自我の哲学史

読んだ本の感想。

酒井潔著。二〇〇五年六月二〇日第一刷発行。



プロローグ 「自分のことは自分が一番よくわかる」ってホント?
本書は、自我概念の論理的、存在論的な特徴と身分を、哲学史的に形成において明らかにする。

自我とは「自ら」の「我」である。自分とは、外に対する「内」である。今日の社会において社会が是として称揚する「自我」は西洋近世に出自を持つ。

連続的、自己同一的(時間の経過に関係無く同一の自己が継続する)、主体的、統一的(一つの自己が複数の意見や欲望を持つ事は無い)である精神としての「私」。自分の意見、自分の決定等、自我の存在を想定さぜるを得ない事がある。自分の意志表明が重要視され、未決断は卑怯とされる。自我は認識し意志する主体として、他人に影響されたり、意見を変える事は主体的でないとして批判される。

自我は身体を所有する心の概念としてイメージされ、所有の概念は、ジョン・ロックによって論じられ近世における自我概念に影響を与えている。変わらざる主体としての自我を持つ市民が、近代社会が機能するための必須条件である。

民主主義社会とは、独立な複数の主体的自我の同意に基づく契約的共同体であり、自我の存在を仮定しなくては自由と多様性と協調は不可能にになる。

副作用としての自己責任論がある。個人の発言や行動の意味を解釈する場合、心の要因を考える。個人の心理的要因や過去に原因を求める心理学化の姿勢は、不幸や悩みの責任は自己自身にあるとする自己責任論に繋がる。

第Ⅰ部 西洋近世哲学における自我
第1章 「自我」概念の内実
広辞苑に記載されている「自我」の内容。

哲学的意味:
認識や感情等の主体を外部と区別する言葉。時間の経過や変化を通じての自己同一性を意識する。

心理学的意味:
意識や行動の主体を指す概念。

⇒自我とは、外界や他人の反対語である
⇒自我は、過去の自分と別人でなく、同じ人物である

自我は、同一性が記憶によって認識されて「人格」という性格を獲得し、道徳的行為の主体となる。

近世においては、思考する主体としての自我から、認識や行為の対象としての自己への転換に至る。自己嫌悪、自己観察等、私が私に係わり合う場合に自己は意識される。

第2章 デカルトからカントへ
デカルト:
懐疑を学問の基礎とする。
著者は、以下の2点によって「自我」の存在を疑う事が出来ないとしたデカルトを不徹底としている。

①自我の存在
「自我」が存在しないとしつつ、「自我」が存在しないのなら欺きようがないという理由から「自我」は有るとしている。欺かれている「自我」が存在しない議論には進まない。
②意識の明証性
意識の明証性が疑われていない。意識の疑ったり自己説得する働きの明証性が確実であるという前提がある。

⇒デカルトの思想は、他者の思考は表情や言動を通して間接的にしか知り得ないが、自己の思考は直接的に自分が理解出来るという前提条件に支えられている。

上記の前提条件から、デカルトの考える「自我」は、意識されたものだけである。意識された思惟を自らの本質であり、「実体」であると結論する。思惟は、対象の外的認識を可能にする先駆的条件である。「自我」は諸性質や状態の変化の下で同一に止まる。同一・連続・主体的な近世的自我概念の形成が行われた。経験的自己意識は、移ろい易い。超越論的自己意識は、人間の経験一般の最高原理として優位を持つとする。

カント:
デカルトが暗示した経験的自己と超越論的自己の二重化の問題を論じる。「思惟する我」と「思惟される我」の分裂。外部から様々な刺激を受ける経験的心理学的自我の背後に、絶えず思惟し、絶対に対象化されない自我が存在する。

カントは、対象認識を可能にする論理的形式的な制約としての自我を考えた(アプリオリ)。知覚された情報を統一する根源的活動としての統覚があり、人間的認識全体における最高原則とする。

例えば、川に舟が浮かんでいる光景を目撃するとする。一定時間の後に、舟が移動していると認識する。その場合、川の流れが「原因」で、舟の移動が「結果」であると認識する。

⇒「原因―結果」という関係は知覚されないが、
 悟性による結合により認識される。
⇒知覚だけでは、何かを認識する事は出来ない。

上記のように、対象知覚が統一される事が、「自我」の同一性を意識させるとする。カントは、「自我」を対象認識の超越論的な制約としている?「自我」は、情報を統一可能にする制約として、対象認識と一体のものとして機能し、「自我」の活動が意識されるだけである。

あらゆる人間に共通に存在する普遍的自我。一般我であり、個人我ではない。カントは、現象我と知性我の関係を、規定されるものと規定するものという概念を用いて性格付けしている?
道徳哲学において、二つの自我が区別され、意志が感覚的自我を制御するべきとするカントの道徳論は困難を含むとしている。意志は命令だけで感性我を従わせる事は出来るのか?普遍的自我があるとされるが、現実的な個人性が考えられていない。著者は、普遍的理想を個人の事情に適合させる具体的方法が不明としている。

⇒カントの論理では、法則性や普遍性が支配的であり、個別性の見地が後退している?

「自我」は、実体として検証可能なのか?それとも「自我」は名目的な概念であり便宜的なラベルに過ぎないのか?

第3章 ライプニッツの自我論
ライプニッツ:
自分に気付く事が重要なのでなく、個性的な「自我」が他の「自我」と異なる理由、相違点をどこに見るかが重要であるとした?

自己意識的自我論でなく、「個体的実体」、「個体的概念」という概念を構想。「自我」は普遍や全体でなく、個別的な存在者、固体である。個人、個体だけが現実に存在する。

自分が何者であるかは意識するだけでは分からない。自らの記憶には誤りがあるかもしれないし、他者による認定は妥当性の保証が無い。

○個体的概念
過去の自分と未来の自分の同一性を保証するには、自分に関する全ての出来事をアプリオリに含む「個体的概念」が必要である。それは神の知性によって思惟される。個体は一般的概念に偶発的事情を付加して個別化されるのでなく、各個体それぞれにアプリオリに決定された定義や本質がある。

個体性は取り違えられる全ての危険から防御される。全ての規定は、後から付加されるのでなく、最初からアプリオリに含まれる。それは他者との関わりだけでなく、未来に発生する事象も含むため、人間の自由意志の観点から神学者アルノーに批判される。

⇒ライプニッツは、便宜的なラベルとしての「自我」でなく、実在的な「自我」を求めた?ライプニッツの考える「自我」は、無数の情報を含みながら、相互に整合的?連続性、同一性に加え、脈絡性が必要とされる?

⇒行き当たりばったりで一貫性に乏しいものは「自我」とはいえない。無限の内容を含みながら、脈絡ある全体である人格。近代的自我論の代表?

第4章 意志としての自我へ―キルケゴールとニーチェ
普遍的理性への批判。「自我」を形而上学的定義としての思惟実体や、論理的規範としての超越論的統覚とするのでなく、現実の相から考える。その根底にあるのは意志である。単独者としての自己を貫徹するために、「自我」の連続性、同一性、主体性は強化される。

キルケゴール:
理性的自我の背景にある根源的意志としての自我。人間は正しさを知っていても不正を行う。生身の人間である我が我であるとはどういう事か?

「自我」と「自己」を区別。精神を「自己」として定義し、「自己」とは、自分が自分に対する関わり合いである自己関係とした。自己は、自分が自分に関わる関係の遂行である。例えば、自分が自分を意識する、自己嫌悪、自制、etc。

関係に以下の三段階があるとした。関係のバランスが崩れる事で絶望が生じるとしている。

第一段階:相対立
対立や矛盾する要素間の関係。時間と永遠、有限と無限、必然と自由。死すべき存在でありながら不死を望む等。
→何かについての絶望が生じる。有限性や不自由についての絶望。
第二段階:再帰
異なった要素の関係が、関係自身に関わる関係。自己への再帰。
→自己逃避。
第三段階:神
再帰的関係である事故が、自己を定率した他者 = 神に関係する関係。
→神との関わりが不透明になる事から生じる絶望。死に至る病。

キルケゴールは、神との関係を透明にする信仰によって絶望から治癒されるとした。「自我」を固定的に定義して普遍化するのでなく、個々の単独な人間精神における関係を叙述する現象学。

ニーチェ:
自らの力を意志する「自我」。客観的な真理を目指す「自我」は無い。自分の勢力拡大を欲する事が「自我」の真実とした。根源的な力や衝動として存在論的に考える。

○遠近法
「自我」が自分の流儀で作る世界像。「自我」は各自の遠近法(各自の視点)を遂行して生きる。全ての「自我」は、自分に都合欲世界を意味付けし支配しようと努める。各人は世界の真理を分有するが、「自我」による世界の所有・支配を含意している。

ニーチェは、偽善を排し、他者と比較しない自らの生きる意味を創造すべきとした?キリスト教道徳から脱した自己の内面に根差した新しい道徳。

第5章 20世紀大衆社会の中の自我―ヤスパースとハイデッガー
「自我」理解と技術産業社会、大衆社会との対決。

ヤスパース:
「自我」を実存であり、代替不可能な単独者であるとした。現代という時代状況を規定している要因は大衆である。大衆社会を実現させた物理的条件は、科学技術の進歩、産業革命、都市化である。
現代人は、自己存在を主体化するために、人間生活を予測可能にしようとする。1920年代当時の現代は、自己拡張運動が限界に突き当たり、自己自身にぶつかる時代であるとした。

自己が他者の自己と調和し得るかは一般化されない。共同体が崩壊した時代では、全ての人間にとっての唯一の状況は存在しない。

ヤスパースは、人間が忘却の中に自己を放棄するために労働に身を投じる事を願うとしている。人間は自由である事を願うのでなく、自然に自らを一致させようとする。複雑で変化の早い時代状況への適応?正しい事をしていると感じる事による良心の安らぎ。

ハイデッガー:
大衆という現象は日常性から生じると考える。存在と存在者は区別しなくてはならない。有る事自体を意識する?存在を忘却した「自我」は、目前の対象に心を奪われた世人であるとする。

「自我」は、「現存在」となる。「現存在」は己の存在を関心の的とする存在者である。私は、私が存在するという事において、私の存在に関わっている。気分は理性によって制御される事象ではなく、自己の本質的契機である。気分付けられる事無しに存在する事は出来ない。公共性の実質は、己を散逸させて生活せしめる慣習、価値体系、表象からなる。自己から逃避し、自己に直面する事を回避し、安んじて世間並みに生きる。

公共性のコードが機能しなくなる時に、剥き出しの自己が現れる。不安や退屈である。不安は、有るものでないという無への不安であり、自分自身や世界への不安である。不安の気分の中で、現存在としての「自我」は自己に向き合う。

⇒ハイデッガーは、自己を日常に埋没させ、分散させる事を非本来的と見ており、克服しなくてはならないとしている事から、常立的な「自我」を想定している。

普段は忘却している死を我が事として引き受け、自分だけの存在を選びとるべく決断する。その時に自己は本来的になり、自己として常立的に自らの立場を確保して自立する。時間変化にの下で変わらず立ち続け、決断し、反復するハードな自我概念。

第6章 現代哲学と自我―ブーバーとレヴィナス
自由に選択していると思い込んでいる事が、周到に操作され、制限されている可能性。

○故郷喪失
共通の目的を持つ共同体の形骸化。自己実現の場である労働・地域・家族の喪失。現代人の生活が細分化され、個別化される事による自己中心性。自己同一性の喪失。

国家や家族の紐帯や帰属を実感出来ない時代。

ブーバー:
「自我」は、間存在の中で真の「自我」になる。「自我」は客観ではなく、呼びかけられる人格であり、主客に分裂しない。

レヴィナス:
「自我」は、真の他者を能動的に待つしかない。「自我」は、応答にして有責を属性とする人格である。他者に呼びかけられて、応答出来る人間が責任を担う。

第Ⅱ部 自我のゆくえ
第1章 宮沢賢治の自我論
自我を実体でなく、現象と考える。脈絡や確実性は考えずに、そのままをスケッチする。連続的で貫通的な自我概念と異なる断続的な自我観。

心の中に浮かんでは消える、論理的反省の加わらない経験が絶対的な現実である(『春と修羅』の「序」第一段落)。各瞬間の相が自我の全部である。

因果とは自然科学の因果性でなく、仏教的な意味での人間の行為と報いの絡み合いを指す。自我の内容成分は他人や社会や過去との果てしない連関である。

私が常に私であり続ける必要は無い。個人は単独者でなく、他人や集団や世界と一つになり得る、又は既に一体化している。個人と個人の区別は曖昧である。「自我」を、複数の心から成り立つモザイクのようなものと解する。

第2章 西田哲学の自我論―我は我ならずして我なり
私が存在するという原事実を、生死を含めて真摯に見据える。自己が自己を写す自覚は、写している自分を新たに写すため無限に続く。自覚とは直観と反省を総合する働きである。自己は直接に経験可能であるが、反省によって論理的言語で説明可能?

「自我」を記述すると、それは「自我」でなくなる。「自我」は述語に置かれる以外ない。無が「自我」に浸透する。存在者は必ず属性を持つという西洋哲学と異なる、自我は何でもないという思想?「自我」とは何かを問わず、自己をそのまま行う。自己の探求と言う無限軌道は、概念形成でなく自己を写す無限の行による。自己を写すとは、自己を絶えず形成していく事。

私は何でもない、私は変化するし、同一的でない。

第3章 夏目漱石の自我論
『私の個人主義』(1914年11月25日講演)において、「自己本位」という西洋の概念を述べる。「自己本位」は、義務を伴う。「自我」受容における日本人の義務や他人の権利に対する無知について、日本的思想と西洋的思想の対立を憂慮している?

1914年に発表した「こころ」でも2つの倫理観の対立がある?儒教的・武士道的な道徳(恥、自尊心、世間体を重視する)と西洋的道徳(自己実現の道徳、人間らしさを最大の価値とする)。登場人物である先生は、世俗的道徳で無く、絶対的な倫理的潔癖さにおいて「自我」を問う。

資本主義社会において、個人主義が個人を分断し、個人間の競争を増大させる事象。先生の心中にある良心が利己主義に基づく道徳的判断力である。それが個人を孤立化から救う?

先生は、倫理的規範や法律に違反したのではないが、良心による裁きを受ける。

第4章 16世紀南西フランスで起きた偽物事件
「個人」の概念は近代になって意識されたのであり、同一性は無条件に価値があるものでなかったという話。

ライプニッツの『人間知性論』(1703年、出版は1765年)に記述されている南西フランスで発生した偽物事件。

1560年、南西フランス、ラングドック地方アルティガ村で発生した裁判の記録。裕福な農民マルタン・ゲールが、妻子を残してスペイン方面に旅立ち、8年間消息を絶つ。マルタンにスペインで知り合ったアルノ・デュ・ティルという男が容姿が似ている事を利用して、1556年にマルタンを装ってアルティガ村に乗り込む。マルタンの妻ベルトランドは偽物を受け入れ、4年間を夫婦仲良く暮らし、二女を儲ける。本人が帰還した事で偽物が発覚し、アルノ・デュ・ティルは絞首刑となった。

ライプニッツは、上記の事件の原因を内容を十分に規定する個体概念を認めないからだとしている。妻ベルトランドにとっては、家庭生活の役割りとしての「夫」が存在する事が重要であり、本物か偽物かは重要でない。

カフカの『変身』(1912年出版)においては、虫に変身したグレゴール・ザムザを、家族は同一人物として認めるが、以前の役割を果たせない事で虐待する。個人の同一性が意識される近代社会の特徴の表現?

南西フランスの事件が発生した当時は、個人の同一性は重要視されなかったかもしれない。しかし、現代の管理社会は「自我」の同一性を基礎にしている。身分証明書によって証明される事は個人の同一性であり、本人確認が行われ、偽物でない事が要求される。

第5章 日本人と自我のゆくえ
自我の頸木から逃れる事による癒しを多くの日本人が求めているという意見。

西洋哲学の本質は、現実と理想の分裂である。変化する現実世界は無常であるが、理想世界は永遠である。現実の物体は無くなるが、意味や本質は無くならない。観察や実験によって探求される事は、変化しない「法則」である。

対して、日本の伝統的思想では常ならず、移りゆく「無常」が本質である。永遠に対する諦観的悲観的否定。そうした日本社会に、基準や理想に価値をおく思考方法を付与すると、問題が発生する?

○見る事
西洋哲学で常に想定される認識モデルは、目で見る事である。イデアというギリシア語も、イデイン(見る、眼差す)が動詞形である。永遠で不動な存在を凝視する。

感情の波に隷属せず、自発的に世界の中心に立ち続け、周囲の変化を絶対的観察者として見る近代的自我モデル。

さらに、見る事に続いて、論理的に話す事も重視される。

対して、癒しにおいては味覚、触覚、嗅覚、聴覚等の視覚以外の感覚が重視される?そうした感覚に共通する事は、視覚と違い、長続きしない事である。味も肌合いも移ろい易く、固定されない。

西洋哲学の中では、全ての対象が休む事を許されず、常に立たせられ、直進的な見るに曝される。視覚に比べ、他の感覚は受動的である。目を閉じるように耳を塞ぐ事は出来ない。

かつての「自我」は因習から生じる抑圧に対する反抗として強調されたが、因習が形骸化した現代では「自我」概念も曖昧になりつつある。

西洋で前提となる普遍の「自我」は日本社会に最初から存在しないし、主体的自我ちおう啓蒙信仰を止めた方が誤解や絶望に陥らないのではないか。自我の同一性や主体性を自他に要求する事は不可能ではないか?

自己の意志を知る事が出来ないのなら自己実現も不可能だし、自分の状況や欲望を常に客観的に把握し、自らの行動を選択して決定する事も不可能であるとする。

しかし、自我は公的には連続的、同一的、主体的である事になっており、責任を負う主体となっている。そう規定しなくては、西洋から受容した民主主義社会は機能しない。

和辻哲郎は『風土』(1935年出版)の中で、モンスーン型、砂漠型、牧場型という3つの風土類型によって日本人の精神と文化の特質を論じた。日本独特の精神風土が、自我理解を曖昧にしている可能性。

エピローグ 仮面の自我、あるいは着脱する自我
「自我」という概念は西洋から輸入された概念である。自分を探すという行為の根本には、実体的連続的自己同一的な自我観がある。しかし、本当の自分など存在しないのではないか?

他者についても、外に現れた言動とは別に、不可知の内面的自我を想定する。しかし、行動療法といって当面の問題となっている事柄のみを治療の対象とし、内面に立ち入らない心理療法もある。

自己同一的で責任有る「自我」は、契約、法律、福祉、幸福の担い手として民主主義の基盤となっている。それは日本伝統の刹那的で流れ去る自我理解とは矛盾するかもしれない。

現代社会の特質は、この2つの思想の対立にあるのではないか?

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