東大の日本史「超」講義

読んだ本の感想。

相澤理著。2015年11月5日 初版第1刷発行。



以下は、「学びエイド」へのリンク。

https://www.manabi-aid.jp/

第1章 古代
問題1 「政治の要は軍事」と悟った天武の経験
663年の白村江の戦いで敗北した日本は、天智天皇(668年即位)を中心に、大宰府北の水城、大野城や、669年に遷都した大津宮(内陸にあり難波津からの侵入の直撃を避け、琵琶湖から日本海側に脱出可能)等の国防強化に務める。

672年の壬申の乱では天武天皇が東国(美濃や尾張)の兵力を結集して畿内有力豪族を一掃し、飛鳥浄御原に遷都して中央集権国家建設を行う。

<庚午年籍>
670年に作成された日本初の戸籍で、正丁(21歳~60歳の成年男子)3人~4人に一人の割合での徴兵を可能にした。壬申の乱では庚午年籍に基づいて徴兵が行われたらしい。

律令制下の「戸」は、正丁3人~4人が含まれるように、生活する家族の実体とは無関係に25人程度で編成された。国郡里制の地方行政区画の一番下の里は50戸で構成されたため、どの里からも50人の兵士が集められる。

問題2 政争の時代をしたたかに生きた吉備真備
吉備真備(694年?~775年)は716年に唐に留学し、735年に帰国。唐にならって中央集権体制を確立するために、都城建設、正史編纂、貨幣鋳造等が行われる中、吉備真備の知識は孝謙天皇等に重宝された。

<遣唐使>
第一回の舒明天皇2年(630年)から最後の承和5年(838年)まで、計16回行われ、8世紀前半には500人を超える一団が派遣された。唐を模倣する事が国の威信を高めた時代であり、大宝律令が完成した翌年の702年には33年ぶりの遣唐使が行われており、国の自信にも結び付いたらしい。

694年に遷都した藤原京で宮が中央にあるのに、710年に遷都した平城京の宮が北部にあるのは、天子南面する長安城の影響かもしれない。

問題3 摂関家と中下級貴族の「潤う」関係
律令制初期の官僚は給与収入を主収入としたが、蔭位の制によって身分が世襲化し、10世紀に人事権が摂関家等の上流貴族に集中すると、中下級貴族は上流貴族への貢物を通じて受領への任官を望むようになる。

律令制の前提条件である6年に一度の戸籍作成と班田は継続困難で対外戦争の危機が遠のくと公的秩序から私的秩序への移行が始まる。

10世紀前半の朝廷は、国司に一定額の徴税を請け負わせ、代わりに一国内の統治を委ねたため、国司の最上級である受領は強力な権限を得た。開発領主は、不輸(租税免除)・不入(国司の介入拒否)の権を得て私腹を肥やした。

問題4 文字文化が広まった政治的背景
大和政権は外交や国内統一、史書編纂、行政に漢字を必要とし、9世紀前半には唐風化政策の下で勅撰漢詩文集も編まれた。10世紀に国風文化が開花すると大和言葉を表す万葉仮名が成立し、和歌や日記文学が発達した。

第2章 中世
問題5 頼朝政権が勝ち残った、鎌倉の「地政学」
鎌倉幕府は京都から離れた鎌倉で、朝廷公認の守護、地頭の任命を通じて主従関係を確立した。京都を根拠地としたために先例に無い事をすると公家に反発された平氏や、京都から遠過ぎた奥州藤原氏と違い、鎌倉は適度に京都から離れていた。

鎌倉には源頼朝の死後、人工の和賀江島が建設され、物流拠点とされた。

<奥州藤原氏>
前九年合戦(1056年~1062年)、後三年合戦(1083年~1087年)を経て、陸奥出羽押領使に任じられた清原氏が藤原の姓を名乗るようになる。衣川関の南にある平泉に館を建設し、陸奥の南端から北端を結ぶ奥大道を建設。京の六勝寺(院政期に建立された勝の付く六つの寺院の総称)に対抗して、藤原基衡は毛越寺、円隆寺、嘉勝寺等を建立した。

問題6 東国と西国では違った地頭のあり方
鎌倉時代において、開発領主を出自とする東国の地頭は在地支配権を握ったが、承久の乱後に派遣された西国の地頭(新補地頭)は得分(収益としての取り分)のみが認められた。

新補率法という基準では、田畑11町につき1町の免田、段別5升の加徴米等が認められた。

西国は荘園領主の影響力が強く、荘園領主と新補地頭の対立があり、地頭請(地頭に荘園管理を一任する)や下地中分(荘園を荘園領主と地頭で折半する)等の解決策が取られた。

1232年の御成敗式目には、承久の乱後に激増した所領紛争増加に対応して裁判基準を明確化する意味があった。

<二毛作>
鎌倉時代に畿内や西国で始まり、室町時代に関東への普及。乾田化(畑作のための排水)や肥料(草葉を腐らせる刈敷や草木灰等)が技術的条件になる。

問題7 「他力」の守護大名から「自力」の戦国大名へ
鎌倉時代の守護の権限は軍事警察に限定されたが、室町時代には刈田狼藉取締権(収穫前の立稲を盗む行為を取り締まる権利)等の司法行政権が認められた。戦国大名に至ると喧嘩両成敗法によって自力解決を否定して裁判権を確立し、家臣として城下町に集住させる形で自力支配を打ち立てた。

<大犯三箇条>
守護の主な任務。

①謀反人逮捕
②殺害人逮捕
③大番催促(御家人に京都大番役 = 御所警備役を命じる)

鎌倉時代の守護は徐々に土地台帳(大田文)の作成を在庁官人(国衙の実務を行う下級役人)に命じるようになり、行政権も持つようになっていく。

観応の擾乱(1350年~1352年)においては、近江、美濃、尾張の守護に限定して半済(兵糧米として年貢の半分を徴収する権利)が認められ、後に全国の守護に適用されるようになる。

問題8 実力社会の中世に広がった<徳政>
室町時代は、貨幣経済に巻き込まれた民衆が酒屋や土倉への借金に苦しみ、天皇や将軍の代替わりに徳政が行われた。永仁の徳政令(1297年)は幕府が御家人救済のために売却地返却を命じ、正長の徳政(1428年)は民衆が一揆で債務を破棄した。

14世紀前半から畿内で広がった自治組織(惣村:名主層を指導者に惣百姓を加えて運営された)が運送業者の馬借の機動力を背景に結び付き、一揆が畿内一帯に広がる事があった。

享徳の土一揆(1454年)においては、室町幕府は実力で債務を破棄する一揆を禁止し、債務者が借銭の一割を幕府に納入すれば徳政を認めた(分一徳政令)。その三年後には債権者が債権額の二割を幕府に納入すれば徳政の適用を免除するように定める。

そして八代将軍 足利義政の代には一揆を抑える力が幕府に無くなり、13回の徳政令が出されている。

第3章 近世
問題9 江戸幕府がなしえた統一的な軍事動員
太閤検地により統一基準で土地の面積、等級が定まると、全国の生産力を米の量にて換算して把握する石高制が確立した。石高制に基づいて将軍が大名に知行地を給付し、知行高に応じて軍役を負担させる大名知行政が成立し、農民も村高を基準とした夫役の賦課が可能になった。

室町幕府の時代には一元的権力が存在しないため、一揆によって問題を解決する風潮があったが、近世には統一的基準が定められ、全国共通のルールの下で支配が行われた。

太閤検地後は、一地一作人の原則として、耕作者(名請人)が定まり、複層的権利体系が解消されて荘園が消滅した。

問題10 許されなかった大名の末期養子
徳川幕府においては、大名同士の連帯を警戒し私通や私婚が禁止され、大名は相続人を事前に決定しておく事が奉公とされた。跡継ぎがいないのなら早めに養子縁組をするべきとして、末期養子は奉公の怠慢とされた。

末期養子の禁違反によって改易された数は、徳川将軍家 初代~三代の時期で46家(改易の総数は198で、その内の93は関ヶ原の戦いや大阪の役によるもの)で改易によって主君を失った浪人の増加が社会問題になり、1651年に就任した四代将軍 家綱の時代では文治主義に転換し、五代将軍 綱吉が1683年に発した天和令では文で治める時代が強調され、末期養子の禁が緩和された。

問題11 幕府から自立できない藩経済
幕藩体制下、各地で生産された商品は人口の集中する三都に運ばれ、流通網を掌握する商人は株仲間に公認される形で幕府の統制下に置かれた。

河内の木綿、竜野の醤油、灘の酒等が上方から江戸に運ばれ、江戸から大阪には九十九里浜の干鰯が運ばれ、畿内地方で栽培された菜種、木綿等の肥料として使用された。

株仲間(幕府が問屋仲間に営業権を認めるシステム)は既得権化して自由競争を阻害するために17世紀後半まで禁止されていたが、享保の改革にて営業税(運上、冥加)納入を条件に認められた。

徳川幕府では、中世の惣村を村請(年貢を村単位に納入させる)に利用したり、檀那寺を寺請制度に利用して民衆支配を行う等、既存組織を上手く活用した。

問題12 農村の危機と松平定信の幕政改革
貨幣経済浸透による階層分化、農村からの人口流出に対応するため、出稼ぎ制限や帰村推奨や倹約令等を行った。

第4章 近代
問題13 「民衆」が動かした倒幕への道
1864年、1865年の徳川幕府による長州征伐では、知行高を基準に諸大名に人馬や兵器提供の軍役が命じられたものの、二度目は不満が大き過ぎて多くの藩が消極的になった。

1830年代に民衆の間で御蔭参り(村や町で講を組んで寺社参詣を行う)が流行したように、封建的身分秩序で最下層に置かれた奉公人や女性が通行手形を持たないまま抜け参りの形で参加して解放感を味わう事があった。

<長州征伐>
1863年5月に長州藩が下関沖でフランス艦に砲撃(下関事件)し、三条実美らと組んで十四代将軍 徳川家茂に攘夷決行を迫った。薩摩藩、会津藩は尊攘派の台頭を警戒し、両藩の兵が宮門を固める中で、1863年8月に急進派の公家7名が罷免される。
その後、新選組によって長州藩等の尊攘派の志士が京都から追放され、1864年に長州藩が勢力挽回のために京都に攻め上がり、蛤御門付近で薩摩・会津・桑名の藩兵と交戦した敗れた(禁門の変)。長州藩は朝敵とされ、徳川幕府は諸藩兵を動員して長州征討を行った。

問題14 日本経済の発展と貿易の動向
明治、大正期の日本経済の柱だった紡績業は輸入綿花、機械に頼っており、貿易収支は赤字だった。第一次世界大戦によって一時的に景気は良好になったが、戦争後に景気は悪化した。

1960年代後半までの日本は重工業製品や石油を輸入に頼った赤字体質で、外貨準備が底をつくたびに経済成長が停滞していた。

明治、大正期に貿易黒字になったのは、1880年代後半、1890年代前半、1910年代後半。1880年代後半、1890年代前半は大蔵卿 松方正義による財政緊縮策が黒字の原因。軍事費以外の歳出を抑制し、官営工場を払い下げ、1885年には銀本位制を確立。世界的な金高銀安の為替動向によって円安になり輸出に有利に働いた。

松方財政は紙幣整理によるデフレ政策であり、米価、繭価が低下して自作農の多くが土地を手放して地主が土地を集積し、安価な労働力供給と資本蓄積という資本主義に必要な要件を準備した。

問題15 政党内閣の成立と戦争の深い関わり
第三次伊藤内閣が対露戦争に向けた軍拡のために地租増徴案を提出(1898年)すると、自由党と進歩党が合併して憲政党を結成した対抗した。その後、政権は禅譲されて第一次大隈重信内閣が成立する。しかし、憲政党が新憲政党と憲政本党に分裂し、僅か四か月の短命に終わる。

1918年の米騒動で寺内正毅内閣が言論弾圧との批判を受けて退陣すると、立憲政友会総裁の原敬が総理大臣となり、初の本格的政党内閣が生まれる(貴族院議員だった大隈重信と違い、原敬は衆議院議員だった)。

<憲政の常道>
衆議院第一党の総裁が、自ら議席を持ち、首相となる。直近の民意を反映した衆議院の第一党が組閣する事や、失政により内閣が倒れた時は第二党に禅譲する。大日本帝国憲法では政党内閣が制度的に保障されておらず(議会と内閣は天皇に直属する独立機関)、憲政の常道は慣行だった。日本国憲法では国会の信認に基づいて内閣が存立する議院内閣制で、首相は国会議員の中から国会が指名するため、政党内閣が制度的に保障されている。

政党内閣は金融恐慌(1927年)、昭和恐慌(1930年)等の問題に対策を打ち出せず、軍部に期待する動きが起こり、1932年の五・一五事件によって犬養毅首相が殺害されると憲政の常道は幕を閉じた。

問題16 ワシントン体制と日本の国際的立場
領土的野心を列強から警戒された日本は、戦後恐慌によって財政難であったため、ワシントン会議にて米英との関係改善を図る一方、軍備制限を行おうとした。

1920年に戦艦八隻、巡洋艦八隻からなる八・八艦隊構想のため、軍事費が一般会計の30%近くまで膨張していた。

<ワシントン会議>
以下が締結される。

①四カ国条約
日米英仏の間で太平洋における各国権利の現状維持を確認。日英同盟は解消された。
②九カ国条約
中国の主権尊重や商工業上の機会均等の確認。
③海軍軍縮条約
主力艦の保有量の制限と、今後10年間の建造禁止。

上記のワシントン体制は列強間の枠組みであり、中国は組み入れられておらず、日本が満州での権益を守るために1931年の満州事変が引起される。

問題17 欧化主義への反発と国権論の高揚
国権論は不平等条約交渉の失敗の過程で高められ、井上外相の欧化政策(鹿鳴館建設等)への反発から、徳富蘇峰の平民的欧化主義(民友社:国民生活向上)や三宅雪嶺の国粋主義(政教社:日本の伝統的精神の称揚)が台頭し、日本美術を再評価する機運から東京美術学校が設立された。

<三大事件建白運動>
民権派による以下の追求。下記③は、民権派でも国権論意識が高まっていた事を示す。

①地租軽減
②言論の自由
③不平等条約改正の達成

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