。

旧約聖書には、古代イスラエルの王ダビデが人口調査を実施すると、神罰により7万人が死んだという話があるらしい。現代人の感覚とは違い、旧約聖書が記述された時代には、記録や調査による数値の把握が悪事であるという道徳観念があった可能性。

ダビデの子であるソロモンが人口調査を行った際には、神罰は発生していない?短期間で道徳観念が変化した可能性。

調査による把握を禁忌と見なす風潮は、現代の遺伝子検査に対する恐れと似ているのかもしれない。一世代後には道徳観念は変化しているはず。

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情報量の増大によって、人格という観念は長期的には消滅する可能性が高い。その時、他人の心や自分は心は存在しない。

それはどのような社会の実現なのか?

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