多民族国家日本と古代道路

読んだ本の書き写し。

多民族国家であった?古代日本と、7世紀~8世紀に建設された日本の道路について。

7世紀後半頃から、日本全国に巨大な直線道路が建設される。国家の威信を宣伝するために巨大な道路が必要とされた?9世紀になる頃には、管理し易いようにするためか道路規模は縮小される。

即物的な手段で威信を示さなくとも、伝統によって権威を維持出来るようになったのかもしれない。

国家を統一しようとする強力な意志はどこから来たのか?

【多民族国家たる古代日本】
古代日本には、縄文系と弥生系の二系統の人種が存在したという説。古代日本の歴史は、民族統合の歴史ではないか?

<日本書紀 斉明天皇5年(659年)>
遣唐使が男女2名の蝦夷を連れて唐の天子に謁見した記録。
「自分は、蝦夷の身体や顔の奇異な様子を見て、大変嬉しく、驚いた」

⇒東日本に居住していた先住民族の身体的特徴が、遣唐使や
 北アジア系の人々と異なっていた事の記録。

<鎌倉人>
1953年に鎌倉市内で発掘された550体以上の人骨。1333年に新田義貞が鎌倉を攻めた時に戦死した犠牲者の遺体であるらしい。調査の結果、遺体の頭骨の形態がアイヌ民族や縄文人に極めて似ており、場合によっては縄文人以上に古い特徴を示す事が判明した。その特徴はラグビーボールのような長頭であり、時代と共にサッカーボールのような短頭に変化したとされる。

⇒その後、日本各地で中世の人骨が発見され、同様の特徴を示す
 人骨が多数見つかった。
⇒現代日本人との連続性は?

<北上説>
後期更新世(紀元前2万年頃?)は氷河時代(現代より年平均で7℃~9℃低い気温)であり、海水面が現在よりも100m~140m程度下だった。その結果、現在の南シナ海を中心に、大陸棚が干上がってスンダランドという陸地が生じた。スンダランドは紀元前1万年頃まで存在したとされる。

氷河期であったが、赤道付近のスンダランドは温暖であったため、多くの人間が生活したと思われる。この地域に紀元前4万年~3万年頃から生活した人間が原アジア人の祖先ではないか?紀元前1万年頃に氷河期が終わり、スンダランドから北上するグループが現れたと考える。

日本人の祖先の一部は、陸伝いに北上したグループではないか?

<縄文人の特徴>
日本の縄文時代は、紀元前1万年頃から始まり、紀元前3世紀頃に終わったとされる。現在、全国で発掘された縄文人骨は数千体程度であり、その特徴は以下の通り。

①身長は概して低く、男性は159㎝、女性は149㎝程度
②頭は丸みを帯び、頭骨の幅が大きい
③脳頭骨の高さも大きく、比較的大きい頭をしている
④顔面の幅が広く、頬骨が左右に貼り出しており、眼窩の高さが低い
⑤鼻根部が良く隆起している
⑥四肢骨の断面が扁平、筋付着面の発達が良い、骨が頑丈
 ⇒筋力に優れていたと推測される
⑦歯はやや小さく、鉗子状突豪という上下の歯が毛抜き状に
 接触する噛み合わせ

縄文時代の日本は、本州中部以東の暖温帯落葉広葉樹林(ナラ林帯)と西日本一帯の照葉樹林帯に分ける事が出来たとされる。人口は東日本が圧倒的に多かったらしい。全国の縄文遺跡の8割は東日本に存在する。遺跡数と8世紀中頃の日本の人口密度に基づいたシミュレーションでは、縄文時代中期には東日本に約25.2万人、西日本に1万人足らずと縄文人の人口は東日本に偏っていたと推測される。

<弥生人>
弥生人は、縄文人と比較して長身で鼻根部の凹みが浅く、顔が全体として扁平であるという特徴があるとされる。
以下のような弥生人の特徴は、北アジアの気候に適応した結果であるとされている。

短足胴長:
日本人の平均的な成人男性の体表面積は1.62平方mとされる。その2/3が四肢の面積だから、四肢が短い方が体表面積が縮小し、放散熱量が少なくなる。寒冷地に適応した結果、短足胴長になったのではないか?

扁平な顔:
冷たい空気を暖めるために、鼻腔を大きくする必要がある。そのために上顎骨を縦横に大きくした結果、鼻に対して頬が前方に張り出したために扁平な顔になったのではないか?

一重瞼:
上眼瞼が垂れ下がって細めになり、眼球と外気の接触部分を減らす。眼瞼の脂肪層が厚くなり、眼球の保温効果を高める。

髭や体毛が少ない:
酷寒の地では吐いた息が髭に当たると凍りついてしまう。

<渡来人の数>
アジア大陸から日本への渡来は、紀元前3世紀~7世紀頃まで続いたと考える。
縄文時代晩期の日本の人口は、冷涼化の影響で減少しており、約7万5000人と推測される。縄文時代から弥生時代にかけての人口増加率は、東日本で0.2%程度、西日本で0.3%~0.4%程度であり、弥生時代の全国の人口は約60万人、古墳時代には540万人になったとされる。

初期段階の農耕民の人口増加率は、欧州、アフリカ、アジア、アメリカ等で平均0.04%であり、最高値の英国でも約0.1%で日本の0.2%、或いは0.3%~0.4%という人口増加率は異常に高い。

渡来人の移住により、人口増加率が押し上げられたと考える。

以下の前提で渡来人の数を推定する。

①大量の渡来人が来た期間を紀元前3世紀~7世紀の1000年間とする
②上記①の期間の自然な人口増加率を年率0.2%とする
③日本の人口を紀元前3世紀で7万5800人、
 7世紀で539万9800人とする
④初期人口が年率0.2%で増加したと仮定すると、
 7世紀の人口との差は渡来人の人数となるはずである

その結果、7世紀の縄文系の人口が56万人であるのに対し、渡来系の人口は約483万人となる。

また、頭骨小進化モデルでも考える。各時代の頭骨から、渡来人の影響を推測する。以下の前提で考える。

①渡来人の影響が少ないと思われる西北九州の弥生人、
 南部九州の古墳人の頭骨計測値を基準値にする。
 渡来人との混血が無ければ、この2つの集団の違いが
 自然な変化率を表す
②渡来人の影響が大きいと思われる中国地方や近畿地方の
 古墳人の頭骨計測値を調べる

その結果、中国地方、近畿地方の古墳人の混血率は渡来系が80%~90%程度であり、関東の古墳人集団は渡来系が70%程度の影響があると推測される。

現代日本人では、縄文系(東南アジア系)と渡来系(北アジア系)の割合が2対8になる。

*********************

以下は、日本の古代道路の特徴。

【日本の古代道路の特徴】
①直線
自然発生的に出来上がったのでなく、中央政府の設計・指揮の下に敷設されている。

②幅が広い
宮都周辺で24m~42m。全国的には3m~12m程度。

【制度】
以下のような制度で運用されていた?

①駅制
中央政府と地方の情報伝達のための緊急通信制度。移動用の馬を置く駅は約16㎞毎に配置される。駅が配置される道を駅路と呼ぶ。
山陽道、山陰道、西海道、東海道、東山道、北陸道、南海道の7つの駅路が設けられた。想定される駅路の総延長は6300キロにもなる(1966年に計画された高速道路網の内、北海道を除く総延長は6500キロ)。
 ・大路:都城と大宰府を結ぶ路線。
     山陽道の主道と西海道の一部区間が該当。
     駅には20匹の馬が置かれた。
 ・中路:東海道と東山道の主道。
     駅には10匹の馬が置かれた。
 ・小路:大路、中路以外の路線。
     駅には5匹の馬が置かれた。

駅を使用した情報伝達方式は以下の2つ。
 (1)専使方式
   特定の使者が目的地に赴く。
 (2)逓送使方式
   文書を駅毎にリレーで送る。

8世紀の緊急通信の多くは、逓送使方式で行われたが、駅制の衰退によって信頼性が失われたのか、9世紀後半以降は専使方式が中心になる。

②伝馬制
中央政府から地方へ派遣される使者を迎送する交通制度。中央から配布される伝符が必要とされる。中央政府の使者が使用した道を伝馬路と呼ぶ。

③伝制
伝符を持たない人間が古代道路を使用する。律令国家成立以前からの交通制度を適応したもの。伝制は、現代の人間による分類であり、古代の人間は伝馬制と伝制を区別しなかったかもしれない。伝制に使用される道を伝路と呼ぶが、伝路は、豪族間のネットワークを構築するものであり、必ずしも中央政府と接続されていない。

【直線道路以前】
古代の道路として、日本書紀には、山辺道、馬坂、大阪道等の記述が見られる。奈良県の鴨神遺跡からは、大和南部と紀伊地方を結んだ街道の一部が発掘されている。この道路は6世紀後半には廃絶されたと考えられる。

7世紀以後に建設される正南北、正東西に沿った正方位道路と異なり、直線であっても正南北、正東西に沿わない斜方位直線道路が見られる。

正方位直線道路が建設される7世紀以前の大和国の交通路は、以下の2種類に分類可能。

①海石榴衢中心
磐余、磯城、泊瀬地域。6世紀段階までの倭王宮集中地域。海石榴衢では、608年に隋の使者 裴世清の歓迎式典が行われている。交易路だった和歌山県 紀ノ川河口と大和を結んだと考えられる。鴨神遺跡から発掘された街道も含まれる。

②飛鳥中心
豊浦宮付近。7世紀段階の倭王宮集中地域。交易港だった難波と大和を結んだと考えられる。

5世紀~6世紀には海石榴衢中心の交通路が形成されたと思われるが、やがて飛鳥中心の斜方位直線道路が建設されるようになり、正方位道路が建設されるようになる。日本書紀に、613年に「難波より京に大道を置く」という記述されている事から、この頃に正方位道路が建設された事が通説となっている。

【葛城氏の存在】
鴨神遺跡から発掘された街道は、紀ノ川から葛城を経由して天皇の宮へ到達したと考えられる。葛城を経由しない巨勢道と呼ばれる道路があり、標高差から考えて巨勢道の方が使い易いはずだが、葛城を経由するルートが使用されている。
葛城氏が巨大な力を持っていた証明ではないか?

葛城氏は、景行、成務、仲哀、応神、仁徳の五代の天皇に大臣として仕えた武内宿禰を祖に持つとされ、仁徳から仁賢に至る九代の天皇の内、8人が葛城氏の娘を皇后か母にしている有力部族である。

日本書紀には、武内宿禰の息子である葛城襲津彦が朝鮮半島に派遣され、彼の地の人々を連れ帰るという記述がある。こうした海外との交流が葛城氏の力の根源であり、そのため交易に使用する道路を重視したのかもしれない。

伝説では、葛城氏は雄略天皇に滅ぼされたとされ、この時から巨勢道が建設されたと思われる。

⇒中央集権が確立されるためには、有力豪族の力を削ぐ必要があった?

【直線道路の変遷】
7世紀に建設された駅路の多くは、8世紀末~9世紀初頭に廃絶されている。廃絶前の駅路を「前期駅路」、廃絶後の駅路を「後期駅路」としている。

前期駅路:
幅12m前後の直線的な道路。

後期駅路:
幅6m前後の全体としては曲線的な道路。

以下のような変遷を辿ったと思われる。

①計画道路の導入(601年~7世紀中頃?)
機内で正方位直線道路が建設され始める。

⇒600年に隋に使節が派遣され、607年にも遣隋使が
 派遣されている。
 日本の道路制度は隋の制度を真似ており、影響があったものと
 思われる。

②前期計画道路の形成(7世紀中頃~689年?)
東国に正方位直線道路が建設され始める。駅制や国府の成立は微妙であったと思われる。道路は軍事目的で建設された?

③前期駅路の隆盛(689年~768年)
飛鳥浄御原令が施行された689年から、垂潴、豊島の両駅に馬数が増える768年までの時期。制度としての駅制が完成したと考える。

④前期駅路の合理化(768年~796年)
煩雑化した駅路の整理期。768年に、駅の廃止の記録がある。771年には、東山道武蔵路と東海道走水ルートが廃止されている。

⑤後期計画道路の形成(796年~弘仁年間(810年~823年))
東国駅路網や山陽道で駅馬の削減が行われる。

⑥後期駅路による安定(弘仁年間(810年~823年)~10世紀)
計画道路体系の転換が一段落した後の状況。10世紀末には全国一律の駅制は崩壊する。

【時代の変化】
奈良盆地における古墳時代の集落は、農業生産に適した盆地中央部から自然河川の流れに沿って小規模な集落が点在しているが、飛鳥時代になると集落数が大幅に減少し、大規模な集落が盆地中央部から一定の距離を置いて配置される。農村と都市を分離したようだ。

全国的にも7世紀初頭に既存の集落が解体され、新たな集落が誕生する事例があり、推古朝期に土地利用の再編が成された事を示す。

その中で、正方位直線道路は都と外交窓口を結ぶ以外に、土地を区画する役割があったと推測する。土地を一定の面積毎に分割し、記録しておけば徴税や管理に便利である。

正南北、正東西に合致し、等間隔に設定した道路を基準にすれば、容易に土地区画を分割する事が出来る。

古代道路の建設は、条理制という土地区画制度や国府・群衙等の地方役所の設置と一体として実施された。

こうした律令国家政策は、推古天皇の時代から、孝徳、斉明、天智朝にかけてゆっくりと前進し、壬申の乱に勝利して権力を一元化した天武天皇によって成し遂げられたと考える。

やがて、天武天皇の孫である光仁天皇の時代には、体制は崩壊し始め、小さな政府を志向するようになる。その後の桓武天皇の時代には、国家による大規模な土木工事は終焉を迎える。

この時代には古代道路は整備し易いように縮小され、武士が台頭し、土地制度が完全に崩壊する10世紀には駅路は廃絶する。

律令国家建設のために誕生した古代道路は、律令国家衰退と共に縮小され、律令国家崩壊によって役割を終えた事になる。

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