アメノヒボコ、謎の真相

読んだ本の感想。

関裕二著。二〇一四年二月一八日 初版印刷。



以下は、Wikipediaの「アメノヒボコ」についての記事へのリンク。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%83%92%E3%83%9C%E3%82%B3

第一章 アメノヒボコとヤマト建国
日本古代史に記述される「アメノヒボコ」は、日本書紀では第十一代垂仁天皇の時代に、第十代崇神天皇を慕って新羅から来日した人物と記述されている。第十代崇神天皇が、実在のヤマト初代王とされているのでヤマト建国黎明期の人物という事になる。

アメノヒボコの最終的な住まいは兵庫県北部(但馬) = タニハという地域になる。

著者は、日本書紀の記事から「アメノヒボコ」と関わり深い地域が無視されているとし、日本書紀が歴史を改竄していく過程で「アメノヒボコ」の正体も歪められたと考えている。

◎ヤマト建国
ヤマト政権の誕生は、3世紀半ばから4世紀にかけてと推測される。奈良盆地にある三輪山麓の纏向遺跡が3世紀初頭に出現し、初期の前方後円墳が造営され、3世紀半ばから後半にかけて前方後円墳が定型化し、東北北部を除く日本各地に広まる事になる。

纏向遺跡は、4世紀半ばまでの150年間使用される事になる。ヤマト建国の象徴である前方後円墳の原型は、弥生時代後期の吉備(岡山県、広島県東部)で誕生し、出雲や畿内の埋葬文化、北九州の副葬品等の埋葬文化が集まって葬儀様式として完成されたと考える。

纏向遺跡の特徴として、日本東部由来の外来系土器の多さがある。以下の比率から、東海、近江、関東系の土器が60%近くになる。
(吉備系7%、北陸山陰系17%、関東系5%、東海系49%、近江系5%、河内系10%、紀伊系1%、播磨系3%、西部瀬戸内海系3%)

◎消された地域
著者は、日本書紀編集時の長者である藤原不比等が藤原氏に都合の良いように歴史を改竄したと考える。ヤマト建国に貢献したのに日本書紀が無視した以下の地域がある。

・近江(滋賀県)
 纏向遺跡への土器の流入が多い
・尾張(愛知県西部)
 「続日本紀」には、716年に壬申の乱にて功のあった尾張宿禰大隅
 に田を賜ったという記事がある。
 天武天皇に加勢し、軍資を提供したらしい。
 同様の記述は「日本書紀」には記述されておらず、
 大友皇子に加担した藤原不比等が尾張の貢献を無視した可能性。
・タニハ(京都府北部、兵庫県北東部)
 日本海の中継地として抜群の立地。東国の発展のため物資を
 供給したと著者は考える。
 由良川、加古川を利用して日本海と大阪湾を繋ぐルートや琵琶湖を
 利用した流通。

◎前方後方墳
前後が四角形の古墳。伊勢湾沿岸部で3世紀初頭に発生したと考えられる。近江の神郷亀塚古墳が最古?前方後円墳よりも先に、前方後方墳が東国等に広まっていったという説がある(最初に北関東で造営された古墳は、群馬県太田市の天神山古墳という前方後方墳)。

著者の考えとして、ヤマト政権は東国の縄文人達が作ったとしている?ヤマトの盆地は西に突き出た高台で瀬戸内海を見下ろす天然の要害である。前方後方墳を築いた人々が纏向遺跡を構築し、前方後円墳を生み出し、出雲や吉備を飲み込むような政権を構築したのではないか?

日本列島各地に、軍事目的と考えられる高地性集落が無数に作られた時期があるが、前方後円墳の伝播と同時に高地性集落は姿を消していく。ヤマト政権が戦乱を収拾した可能性。

第二章 アメノヒボコは本当に渡来人なのか
著者は、「アメノヒボコ」が新羅人であったという話に疑問を持つ。日本書紀を編纂した8世紀の朝廷は、親百済派であった。白村江の戦い(663年)の後に、多くの百済遺民が来日し、彼等が朝廷内で力を持つようになったため?

百済の宿敵であるはずの新羅人である「アメノヒボコ」は「日本書紀」において悪く書かれていない事が奇妙であるとしている。

◎古事記における「アメノヒボコ」
「古事記」には「アメノヒボコ」について異なる伝承が残されている。応神天皇段に、昔、妻を追って日本にやって来た人物と記載されている?最終的には但馬の国に留まったらしい。

上記の話と似たような逸話が、日本書紀別伝?に「ツヌガアラシト」の逸話として記載されている?「アメノヒボコ」と「ツヌガアラシト」は同一人物であったらしい?

◎名を交換する話
「日本書紀」神功皇后摂政13年の記事に、神功皇后が皇太子 伊奢沙別命(後の応神天皇)に角鹿(福井県敦賀市)の神である誉田別尊を拝みに向かわせた記述がある。この時、皇太子(後の応神天皇)と角鹿の神が名を交換して来たと記録されている。

以下は、Wikipediaの神功皇后についての記事へのリンク。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E

角鹿という地名の由来は、「ツヌガアラシト」が3年間留まった事にあるらしい。「アメノヒボコ」は来日後、胆狭浅太刀を献上している。伊奢沙別命と胆狭浅太刀は、「いささ」という文字で結び付ける事が出来る?

江戸時代後期の漢学者 豊田亮は、「いささ」から、「アメノヒボコ」と伊奢沙別命は同一人物と考えている?

「古事記」では、「アメノヒボコ」の末裔である葛城高額比売命が神功皇后の母であるという話があり?、神功皇后や応神天皇、「アメノヒボコ」の関係は謎である。

◎古事記偽書説
「古事記」の序文には、712年に太朝臣安万侶によって天武天皇に献上されたとある。「日本書紀」の編纂は720年であるため、「古事記」は「日本書紀」よりも先だと信じられている。

しかし、「古事記」が偽書であるという説は昔から唱えられており、江戸時代の加茂真淵、沼田順義も疑念を持っていたらしい。同じ政権が2つの歴史書を編む必要性?「古事記」が親新羅で「日本書紀」が親百済である謎。

1929年に中沢見明が提示した矛盾。
 ①「日本書紀」が「古事記」を参考にしていない
 ②序文の太朝臣安万侶の署名に「官」が落ちていて不完全
 ③勅撰書に正五位以下の位階の単独署名は異例
 ④序文が上表文の形を取る形式は平安朝以降
 ⑤712年の日付の序文が712年以降に書かれた文章を
  参考にしている
 ⑥本文と序文に用語の統一性が無い

著者は、上記の問題を「古事記」が「日本書紀」が抹殺した歴史のヒントになるために記述されたためと考えている?「古事記」が5世紀末の顕宗天皇の場面でほとんど終わり、後は7世紀前半の推古天皇まで事務的な記述になっている事を奇妙だと考える。

◎「日本書紀」の矛盾
著者は、三品彰英の論文から、「日本書紀」が「アメノヒボコ」の来日時期を崇神天皇、垂仁天皇の時代に改竄した事によって矛盾が生じたとしている。

・「古事記」の記述
神功皇后の三韓征伐が、日本史における最初の朝鮮半島との関わりになっている。そのため、神功皇后以前の仲衰天皇が新羅の存在を知らない。新羅の存在を知らないために神の言葉を疑い、神罰によって仲衰天皇は死亡している。「古事記」では、応神天皇の段に「アメノヒボコ」が過去に来日したという記述?

・「日本書紀」
仲衰天皇以前の垂仁天皇の時代に「アメノヒボコ」が新羅から来日している。それなのに仲哀天皇が新羅の存在を知らないという矛盾が発生している。

⇒????神功皇后の祖が「アメノヒボコ」であるという記述が「古事記」の中にあるなら、「古事記」における最初の朝鮮半島との関わりが神功皇后の三韓征伐というのは変じゃないかな?僕の読み間違い?

「アメノヒボコ」と神功皇后は近しい関係にあり、「日本書紀」は二人の関係を抹消したかったのではないかと著者は考える。

◎神功皇后について
「日本書紀」は、神功皇后の時代に「魏志倭人伝」の邪馬台国の記事を引用し、同時代の人だったかもしれないとしている。そうすると神功皇后は2世紀後半から3世紀頃の人物という事になる。

著者は、「日本書紀」が神功皇后が北部九州に遠征し、山門県(福岡県みやま市)の女首長を成敗したと記述している事に注目する。女首長とは邪馬台国の卑弥呼であり、神功皇后は卑弥呼を殺した後でトヨ = 台与の名で即位した可能性を考えている。

ヤマトが親魏倭王を殺したとされないように、卑弥呼の宗女として魏に朝貢した可能性(本居宣長も卑弥呼は九州の女酋でヤマトを詐称した可能性を考えている)。

第三章 アメノヒボコと武内宿禰の謎
「アメノヒボコ」が但馬(豊岡市)を住処とした理由について。

豊岡市には、「アメノヒボコ」が津居山の岩を切り開き、瀬戸内海との水路(瀬戸の切戸)を通し、豊岡盆地を水捌けの良い土地にしたという伝説がある(出石神社の勧進帳)。

「播磨国風土記」の中で「アメノヒボコ」が出雲の神々と争う記述が多い。日本海と瀬戸内海を繋ぐ交通の要所である播磨を巡る争いの記録考えられる。

出雲から見ると、タニハは船でヤマトに向かう際の障害であり、タニハから見ると、出雲は朝鮮半島へ向かう際の障害である。

対立関係にあった出雲とタニハは他の地域と同盟を結んで互いを牽制した?

出雲:
越前と同盟関係。山陰で流行した羽状文、渦状の文様が施された台付装飾壺が北陸でも見つかっている。山陰で巨大化した四隅突出型墳丘墓は北陸でも採用されている。

タニハ:
越後と同盟関係。「ツヌガアラシト」の伝説が残る角鹿は、福井県のでも福井平野とは山で隔てられた別の勢力圏に属していたとされ、タニハの領域であったとしている。

豊岡と角鹿に「アメノヒボコ」と「ツヌガアラシト」の伝説が残ったのは、この2つのポイントが出雲と対立した地域だったからではないか?

ヤマト建国は、鉄の奪い合いが原因だったという説。古来、出雲や吉備は鉄を独占する事で政治力を増したと考える。北部九州の関門海峡を封鎖する事で鉄を独占したのではないか?

そのため、畿内以東の勢力が日本海沿岸のタニハと接触し、鉄を入手しようとした?纏向遺跡には外来系土器が多いが、北部九州の土器はほとんど見つかっていない。鉄を手に入れるための、近江や尾張、東国の連合体としてのヤマト政権が生まれた可能性。

P126から、応神天皇の父についての推測が記述されている。仲哀天皇崩御の晩、住吉大神と神功皇后が秘め事をしたという記録がある。

住吉大神と武内宿禰には接点があり、応神天皇の父親は武内宿禰なのではないか?「古事記」では武内宿禰を蘇我氏の祖としているが、「日本書紀」では系譜が無視されている。

蘇我氏を滅ぼした中臣鎌足の子孫である藤原不比等が「日本書紀」において応神天皇の父の記録を改竄した可能性。

この章で武内宿禰と「アメノヒボコ」が同一人物である可能性についての記述。この辺りの記述は回りくどい。

・浦島太郎
「日本書紀」では浦島太郎は実在したとしている。雄略22年にタニハの国の浦島子が蓬莱山に至り、仙人と巡り合ったらしい。「丹後国風土記」、「万葉集」の記述では、蓬莱山等に向かい、三年後に故郷に戻ってきて老人になってしまう。

この辺りは海幸山幸神話と似ており、山幸彦は兄の釣り針を無くして困っている所に、塩土老翁に導かれて亀に載せられ海神の宮で三年を過している。

塩土老翁の別名は住吉大神で、塩土老翁は神武天皇の東征の切っ掛けとなる等、高貴な人を導く役目を担っている。武内宿禰も応神を守ってヤマトに向かう等の似た役割りを担っている。武内宿禰は三百年の長寿を保ったとされており、浦島太郎が三百年後に故郷に戻り老人になった逸話と似ているとしている。

住吉大社には、国宝社殿が四棟立ち並び、三棟が住吉三神を、一棟が神功皇后を祀る。仲哀天皇がいないのは、神功皇后の本当の夫が住吉大神だからではないか?

⇒この辺りの住吉大神 = 武内宿禰の記述には無理があるように
 感じた。
 四章のスサノヲ = アメノヒボコ説を作り出したいために
 無理をしていないか?

第四章 アメノヒボコはスサノヲだった?
三世紀頃のタニハにて砂鉄製鉄が行われた可能性について(物証無し)。

◎「日本書紀」と「古事記」におけるスサノヲの違いについて
「日本書紀」と「古事記」の最大の違いは、スサノヲの扱いであるとしている。「日本書紀」ではスサノヲは神の国から放逐されているが、「古事記」では遣わされた事になっている。三貴子という呼び方も「古事記」にしか無い。

スサノヲの舞い下りた地点は出雲の中心地(出雲大社が立てられた西側)とは遠い。大国主神は、「日本書紀」ではスサノヲの子であり、「古事記」ではスサノヲの六世孫である。大国主神は、スサノヲの娘を娶った話があるが、本当の子であればスサノヲの娘との婚姻関係は成立しないはず。

大国主神を婿養子とすると、スサノヲは余所者であり、八岐大蛇退治は出雲成敗の神話化ではないか?

「日本書紀」は、スサノヲと出雲を無理矢理結びつけているが、出雲がタニハの支配下に入る過程が八岐大蛇神話ではないか?

さらに、スサノヲと武内宿禰の類似性について。スサノヲは出雲の須賀に宮を立てる。「スガ」は湿地帯で取れる砂鉄を暗示している。蘇我氏最盛期に都が置かれた飛鳥は、湿地帯であり、飛鳥の地名は「ア+スカ(スガ)」から来ているという説がある。蘇我氏は「スガ氏」だったのではないか?スサノヲと蘇我氏は繋がってくると考えている。

また、スサノヲが天皇家の祖であるとされた時期があったという話。愛知県 津島神社には、第二十九代欽明天皇の時代に、スサノヲの魂が津島に至り、スサノヲは日本の本主であるから日本総社と称するようになったという伝承がある。

さらに、スサノヲは紀伊の海人だった可能性。スサノヲが木を育て紀伊国に渡した伝承?紀伊の海人と朝鮮半島との交易が神々が日本と朝鮮半島を往還する神話を生んだ可能性。奈良盆地南部に都が偏在した5世紀後半から6世紀後半に、紀ノ川から瀬戸内海に至る海上ルートが重視された?

鋼1トンを生産するために必要な砂鉄は12トン、木炭は14トン?製鉄には膨大な木材が必要となる日本東部と紀伊の森林資源を確保したヤマト朝廷は、出雲や北九州に対して優勢になったのではないか?

神話の中で、スサノヲは朝鮮半島に舞い下り、「ここにはいたくない」と言って日本列島に来る。「朝鮮半島には金属の資源が眠っているが、日本には浮宝(木材?)がある」と言っている。

当時の朝鮮半島が森林資源を使い果たしていた可能性。湿潤な気候によって日本列島の森林は再生する。ヤマト朝廷の優位点は日本東部や紀伊の森林を確保した事にあったのではないか?

著者は、「アメノヒボコ」とスサノヲを同一人物と考える。魏志倭人伝では、卑弥呼の死後、男王が立つも周囲が服さずにトヨが立ったとある。この男王がアメノヒボコであり、トヨ = 神功皇后に取って代わられたのではないか?

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アメノヒボコとスサノオ

アメノヒボコは海から渡って来たヒボコ→ヒョッポ公→陜父公→高句麗開祖の朱蒙〔チュモン〕の四天王の1人、高句麗2代目王のユリを諌めて釈免されソソノ王(スサノ王)の次男の百済から陜川に入り建国し(オホカラコク)その後九州熊本に勢力を広げ倭諸国の1つとなった。その後子孫が東に勢力を伸ばし多婆那国(出石)に落ち着いた。ニギハヤヒは(天照国照彦火明櫛玉饒速日命)ソソノの長男→沸流(布留)建国に失敗し、仲間と共に倭国に流れ大和に落ち着き物部氏の始祖となった。神器はソソノ王(高句麗→百済の正統な流れの証し、ゆえにニギハヤヒもヒボコも持っていたスサノオはその頃は既に神、ヒボコが奉ったのがスサノオ(女神=建国の神)天照が女神でスサノオが男神なのは歴史の歪曲
ヒボコこそが垂仁天皇(活目入彦五十狭茅尊)で田道間守の父親
ヒボコの一族は新羅建国にも関わっている
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