何冊か立ち読みした

本屋で『桐島、部活やめるってよ』を立ち読みした。

以下は、Wikipediaの『桐島、部活やめるってよ』へのリンク。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%90%E5%B3%B6%E3%80%81%E9%83%A8%E6%B4%BB%E3%82%84%E3%82%81%E3%82%8B%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%88

スクールカーストというか、高校生独自の階級意識みたいのが主題の一つなのだと感じた。登場人物は、自らの行動が自分自身で選択した結果でなく、周囲からの評価を意識したものである事に疑問を持っているのかな?

そして、それは友人や恋人も自分の事が好きなのでなく、自分の階級が好きであると感じ、本当の意味で他人を信用出来ないのかもしれない。

家庭内で、義姉として振る舞う「宮部実果」は、自分自身を発露出来ない他の登場人物を表現し、最後の「東原かすみ」の話は、階級によって左右されない個人を表現しようとしている?

周囲の環境に左右されない自分自身という幻想を追求していくと、かなり辛い思いをすると気がする。若い時は自分自身の限界を高く見積もってしまうため、自らが力を出し切っていないように感じてしまう。

それは自分を過大評価しているのであり、どのような人間であっても、それまでの人生を全力で生きてきたのだと思っている。怠惰な人間は存在しない。

****************

他に、「三橋貴明」、「野波ツナ」の新作が出版されているのも見た。この二人のブログを読む事は、もう無いと思うが悪評が広まっても固定ファンが存在している。

インターネットを介した仮想空間においては、「標準」が可視化される。自らと社会常識との乖離を確認出来る。

同時に、「標準」は分散しつつある。仮想空間上に各種の共同体が発生し、各共同体における異なった「標準」が成立する。

こうした傾向は継続し、やがては個人毎の標準が成立し、人格という概念自体が解体していくのだと思っている。

自らの内部に存在する葛藤を、別の存在による意見だと思えば、同一人物の中に異なる主体が存在する事になる。さらに自覚した意識以外の自己を取り扱う場合、人間は存在しないのかもしれない。

植物の葉の一つ一つには個別の意識があり、木々や草花は都市として考える事が出来る。さらには、葉の上下左右も別個の存在であると考えると、主体という概念自体がぼやけていく。

自己という概念を細かく切り刻み続けても終わりが無いのだとしたら、概念という解決策自体が成り立たない。

考えても堂々巡りになるだけだ。

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