ケインズかハイエクか

読んだ本の感想。

ニコラス・ワプショット著。発行 2012.11.20。



1919年~2008年頃の2人の経済学者ケインズとハイエクの論争について。時代背景によって、世間に受け入れらる理論が変化する。理論自体が変化して、理論を提唱した本人が予想しなかった影響を引き起こす。

◎ケインズ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BA

生活状況の改善は国家の義務である。不景気には国家が責任を持って対処しなくてはならない。

⇒人間は、自分の運命を管理する役割を与えられているとする思想。
 正しい決定を下せば、世界を良く出来る。

⇒マクロ経済学的思考。
 各要素の集合体を考える事で、全体像を把握可能とする。

⇒性善説的な楽観論。
 誰もが雇用される希望に満ちた将来像を提示する。

◎ハイエク

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%AF

経済動向を見抜く事は困難。国家管理は益よりも害の方が大きい。

⇒人間は、自然の法則に従わなくてはならない。
 人間の努力には絶対的な限界があり、
 自然に逆らう事は悲劇を招く。

⇒ミクロ経済学的思考。
 全体を把握する事は出来ず、相互作用によってのみ
 理解出来るとする。

⇒悲観論。
 努力は想定外の結果に終わる可能性が高い。
 自由が機能するのは、各人が自己利益に基づく合理的な意思決定に
 従う時であり、理想主義によって抑制されると自由は機能しない。
 現実世界での失望に対処するための指針を提示する。

第一章 魅力的なヒーロー
1920年に、ケインズの著書『平和の経済的帰結』が出版される。第一次世界大戦で敗北したドイツへの過大な賠償金が禍根を残すとした同書はベストセラーになる。

第二章 帝国の終焉
オーストリアでハイエクが経済学を学ぶ話。第一次世界大戦後のオーストリアで発生したインフレの凄まじさ。ハイエクが学んだオーストリア学派の経済学はケインズの思想とは異なる思想であり、意見の相違の原因となる?

ケインズ:
意図的な判断を排し、偶然の要因によって経済が翻弄される事は受け入れ難いと考える。

ハイエク:
経済学の師であるミーゼスの、「経済は市場の自然な力によって均衡に戻る」という思想を受け入れる。

さらに、ハイエクは米国で実証的研究の手法(労働者の行動の時間動作研究や、工場・機械類の生産物の記録等)を学んでおり、抽象的概念を用いた計量的思想への拒否感があった?

第三章 戦線の形成
1924年を節目として、ケインズが自由市場の機能を疑問視する主張を繰り出した事について。その背景には、1920年代初期の英国の高失業率がある。ケインズは、個人主義は機能しないと主張。国家による景気循環の管理を提唱し、英国通貨の引き下げによって失業率を低下させる事が出来るとした。

「自分自身の目的を追求しようと個別に活動している人々は、あまりに無知または意志薄弱なために、たいていその目的すら達成できない」

一方、ハイエクは1927年にオーストリア景気循環調査研究所の所長に就任し、貨幣・物価・失業の関係を研究する事になる。スウェーデンの経済学者 クヌート・ヴィクセルの、「中央銀行による介入が、投資と貯蓄の不均衡を生み出す」とする理論を支持する事になる。

ヴィクセルの思想の基盤は、自然利子率(個人貯蓄額と投資額が等しくなる)と市場利子率(銀行が定める)が異なっている事から歪みが生じるという理論?

************

1929年の米国株式市場の大暴落によって、ケインズの理論は脚光を浴びる事になる。ハイエクは、既存概念の枠の中から、現制度を正す試みは無意味であると主張する。

第四章 スタンリーとリヴィングストン
1928年のケインズとハイエクの邂逅。そして、ハイエクが、LSE(ロンドン・スクール・オヴ・エコノミクス)でライオネル・ロビンズという友人を見つけた事について。

ロビンズは、ハイエクが提唱する以下の概念が、ケインズの主張する国家介入への反論になると考えた?

・国家が資金を投入しても、製品が購入される見通しが無い限り、
 投資に結び付かない。
 生産には多数の段階があり、生産に要する長さもまちまちである。
 ⇒生産活動は「迂回的」。

1929年に、ケインズは英国の経済諮問会議のメンバーになり、ロビンズと対立する。オーストリア学派経済学を学んだロビンズは、自由市場的な解決策を主張したのだ。

ロビンズは、ハイエクをLSEの教員として、ケインズを批判させる事を思いつく?

第五章 リバティ・バランスを射った男
1931年に、LSEにてハイエクが講演を行う話。
ハイエクは、定性的な研究方法ではなく計量的な研究方法を採用する事を批判した。貨幣の「総」量や「総」産出量等の間に直接の因果関係を成立させる事は出来ない。経済は多様な個人の選択によって成り立つため、容易には計測出来ない。無数の個人取引によって合意された価格が、有効な指標であるとした。

迂回的生産方法:
生産は多数の段階に渡って行われる。将来の需要を満たすためには、中間資本財への投資が必要である。中間資本財への投資は、利益の創出を遅らせるが、将来の生産量を増大させ、消費者の欲求を満たす事が出来る。

⇒国家が介入して生産活動を行わせても生産手段が有効活用される
 までには多数の段階を経過しなくてはならない。

強制貯蓄:
不適切な融資?銀行の貸付によって生産者の資金が増加すると、生産量も増える。貯蓄が増えた事が投資の原因でないため、貸付が以前の段階に戻れば、設備投資用の資本も失われるとした。

⇒人工的な需要は、先延ばしに過ぎない?

貨幣についての洞察が面白い。貨幣に本質的価値は無いとした?

貨幣の創出は、信用融資によっても発生する。それらは国家からの統制を受けない。融資が実現すれば、信用融資を他の形態の貨幣に転換可能。貨幣の創出者に対して、誰かが生産物を譲り渡さなくてはならない。

⇒銀行の貸付額を監視するべきとした。

第六章 暁の決闘
1931年に、LSEの機関紙「エコノミカ」にてハイエクがケインズの『貨幣論』を批判した事について。オーストリア学派の資本理論をケインズが知らないとしている?

第七章 応戦
ケインズによるハイエクへの反論について。話が噛み合わない。ケインズは理論の全体像を議論し、ハイエクは専門用語の定義について議論した。

ケインズが論争に飽き、ハイエクの意見の概要を把握出来たとして論争は棚上げされる。

「論争相手が間違っていると判定を下すことはできず、間違いだと説得することしかできない。(中略)自分の考えの筋道を理解してもらえなかったりする場合は、相手を説得することはできない」

両者の弟子達の論争は継続し、ケインズは弟子のスラッファにハイエクを代理攻撃させる事にする。

第八章 イタリア人の仕事
ケインズの弟子 ピエロ・スラッファによるハイエクへの反論。

ハイエクの意見?:
生産構造は、資本量の変化によって即時に影響を受ける。国家介入を支持する人間は、生産構造の変化を長期的な現象と考えているが、現実には計量的に経済を把握する事は出来ない。
投資が自主的な決定の結果でないのなら、銀行貸付の減少によって投資の増大に歯止めがかかる。投資を純貯蓄以上に増加させようという試みはインフレを引き起こす。

*************

スラッファは、無理な貸付によって蓄積された資本が、貸付が無くなると消散するという理論に疑問を呈している?

ハイエクとスラッファが何について論争しているのか理解出来る人間はいなかった。後世においては、ミクロ経済学者とマクロ経済学者の論争であったとされる。

ハイエクは経済を構成する様々な要素に注目したが、ケインズは全体像に注目した?

第九章 『一般理論』への道
1933年にケインズが『一般理論』を出版した事について。
政府支出によって経済の総需要を増大させるべきという思想に、「乗数」という概念を統合した。

流動性選好:
人間は、特定の方法で金銭を使用しないのならば、別の方法で金銭を使用するという理論に対する反論。人間は、判断を保留する事がある。あらゆる財に転換出来る形式 = 流動性のある形 = 現金で貯蓄を維持する欲求があるとした。
そのため、銀行が貯蓄者に金銭を提供させるためには高い金利を設定しなくてはならず、経済的な影響が発生する。

*********

『一般理論』でケインズは政府による経済への介入を学問的に正当化し、マクロ経済学という新しい経済学の分野を開拓した。計画者が国家経済に関する理解を深め、適切に管理出来るとする。

統計情報を駆使する手法は、各要素を順番に検討する従来の手法とは異なる。

第十章 ハイエクの驚愕
ハイエクが1930年代初頭のナチスドイツ台頭の影響により、社会学に興味を持った事について?

危機に対して、ハイエクは単純明快な解決策を提示出来ない。災難を権威的な行動や意図的な管理によって解決しようとする要求に応える事が出来ない。

価格は無数の経済的判断を反映しているが、意図的な設計でないために評価されていないとしている?

第十一章 ケインズが米国を魅了する
1929年の株式市場大暴落の後に、ケインズ理論が米国で流行した事について。

しかし、ケインズはルーズヴェルト大統領のニューディール政策の多くに懐疑的であり、不景気でないにも関わらず、政府支出が国民を保護する経済は社会主義への移行段階だとしている?

恐慌以外に、ケインズ理論の普及を後押ししたのは、全米経済研究所や商務省にて国民所得や国民総生産に関する統計が集積され、総需要等を数値情報として把握可能になった事だとしている?

アルヴィン・H・ハンセンやジョン・ヒックスは、ケインズに触発されて利子率、流動性選好、貨幣供給、国民所得の相互関係を図で表すIS-LMモデルを考案した?

⇒経済を単純化した代数的形式で表現する事を可能にした。
 ハンセンが1953年に出版した「ケインズ経済学入門」は、
 ケインズ革命における初めての教科書となる。

第十二章 第六章でどうしようもなく行き詰る
ハイエクが自らの著作の第六章の執筆に苦労していたため?『一般理論』への反論が出来なかった事について?

ハイエクは、自らの思想を見直し、経済が安定状態に達する事は稀であると確信した。であるならば、経済は均衡に向かう傾向があるとする仮説は実現しない事になる。

どのような人間も、あらゆる個人の思考や欲望、希望を知る事は出来ない。全体を支配する計画者は存在不可能。そのため、支配者が経済に介入すると、個人の幸福や自由が奪われてしまうとした。

ハイエクは、総需要と総雇用の相関関係は不確かであるにも関わらず、入手出来る情報が限られているため、因果関係として認識されているとケインズ理論を批判した?

第十三章 先の見えない道
1937年の米国にて、生産、利益、賃金の水準が1929年の段階に戻ると、ルーズヴェルト大統領は支出削減、金融引締、増税を行うようになる。その後、再び、米国の景気は後退する。

ルーズヴェルト不況は1938年を通じて継続し、同年秋には、ルーズヴェルト大統領は約50億ドルの雇用創出策を打ち出す事になる。

1939年には、米国の国内総生産は約25億ドル増大したが、その46%は軍事費によるものだった。

各国にて、巨額の軍備支出と徴兵が組み合わさり、全ての労働力が活用される。

ハイエクは、1944年に『隷従への道』を出版した。ナチスドイツや計画経済を批判する書としてベストセラーになる。

ケインズの批評?:
『隷従への道』の中では、自由を尊びながら、国家による社会保険制度の構築を支持している。自由と管理の線引は論理的に不可能としているが、どのように線を引くかの指針が書かれていない。

1946年にケインズは死去する。

第十四章 わびしい年月
第二次世界大戦後、ハイエクは、社会主義的な思想に反対した事による敵意に戸惑う事になる?1950年代~1960年代はハイエクへの反感が高まった時だった?

第十五章 ケインズの時代
第二次世界大戦後の米国や欧州では30年に渡って、ケインズ理論が優勢になる。マクロ経済学は、米国政府の公式ツールとなる。

一世代前の、不況は自己解決に任せるべきであり、政府介入は認められないという思想は駆逐され、政府が民間経済を管理しなくてはならないとした?

トルーマン:
赤字財政支出を通じて景気を刺激する「補整的財政」に関する雇用法を提言。

アイゼンハワー:
朝鮮戦争後の1954年に景気後退が起きると、70億ドルの減税を実施。ビジネス・ケインズ主義を提唱し、景気後退期に赤字財政を断行した。

ただし、アイゼンハワーは退任演説で企業と政府の結託に警告を発している。

ケネディ:
1962年に、100億ドルの所得減税を提案する。ケインズの著書「繁栄への道」で提唱された減税による需要拡大効果を得るもの。

ジョンソン:
1963年にケネディが暗殺された後、ケネディの政策を引き継ぐ。最高税率を91%から65%に引き下げると、4年で税収は400億ドル増加し、失業率が1964年の5.2%から1966年の2.9%に減少した。

しかし、ヴェトナム戦争により、財政黒字は急減し、1968年のインフレ率は4.2%になり物価上昇に歯止めがかからなくなった。

ニクソン:
財政赤字による完全雇用が労働力不足を齎し、物価上昇の原因となっているとした。しかし、失業率の高まりを受けて方針を転換。ドルを金本位制から離脱させ、減税と支出増大による景気刺激策を行う。

しかし、1973年の石油危機によって経済成長は鈍化する。経済成長率が低い状態で物価が上昇するスタグフレーションが起きた。

⇒失業率と物価上昇は同時に発生しないというケインズ派の考えが
 誤っていた事が示される。

フォード:
支出削減と90億ドルの減税を行う。インフレ率は、1975年の9.2%から1976年の4.88%に下落。失業率も1975年の9%から1976年の7.8%に減少。
しかし、スタグフレーションによって?大統領選に敗北する。

カーター:
1978年に、ハンフリー・ホーキンズ完全雇用法を承認。大統領と連邦準備制度は、総需要を完全雇用が実現する水準に保つ義務を負う事になる。同時に、大統領と連邦議会に連邦政府と貿易収支を均衡させる事も義務付ける。
1978年にインフレ政策を発表するが、1979年に第二次石油危機が発生し、物価安定が重要視されるようになる。

⇒ケインズ理論が信用されなくなる?

第十六章 ハイエクの反革命運動
ミルトン・フリードマンの意見?:
ケインズ理論は単純であり、少数の重要事項への集中により成果を出す可能性がある。しかし、これまでの事実とは矛盾する。

フリードマンは、不況対策として有効なのは妥当な額の貨幣供給であり、貨幣量を調整する事で自然な雇用水準を達成できるとした。

フリードマンはハイエクを批判したが、政府規模の縮小という点で意見は一致していた。1974年にハイエクがノーベル経済学賞を受賞した事で、再度、ハイエクの名声が高まる事になる。

レーガン:
インフレを抑制する金融引締め政策。減税によって税収が増加するトリクルダウン理論を提唱。規制緩和と法人税減税による供給側の改革。

1978年~1982年に0.9%だった経済成長率は、1983年~1986年には4.8%に上昇した。失業率も下落した。一方で対外債務は約4000億ドルとなり、レーガンが大統領に就任した当初は世界最大の債権国だった米国は、レーガンが退任する時には世界最大の債務国となっていた。

ケインズ主義者にとってレーガンの政策は、政府規模を縮小するとしながら、軍事費によって総需要を拡大する小細工だった。

第十七章 戦いの再開
1980年代からの20年に渡って、ハイエクへの支持は高まった。学者は、ケインズとハイエクの対立軸に沿って分裂する事になる。

淡水学派:
ハイエクと同様に、インフレを問題視する。
経済を参加者の合理的な意思決定に左右される、有機体として考える。
 ・個人は、合理的な意思決定をする。
 ・企業家は、将来を見通して投資を行う。
 ・グローバリゼーションと電子的コミュニケーションによって
  市場の効率性が高まり、利益を齎す。
不況は辛抱するものであり、解決すべきものでない。
政府の抑圧を取り除く事で企業活動を活発化させる。

海水学派:
ケインズと同様に、失業を問題視する。
経済を自立に任せる事は万人向けでない。
不況は予期せぬショックの結果であり、失業の解決策を求める。
経済制度に注入する資金を増やして財を購入し易くする。

1978年~2008年は、自由市場主義が支配した時代であったとしている。

ブッシュ:
レーガン式の減税策や小さな政府の主張を採用。

クリントン:
保守派の経済政策と革新派の社会政策を組み合わせた「第三の選択肢」を提唱。金融引締の緩和、選択的減税、富裕層への所得税増税、自由貿易協定の批准。1998年~2000年に三年連続の財政黒字が達成された。

ブッシュ:
イラク戦争やアフガニスタン、対テロに多額の費用を使用する。ケインズ主義が息を吹き返す事になる。

2007年のサブプライムショック:
⇒自由市場は自律に任せれば誤りを自動修正するというハイエク派の
 考えが打撃を被る。

オバマ:
約7800億ドルの景気刺激策を実施。資金が余っている時に資金供給量を増加させても、景気刺激策として機能しない事が明らかになる。

第十八章 そして勝者は・・・・・・
ケインズとハイエクの思想の違いは、トップダウン式とボトムアップ式の違いと考える。

そうした観点では、ケインズが優位に立っており、ケインズの大局的な分析方法は普遍的に使用されている。

一方、ハイエクの反国家統制主義的な理論は、共産主義の崩壊に貢献している?

ケインズの『一般理論』はケインズの思惑を超えてマクロ経済学を生み出し、ハイエクの『隷従への道』は本人が第二次世界大戦という特殊な状況のための本であったとしているが、他の状況で引用され続ける。

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