天孫降臨の夢

読んだ本の感想。

大山誠一著。2009(平成21)年11月30日 第1刷発行。



古代日本が氏族制社会から律令制国家に変化するに連れて、聖徳太子や万世一系の神話等が作り出されたという話。後半辺りから著者の主観が目立つようになる。日本書紀は信用出来ないとしつつ、日本書紀が絶対的真実であるという仮定に基づいて思考してしまう。客観的になる事は不可能なのだと感じた。

第Ⅰ部 『日本書紀』の構想
第1章<聖徳太子>の誕生

一 聖徳太子関係資料の再検討
聖徳太子は実在しないという説を資料の側面から考察する。

・日本書紀の憲法十七条に対する指摘。
①憲法十七条には「国司」という単語が使用されるが、中央から派遣
 される官人は645年の大化改新以前はあり得ない。
 古代史研究では、701年の大宝律令以後の単語である。
②憲法全体が、中国的な君・臣・民の三階級に基づく
 中央集権的官僚性の理念で書かれている。
 氏族制社会であった600年頃に相応しくない。
③中国古典から多くの語を引用する文章は、
 日本書紀等の文章と似ている。

⇒聖徳太子が亡くなったのは621年とされるが、憲法十七条は600年頃の日本に合わない。日本書紀が成立した720年頃に創作されたと考えた方が自然である。

以下は、法隆寺に伝わる史料に関する指摘。

①薬師像光背
薬師像の光背の銘文には次のような言葉が記述されている。用明天皇が病気になったため、586年に推古天皇と聖徳太子を召し、薬師像造立を誓願し、そのまま用明天皇は亡くなるが、607年に薬師像は完成する。

 疑問1:
  文中に天皇号が使用されている。
  天皇号は674年の唐において君主の称号が「天皇」に代わり、
  その情報が日本に伝わり、689年の飛鳥浄御原令において
  正式採用された事になっている。
  607年に天皇号が使用されると時系列が矛盾する。
 疑問2:
  文中に東宮(皇太子)という単語が使用されている。
  日本で最初に皇太子となったのは持統天皇の孫の軽皇子で、
  697年の事である。

⇒薬師像光背の銘文は、飛鳥浄御原令が編纂された689年頃から『法隆寺資財帳』に存在が確認される747年の間に成立したと予想される。

②金堂釈迦像光背の銘文
聖徳太子の病回復のために、釈迦像を作り始め、聖徳太子没後の623年に釈迦像が完成したという記述がある。
 
 疑問1:
  法興元という存在しない年号が使用されている。
  大化改新以前に日本で年号が使用された証拠は無い。
  他にも法皇という天皇号成立後の用語や文体の違い等。
 疑問2:
  日本書紀には、670年に法隆寺が焼失したという記録がある。
  調査の結果、法隆寺には千度を超える高温で焼失した
  痕跡がある。
  422㎏もある釈迦像が傷一つ無い状態である事から、
  再建後に作られた釈迦像と考えるべきである。

③天寿国繡帳の銘文
中宮寺に断片が伝わる天寿国繡帳の銘文には、欽明天皇から聖徳太子、妃の橘大女郎に至る系譜等が記されている。622年頃の制作とされるが、上記①、②と同様に天皇号や和風諡号(天皇の生前の功績によって、死後に贈られる称号)が使用されており、古事記や日本書紀以前には使用例が無い和風諡号が使用される事は時系列が矛盾するとしている。

④三経義疏
聖徳太子が記したとされる経文の注釈書。行信という人物が、聖徳太子の死後100年以上が経過してから法隆寺に寄進している。中国から出土した注釈書と同文である個所が多く、中国からの輸入品である事が確実視されている(京都大学 藤枝晃氏の研究)。

⇒聖徳太子が存在した証拠とされる史料は、後世の捏造である可能性が高い。

二 聖徳太子信仰という呪縛
日本書紀には、聖徳太子の詳細な伝記が記されているが、法隆寺に伝わる史料に関する記述が無い。日本書紀に描かれた聖徳太子像に合わせて、その後に法隆寺系史料が作成されたと考える。

以下は、日本書紀に記されている聖徳太子像の成立に関する意見。

・中国思想の聖人
日本書紀編纂の目的は、大王を中心とする有力氏族の祖先伝承を記す事により、国家を構成する氏族秩序を明らかにする事である。各氏族の頂点に君臨する王権の超越性を明確にする必要があり、日本の歴史には存在しなかった唯一絶対の権力者を皇族として創造する必要があったとしている。   

・法隆寺に伝わる史料
聖徳太子の亡くなった日は、日本書紀では621年2月5日とされる。法隆寺の釈迦像等では、622年2月22日に亡くなった事になっている。
2月22日は、聖霊会という法隆寺の重要な行事が行われる日である。聖霊会は、736年に疫病の流行や、藤原氏に滅ぼされた長屋王の鎮魂のため?に法華経購読が行われた事が始まりである。この頃に光明皇后等によって聖徳太子の遺品が集められている。

⇒聖徳太子は、8世紀前半に皇室や藤原氏の権力を確立するために中国的な徳を体現する人物として作り出されたのではないか?

三 疫病流行と王権の変容
735年から737年に流行した疫病が聖徳太子信仰成立と関係しているとしている。

藤原四卿が亡くなり、長屋王の遺児達が復権した。疫病流行に対抗するために、国分寺・国分尼寺が建立され、大仏が造立される。仏教の護国思想と天皇の神としての権威が融合する。

仏教や中国風の皇帝制度を取り入れるためにも聖徳太子が必要とされたのではないか?

仏教伝来と軋轢の到達点と律令制度の正当性確保。日本書紀によって正当化すべき大化改新を描くには、聖徳太子を作り出す必要があったのか。

第2章 『日本書紀』の虚構
一 仏教伝来記事の虚構
日本書紀においては、552年に仏教が伝来した事になっている。日本書紀に記述されている廃仏による仏罰は中国的な思想であり、中国唐代の仏教文献(広弘明集、集古今仏道論衡、続高僧伝、集神州三宝感通録、法苑珠林、etc)を参照・模倣している。

隋唐の末法思想の論理によって、崇仏と廃仏の間を揺れ動きながら、ト占と仏神の崇によって推古天皇、聖徳太子の三宝興隆に向かう。廃仏すれば疫病を流行させる仏教の権威を天皇制に取り込む狙いがあった?

現実の仏教伝来時期としては、588年が推定出来る。日本書紀の記述では、588年に百済から仏舎利、僧、寺工等が渡来し、596年に飛鳥寺が完成している。

日本書紀編纂の過程で、中国や新羅との対抗上、古代国家成立時期を早める必要があったため、552年伝来としたのではないか。

二 『隋書』の倭王は誰なのか
608年に隋の煬帝が、裴世清が国使として来日した記録がある。当時の天皇は推古女帝のはずだが、隋書には男王という記録がある。

隋書は、唐の大宗の時代の636年に作成されている。隋の滅亡が618年であり、隋について当事者への取材も可能であるため資料的評価は高い。また、日本の記録については唐を美化するための脚色とは無関係であるはず。

倭王、姓は阿毎、字は多利想比利孤としている。日本書紀には都合が悪いため、倭王を記述していない可能性。そして、日本書紀においては、610年の新羅・任那の使者の謁見は蘇我馬子が行っている。隋書において、隋の使者が最後に謁見した人間は倭王、日本書紀において新羅の使者が最後に謁見した相手が蘇我馬子。

隋書における倭王とは蘇我馬子ではないか。

第3章 実在した蘇我王朝
一 虚構の王権
日本書紀における聖徳太子の父 用明天皇の治績は皆無で、即位後一年で病没している。用明天皇も大王でなかった可能性。その次の崇峻天皇の治績も無い。

同時期に、蘇我馬子の権力を象徴する飛鳥寺が建設されている現実と、記録が噛み合わない。

二 蘇我王朝
当時の政治の中心地であった飛鳥に埋葬されたのは、蘇我稲目から入鹿に至る蘇我氏四代であり、蘇我氏でないのは欽明天皇くらいである。敏達天皇、用明天皇、推古天皇は河内に埋葬されている。

また、日本書紀においては、613年に難波から竹内峠を越え、横大路を東行して飛鳥に至る道が完成している。横大路と直行して奈良盆地を南北に貫く下ツ道の完成も同時期とされる。下ツ道の基点は、蘇我稲目の墓とされる見瀬丸山古墳である。

日本書紀では、蘇我氏の功績を矮小化して、天智天皇の正当性を記す必要があった。日本書紀編纂にあたっては、藤原不比等が一貫して実権を握っていた。679年に草壁皇子の舎人となり、文無天皇や元明女帝、元正女帝らを擁立する。

当時の王権の正当性を記すためにも、聖徳太子が蘇我氏の功績を代替する必要がある。推古女帝の存在は、元明・元正という中継ぎとしての女帝が存在したために、作り出されたと考える。

第4章 王権の諸問題
一 王権の成立と展開
著者は、王朝交替説を考えている。

①ヤマト王権
3世紀中頃に、三輪山の麓に纏向遺跡が出現する。箸墓古墳の築造等、王権が成立した証拠と考える。纏向の優位性は以下の通り?
 ・巨大な平野
  西日本全体では、中世の干拓以前の巨大平野は少ない。
  大和盆地、山背盆地、河内盆地等は大規模稲作を可能にする。
 ・東西交通の要所
  三輪山から初瀬川をつたい、伊勢湾に達する道がある。
  纏向は東西交通の要所となる。

巨大古墳の築造は、3世紀から4世紀の纏向周辺、4世紀後半の大和盆地北部の佐紀・盾列古墳群、5世紀の河内平野の古市・百舌鳥古墳群へと移動する。葛城の地に巨大古墳が出現するのは、4世紀末頃からである。古墳からの出土品にも大陸・朝鮮系の品が見られるようになり、大陸との交流が活発化した事が分かる。歴代大王の宮都は纏向周辺にあるため、王権は移動していないとしている。

421年から476年にかけて、10回ほど倭王から中国南朝(宋朝)への朝貢が行われている。ヤマト以外では、葛城は、紀ノ川の交通や沖ノ島を利用した交通を活用して勢力を伸ばしたと考える。

5世紀を通じて農業技術が浸透した結果、古墳文化に変化が生じたとしている。5世紀末には巨大な前方後円墳は姿を消すようなり、村落単位の小さな古墳が大量に作られるようになる。有力な大首長の権力が解体し、村落を基盤とする新勢力が台頭したとしている。

②大和政権
5世紀末から6世紀にかけては畿内を束ねる存在もいなくなったとしている。その結果、情報を集積する権力中枢や交通路の確保のための権力が望まれるようになる。

そうした状況の中、葛城氏の配下から渡来人集団を掌握する形で台頭したのが蘇我氏であるとしている(加藤謙吉氏の研究)。

近江を拠点とする継体天皇が大和政権の起源ではないか。継体天皇は即位後に雄略天皇の孫である手白香皇女と結婚し、欽明天皇を生んだ事になっているが、継体天皇の即位時の年齢は58歳であり、万世一系の論理を実現するために捏造された話ではないか。

欽明天皇は、蘇我稲目の2人の娘との間に18人の子をもうけており、現実には蘇我氏と近い人物だったのではないか。

その次の敏達は、欽明天皇と継体天皇直系の石姫の子であり、蘇我氏と協力して東国支配や開発を行った?

二 馬子以後
600年頃の王権は、継体系息長氏と蘇我氏の協力関係によって成立したと考える。645年の大化改新は、大王位にあった蘇我蝦夷、入鹿に対するクーデターであった可能性。

朝鮮半島情勢の緊迫化によって644年に唐が高句麗征伐を宣言している。朝鮮半島情勢の変化が日本にも影響し、権力集中化が行われた可能性。

第Ⅱ部 天孫降臨の夢
第1章 <天皇制>成立への道
一 皇帝になれなかった大王
日本には征服王朝が存在せず、権力の基盤となる独自の軍事力や財力を持つ皇帝は存在しない。天皇は権威を象徴する存在であり、役人が権力を代行する形式が日本風である。

二 強大な王権の創造
672年の壬申の乱に関する記述。671年に始まる唐と新羅の争いに大友皇子が介入する姿勢が原因であったとしている。671年に来日した唐使 郭務悰に鎧甲、弓矢等を与えた記録。半島情勢に加担したくない豪族達の意向が大海人皇子の挙兵に繋がったという話。

強大な王権は存在せず、豪族達の意志が政治を動かしたとしているけど、この辺りは著者の主観ではないかな。

第2章 藤原不比等のプロジェクト
一 藤原不比等の役割
藤原不比等が天皇制を利用して、藤原氏の権力を確立したという説。

二 プロジェクトX―草壁皇子の擁立
持統天皇の息子である草壁皇子の即位の実現に向けて。685年の天武天皇崩御後も殯が丸二年以上も継続している。王権を正当化する歴史認識を確定していた可能性。

天皇を至高の存在とする根拠を構築する必要がある。689年に草壁皇子は亡くなるが、万葉集の草壁挽歌には、天地開闢等の神話的世界が記述されており、皇子の死を悼むのは後半の一部である。草壁皇子を讃える歌だったはずが、亡くなったために後半部分が追加された可能性。

天皇を神と表現する技法は、この頃から始まった可能性が高い。

三 プロジェクトY―軽皇子の擁立
草壁皇子の遺児 軽皇子の擁立に向けて。697年に軽皇子は文武天皇として即位する。その即位詔にて高天原という言葉が使用される。草壁挽歌では持統天皇を太陽に例えているが、高天原の支配者は太陽である。高天原神話の枠組みが構築されつつある。

四 プロジェクトZ―首皇子の擁立
701年に不比等の娘が首皇子(聖武天皇)を生む。707年に文武天皇は亡くなるが、首皇子は幼いため、元明女帝が中継ぎとして即位する。天武天皇直系の長屋王というライバルがいたため、不改常典を作り出した可能性。天智天皇が立てた法であり、元明女帝の即位を正当化するらしい。

第3章 天孫降臨神話の成立
一 天孫降臨神話への道
藤原不比等が創造した神話は、単純な形式だったはずである。しかし、構想の途中で皇子が死に、中継ぎの女帝が即位したために複雑化した可能性。

二 プロジェクトX・Yの神話
万葉集の草壁挽歌には、高天原も天照も存在せず、草壁の即位は神々の意志とするだけである。天上の支配者として「天照らす日女の命」が登場し、それが持統天皇を指すとしている。

次の文武天皇即位時に高天原が登場し、持統天皇がアマテラスであり、オシホミミ(ニニギの前に降臨を命じられる)が草壁皇子、ニニギが文武皇子という事になる。

ニニギの降臨地 クジフルタケについて。神話によって降臨地が異なる。朝鮮半島の三国遺事所収の伽耶の神話では、伽耶の始祖 首露は亀旨峰(キジホウ)に降臨したとしている。亀旨の音はクジの音と知覚、伽耶の神話が影響した可能性。

日本書紀本文では、吾田長屋笠沙之碕(鹿児島県薩摩半島の野間岬)となっている。隼人神話の舞台であり、神武東征の出発地であるが、隼人の存在が知られるのは682年以後とされており(中村明蔵)、持統朝の時代では隼人神話が未成立だったため、降臨地の相違が発生している?

この段階では、神武東征等の神話は未完成であったとしている。そのため、伽耶の神話から降臨地を拝借した可能性。

三 プロジェクトZの神話
日本神話において、ニニギに降臨を直接命じるのは、タカミムスヒである。タカミムスヒは皇祖とされており、聖武天皇の祖父である藤原不比等の事ではないか?

降臨を司令する神の違いによって、アマテラス系神話とタカミムスヒ系神話の2つを仮定すると以下のようになる。

アマテラス系:
文武天皇の擁立を目指しており、アマテラス = 持統天皇、アシホミミ = 草壁皇子、ニニギ = 文武天皇となる。

タカミムスヒ系:
聖武天皇の擁立を目指しており、アマテラス = 元明天皇、アシホミミ = 文武天皇、ニニギ = 聖武天皇となる。

四 『古事記』の神話
古事記は、文武朝に成立したアマテラス系の神話を基本的に採用しているが、タカミムスヒ系の要素もある。古事記の神話は、アマテラスとタカミムスヒの神話の折衷である。藤原の不比等を欲想わない長屋王の意向で古事記が編纂された可能性。

以下は、古事記の特徴?

①高木神
タカミムスヒの別名として、高木神を創作している。藤原不比等の神名を平凡にする意図?
②ニニギの降臨地
ニニギの降臨地を伽耶神話によって「竺紫日向高千穂久士布流多気」としながら、笠沙の碕に到着させて隼人神話に繋げている。アマテラス系神話への拘り。

強引なアマテラス系神話への誘導は何を意味するのか。

終章 天皇制をめぐって
天皇制は単なる王制ではなく、日本の宗教的風土から出現した体制であるとしている。7世紀末から8世紀にかけて日本神話が成立したと仮定し、日本書紀を学ぶ事で現代に繋がる日本の根本を見直す事が出来る。

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