完全な人間を目指さなくてもよい理由

読んだ本の感想。

マイケル・J・サンデル著。2010年10月13日 初版第1刷発行。



遺伝子技術の進歩によって、医療用を超えて、人間の力を増強する事の倫理的問題について。

それまで所与であった遺伝的条件が操作可能となる事で、才能は感謝すべき被贈与物ではなく、自らに責任のある異形となっていく。著者は、支配衝動を抑制し、「贈与された生」という洞察を保護しなくてはならないとする。

親が子の機能をひたすら高めようとする事は、受容の愛と矛盾する。著者の考える道徳は、謙虚、責任、連帯から成り立つ。遺伝的特性が操作出来るようになると、それは支配の対象となっていき、偶然に委ねる範囲が少なくなる。すると、子供がどのように育つかに至るまでのあらゆる事柄が親の責任となり、個人が解決すべき問題になり、人間本来の脆弱性が考慮されなくなるとする。

しかしながら、著者は能力増強と医療行為の間の明確な線引きを行えていない。

子供への教育熱等、支配への欲求は既に顕在化している。

*************

人間の成果が遺伝子治療に依存するほど、達成された成果は当人を作り出した人物の達成となり、現代社会が想定する行為主体性(自由や責任)を変える。

生の被贈与性を承認する事は、自らの才能行使が完全には自らに帰属していない事を承認する事であり、世界が人間の欲求の通りには動かない可能性を認める事でもある(支配欲求の抑制)。

〇旧優生学
社会全体を改善しようという理想主義の側面を持つ。1883年にフランシス・ゴルトンによって「優生学」という用語が造られた。米国やドイツにも渡って流行し、1933年にドイツで制定された優生断種法は米国でも称賛され、一部の米国州では1970年代まで続いた

〇新優生学(自由市場的)
個人的利得を動機とする。強制に至らず経済的動機によって誘引する。1980年代のシンガポールでは高学歴者の出産を支援し、低学歴者には4000ドルと引き換えに不妊手術を受けさせた。

遺伝子技術の進歩によって自律を制限しない非強制的遺伝子増強が提唱されている。

*************

カントの発想では、道徳の宇宙は尊重に値する人格と、利用を許されている物件に二分される。人格を持つ者は、自らの意志に反して犠牲にされてはならないとするが、その根拠は不可侵性であり、功利主義的見解の枠外にあるはずとする。

リベラル思想の根源は、自由は人間が制御出来ない起源や観点に依存しているという思想で、尊厳は譲渡対象となるような所有物ではないとする。

人間には自らをも物件として取り扱う自由は無く、それは被贈与性に由来している。

<胚の倫理>
幹細胞研究に関する見解。

クローン胚を研究に利用する事には、①胚が人格である事、②人間の商品化という懸念があるとする。

クローン胚は生物学由来の人工物であり、全ての人格が胚であったとしても、胚が人格である事は立証されない。発達上の連続性があっても団栗と樫の木は別物だ。

人間の声明は段階的に発達する。

著者の提唱する仮想事例として、火災が発生した時に、①五歳の少女、②二十個の凍結胚のどちらかを救うとすれば、対手の人間は①を選ぶとする。

不妊治療においても胚が大量に放棄されているが、それを考慮する人間は少ない。自然妊娠でも全受精卵の半分以上は着床に失敗し、胚と人格を同一視する事には難点がある。

尊重の担保となるのは人格性ではなく、高度な価値基準とする。

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たまねぎ氷/たまねぎ生姜ジャム

読んだ本の感想。

村上祥子著。

玉葱は高脂血症予防に効果があるらしい。

古来、欧州では鳥獣肉料理を玉葱の甘さで味付けする習慣があり、イタリアや南仏ではチーズに沿えて玉葱ジャムを食すらしい。

たまねぎ氷 スムージー&スープ健康法
2013年7月1日 第1版発行。



玉葱を電子レンジで加熱し、ミキサーにかけて凍らせる。一日に50gを食べるらしい。

スムージーは、玉葱氷50g、果物50g、野菜50g、水分1/2カップを基本にする。

たまねぎ生姜ジャム健康法
2013年7月25日 第1刷発行。



【材料】
玉葱:500g
生姜:100g
パルスイート:40g(砂糖の場合は120g)
檸檬の搾り汁:大匙一

【作り方】
玉葱を電子レンジで10分加熱し、生姜と一緒にミキサーで攪拌し、パルスイートと檸檬汁を加え、電子レンジで6分加熱する。

一日に大匙三杯が目安らしい。

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ゴボウ茶若返りダイエット

読んだ本の感想。

南雲吉則著。2011年12月30日第1刷発行。



以下は、「あじかんショップ」のWebサイトへのリンク。

http://www.ahjikan-shop.com/

牛蒡はもともとは種子を薬にするために中国から輸入されたもので、解熱剤や皮膚病の薬として利用され、産後の乳の出を良くすると言われた。

キク科の多年草に分類され、発芽してから三年目に花が咲く。

栄養成分の半分は食物繊維(不溶性食物繊維リグニン、水溶性食物繊維イヌリン)で皮に含まれるサポニン(抗酸化物質:ポリフェノール)には血を固まり難くする効果があるという。朝鮮人参の有効成分もサポニン。

<ゴボウ茶の作り方>
①牛蒡をピーラー等でささがきにする(皮は剥かない)
②笊にあげて半日ほど天日干しにする(電子レンジも使用可)
③熱したフライパンで茶色になるまで10分~15分煎る
④色が出るまで煮出す

◎牛蒡石鹸
【材料】
牛蒡茶葉:30g
オリーブオイル:235g
アーモンドオイル:100g
ココナッツオイル:90g
パームオイル:50g
キャスターオイル:25g
苛性ソーダ(水酸化ナトリウム):66g
牛蒡茶水:190cc
精油:30滴

【作り方】
①準備
オリーブオイルに牛蒡茶葉を2週間~一ヶ月浸け、濾したものを準備する
②攪拌
苛性ソーダに90℃くらいまで熱した上記①を入れて、蒸気を吸い込まないように、スプーン等で手早く攪拌し、38℃~40℃になるまで覚まし、その他のオイルも入れて泡立て器で20分ほど混ぜて固まってきたら精油を入れる
③成形
蒸気②を型に入れて発泡スチロール箱に入れて毛布を被せる等して24時間寝かせ、箱から出して1日~1週間ほど放置して熟成させ、型から出して1日~2日放置し、表面が乾いたら切り分ける

◎牛蒡ケーキ
牛蒡茶葉:約10g、ホットケーキミックス:200g、おから:100g、卵二個、牛乳100ccを混ぜ合わせて炊飯器で炊く

◎炊き込みご飯
【材料】
牛蒡茶の出がらし:約10g
米:2カップ
油揚げ:2枚
水360cc
調味料:
薄口醤油 大匙一、塩 小匙1/2、酒 大匙二、味醂 大匙一

上記を混ぜ合わせて炊く。

他に、牛蒡茶の出がらしを乾煎りして、白胡麻等を加えたふりかけ等。

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絶品 手づくりこんにゃく

読んだ本の感想。

永田勝也著。2006年9月30日 第1刷発行。



蒟蒻芋の凝固剤に藁灰の灰汁を使用する。

市販の蒟蒻の凝固剤は水酸化カルシウム(消石灰)であり、卵殻や貝殻を強熱したものを用いるメーカーもあるが、カルシウムを含んだ凝固剤は石灰臭がするらしい。

<灰汁の取り方>
水六ℓ~七ℓに、稲わら700gの割合。最初に藁を黒焼き(灰が白くなるまで焼かない)し、灰を湯に入れて10分~20分静置し、竹笊で濾過する。何回か濾過して透明になった灰汁を、さらし木綿でこす。

蒟蒻芋1kgに対して、灰汁4ℓくらいで蒟蒻を作る。蒟蒻芋を灰汁の中ですりおろし、混ぜ合わせ、1時間~3時間静置し、80℃~90℃の温度で茹でる。

藁灰を使用する方法は難しいので、炭酸カリウム(水4ℓに17gの割合)を使った方が確実らしい。炭酸カリウムは主に、イネ科植物やコナラ、樫の木の灰に含まれる。

<蒟蒻の主成分>
蒟蒻は、コンニャクマンナン(グルコースとマンノースが鎖状に結び付いた高分子化合物)がアルカリと反応して固まったもの。蒟蒻芋のマンナン細胞に含まれるマンナン粒子の中にコンニャクマンナンがある。

マンナン粒子が灰汁の中で水分を吸って膨張すると、毛糸玉状のコンニャクマンナンが解けて灰汁の中に溶け出し、水の中で長く伸びて絡み合い、糊状になる。

<蒟蒻芋の育て方>
春に芋を植えると、秋に芋(二年生)が収穫され、それを翌年の春に植えると、芋(三年生)になる。芋は毎年肥大を続け、数年が経過すると花芽を付けて開花結実し、花が咲いた芋は委縮して消失する。

蒟蒻は腐食質が豊富で排水と風通しが良く(強風が当たらない)、夏季の直射日光を避ける場所で良く育つ。

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ひょうたん・へちま

読んだ本の感想。

森義夫著。2000年3月1日 第1版発行。



〇瓢箪:
西アフリカ(モロッコ・エチオピア地方)原産の蔓性の一年草。生育期間は長く、収穫まで五か月かかる。実は開花後10日頃から肥大し、30日くらいで最大になる。大型瓢箪は熟するのに70日くらいは必要。

最古の栽培食物と言われ、ペルーのアヤクチュ洞窟からは紀元前1万2000年、タイのスピリットケープ遺跡からは紀元前7000年頃の瓢箪が見つかり、日本では縄文時代中期から栽培が始まったとされる。

祭器、容器、茶碗、水筒、酒器、柄杓等の生活用品の役割。

〇糸瓜:
インドを中心とする熱帯アジア原産で紀元前後くらいから栽培されたとする。ウリ科の蔓性の一年草で、中国へは600年頃に伝わり、日本には江戸時代(慶長年間1596年~1615年)に伝わったとされる。

繊維として利用され、1965年頃まで静岡県を中心に300ha以上栽培されたが化学繊維の普及によって繊維需要が無くなる。

生育旺盛な8月中旬~9月中旬に茎を切って根から吸い上げる樹液を採取した糸瓜水(サポニンを含む)は、肌に潤いを齎す化粧水として活用され、咳止めやアレルギー予防にも効果があるとされる。

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トコトンやさしい炭の本

読んだ本の感想。

立本英機著。2002年7月30日 初版第1刷発行。



人間が金属加工をするためには、焚火では不可能な1000℃を超える高温が必要であり、炭を熾す必要があった。

<炭>
木材からガス成分が揮発し、残った材質が固まったもの。木材を260℃~800℃で酸素が少ない環境で蒸し焼きすると、揮発ガスを残したまま、多孔質となるために木材よりも燃焼し易くなる。

1gあたり200㎡~400㎡の表面積を持ち、悪臭等の分子が炭を通過する時に、孔が分子を獲得し、臭い等を除去する。

その広い表面積のために保水性や透水性を持ち、土壌に鋤き込めば、施肥の際にその成分を吸着、残留させて肥料の効果を長くする。

白炭:
炭化の終りに空気を大量に当てて燃焼させ、灰で消化する。灰が炭の表面に付着するので灰白色となり、灰中のカリウムが炭に染み込むので着火点が低くなる(備長炭等)。成分は原木の銘柄による差異が少なく、炭素93、酸素3、水素0.4、灰分2~3程度。燃焼速度が緩やかで発熱温度は低い。

黒炭:
炭化が終わった段階で、窯を密閉し、徐々に冷やす(茶の湯炭等)。窯を密閉して消化するので焼きムラが生じ、成分は原木によって異なる。揮発物が多いので燃焼速度が速く、高温になる。

白炭?は唐時代の中国で生まれ?、804年に渡中した空海が技術を日本に持ち帰ったとされる。空海が開いた真言宗の聖地である高野山近くには備長炭発祥の地がある。

東大寺の大仏鋳造には約800tの炭が使用されたらしい。

〇石炭
シダ等の植物が、2500万年~3億年ほど堆積したものが腐食して泥炭となり、地熱と圧力で固形化したもの。成分は炭と似ているが、多孔質ではなく着火性が悪いが、熱量は炭より上。

〇木酢液
木炭を作る時に出る煙から抽出・濃縮される液。煙の凝縮液は、木タール、粗木酢液、油膜に分離し、粗木酢液を蒸留して作る。燻製や堆肥、病害虫の予防等に使用。

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ダ・ヴィンチ 天才の仕事

読んだ本の感想。

著者:
ドメニコ・ロレンツァ
マリオ・ダッディ
エドアルド・ザノン

2007年5月20日 初版発行。



レオナルド・ダ・ヴィンチが残した発明スケッチをCGで再現したもの。

001 空を飛ぶ機械
・機械仕掛けの翼(原型)
1480年代からレオナルドは人力による飛行の可能性をノートに書き綴る。人間も鳥のように飛べると信じて疑わなかった。

・トンボ
虫が飛ぶ構造の解明。鳥や虫を模倣して空を飛ぶ試み。

・翼
空気は圧縮可能な物体であり、翼で空気を圧縮し、周囲の圧縮されていない空気と混ざらないようにすれば空に浮かぶと考えた。

・空気スクリュー
・飛行機
・機械仕掛けの翼
 
002 武器
武器の大半は、ミラノ時代の初期(1483年~1490年)、フィレンツェに戻ってすぐ(1502年~1504年)に考案されている。特に1500年代初頭は十二ついて研究したらしい。30歳前後でミラノ領主ルドヴィーコ・イル・モーロに送った事故推薦状には大砲等の軍事装置について書かれている。

・大砲
・多銃身砲
・防御壁
壁に埋め込まれた木材を押し出して敵の梯子を倒す。

・戦闘馬車
戦車鎌という殺人装置。

・分解式大砲
・装甲車
・カタパルト(石弓)
・連射式大砲
・回転式大砲
・要塞
第二ミラノ時代(1508年~)に制作。弾丸の被害を抑えるために城壁が曲線を描く。

003 水にまつわる機械
・自動ノコギリ機
・外輪船
・旋回橋
・浚渫船
ポンティノ湿地での干拓計画やマルティーノ川の流れを緩和する工事等、川の泥をさらう事業に利用する事を計画したらしい。

004 作業のための機械
・往復運動の機械
往復運動を回転運動に変換する機械等。

・やすり製造機
・凹面鏡研磨機
・運河掘削クレーン

005 式典の装置
フィレンツェで人気を博した可動式の舞台装置。中世の宗教劇は、ある場面が演じられる脇に関係無い背景がある構成だったが、ルネサンス期には一つの背景のみを持つ新しい舞台が登場。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、プリニウスが『博物誌』で触れている古代ローマ時代の可動式舞台を再現しようとしたらしい。

・自走車
・『オルフェウス』の舞台装置
『オルフェウス』は、レオナルドの第2ミラノ時代(1506年~1512年)に上演された劇で、舞台背景が転換して入れ替わり、役者がコンテナで登場する。

006 楽器
・獣頭のリラ
架空の動物の頭部から口を貫くように弦が張られている。ルネサンス時代の宮廷では、ホメロスに遡る即興詩人の伝統を見直して、即興詩の朗詠が流行し、伴奏用の楽器が使用されたらしい。

・自動演奏太鼓
・ヴィオラ・オルガニスタ

007 その他の機械
・印刷機
・距離計
・コンパスとディバインダー

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土の科学

読んだ本の感想。

久馬一剛著。2010年7月2日 第1版第1刷発行。



土は、土の粒子や有機物等を含むが、全体体積の半分以上は空気(気相)と水(液相)である。微生物による隙間の多い団粒構造はより多くの空気を含む。

団粒構造によって土は植物が生きるための根の呼吸と吸水を可能にする。畑作のための土作りとは、微生物の餌となる有機物を施す事で団粒構造を作る手助けをする事である。

<土が出来る過程>
岩石が壊れて石礫となり、次第に細粒化して土になっていく(風化)。岩石はもともとは、高温高圧の地球深化で結晶化した造岩鉱物の集合体が地表に出たもので、地表表面に出ると物理的風化(昼夜の気温変化による崩壊)、化学的風化(炭酸ガスを含んだ雨水による溶解作用等)がある。

そして、地表の植物の落葉落枝(リッター)が腐食して混合し、土壌になっていく。

伊豆大島での調査によると、1778年に火山噴火によって溶岩が流出した場所では火山性砂漠の上に栄養要求性の低い草が生えており、その前に火山噴火による溶岩が流出した地域では窒素固定の出来る木が灌木林を作り、最終的(1200年程度必要?)常緑広葉樹林が出来るらしい。

<モンスーンに集中する稲>
世界の稲作の90%近くは生産量でも栽培面積でもモンスーンアジアに集中する。

モンスーンは季節風であり、季節によって卓越する風の向きが決まっている。モンスーンアジアは、アジア大陸部から東南アジア等を包括し、この地域は世界の陸地の10%強だが、2005年時点で世界人口の53%程度が居住する。

雨季に集中して降った雨を低地に集めて稲栽培に利用する。日本の土は酸性(pH5~pH5.5くらいが多い)だが、水田に水を張るとpH6.5~pH7くらいまで中性に近付き、リン酸が溶け出し易くなり、リン酸の有効性が高くなる。

窒素も嫌気的条件下にあって有機物が蓄積され易くなり(窒素固定菌はニトロゲナーゼという酵素によって窒素を還元するが、ニトロゲナーゼは酸素が存在すると不安定化する)、生物的窒素固定量も多い。灌漑水によってカリウム、カルシウム、マグネシウム、ケイ酸等も供給される。また、湛水と落水を交替させる事で病原性生物が蔓延る事を防ぐ。好気的条件と嫌気的条件の両方に適応した生物は少ない。

水を溜めるために土地を平にし、畦をめぐらす事は、表土流出を防ぐ意味があり、それも水田農業の永続性を支える。

<日本の土>
日本には以下の二種類の土が多く見られる。

①黒ボク(腐食性酸性土壌)
関東以北と九州に多い火山灰由来の土。

②赤黄色土(鉱質酸性土壌)
東海以西に見られる赤黄の土。沖積平野が隆起する等して土地になり、何十万年も前に堆積した事による古さから色が付くらしい。

一般に堆積物が風化する時に、最後まで残るのは酸化鉄等の酸化物鉱物である(水に溶け易いイオンとして見ずに融けるナトリウム等は比較的早く無くなる)。同様に火山灰も水の通りが良いために、強く洗脱を受ける。

こうして降水による洗脱作用が酸性土壌を生み、アルミニウムや強い酸性化の結果溶け易くなった鉄がリン酸と結び付くために日本の土はリン酸が欠乏する傾向がある。

⇒日本では畑での作物栽培よりも水田農耕が向いている

<肥料について>
自給肥料の他に、日本では江戸時代から購入肥料(干鰯、油粕等)が使用されるようになり、窒素とリン酸の補給に効果があった。1909年に米国人土壌学舎 フランクリン・キングが著した「東アジア四千年の永続農業」では、日本全国で農地に入る養分の総量を年間で窒素:38万5214t、リン:9万1656t、カリウム:25万5778tと算定している。1アール当たりでは、窒素:6.4kg、リン:1.5kg、カリウム:4.3kgになる。現在の日本の年間肥料消費量は、窒素:55万t、リン:30万t、カリウム:43万tとなっている。

現在では自然発生的に肥料を施すのでなく、外部から購入する事が常態化しているため、リンやカリウムの枯渇が心配されている。

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キャラクターの作り方

読んだ本の感想。

野村カイリ著。2015年8月24日 初版発行。



以下が、本書における「キャラクター」の意味。

①性格や人格を設定された造形物(イメージキャラクター)
②作品中の登場人物(ストーリーキャラクター)

物語におけるキャラクターは鉄道線路のような役割を果たす。

キャラクターには性格(感情や意思決定に見られる傾向)があり、行動に大きく影響し、特に以下を考える

・他のキャラクターとの区別
・長所、短所
・判断と行動の指針

上記を定める事により、キャラクターが取るであろう判断と行動が決定されるため、作品世界における動きを作者が一つ一つ指図する必要が無くなる。それはキャラクターが自律する事である。

〇キャラクター属性:
キャラクターを形作っている様々な性質や要素。種や性別、体格、家族等の様々な要素を付け加えていく事でキャラクターは形成されていく。

以下は、属性を特徴発てる立てる方法。

①少数派(社会集団の中での少数派にする)
②減らす(頭に毛が無い等)
③増やす(三刀流等)
④削る(姿が見えない等)
⑤持つ(空を飛べる等)

キャラクター属性は多様であるが、物語の進行上、柱とする属性は限られる。さらに、柱とする属性を強調する動き(態度や決めポーズ、動作や決め台詞)を定める。

〇キャラタクター属性の分類:

①外見
容姿や服飾が合わさって印象が生じる。

②内面
性格(行動の傾向)、能力(変化を可能にする力)、信条(行動ルール)がある。

③社会的属性
所属する社会の中でどのような状況にあるか。名前や職業、地位等。

④その他の属性

上記は先天的属性であるか後天的属性であるかに分かれる。そして、グループ属性として、その種類のものに付属する属性もある。

属性に関連を持たせて説得力を出し、相反する属性は葛藤を表現可能。

〇キャラクターの例:

①愛されるキャラクター
保護したくなる、健気、自己犠牲、意外性。

②少年少女
感受性、純真、少ない経験。

③プロフェッショナル
優れた技能、哲学、誇り。

キャラクターは敵味方に分けて、好意や敵意の原因を定める。倫理や利害、嫉妬や怨恨、義理、直感等。

チームにする場合は共通の目的を定めて、力を合わせる事で何が起こるのかを決める。

★二人組
・対抗型:正反対の二人組が始終衝突している
・主従型:名探偵と助手が一例
・同僚型:同格の立場で協調
・補完型:片割れに無い能力を補う
・分身・代行型:操縦者と巨大ロボット等
・異性・異種型:男性と女性等

★三人組
・主従型:指導者と部下
・相棒+1型:二人組に異質な一人

★四人組
・四天王型:優れた個人が四人いる
・リーダー不在型:四人の個性が個々に発揮される

★五人組
・旧戦隊型:個性が強調されている
・新戦隊型:美形を揃える

★六人組以上
個性を出そうとすると人数が多いだけに煩雑となる。見かけは別にして、一人につき、1~2程度の個性を配する。作り込みの程度を3~4段階に分けて、主役、親友、準主役、プラス1、その他大勢という風になる。

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異常気象が変えた人類の歴史

読んだ本の感想。

田家康著。2014年9月8日 一刷。



第Ⅰ章 現生人類の最初の試練
-先史時代

第1話 氷期(氷河期)は4回ではなかった
氷河期:
地球上の何れかの平野に広い範囲で万年氷の形で氷床がある時代。紀元前4000年頃から南極に氷床があるので、現在でも氷河期が続いている。

氷期:
氷床が大きく広がる期間。

間氷期:
氷床が減少する期間。

『氷河時代のアルプス』(アルブレスト・ペンク、エドガー・ブルックナー)では、①ヴェルム氷期(紀元前5万年~紀元前4万年)、②リス氷期(紀元前15万年頃)、③紀元前50万年~紀元前46万年、④紀元前67万年~紀元前63万年の四回の氷河期が提唱されている。

しかし、1955年にチェーザレ・エミリアーニが発表した「更新世の気温」では、過去80万年に渡って、氷期は約10万年の周期で訪れている。この周期は、地球の公転軌道が真円に近いか、楕円に近くなるかの離心率の変動とほぼ一致する。

第2話 現生人類の最初の試練
紀元前18万年頃のリス氷期の時代、アフリカのほとんどの地域は乾燥化し、現生人類の多くはエチオピア高原にある湖周辺の限定的な森林に逃げ込んでいたらしい。
この時の人口は1万人~2万人程度で、遺伝子にボトルネック現象を残しているらしい。

第3話 ひとつ前の氷期の気候
-海面水位はどこまで上昇したか?

現在の地球は、約1万2000年程度継続する間氷期とされる。その前の間氷期は、エーミアン間氷期、サンガモン間氷期と名付けれられ、およそ紀元前13万年頃に始まり、紀元前11万2000年頃に終わったとされる。
最も温暖だった紀元前12万3000年頃は、北半球の平均気温が現在よりも2℃高く、紀元前12万7000年~紀元前11万6000年で、海面水位が4m~6m上昇したらしい。

第4話 人類はいつ頃から衣服を身に付けたのか?
-シラミとトバ火山

アタマシラミとコロモシラミの分化した時期は、紀元前7万年頃とされる。紀元前7万2000年頃にインドネシア・スマトラ島北部のトバ火山が噴火し、噴出した硫黄が太陽光を遮る事で寒冷化が進んだ(最大で15℃の気温低下)。
噴出物は赤道付近を流れる偏東風に乗って西に運ばれ、インド亜大陸に甚大な被害を与えたとする。現在でもミトコンドリアDNAのM系統ではユーラシア大陸西部の人々はほとんど保有者がいないが、インド東部の人々には極端に多く、遺伝的に孤立した過去を示している。

トバ火山以降も1000年程度は寒冷化の時代が続き、それが衣服の発明に繋がったのかもしれない。

なお、アタマシラミには、アメリカ大陸先住民が持つ、分岐が紀元前118年頃のものがあり、ネアンデルタール人と原生人類の分岐が紀元前60万年頃とされるため、ホモ・エレクトス由来のアタマシラミと考えられ、どこかで接触が発生したのかもしれない。

第5話 ネアンデルタール人と原生人類の生存競争
ネアンデルタール人はエーミアン間氷期に生息地域を拡大し、紀元前9万年頃にはカスピ海周辺からブリテン島南部までに生息したとされる。
現生人類との比較では、オーリニャック文化(石刃、針、銛)を持つ現生人類に対して、ネアンデルタール人はムスティア文化をシャテルペロン文化へ発展させて石刃技法を用い、ビース装飾も作っていた(オーリニヤック文化の模倣説あり)。

しかし、両者の移動距離には差異があり、現生人類の方が相対的に余った時間で技術を高める余裕があったとする。

第6話 狩猟採集生活における男女の役割
紀元前2万4000年~紀元前1万7000年頃の最終凍期極寒期において、男女の役割分担が発生したとする。交雑が自由なチンパンジーには男女の身体能力格差が無いため、一時的に人類には力強い雄が雌を独占していた時期があったものと思われる。

他に色覚の問題がある。夜行性を強いられた哺乳類の先祖には、赤への錐体視物質を失い2色型色覚になっているが、紀元前3000万年頃に、狭鼻猿類はX染色体の一部に長波長型の遺伝子を持つようになり、3色色覚を再度獲得。X染色体からの遺伝子重複を通して雄にも色覚が伝わったが、色覚以上は男性約3.5%、女性0.5%以下と男性に多く、赤を認識出来る女性が森林での採集活動に活躍したのかもしれない。一方、狩猟においては明け方や夕方に大地が赤く染まると赤色の認識によって視界が見え難くなる。

第7話 突然訪れた急激な寒冷化へのサバイバル術
-農耕の開始

紀元前1万900年頃に急激に地表が寒冷化した事が農耕開始の契機?

第8話 縄文人の食文化
東日本(クリ・ウルシ文化圏)と西日本(イチイガシ利用文化圏)の違いがあったとする。三内丸山遺跡は紀元前3500年頃~紀元前2000年頃まで繁栄した集落で、最大500人ほどが生活していた。
この時代は寒冷化が進む転換点で、冬季に保存出来る栗を有力な食料として集落が繁栄し、気候変動が発生する紀元前2000年頃に滅びたのかもしれない。

第Ⅱ章 海風を待ったテミストクレス
-BC3500年~AD600年

第9話 サハラの砂漠化とエジプト文明の誕生
完新世の気候最適期(紀元前8000年頃~紀元前4000年頃)は、北半球の夏季の日射量は現在よりも8%ほど多く、インド洋や大西洋からのモンスーンが大量の水蒸気をサハラに運び、サハラ一帯は緑化されていた。

紀元前4000年以降はサハラ全体で水分が減少していき、遊牧民が水を求めてナイル川流域に流れ込んだとする。この地域の人口急増は、紀元前3300年頃。紀元前3150年頃には上エジプトのナルメル王が下エジプトまで支配し、エジプト第1王朝を創始している。これは人口流入が多かった上エジプトが、下エジプトを圧倒したものと思われる。

第10話 紀元前2200年前の干ばつと『旧約聖書』の
中のユダヤ人の流浪

紀元前2200年頃から紀元前1800年頃に、エジプトやメソポタミア一帯で降水量が減少し、飢饉が発生した。エジプト古王国は紀元前2184に滅亡し、紀元前2170年頃にはメソポタミアの都市テル・レイランが放棄されている(イラク北部からトルコにかけて居住地の74%は放棄された)。

第11話 巨大火山噴火による大津波に襲われたミノア文明
紀元前1700年~紀元前1600年の間で、エーゲ海キクラデス諸島のサントリーニ島で巨大火山の噴火があった。その影響で、紀元前1900年頃から反映していたクレタ島のミノア文明が壊滅的被害を受け、ミケーネ系のギリシャ人が島を支配するようになる。

第12話 海風を待ったテミストクレス-サラミスの海戦
日中、気温が高くなると空気が膨張するが、陸地の方が海上よりも暖まり易いために空気の膨張が大きななる。そのため、気圧では陸上に低圧部、海上に高圧部が出来るため、空気が密度の濃い高圧部から低圧部に流れるため、海陸の温度差が大きい昼には海から陸に風が吹く。

紀元前480年頃のサラミスの海戦では、テミストクレスは海風による風波でペルシア艦隊が混乱するまで待ってから攻撃命令を出したとする。

第13話 ハンニバルが超えたアルプスの峠-第2次ポエニ戦争
紀元前220年頃のアルプスの森林限界は、現在よりも300m~500m高い地点にあり、現在よりも劣悪ではなかったらしい。

第14話 フランスのブドウの先祖は耐寒品種
紀元前300年以降、温暖な地中海性気団が北上し、フランスやドイツ北端まで勢力を広げたため、ローマの領土拡大が容易になったとする。
ローマの領土拡大と合わせて葡萄の産地も広がり、南仏に植えられたアロブロゲス産がピノ系と呼ばれるブルゴーニュ・ワインの先祖とされる。
そして、イタリアと比較して寒いガリアの地で植えられたピトゥリゲス種が現在のカベルネ系、ボルドー・ワインの源泉とされる。

第15話 倭国内乱と聖徳太子の願い
縄文時代以降、弓に付ける石鏃は軽くて小さく飛距離が長い物が使用されたが、紀元前後の弥生時代中期からは長く思い殺傷力の高い石鏃が使用されるようになり、やがて鉄製の鏃が使用されるようになる。
同時期には近畿地方や瀬戸内海では高地性集落が作られるようになり、内乱状態を暗示している。倭国大乱は147年~189年の後漢皇帝桓、霊の間は続いたと伝承される。

第16話 皇帝ユスティニアヌスの夢を挫いた
新大陸の巨大火山噴火

中米エルサルバドルのイロパンゴ湖の噴火は、①150年~370年、②408年~536年にあったとされる。東ローマ帝国の記録では、536年冬に日射量が減少し、中国でも同様に記録される。
気温減少にる大型哺乳動物の現象は鼠よるペスト蔓延を招き、541年にはペストがコンスタンティノープルで流行し、バルカン半島やスペインでも流行した。
東ローマ帝国では、541年~543年に、貴金属の含有量を減らす貨幣改鋳を実施しており、大軍を維持するための財源不足が伺える。

第Ⅲ章 京都東山のアカマツ林の過去・現在・未来
-700年~1500年

第17話 日本と中国での漢字の違いはいつ頃生まれたのか
中国全土では漢字が10世紀頃に変化しており、それは中国社会の混乱に関係しているとする。

940年頃の白頭山噴火や、1010年~1050年の太陽活動低下等により、900年~1100年は北西モンスーンが強く、夏季には湿った南西モンスーンが華北に流入せずに干ばつになり、長江流域では梅雨前線が留まって洪水になる。

当時の宋朝は、広恵倉を新設して災害被災者を救援する等、内政において充実しており、求心力が高かったのかもしれない。

第18話 京都東山のアカマツ林の過去・現在・未来
現在の人工林1万本で換算すると、東大寺建立のためには杉や檜が7万本程度使用される。飛鳥時代から平安初期に使用された木材の合計はその100倍に及ぶと推定される。

平城京から長岡京への遷都の理由は山背国と丹波国の木材を桂川で運ぶのに適していたためで、平安京は北方に丹波国があった。

森林伐採後は、栄養度が低い土地に適したアカマツが勢力を拡大し、京都周辺の森林の象徴となる。

20世紀に京都市の平均気温が約2.3℃上昇した事は、温暖な気候を好む照葉樹が育ち易い環境を作り出している。

第19話 中尊寺落慶供養願文にみる奥州藤原氏の繁栄
尾瀬ケ原の泥炭柱に含まれる花粉の分析では、12世紀~13世紀前半の欧州は温暖だった。藤原清衡(1056年~1128年)の時代には税を一度も滞納した事が無かったらしい。

14世紀には温暖な時代が終わるが、その前触れとして1258年には正嘉の飢饉が発生しており、陸奥国の農民の中には寒冷な天候のために農業を続けられなくなり、狩猟採集生活に追い込まれる者もいたという報告がある。

第20話 火山噴火が多発した13世紀後半
1300年を挟む100年間は劇的に気候が変わった時期。グリーンランドや南極の氷床に含まれる火山灰分析から、1268年、1275年、1284年に大きな噴火があった事が判明している。インドネシアのロンボク島サマラス火山の噴火は1257年頃。

北半球高緯度での気温低下幅は最大で0.5℃、夏の降水量は7%減少。

第21話 侵攻時期を逸したクビライの遠征軍-弘安の役
1281年の弘安の役において、8月中旬まで九州沿岸に滞在したために台風の直撃を受けたとする。

第22話 怪鳥モアを絶滅に追い込んだ森林放火
マオリ族がニュージーランドに渡ったのは1200年頃とされ、当初は海岸部の低地でサツマイモやタロイモの栽培を行ったとされる。しかし、1400年代になるとニュージーランドの気温は1200年頃と比較して1.4℃ほど低下して根菜類の栽培が困難になり、狩猟民族として内陸部の森林に放火して逃げてくる獲物を捕らえたとする。この時期にニュージーランドの原生林の50%が失われたという研究結果がある。

第23話 寒冷期の訪れが芸術のテーマに「死の勝利」を選んだ
キリスト教美術には、イエスの受難が人類の影響に繋がると強調するか、殉教を信者も享受すべきという二つの見方がある。初期キリスト教美術に描かれるイエスは、表情が穏やかで背景も黄金で固めている(ソフィア大聖堂、サンタ・コンタンツァ教会等)。14世紀以降に宗教画は変貌し、悲劇的な苦しみが強調されるようになる(ロアンの時祷書)。

気候変動による飢饉やペストの影響とする。

第24話 コンスタンティノープル市民を絶望に陥れた月食
1453年5月22日の月食がコンスタンティノープル市民の士気を挫いたとする。南太平洋クワエ火山の噴火が影響しているらしい。コンスタンティノープルは5月29日に陥落した。

第Ⅳ章 ストラディバリウスはなぜ美しい音色を奏でるのか
-1550年~1850年

第25話 民衆を魔女狩りに駆り立てた悪天候
13世紀までは魔女という概念はあっても社会からの迫害は無かった。1318年に法皇ヨハネス22世が異端者の中に魔女を加え、旧教徒のカソリックが新教徒に対抗する過程で、南仏やスイスで先行し、新教徒の多いドイツやオランダ等に広がった。

特に気温が激しい低下傾向となった1570年代を過ぎてから魔女狩りで火刑になった者が急増し、気温低下が治まった1610年代には一旦横這いになるも、低温の月が増加する1630年代にピークになる。

第26話 オレンジ公ウィリアムを運んだ「プロテスタントの風」
-名誉革命

欧州大西洋岸では、9月~11月には強い西風が多い。1688年の名誉革命においては西風を「プロテスタントの風」と呼び、反カソリック陣営がオランダから帆船によって移動出来る西風を待ったとする。

第27話 ストラディバリウスはなぜ美しい音色を奏でるのか
アントニオ・ストラディバリ(1644年?~1737年)の楽器は、彼が生きた時代は太陽活動の低迷したマウンダー極小期という寒冷期の極であり、楽器材料のトウヒの原木の成長が鈍化し、年輪幅が小さく硬い材質になったとする。

第28話 宝永噴火の火山灰は江戸町中に降り注いだ
1707年の富士山噴火について。諸国高役令が発生され、48万8770両が集められる。酒匂川の治水工事が行われるも、完全復旧は1783年となる。

第29話 フランス革命の扉を開いた異常気象
1788年のフランの降水量は、過去10年程度の平均と比較して12m少なく、平均気温も高かった事から、干ばつの様相を呈していたものと思われる。
1774年~1788年の平均と比較すると、1788年の小麦収穫量は約60%、その他の雑穀は2/3程度の収穫量。1789年は厳冬でもあり、1789年~1818年の平均ではパリに霜が降りた日数は45日なのに、1789年は86日だった。

第30話 ナポレオンの進撃を阻んだ温帯低気圧
-ワーテルローの戦い

1815年6月16日~17日にかけてブリテン島南端からロッテルダムに向かって温帯低気圧が西から東へ通過し、強雨となった。ナポレオン軍はマスケット銃や大砲を活用出来ずにワーテルローの戦いに敗れたとする。
ワーテルローの前のカトル・ブラでは泥濘によって進軍速度が低下し、ウェリントンを逃している。

第31話 フレデリック・ショパンとジョルジュ・サンドの愛の旅路
1838年にショパン(1810年~1849年)は愛人のジョルジュ・サンド(1804年~1876年)とエル・マヨルキン号で旅をした。暖かさを求めてマヨルカ島へ行ったhずが、1838年~1839年の地中海一帯の気温低下は顕著であり、後に旅は失敗だったとショパンは語っているらしい。

第32話 アイルランドのジャガイモ飢饉を起こした湿潤な天候
1845年にアイルランドでは日照時間が少なく、低温で湿度が高い日が続き、じゃが芋の疾病が流行した。1840年のじゃが芋収穫量は1260万tだが、1845年には840万t、1846年には260万t。

当時のアイルランド国民の1/3はじゃが芋のみで生活していたために影響は大きかった。

第Ⅴ章 破局的な自然災害をもたらすもの
-1900年~未来

第33話 タイタニック号沈没の背景
北大西洋の北緯48度以南で一年間に記録された表座安の数を調べると、タイタニック号が沈没した1912年は3年ぶりに氷山の数が増加している。
北極振動といって極域と低緯度で気圧差が小さくなり偏西風の蛇行が大きくなる現象があり、タイタニック号の進む海域で北西風が強く、多くの氷山が南の海域に運ばれた可能性がある。

第34話 大寒波で頓挫したヒトラーの野望
エルニーニョ現象によってロシア西部に平年以上の寒波が襲来した事が独ソ戦を決定したとする。1880年~1990年までの110年間で26回のエルニーニョ現象が発生しており、この時のスカンジナビア半島は70%の確立で低温傾向となる。

他に南米大陸西岸で多雨となり、ナイル川の水量が減少、インドではモンスーンが弱化する。

第35話 「氷河期が来る!」と叫ばれた1960年代
1950年代末~1970年代初にかけて地球の気温は寒冷化傾向を示した。1953年~1976年にかけては全球平均で0.31℃低下している。
以下の三つの要因。

①火山噴火
インドネシア・バリ島のアグン火山は1963年に噴火。
②公害
工場からの煤煙による硫酸イオンや硝酸イオンの影響。
③大気圏核実験
1963年に米英ソで部分的核実験停止条約が調印されるまで、米国1950回、ソ連219回、英国21回の核実験を行っている。

第36話 食糧安全保障を生んだ世界食糧危機
1972年に発生したエルニーニョ現象による飢饉。特に旧ソ連西郡から中央アジアにかけては降水量が平年の半分となった。

危機は1973年夏の収穫が豊作だった事で緩和された。

第37話 桜の開花日からみた京都の春の気温
『日本後記』や『明月記』等の宮廷人の日記には桜の満開日の記述が残っている。

そこからの類推では、平安前期にあたる10世紀では3月の平均気温は7℃近辺であり、11世紀~12世紀は6℃前後が続き、13世紀には5.5℃~6℃程度だが1310年代には7.1℃まで上昇するも、小氷期に入る15世紀に6℃を割り込むと、江戸時代の間まで5℃代が継続する。

京都の3月の平均気温が6℃を超えるのは1886年から。ちなみに、1984年~2013年の平均は8.4℃。

第38話 人為的温暖化の危機とは何か
温室効果ガス等の話。

第39話 次の氷期はいつ来るか?
氷期・間氷期が10万年単位で訪れる理由は、地球の軌道の離心率であるとして、地軸の傾き(4万1000年周期)、歳差運動(2万2000年周期)が共鳴し、地球全体の気温を変動させる。

著者は、次の氷期は早くとも1000年以上先とする。

第40話 破局的な自然災害をもたらすもの
小惑星の衝突や巨大火山噴火の影響等。

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西谷史先生のライトノベルの書き方の教科書Ⅰ基礎編

読んだ本の感想。

西谷史著。2013年2月7日 第1版第1刷。



日本文学現代史のようになっている。

第一章 ライトノベルを書く
第一節 ライトノベルの誕生
角川スニーカー文庫が誕生した1988年にライトノベルというジャンルが出来る。十代の中高生を読者として想定し、主人公を読者の分身として感情移入するのでなく、憧れを具現化した存在とする。
1985年からゲームとアニメの市場が急成長し、「剣や魔法の世界」を体験した人々が同じような設定で活躍する人物を小説にも望んだ。小説の中の情景を思い浮かべて楽しむ。

2000年頃には純文学作品でも視覚重視の傾向があり、2000年頃のベストセラーには、「見る」という単語が平均して2ページに4回使用されているが、1985年当時には2ページに1回が普通だった。

第二節 なんのために書くのか
読者に読んでもらうために書く。そのためには自らが感情移入している主人公に苦労をさせたり、伝わる文章を書かねばならない。

第三節 なぜ最初に主人公を決めるのか
主人公が感情移入の対象であるため、行動に一貫性をもたせる。

第四節 キャラクター設定について
外見や得意科目、友人や家族等を決定し、以下を決める。相性の良いグループは全員が揃うと、6点が全て満たされる。

①積極性
②肉体的強さ
③指導力
④優しさ
⑤辛抱強さ
⑥頭の良さ

第五節 友達を決める
主人公と対照的な人物を友人にする等。

第六節 彼女を決める
草創期のライトノベルには、当時の読者が望んだ禁欲的な主人公が多い。1980年代に流行した『ノルウェイの森』のように二人の女性の間で揺れ動く主人公の需要は弱かったが、ライトノベル読者の裾野が広がるに連れて、複数の異性の間で揺れ動くのが当たり前になっていく。
著者は19世紀の英国文学の「デイヴィッド・コパフィールド」を参考にする。

第七節 敵について
主人公と価値観の異なるもの。

第八節 アニメキャラと小説のキャラ
登場人物に実在の人物を当て嵌めて現実性を保つ。主人公の周囲でどのような音がして、どのような臭いがして、どのような気分であるのかに共感する。

第九節 情景を書く
例えば部屋の中を描写する場合、最初に全体のイメージを書き、入り口の正面にあるものか目立つ物を描き、それから近くにある物を順番に書いていく。描写対象があちこちに飛ぶとイメージが難しくなる。

第十節 鋭い観察から物語が生まれる
実際に見た情景を文章にする訓練。観察眼と知識。

第十一節 物語の書き出し
著者が考えるところでは、①主人公から書き出す、②身近なところから書き出すパターンがあり、壮大な書き出しは推奨していない。普遍的な日常から書き始め、実は人類の九割が滅んでいると明かす方が読み易いとする。感情移入を促し、興味を持ってもらう。

第二章 一人称か三人称か
第一節 一人称と三人称の比較
一人称:
作者が主人公の視点から、主人公が思った事を文章にする。描写する範囲が限られるので、主人公のいない場所で登場人物画動く。客観性が要求される三人称よりも感情移入が容易で、描写範囲が限られる事を活かしてドラマを作れる。

三人称:
物語の視点を調節可能で、様々な人物の視点から物語を書く事が出来る。

第二節 一人称の文学史
夏目漱石の「吾輩は猫である」が日本初の完成された一人称小説とする。同時期の日本では一人称と三人称の違いを認識出来る人は少なかったが、1900年~1902年の英国留学の影響によるらしい。一人称は弟子の芥川龍之介に引き継がれる。

その後、自然主義文学の衰退や戦争に向かうに連れて、一人称で書かれた文学作品で21世紀まで残っているものは少ない。第二次世界大戦後に、太宰治のように独特の一人称小説が現れるが、高度成長時代には社会を変えるような大きな構想が好まれ、それには三人称が向いていた。

1980年代に一人称の「ノルウェイの森」が流行すると、影響された人々の間で一人称の小説がブームになる。著者も三人称からの転向のため、様々な視点が最後に集約される展開が使用不可になったり、一人の人間を集中して描く事に慣れる事に苦労したらしい。

2003年頃には一人称で書かれた「涼宮ハルヒ」シリーズがヒットし、2008年頃にはライトノベル作家志望者の7割~8割は一人称で書いているらしい。

第三節 三人称的な一人称
太宰治の独特な一人称について。

太宰治の一人称:
私は、急に人が変わったようにきょろきょろしはじめた

通常の一人称:
不安がこみあげて、きょろきょろと辺りを見回した。もし、ずっと私を見ている人がいたとしたら、人が変わったように見えたかもしれない

普通の一人称作品では違和感のある書き方が、太宰治ではもともと客観的視点で描かれているために不自然でないとする。

第四節 ヴィヨンの妻を一人称と三人称で書く
太宰治作品を、通常の一人称、三人称で書き直す。太宰治のオリジナルでは感情の書き込みが非常に少ない。その上で主人公の苦難を書き込む事で、多くの苦難を背負っても男を慕い続ける女の愛の深さを感じさせるとする。
通常の一人称にすると、主人公の苦しさが伝わっても、普通の女性に感じられ、男の嫌らしさが生々しく伝わる。三人称の場合は感情の機微よりも客観的描写が増えるため、主人公の裏切りに説得力が増えるらしい。

第三章 かっこいい文章より、わかりやすい文章
第一節 わかりやすい文章を書こう
感動の前に分かり易い文章を心がける。

第二節 主語と述語をハッキリさせる
動作主体を明確化し、述語との関係をはっきりさせる。

第三節 動詞の活用
以下の活用形。

①未然形:ないに繋がって否定を表す
②連用形:ます、たに繋がる
③終止形:その言葉で完結する
④連体形:体言、ときにつながる
⑤仮定形:仮定を表す
⑥命令形:命令を表す

第四節 特殊な記憶について
文法を理屈でなく、記憶で理解している人の話。「助詞の使い方」、「動詞、形容詞、形容動詞の活用」、「使役、受け身」に現れる事が多い。

例えば、「花が美しい咲いている」となるのは、「花が美しい」という言葉が頭の中に刷り込まれていて、活用が咄嗟に正しく使えない。

村上春樹、森絵都、橋本紡等の一人称の名手で文法的に間違えない作家の文章を模写する事で克服した。

第五節 「れる・られる」の使い方
「れる・られる」という助動詞を多く使う作品が、作家志望者の文章に影響しているらしい。

第六節 長い修飾語の問題点
2000年頃までのライトノベルは短い文章が多かったが、携帯メールのように複数の文章を繋がる文章の普及や、長い修飾語を多用する「涼宮ハルヒ」シリーズによって長い修飾語が使用されるようになったとする。

著者は修飾語を重ねたり、複数の動作を纏める事を推奨しない。

第七節 同じ言葉は繰り返さない
以下のパターン。

①主語を繰りかえす
複数の人物がいる場合は主語を省略すると動作主体が不明になるが、一人しかいない場合は読者が主語を見誤る事は無い。
②動詞を繰り返す
同じ意味の動詞を繰り返さない。
③修飾語を繰り返す
同じ修飾語を繰り返す場合、似たような意味の類語にする等。

第八節 文末の言葉について
リズムよりも時制を重視するため、文末は同じでも良いとする。

第九節 推測と断定
「とった(断定)」と「とるだろう(推測)」の使い分けについて、一人称の場合は事実であるかの他に主人公の主観が入る。

第十節 助詞の使い方
〇句読点
同じ「と」でも以下のように違う。

接続助詞(動詞の後につく):
褒められると、嬉しい

格助詞(引用を表す):
嬉しい、と言っていた

〇「が」と「は」の違い
「は」には、他と区別する意味があり、言外の意味があるように伝える事が出来る。

(例)
・寒くはない(寒くない)
・丈夫ではない(丈夫でない)

第十一節 言葉と漢字の統一
小説全体を通して、漢字と平仮名の用法を統一する。

第十二節 ネットで言葉を調べる
ライトノベルによって言葉が変わっていく。著者が怜悧という言葉を「冷酷で賢い」という意味で使用したところ、その意味が広まってしまったらしい。
正しいかどうか曖昧な言葉は、インターネットでどれだけ一般化しているか調べるらしい。

第四章 ひとつの場面を描写する
第一節 「いつ、どこで、だれが、どんなふうに、何をしたか」
    を明確に

読者がイメージを修正しなくても良いようにする。

第二節 「どんなふうに」を書く
周囲の情景を描き、その中でどのように人物が行動したかを書く事で現実性が出る。

第三節 動きを書く
修飾語でなく、動詞にする。

(例):
(修正前)死んだようにベッドに横たわる男
(修正後)男は、死んだようにベッドに横たわっている

第四節 心の動きを書く
感情を書き込む事で、どのような人物かを読者に紹介する。

第五節 五感への刺激を書く
臭いや皮膚感覚を書く事で現実性を出す。

第五章 文章に心をこめる
第一節 人を恋する気持ち
「文学少女」シリーズの影響について。2012年に著者が郷里の優秀作品集を読んだところ、優秀作品12の内、4が年下の男との恋愛物語だったらしい。キャラクターの立て方や描写技術が優れている?

第二節 悲しみと怒りと恐怖について
負の感情は現実性を出すために不可欠。その影響についても考えておく。

第三節 悲しみの書き方
Rマキャモンが書いた「少年時代」の父親との別離の場面を参考にしている。

第四節 怒りの書き方
登場人物の特徴を踏まえた怒り方。

第五節 恐怖の書き方
ある種の恐怖には、世界が未知である事を感じさせる力があるとする。自分の未来が確定したように感じられる状況で、世界は自分の認識とは違うと感じさせる恐怖は救いになるのだとか。
怖い描写の前後に楽しい情景を描く、他の人物との対比、肉体の痛みと一緒に描く等の方法。

第六章 リアルな文章を書く
第一節 リアリティーとは
日常生活は視覚だけでは成り立たないため、五感も描く。

第二節 音の効果
音は場所と方向を示す指針となり、場所や登場人物の存在を示す。

第三節 匂い(臭い)を使ってリアリティーを出す
食べ物や人物の描写。

第四節 触覚について
皮膚感覚を描き、それが変化する事で雰囲気の変化を描く。

第五節 ライトノベルの書き込み
一般文芸では普通の書き込みも、ライトノベルでは読み難さに繋がる場合がある。一般文芸の文体で書き、それから書き込みを削除していく方法がある。

第七章 長編の書き方
第一節 長編小説の時代がくるまで
1980年頃までは小説は雑誌で発表されるのが普通だった。しかし、読者の好みが多様化し、雑誌に掲載されている作品を全て読むのでなく、好きな作家の本のみを購入するようになったため、1985年頃から長編小説を文庫で書き下ろす形態が流行する。

以下の三型でキャラクターの書き方や文章構造が違う。

①ショートショート:原稿用紙10枚まで
②短編小説:原稿用紙50枚以下
③長編小説:原稿用紙200枚を超える

第二節 ショートショート
発想と応用力を鍛える。キャラクターを深く掘り下げるのでなく、複雑を一行で表し、細かい事は読者の想像に任せる。

第三節 短編小説を書く
最初と最後を決めて、それを繋ぐドラマを展開する。キャラクターがどのような人物かを詳しく書き込んでいく。

第四節 長編小説を書く
詳細な取材や熟成されたキャラクター、特に脇役の重要性。

第五節 物語を膨らませるための五か条
第一条 主人公には苦労させよう
第二条 強い悪役を出そう
第三条 魅力的な仲間を出そう
第四条 新しい場所を訪ねる(新場面の演出)
第五条 調べよう(取材の重要性)

番外編1 電話の使い方に見るライトノベルの変遷
携帯電話の普及により、世の中の常識が変化している。意思疎通手段の変化により普遍性が無くなっても、ライトノベル作家は読者の時代性を明確化する度胸が必要になる。

番外編2 外国人キャラクターの描き分け
他人の行動パターンを理解する。

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新・木綿以前のこと

読んだ本の感想。

永原慶二著。1990年3月25日初版。



16世紀頃から日本人の衣服原料が苧麻から木綿に移行した話。当初、木綿は軍需用品だったが、17世紀前半には日常衣料原料となる。染色の容易性や肌触りが良かったらしい。

木綿は加工工程の分業が容易であり、江戸時代には全国的な商品生産が行われる。

著者は、苧麻よりも紡織時間が短い木綿による紡織時間軽減を理由に女性も農耕労働に従事するようになり、江戸時代には生産性向上以外に、労働時間能率化の試みが目立つようになったとする。

それは商品経済の普及によって、より多くを稼ぐために労働の能率を上げる努力が必要とされたためかもしれない。

〇苧麻:
イラクサ科に属する多年草で山野に自生し、1m~2mの丈になる。律令国家時代には、東日本、北陸方面で特に多く栽培された。麻は木綿より強度が強い(弾性率は麻:3500㎟/㎏、木綿:1500㎟/㎏、引っ張り強度は麻:30~120㎟/㎏、木綿:30~50㎟/㎏)。

木綿が普及してからは、武家の礼服(繊維が固いので格式を強調出来る)や蚊帳、網等が主な用途になる。

<古代日本>
魏志倭人伝の記述から、三世紀の邪馬台国では絹と苧麻が衣服の主要原料とされていたらしい。他に藤、葛、楮(和紙の原料)、穀、科(シナノキ)等の繊維も使用されていたらしい。日本書紀にある木綿は、穀の異名とされる。養蚕も行われ、綿も製造されていた。

衣服原料が多様であるという事は、衣料生産が原料獲得から加工に至るまで未分化で自給的に行われた事を示す。

<苧麻の加工>
苧麻は種子を播かずに宿根で育て肥料も自給し、以下の工程で製品にする。

①苧殻抜き
刈り取った苧麻の葉をこき、茎を1.5m前後に揃え、100本程度で一束とし、2時間~3時間清水に漬ける。その後に茎を半分に折って苧殻から皮を剥がす

②苧引き
苧殻を抜いた苧皮の表面の被皮を除いて繊維(青苧)を取り出す。具体的には厚板(苧舟)の上に苧皮を引いて木製の削り具でこする(運搬の負担や刈り入れ後、現場ですぐに行わなくてならない素材の性質上、栽培から分離困難)

出来上がった青苧は、10本くらいで一束にし2日間~3日間陰干しにし、中間商品として出荷する(中世後期から商品として目立つ)

③苧積み
青苧の繊維を糸に積むために、青苧を一茎毎にバラシて湯で煮て柔らかかくし、細かく裂いて拠って糸にしていく。木綿のように糸車を使わずに手作業なので能率が悪い。苧糸は綛枠にかけて糸筋を正し、2日間そのままにして束ねる

④綛煮
糸の精錬のため、灰と米のとぎ汁の中で綛を煮て、一晩置いた後に水洗いする

⑤紡績
織機(イザリ機)を使用して布にする。著者の取材では、一人が一反を織り上げるのに40日は必要らしい。一農家の生産量を三反~五反とすると、自給分を差し引いて独自に商品化困難

<木綿>
中国での栽培開始は唐の時代の嶺南で、ついで福建に伝わり、宋末元初には江南に及んだらしい。1299年には中国各地から輪納された木綿が50万疋に達した。明初には太祖洪武帝の木綿栽培奨励(1356年)によって本格的に木綿が栽培される。朝鮮木綿栽培開始は14世紀後半の高麗末期の頃とされる。

日本への伝来時期の推定は困難だが、鎌倉時代には中国から木綿製品が入っていたことは分権から確認出来る。15世紀に入ると実用例が増加し、戦国時代には、東北地方を除いて全国的に木綿が栽培されるようになる。江戸時代には大和、摂、河、和泉等の畿内や三河地方の木綿が有名になる。

木綿の用途は以下の通り。

①兵衣(陣幕、幟、陣羽織、馬衣等)
敵味方の識別をする場合、染色が容易が木綿は便利だった。他に火縄銃の火縄としての用途もある

②帆布
1611年の毛利宗瑞定書には、「はや船はもめん帆」という言葉がある。木綿の方が藁やむしろよりも風が抜けず、乾き易い利点があったという。室町時代には、それまでの100石積程度の船から1000石積以上の船への大型化が進んだ

<木綿の加工>
木綿の栽培には苧麻よりも多くの肥料(干鰯、油粕)と管理(除草、中耕、灌水)が必要。以下の工程で商品にする。

①繰綿
綿繰機で実綿から種子を除去する。畿内では早くから実綿のまま大阪問屋に売却し、独立の一工程になった

②綿打ち
繰綿を弓の弦状の綿打具でほぐし、繊維を柔らかくして方向を揃える

③綛糸
打綿を篠巻に巻き取る。綿糸は、篠巻綿を糸車で加工して作る

④織布
尾西綿業地の1867年の農家手内職という記録には、白木綿では一日に半反が織れたとする。

木綿加工は分業が容易であり、東北地方のように木綿栽培が気象的条件で不可能でも、繰綿を強いれて綛糸作り、織布を行う事が出来た。苧麻では青苧という糸に積む前段階までの加工を未分化な形で行ったのとは対象的。

〇染色
麻は木綿と比較して繊維が固く染料が浸透し難い。江戸時代には日常衣料の染料は藍が主流になるが、麻が衣料の主流だった時代は草木染が多く、藍草を寝藍にして発酵させ、固形の染料原剤にして保存し、藍壺の中で再度発酵させる技術は一般的でなかった。
中世の荘園にも紺染という職人がいたが、阿波をはじめとする藍作の中心地帯が本格的に発展するのは江戸時代になってから。

<明治以後の綿作>
明治政府は産業近代化の中核的産業として綿業を位置付けていたが、日本国内の木綿の繊維が短いために英国直輸入の機会に適合せず、19世紀後半の企業勃興期には、インド・中国の輸入綿が原料とされ、国内木綿は切り捨てられる。

1896年には綿花輸入関税が撤廃され、国内綿作は消滅した。

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オリーブ

読んだ本の感想。

岡田路子著。2011年11月15日 第1刷発行。



以下は、「図説 世界史を変えた50の植物」の記事へのリンク。

http://nonono7.blog12.fc2.com/blog-entry-2881.html

<オリーブ>
モクセイ科の常緑高木。樹齢が極めて長く、地中海沿岸には1000年を超える古木もある。日照量が多い温暖な気候(平均気温15℃~22℃程度)を好み、降水量が年間500mlあると生育が良い。初夏に花が咲き、秋から初冬に結実する。

種を絞る胡麻油や菜種油に対しオリーブオイルはオリーブの果肉を絞る果汁であり、抗酸化作用のあるビタミンEやオレイン酸を摂取可能。保湿効果に優れる事から化粧品や石鹸にも利用される。

<栽培の歴史>
紀元前4000年頃に地中海東方で栽培法が確立したとされる。フェニキア人によってギリシャに齎され、ミノア文明を生んだクレタ人はオリーブオイル貿易によって巨富を得たと言われる。
ギリシャ本土には紀元前14世紀~紀元前12世紀頃に伝わり、紀元前6世紀以降には地中海西方にも伝わっていく。

日本には安土桃山時代にポルトガル人の宣教師によって持ち込まれ、オリーブの木は江戸時代の終り頃に持ち込まれる。栽培試験が開始されたのは明治時代後半で、香川県の小豆島に植えた木が順調に育ち、同地は現在でも日本一のオリーブ産地となっている(温暖な瀬戸内一帯はオリーブの産地らしい)。

<調理法>
オリーブの実にはオレウロペインというポリフェノールが多く含まれ、生のままでは渋味が強い。そのため、苛性ソーダによるあく抜きをしてから塩水に漬ける(8時間~15時間)新漬けが利用される。苛性ソーダを使用しない場合は、傷をつけたオリーブを塩水を交換しながら二週間程度漬ける。

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胡麻の謎

読んだ本の感想。

著者:大澤俊彦、井上宏生。1999年7月25日 第1刷発行。



胡麻は胡麻科の一年生草本植物で、一mほどの高さに育ち、乾燥した土地に適す。原産地は明確でないがアフリカのサバンナとされる(野生のゴマ36種のほとんどはサバンナに分布する)。

「胡麻」の命名の由来は、「胡」に意味を見い出して、西域(胡)から中国に渡来したと捉える向きが多い(胡桃、胡豆、胡椒、胡葱、胡瓜等)。

<胡麻の組成>
胡麻の種子の約53%は油分で、リノース酸(必須脂肪酸)、オレイン酸(オリーブ油の主成分)が中心。セサミノールという微量成分んが酸化を防ぐ。

約20%は蛋白質で胡麻豆腐は胡麻蛋白質を利用した料理。アミノ酸が豊富で大豆蛋白に足りないイオウを含むアミノ酸を補う。

<胡麻料理>
〇胡麻豆腐
練り胡麻1/2カップ、本葛1/2カップ、水2と1/2カップ、酒大匙1、塩少々を用意し、本葛を水で溶いて練り胡麻と合わせて混ぜ、酒と塩を加えて加熱し、20分ほど練って成形して固める。

豆腐が奈良時代に渡来したのに対し、胡麻豆腐は明の時代に寺院風の料理から伝わったとされる。1654年に万福寺の僧侶 隠元が京都の宇治に「黄檗山万福寺」を建設し、普茶料理(油と葛の粉を使うのが特徴で湯葉、油揚げ、飛竜頭、おから等)を伝えている。

〇セサミスープ
鍋でバター大匙1/2と太白胡麻油大匙1/2を温め、小麦粉大匙1強を加えて弱火で炒める。その後に練り胡麻白大匙2と加えて、水300ccを加えながら混ぜ合わせて兼ねるする。さらに牛乳300ccと固形スープを加えて塩、胡椒で味を調える。

<胡麻使用の歴史>
紀元前4000年~紀元前3000年頃のピラミッドから胡麻が見つかる事があり、胡麻は薬用の他に肌に塗る香料としてミイラ作りにも使用されていたらしい。メソポタミアの神話にも、マールドゥクの神が天地開闢前に胡麻酒を飲んだ記述がある。

紀元前2000年~紀元前1600年頃に栄えたミノア文明(クレタ島)でも胡麻が栽培されたようで、クレタ島には野生の胡麻アウリクラタムが生育する。ギリシャ本土では胡麻の種子に蜂蜜を加えて捏ねたセサミケーキがあり、アリストファネス(紀元前444年~紀元前380年)によると結婚式の宴で食されたらしい。比較的乾燥し、雨量が少ないギリシャは胡麻の原産地であるサバンナに似ていた。

古代ローマではパンの味付けやケーキ作りに使用され調味料としての色合いが濃い。

インダス文明(紀元前2300年~紀元前1700年)の遺跡からも胡麻が発掘される。小林貞作(ゴマの来た道)によると仏教の広まりと胡麻の生産拡大は比例しているらしい。肉食が禁じられために植物性油脂を欲したのかもしれない。

ヒンドゥー教における祖霊祭においてもクシャ草(吉祥草)の葉と胡麻を混ぜた水を客の手に注ぐ儀式がある。インド伝統医学(アーユルヴェーダ)では胡麻は「皮膚や毛髪に良く、力を与える」と書かれているらしい。

中国でも紀元前3000年頃の浙江省太湖南岸の良渚文化の遺跡から胡麻が見つかる。

<日本における胡麻>
東大寺の正倉院文書によると、734年の尾張国では胡麻を税として納めている。他に豊後国(大分県)で737年に購入された記録。胡麻は朝鮮半島に漢の武帝期以前には伝わり、平壌から黄海沿岸が胡麻の産地になったとされ、そこから日本に伝来したと思われる。

律令の施行規則である「延喜式」には外国に派遣された使節団が持参した薬(調剤11種の他に59種)の中に胡麻が含まれており、新嘗祭で天皇から臣下達に米、小麦、大豆の他に胡麻を賜るとある。他に仁王会や園韓神祭での使用。

840年に仁明天皇が飢饉に備える農業を勧めた古文書では、黍や大豆、麦等の他に胡麻の栽培を奨励している。

京都にある離宮八幡宮(大山崎八幡宮)は嵯峨天皇(786年~842年)の離宮 河陽宮があったところだが、灯油の製造販売を独占するようになり、油司の免許を朝廷から賜っている。これは座(同業組合)の始まりで、豊臣秀吉から免許を奪われるまで富を蓄えたらしい。

胡麻は江戸時代には栽培が広がりを見せ、三河地方や水戸藩、和歌山で栽培が奨励された。灯油としては菜種(1451年に渡来)に押されたが、栄養価の高い穀物とされる。

現代の胡麻栽培は関東、九州が中心で、茨城県、福岡県、鹿児島県、大分県で全国の80%を生産する?しかし、料理に使用される胡麻油の95%以上は輸入。胡麻の収穫は原始的な手作業であり、新興国の方が適正がある(インド、中国、ミャンマー、スーダン、ウガンダ等)。





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天の方舟


読んだ本の感想。

服部真澄著。2011年7月7日 第一刷発行。



読んでいて「女性の幸福」とは、ここまで困難なのかと気分が重くなった。仕事で成功して地位と富を手に入れるだけではなく、並行して王子様を伴侶として子を成し、且つ、美しくあらねばならない。

主人公は結婚詐欺師に騙されているようにも思える。

【あらすじ】
主人公 黒谷七波がODA(政府開発援助)に纏わる裏金を利用してのし上がっていく物語。ベトナムでの開発援助に関わる裏金で蓄財するものの、2007年に開発資金不足による橋の倒壊事故が発生し、その衝撃から不正の告発を行う。

自身の不正な資金移動等を自白し(執行猶予付き)、宮里一樹を殺害したと見せかけて、橋の倒壊事故被害者の遺体を日本に持ち込む(この辺りの動機が意味不明だった)。

日本は、援助によって死体を得たというアピール?

黒谷七波は、2010年に出産するが、その直後くらいに刺される。

【登場人物】
黒谷七波:1967年~
京都大学出身。国際援助に関わる裏金で儲けるために日本五本木コンサルタンツに入社。ベトナム事務所 所長となる。

宮里一樹:
名栗建設社員。日本五本木コンサルタンツと組んで国際援助を利用して稼いでいる。名栗建設社長 塩田興造の次男 塩田夕介の高校時代の後輩で、サポートをしているが、妻の富美子と塩田夕介が不倫関係にある事を知り退社する。

阿佐田勇治(アサド・ベフザード):
日本五本木コンサルタンツ社長 三村幸正の私生児。父親に金を無心して「オーロラ」という会社を立ち上げ、恋人である黒谷七波にも援助してもらう。

*************

P481~P483に、ベトナムでは日本を扶桑国と称す話がある。

扶桑と神木の下から日が昇り、扶桑の生える島が日の根本で、それが日本の由来とする。扶桑の巨木は海上のどこからでも見える目印になり、太陽が休みに寄る。

P481:
ゆらゆらとまどろむ。あなたたちは空想上の国の住人みたい
(中略)
水上の宙空にたゆたい、浮かぶ人たちが羨ましいって。私たちの国から見れば、奇跡に等しい悠長さ
(中略)
ベトナム人からすれば、日本のほうが水の上にぷかぷか浮いている神秘の国に見えています

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儒教 ルサンチマンの宗教

読んだ本の感想。

浅野裕一著。1999年5月20日 初版第1刷。



もう一回読み返す必要がある本。

儒教の礼学は孔子の妄想とする。孔子の時代から500年前の周の礼制を体系的に復元する事は至難であり、古来から伝わったとする儒教の礼は誇大妄想の可能性が高い。

孔子の弟子達の運動は、孔子を王者と偽り、先王を排除して孔子に教祖の地位を独占させる事。

孔子は特殊な礼学的知識を天から授けられ、独占しているために上天の加護をの下にあると述べて、自己を不死身の存在として宣伝した。

ただの匹夫だった孔子が、推薦さえあれば天子になれたとか、名声では王公を凌いだと、同じ文脈で繰り返し語られる事に儒教のルサンチマンがあるとする。

統一国家が樹立され、国家組織の整備や君主のカリスマ性の演出が必要となった場合に、礼学の価値が認識される。焚書坑儒を行った始皇帝ですら、儒者に封禅の儀礼を考案させた。

〇前漢:
紀元前202年に劉邦が項羽を破って漢が成立すると、国家組織整備のために儒教が導入され、紀元前195年には曲阜の孔子廟に孔子が祀られた。ただし、武帝期前半までは道家の一派である黄老思想が、漢の政治思想の主座を占めた。

〇新:
8年に王莽が、周王朝の理念を実現するとして自らを周公旦に擬して簒奪を正当化。

〇後漢:
劉秀は、緯書(孔丘秘経)に心動かされて挙兵。緯書の予告通り25年に漢王朝を再興し、光武帝となる。次の明帝は、明堂、霊台(天文台)、大学を洛陽に完成させて儒教的国家統治を具体的に実演した。

〇五代十六国:
北魏の孝文帝が漢化政策の一環として、492年に文聖尼父という諡名を孔子に贈る。後に北魏は東西に分裂し、西魏に代わった北周の宣帝が578年に鄒国公の諡名を孔子に贈る(旧称は孔子を顕彰するには不足とした)。

〇隋:
589年に中華を統一した文帝は、先師尼父の諡名を孔子に贈る。

〇唐:
高祖の李淵は、619年に周公と孔子の廟を国子学(国立大学)に設置する。次の李世民の628年に儒者の建言で周公の祭祀は廃止され、孔子は先聖に昇格する。

〇宋:
真宗は、1008年に玄聖文宣王の諡名を孔子に贈る。孔子の父母にも諸侯の位を授ける。王号を手にした孔子は古代先王に並ぶ事になる。

〇元:
武宗は、1307年に孔子が手にした最後の王号である大成至聖文宣王の諡名を贈る。

〇明:
洪武帝は1468年に孔子を国学に祭祀させる。孔子は「万世帝王の師」と讃えられ、盛大に祀られるようになる。ただし、十一代目の嘉靖帝の時に、孔子が上天を祀るのと同じ形式で祭祀されているとして王号を剥奪される。

〇清:
王号の回復は無いものの一定の敬意は払われる。清末には康有為(1858年~1927年)の「孔子改制考」が生み出され、中華文明における詩、書、礼、楽、易等は全て孔子による著作とした。古代先王の業績を全て孔子に帰する思想。そうでなければ孔子は古来の教えを学び伝えただけの学者に過ぎない事になる。

それまで中華の人々は孔子の教えに従ってきたのであり、孔子には王としての実質がある。それだから孔子を至尊とする思想が誕生する?

共産主義下の孔子は反動階級の象徴として批判されたが、市場経済システムの導入によって儒教を賛美する動きが復活しているらしい。

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現代の地政学

読んだ本の感想。

佐藤優著。2016年7月30日 初版。



最初の方は面白いが、終盤になるに連れて結論が曖昧になっていく。

海と川は人々を接近させるが、山脈は人々を分離させる。より低い文明段階での海川は障壁であるが、進歩によって交流を促す橋となっていく。

〇著者の思想的特徴
1986年6月~1987年9月まで英国、それから1995年3月までロシアで過ごしており、1983年以降の浅田革命(浅田彰の『構造と力』)以降の知的ツールが無い。思想はヘーゲルの精神現象学であり、18世紀の装置で現代を考えている。

浅田彰の思想は、大きな物語ではなく、小さな差異において価値を創り出す事にある。

人間が厳密に証明出来る事は限られており、世の中の多くは「物語」によって説明される。

〇妄想による論争
爬虫類による支配を信じる太田竜信者とロックフェラーによる支配を信じる副島隆彦の論争。

「ブッシュやウォールストリートの連中が、哺乳類だと思っているんですか。哺乳類があのようなことをすると思っているんですか」
「哺乳類にもいろんなのがいる」

〇モナドロジー
世界には幾つかのモナドがあり、大小はあっても消去する事は出来ない。世界はモナドの重複によって成り立つ。村、国、類等の全体があり、それが重複する。対してアトム的思考では、世界は個々の最小単位で分割出来るため、普遍的原理が世界中で通用する。

〇スターリン
オセチア系グルジア人。グルジア語は主格・対格構造をとらずに、能格・絶対格構造をとる特殊な言語(他にアルメニア語、バスク語、チェチェン語、アディゲイ語等)。

スターリン出身地のゴリにはグルジア人が少なく、オセチア人(ペルシャ系、古代スキタイ人の末裔を自称)が多い。スターリンの姓はジュガシビリで生粋のグルジア人ではなく、父の職業はコーカサス地域ではオセチア人の仕事とされる靴屋。

ドイツやハンガリーでの革命が失敗した後、スターリンはスルタンガリエフによる「西方の異教徒に対する戦い」という論を導入し、中央アジアに民族境界線を策定する。

スターリンは外国人であったために、ロシア人に弾圧を加えたのかもしれない。

〇複数思想の並立
現代は、観察して思い付く古代的思考と、実験で実証する中世的思考が合わさっており、合理性では割り切れない部分がある。

最終的に世界の有無は確認出来ず、世の中を全て把握する事は出来ない。ポストモダン的思考では、自説以外に真理が存在する事も認め、相対主義が成り立つ。

その中で地理は不動であり、地理的要因によって説明する地政学は思考を省略する。

〇ザカルパチア地方譲渡
チェコスロバキアは、カルパチア地方に存在するのはウクライナ人として、民族統合原則によって同地方をソヴィエト連邦に割譲した。その結果、ソヴィエト連邦とハンガリーが直接国境を持つようになり、両国が戦争になった場合はザカルパチア地方を経由する可能性があるため、ザカルパチア地方を譲渡した。そうすれば緩衝地帯の必要性からソヴィエト連邦はスロバキアを併合しない。

〇弱に対するテロ〇
イスラム国によるテロはフランスやエジプト等の弱点を狙っているとする。フランスの『服従』という小説では、2023年にフランスがイスラム化するとしている。

〇アルメニア
紀元前1世紀からある国で、301年に単性論(キリストの神性を重視)のキリスト教を導入。武器商人が多く、国際的ネットワークがある。ダンナクツチュンという民族派政党があり、カスピ海から黒海につながる大アルメニアの回復を謳う。

〇瞑想
魂を軽くする事で天国に近付く思想。



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野菜づくり名人の知恵袋

読んだ本の感想。

加藤義松著。2004年1月20日第1刷発行。



第1章 果菜類
〇インゲン:
酸性土壌を嫌うので、種蒔きの一週間前に苦土石灰を播く。アブラムシが付き易いが、40日~50日で収穫可能。

〇エダマメ:
pH5.5~7が適正。桜の花が散った後くらいに種蒔きをする。根に根瘤菌があるので、窒素肥料を与え過ぎない。

〇オクラ:
連作を嫌うが、一年空ければ同じ場所に播ける。アフリカ原産で暑さに強く、5月下旬が植え付け最適時期。開花後の3日~4日で収穫適期となり、採り遅れると硬くなる。

〇カボチャ:
肥料を吸う力が強いので、速効性の化成肥料を加えると、茎葉が一気に大きくなり、実が付き難くなる。じわじわと効く有機質肥料が適しており、元肥に化成肥料を多少混ぜる。遅く種蒔きすると実が出来るのが真夏になり構音障害になる。4月上旬からの10日間が適期とする。

〇キュウリ:
自根苗と接ぎ木苗があり、自根苗は大抵は粉を吹く。浅い地表に集中して根を張る性質があるので、元肥を深さ30㎝くらいのところに埋めて根が自然と地中まで伸びるように誘導する。最初の実がなる頃にはまだ根がしっかりしていないので、根や葉に養分が回るように最初の実は早めに収穫する。

〇トウモロコシ:
肥料を大量に使用する。雄花が出た時と雌花が出た時の二回の追肥が必須。茎葉には炭素が含まれており、乾燥させると堆肥の材料になる(果菜でイネ科は少ない)。

〇トマト:
元肥に過リン酸石灰を使う。深さ30㎝~50㎝の深い位置に元肥を入れて根を深く張るようにする。カルシウム不足になるとトマトの頭が黒く腐るため、葉を適度に落として実にカルシウムが回るようにする。

〇ナス:
連作障害があり、同じ場所でシシトウ、トマト、ピーマン、ジャガイモ等のナス科の野菜を4年~5年は作らないようにする。高温を好むため、高畝に植え付ける事で排水と地温上昇を両立する。

〇ニガウリ:
苦土石灰やカキ殻石灰が効果的。種に刃物で傷をつけ、2時間~3時間水につけると発芽が揃う。

〇ピーマン:
高温が好きで収穫期間が長いため、追肥を欠かさず行う。

第2章 葉菜類
〇カリフラワー:
霜に弱いため、早めに定植(8月半ばまで)して11月には収穫する。

〇キャベツ:
コマツナやブロッコリー等の同じアブラナ科野菜を同じ場所で栽培すると根こぶ病が出る。pHを7くらいに調整すれば根こぶ病発生は少なくなる。害虫が多くつくので、寒冷紗を定植後にかけたりする。

〇コマツナ:
初心者向き。10月中旬以降に種蒔きすれば害虫はほとんどつかない。

〇タマネギ:
9月に種蒔きして収穫は年越し後の6月になるので貸し農園ではあまり作られない。

〇チンゲンサイ:
元肥中心で追肥は必要無い。

〇ナガネギ:
春に種蒔きして秋に収穫する春播きを推奨。

〇葉ネギ:
栽培期間が短いので病害虫の心配が少ない。

〇ハクサイ:
関東では8月20日頃から9月3日までの短い期間が種蒔き適期。

〇ヒユナ:
5月中旬から6月中旬の風の無い日に種蒔きをする。

〇ブロッコリー:
カリフラワーよりも簡単に作れるとする。倒立性として横に寝かせて保存すると立ち上がろうとしてエネルギーを消耗するので立てて保存する。

〇ホウレンソウ
酸性土壌を嫌うので、苦土石灰で土をアルカリ性にしておく。根が50㎝~60㎝と深く伸びるので、畑を深く耕しておく。

〇レタス/サニーレタス:
レタスは15度~20度の冷涼な気候を好むため、2月下旬~3月上旬には種蒔きし、5月中旬には収穫する。

第3章 根菜類
〇カブ:
肥料負けし易いので、種蒔きの二週間前には元肥を畑に鋤き込んでおく。発芽しないリスクを避けるために厚播きし、7㎝間隔になるように間引く。

〇サツマイモ:
肥料過多を嫌うので、麦を植えて肥料を吸収させた後の畑に播く。一年目に作った薩摩芋が土中の肥料を吸収するので、二年目以降が美味。ただし、5年以上、同じ場所で栽培すると連作障害が出る。やや酸性の土壌を好むので石灰も播かない。

〇サトイモ:
万葉時代から栽培され、その土地に土着している品種の成功率が高い。湿度には強いが乾燥に弱い。

〇ジャガイモ:
肥料過多でなく芋が出来る頃に窒素分がきれると味が良くなる。北海道のじゃが芋は、寒さで肥料吸収効率が悪いため美味らしい。

〇新ショウガ/根ショウガ:
日陰でも良く育つが乾燥に弱い。また連作に弱く同じ場所では4年~5年は空け、ナス、キュウリ、トマト等の果菜類を作った後では生育が悪く、菜っ葉類を植えた場所で良く育つ。

〇ダイコン:
古代エジプト、ギリシャ、ローマで栽培された。「古事記」には於保根の名前で大根が登場し、日本には100種以上がある。大根10耕として、大根畑は10回耕して土を細かくすれば良い大根になる。

〇ニンジン:
生育初期の乾燥に弱いので、梅雨が明ける前に種蒔きを終えるようにする。連作障害はあまり無いが、胡瓜や枝豆の後作にすると生育が悪い。


第4章 野菜づくりに失敗しないコツのコツ
<元気丸>
著者が使用する自然農薬。

①木酢液1ℓに大蒜を容器の1/3量入れる
②25度以上の焼酎1ℓに対して鷹の爪を容器の1/5入れる
③米酢1ℓを用意

使用時には、上記の各10mlを水3ℓに入れて混ぜる。著者の農園では、海藻エキス(ピカコー)100倍希釈液と元気丸を混ぜて一週間に一回散布している。

<その他の農薬>
〇牛乳
アブラムシに散布すると、気門(呼吸個所)に張り付いて窒息する。

〇ニンニクエキス
大蒜一玉を水1ℓとミキサーにかけて、4倍から5倍に薄めて胡瓜や蕪の幼苗期の苗に散布する。

〇トウガラシエキス
カプサイシンがアブラムシ等に作用するが、発生してからでは効き目が少ない。

〇ドクダミ
ドクダミの生葉で野菜の株本を覆うように敷く。

〇死んだ虫
ウイルス病になり、黒っぽく、白っぽくなって死んだ虫を集めて磨り潰し水1ℓに展着剤を落として攪拌し、2倍に薄めて散布する。

〇ビール
ビールや日本酒を容器に入れて地面に埋めておくと、蛞蝓が集まって溺れ死ぬ。昼間はバナナの皮を使用する。

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日本の米

読んだ本の感想。

富山和子著。1993年10月20日印刷。



日本における稲作について。

<日本の稲作>
縄文晩期には約16万人だったにほんの人口は、稲作の伝来によって急増する。白米は小麦と同等のカロリーを持ち、アジア・モンスーン地帯の日本の風土に合った。日本の人口は紀元前200年頃には40万人、200年頃には250万人、800年頃には600万人~700万人程度に増加している。
日本の稲作の特徴は最初から高い技術を伴っていた事で、菜畑遺跡や板付遺跡等の古い遺跡でも水路の構築や堰を設けるなどの高度な技術が使用されている。

〇吉野ケ里遺跡
紀元前三世紀から約600年継続し、最盛期には人口約1000人を擁したものの、アオ灌漑に代わる技術の台頭によって放棄されたと推測する。アオ(淡水)灌漑とは、満潮時に海水に乗って逆流する川の水を利用する技術で、月二回の大潮を利用して、筑後川下流域平野の稲作に利用する。
海が定期的に灌漑するので、水操作は簡単な板堰で良いが、人口が増加して大規模工事が可能になれば必要な時に水を引ける乾田の方が生産性が高い。

<日本列島の大改造>
①一回目
稲作開始から律令国家成立、条里制に至る時代。古墳や溜池が盛んに造られ、雨の脅威が少ないが河川を利用出来る平坦な奈良の地に都が築かれた。
条里制は、土地を政権が掌握し易いように、土地を一町(約109m)の碁盤目状に区画する地域開発計画。

②二回目
室町末期から江戸中期に至る新田開発の時代。江戸初期における利根川の東遷をその典型例とする。大規模な新田開発は、保林意識を高めたともする。

<海の交通>
室町時代に編まれた廻船式目では、日本の十大港(三津七湊)として、三津(伊勢安濃津、筑前博多、和泉堺)、七湊(越前三国:九頭竜川河口、加賀本吉:手取川河口、能登輪島、越中岩瀬:神通川河口、越後今町:関川河口、出羽秋田:雄物川河口、津軽十三湊:岩木川河口)が挙げられている。七湊は全て日本海側で、輪島以外は北陸、東北の大河川の河口にある。

具体的なルートに言及すると、九頭竜川沿岸で取れた米は河口の越前三国にて海の船に積み替えられ、若狭湾に向かい、小浜や敦賀で陸揚げされ、峠越えで琵琶湖に出て、湖上を船で渡って大津に陸揚げされる。

信濃川、最上川の河口は無く、大河川と接続する困難を物語る。新潟市は江戸時代まで事実上は海だった。

江戸中期の1672年頃には河村瑞軒による西回り航路(下関を直接経由して大阪へ)や東回り航路(津軽海峡を経由して江戸へ)が開発され、大阪の富裕や利根川の大幹線化が進展した。

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表現の自由を脅かすもの

読んだ本の感想。

ジョナサン・ローチ著。初版発行 平成八年九月十日。



正義や人道によって表現の自由が脅かされる危険性。

自由科学は、全員に間違う事と批判する事を認める。

著者は、自由主義的原則を称賛するが、他の思想もある。

①自由主義的原則
公然たる批判を通して相互確認する事により、誰が正しいかを決める
②原理主義的原則
真理を知る人間が、誰が正しいかを決める
③単純平等主義的原則
あらゆる人々の新年は平等に尊敬されるべき
④急進平等主義的原則
歴史的に抑圧されてきた集団に属する人々の新年に特別の考慮をする
⑤人道主義的原則
人を傷つけない事を第一条件にする

人間は誰もが偏見と利害を持っている。だからこそ異論を排除しない体制が必要であるが、人道や同情によって傷付ける事を極度に恐れる風潮がある。

自由主義思想においては、最良の知識は最良の思考者ではなく、多数の人間による批判的意思疎通過程から生じると考える。人間は多種多様に認識される世界に住んでいる。

古代ギリシアに端を発し、宗教紛争を経験した近代欧州でデカルトが問題提起した懐疑論は、1739年にデーヴィッド・ヒュームによる「人間が誤認から独立した客観世界について確実な知識を持ち得ない」とする思想に結実した。

以下の二つのルール。

①可変
結論は固定されず、最終的発言権は誰にも無い
②不在
個人的権威はあり得ず、参加者を分け隔てない

厖大な人々に社会的決定機能を付与する分権システムは不安定であるが、争いを調停する際に相互が同意した確認方法に基づいて客観的証拠を提示する方法論は技術を進歩させた。

これは道徳的権威の不在をも生み出す。全ての人間が確認され、単独決定者はいない。異端審問においては相違する意見の根絶を目指すが、自由主義はそうした衝動を抑制する。

自由に対しては、道徳的批判や無責任な言論の許容という批判もある。批判者は、自らは共同体の思想を知悉しており、それは自らの思想と同一であるという前提を持つ事が多い。

<原理主義の脅威>
宗教運動に限らず、自らが誤る可能性を拒否する思考態度の問題。

もちろん原理主義でも正しい事はあり、誰もが原理主義者の側面を持っている。人間の思考は固定的信念によらずして不可能。変数が意味を持つには定数が必要となる。あらゆる命題は固定化する事で、流動化している経験的命題の水路の役割を果たす(ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン)。

だからこそ、真理を知るとされる者が真偽を定める事には危険性が伴う。

仮に多くの信念を固定化すると、世界には「1 + 1 = 2」のように絶対に正しく確認する必要も無い事が沢山ある。固定的信念の崩壊は混乱や世界変革的経験として到来する。

原理主義の文化においては、人々は固定化された信念に依存し、原典の外側は仮説と無知の渦巻く暗黒であり、原典を拡大するほどに曖昧や矛盾を孕む事になる。解決のために共通の権威が求められる事になる。

この場合の脅威は権威と議論する人間や原典を確認する人間であり、正統派の社会は情報統制を行わなくては維持出来ない。

<人道主義の脅威>
少数者にも知識基準として同等の立場を与える思想。

知識形成体制に平等に接続出来る事と、平等の結果を得る事には大きな隔たりがある。科学的論争を経ない意見を、少数者によるものというだけで主流派と同列に扱う事は危険とする。

米国では、進化論と創造論を同列に教える主張がある。

自由科学は信じる事を制限しないが、知識の自由は制限し、正しい知識を主張するには科学的過程を証明しなくてはならない。

「傷つける目的のために苦痛を与えてはならない」という信念が「苦痛を生じさせてはならない」という信念に変化してはならない。誰にも一切の害を加えない体制はあり得ない。社会は抗争を管理出来るが、無くそうと思った場合には超管理社会を実現しなくてはならない。

自由科学は真理追及に当たって人を傷付ける事があり得るとする権利と、確認し確認される責任から成り立つ。

誰かが「邪悪な意見は禁止されるべき」という言う時には、「私の憎悪する意見は禁止されるべき」という意味になる。例えばニガー(黒人の蔑称)を規制した場合、他の呼び方を細部に渡って検証する事になり混乱が生じる。

人の感情を傷付けてはならないという意見は、それが具体的、客観的にどのような害を与えたか示す事が出来ない。偏見を心中から取り除こうという試みはより大きな混乱を生じさせ、認定抑圧者のみが痛みを知っているという仮定の上に成り立つ危険思想である。

自由科学には腹の立つような批判にも我慢する義務がある。批判と質問を通した相互確認が正誤を定める正当な方法とする。

危険思想を持つ者を抑圧してもその思想は埋葬されず、議論を規制する措置は失うものが大きい。脅迫による思想統制は知識の探究の邪魔になるし、異端審問は廃止するべき。

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クズと金貨のクオリディア

読んだ本の感想。

さがら総・渡航著。2015年1月28日 第1刷発行。



ネガティブな高校生が金貸しの後輩と女子高生行方不明事件を捜査する。作者自身がヒロインの性格の悪さに辟易しているように思えた。

以下は、Wikipediaの「プロジェクト・クオリディア」の記事へのリンク。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2

【登場人物】
久佐岡春麿:
ネガティブな高校二年生。姉は養護教諭の雨音。

千種夜羽:
金貸しをしている高校一年生は妹は中学生の美沙。金を貸していた詩愛、万梨阿の行方を探す。

栗字:
高校教諭。同性愛者で下着を集める趣味がある。詩愛を監禁していた。

朱雀零爾:
生徒会長。妹の壱姫は美沙の友人。

P43:
意識の苛烈な断絶。無窮に広がる悪夢。虚無へと至る陥穽

P102:
聞かれていないことを言わない、相手が言わなかったことを聞かない。この二つさえ守れば、諍いや揉め事は起きない。なんなら会話そのものが起きない可能性まである

P122:
なぜ、一日一善なのか
(中略)
良識ある人間は一日に一善しか善をなしてはならないのです
(中略)
すなわち、今日の善行はすでに店じまいとなっています

P238:
些細なミスを声高に指摘するという行為は、『相手を征服したい』という性的欲求の表れ 

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イギリス人アナリスト 日本の国宝を守る

読んだ本の感想。

デービッド・アトキンソン著。2014年10月20日第1刷発行。



1985年に来日し、ゴールドマンサックスのアナリストを経て、2009年から小西美術工藝社(文化財補修を手掛ける)に入社した英国人の話。

経済規模には人口の影響が大きく、人口一億人を超える事が、日本が経済大国である理由とする。

著者の日本人経営者に対する評価は低く、科学でない精神論を振りかざすと言う(頭取の目付きが違う、廊下の壁からパワーが出ている等)。その反面、一般社員の勤勉に対する評価は高い。

著者は、小西美術工藝社の社長となった後に、客観的数値を経営に導入し、人材育成に務めたらしい。

<日本の文化財管理の問題点>
①予算が少ない:一定のレベルを維持する予算が不足
②定期的検査制度が無い:文化財工事終了後は評価されない

英国では2014年度の501億円程度を指定文化財修理に費やしたが、日本は81.5億円に留まる。英国の文化財を中心とした歓呼経済は年間約2兆1000億円程度の経済効果があり、労働者人口の約1.6%に影響するらしい。

日本の観光業のGDP貢献度は約2%(世界平均は9%程度)で、海外からの観光客は2013年度で年間1036万人程度(フランス8300万人、米国6980万人、香港2566万人)。日本では特に文化財の貢献が少ないとする。

さらに、日本の観光戦略の弱点を、「おもてなし」に対する理解不足として、客の都合に合わせずに、供給側のルールを押し付ける姿勢を疑問視する。例えば、旅館では客に奉仕するのでなく、起床時間、食事時間、就寝時間等を旅館側が定め、客がそれに従う。

クレーム対応では供給側の方法を変える事でなく、客側に理解させて、何も変えずにクレームを減らす事が求められる。

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李巌と李自成

読んだ本の感想。

小前亮著。2010年6月15日第1刷発行。



明朝末期の義勇軍に参加した李巌の挫折を描く。

以下は、「朱元璋 皇帝の貌」の記事へのリンク。

http://nonono7.blog12.fc2.com/blog-entry-2960.html

以下は、「賢帝と逆臣と」の記事へのリンク。李巌or李自成の子という設定の李基信が登場する。

http://nonono7.blog12.fc2.com/blog-entry-2697.html

【登場人物】
李巌(李信):1613年~1644年
主人公。李自成の反乱軍に参加し、独裁者となっていく李自成暗殺を企てる

李自成(李鴻基):
明朝への反乱軍を指揮し、大順朝を起こす。反乱前は駅伝制の駅夫として働き、情報を集める協力者がいる。

牛金星:
河南攻略時から反乱軍に参加。李厳と同じく知識人として李自成の軍に参加するが、李厳とは馬が合わない。反乱軍壊滅後は満州族に降る。

【あらすじ】
〇反乱軍参加
1637年に役人の李巌(24歳)が女盗賊の紅娘子(30代半ば)に誘われて盗賊に身と投じ、物量に限界を感じ、四川の李自成の反乱軍に参加する。

〇潼関での敗北
1638年に、李自成の軍は洪承疇の率いる明軍に敗れ、反乱軍は18騎となり陝西で再起する。

〇河南へ
反乱軍は河南省 洛陽を攻略し、開封攻略を狙うも明軍の水攻によって大きな損害を出す。

〇襄陽へ
1643年に反乱軍は河南省東南部を経由して襄陽を攻略し、大順という国号を名乗る。

〇北京へ
反乱軍は陝西を経由して北京を攻略するが、山海関を守っていた明軍の呉三桂が満州族を招き入れた事で壊滅する。

P62:
西安という名で呼ばれる街は、あくまで陝西の中心都市であって、王朝の中心からは距離も人心も隔たっていた
(中略)
世界の交易網が陸路から海路中心に変わったことは、都市の盛衰にもあらわれている

P101~P102:
北京を脅かしたりすることは簡単だ。しかし、大軍を送って恒常的に支配するためには、山海関の堅塞を破らねばならない
(中略)
都の盛京から遠く、砂漠や草原を通る路では、補給がままならぬ。大軍を送って明を恒常的に支配するには、山海関を破って連絡路を通さなければならない

P151:
知識人という人種は、本質的に暴力を嫌う。だから、かれらの支持を得ようとする軍は、いくら矛盾していようが、暴力と縁遠い存在でなければならない

P183:
湖広省の中心都市・襄陽
(中略)
湖広はかつて荊州といい、長江を利用した水運と農業で栄える豊かな土地
(中y楽)
長江の上流へ攻めるも下流へ攻めるも、この街が拠点になる。モンゴルが南宋を攻めたときには、襄陽を舞台に数年にわたる激しい攻防戦が繰り広げられた

P201~P202:
山海関から陸路を通って遼東地方、満韃子のいう満州の方面に向かうには、山脈と海にはさまれた狭い平野を通らねばならない。これを、遼西回廊という。かつて袁崇煥はこの遼西回廊を軸に防衛の計画をねった
(中略)
関外四城を、ついて寧遠城を、そして最後に山海関を攻略しなければならない

P218:
繁栄は隋の煬帝が大運河を建設してからはじまる。江南の発達とともに、運河の重要性が高まるにつれ、結節点にあたる開封の価値も高まった

P287~P288:
二重の長城にはさまれた地方は大同府と呼ばれ、府名の由来となった大同は古くから防衛あるいは侵略の拠点とされた城市である。歴史的には契丹族が建てた北魏が最初に都をおいた地で、宋の時代は燕雲十六州のひとつとして、遼の支配下にあった

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日本史のなぞ

読んだ本の感想。

大澤真幸著。2016年10月30日第1刷発行。



鎌倉幕府三代目執権 北条泰時を日本で唯一革命にした人物とする。

承久の乱(1221年)において天皇家に勝利し皇族を処分しながらも、天皇制を擁護する事で支持された。日本史において天皇に背いて独自秩序を構築した例は他に無い?それは神の愛情を疑いながらも信仰を維持する事で見返りを求めない姿勢を示したキリストに擬える事が出来る。

革命:
基本的社会構造の変化が、社会構成員によって引き起こされる事。社会構造を変えずに、構造の中に準備されている地位を占めている人間が変わるだけでは革命ではない。

欲望が多くの人間に分散している状況では社会は変化しない。社会の構成員に外在する「例外的一者」の意志に変化が帰せられた時に変化は正当化され、人々が変化への意志を我がものとする。

中華では人民の人気投票によって皇帝が選ばれるのでなく天の意志が重視され(湯武放伐の繰り返し)、欧州では神の意志としての法が存在する(申命記改革の繰り返し)。

日本史においては、天皇が臣下の決定を聞いて肯定した時に、臣下の決定は天皇が最初から欲していた事という体裁を整える事が出来る。臣下の決定は天皇の意志の再現となり、関知する天皇がいなければ意志の再現が不可能になる。

<承久の乱>
後鳥羽上皇が、自らの寵姫 亀菊の所領(摂津国長江・倉橋荘)の地頭が従わないので、鎌倉幕府に地頭の停廃を要求し、北条義時が命令を拒否したもの。
その二か月前には鎌倉幕府三代目将軍 源実朝が暗殺されており、地頭の任免権を実質的に朝廷が奪う行為に出た。それまで武士が大きな戦いを起こす際には、院宣や令旨という皇室からの命令が必要だった。

戦いに勝利した鎌倉幕府は 後鳥羽上皇を隠岐に流罪にし、仲恭天皇を廃した。そして出家していた後鳥羽上皇の兄を還俗させて後高倉上皇とし、その息子を後堀河天皇とした。

その後、京都に六波羅探題を設置し、京都の朝廷の監視も行われるようになり、やがて畿内以西の御家人を統括していく。

<関東御成敗式目>
裁判の公正性を担保する法。1232年に評定衆11人の起請文の上に立つ形で定められる。神社や寺社に関する事も定め、訴訟についての鎌倉幕府の権限を規定した。

御成敗式目が適用されるのは地頭職以下の御家人のみであり、公領や荘園には干渉しない方針だったが、西国にも浸透して寺社にも尊重された。

その理念は自然発生的秩序の過剰肯定であり、土地の所有権は由緒(歴史的正当性)ではなく、現にその土地を占有している事にあるとした(一定の土地を二十年以上継続して支配していれば、書類上の権利とは無関係に所有権を認める)。

<解釈者革命>
中世欧州において古代の原典に通じた法律の専門家が生み出され、教会や権力者が政治的決定において専門家の知識に頼るようになった事。
「法の支配」の始まりであり、どのような権力者も法に従うべきとする。
11世紀末にイタリア北部でユスティニアヌス法典が発見された事が契機であり、古代の法を注釈する事から、中世の法が刷新されていく。これはイエス・キリストの社会運動によって旧約聖書が新約聖書に刷新された事に倣うとする。

ユスティニアヌス法典は初期大陸法の正統性の根拠となる。

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心臓と左手

読んだ本の感想。

石持浅海著。2007年9月25日 初版1刷発行。



『月の扉』の11年後の話。

以下は、「月の扉」の記事へのリンク。

http://nonono7.blog12.fc2.com/blog-entry-2859.html

警視庁の大迫警視が座間味君に事件の相談をする。

貧者の軍隊
社会的地位の高い人間の悪事を告発するテロ組織「貧者の軍隊」のメンバー高柳が密室で殺害される。部屋の内側に補助錠を落として、カップラーメンの容器を潰してドアの下に挟んだもの?世間に手掛かりを残した人間を消す事で、普通の社会人に戻ろうとしたらしい。

心臓と左手
新興宗教の教祖 天空寺神光(小林健一、48歳)が、モルヒネの大量服用で亡くなり、残された幹部が「教祖の心臓を食べた人間を後継者にする」という遺言を受けて、心臓を取り合って殺し合う。
鳴島という幹部のみは、心臓ではなく左手を自分のものとしたが、ATMの生態認証に使用した可能性を指摘。

罠の名前
過激派組織「PW」の戦闘隊長 芳賀が、弁護士の野口を誘拐し、警察に追われて自室から転落死する。野口には他の誰かが近づくと作動する罠が仕掛けられており、警官が近づいて死亡する。
ベランダ側には罠が仕掛けられていなかった事から、芳賀と野口の娘が恋愛関係にあり、野口の娘に罠で父親を殺害させ、負い目を負わせて仲間にするつもりだった可能性。

水際で防ぐ
外来種の危険性を訴える「固有種を守る会」にて、中心メンバーの児玉が、同じくメンバーの遠藤を殺害する。「固有種を守る会」が、港湾での抗議活動に紛れて、密入国の手助け、又は強制労働被害者を出国させて稼いでいた可能性。倫理観が壊れた遠藤が、飼育している固体なら問題無いと外国産甲虫を飼育し争いになったのかもしれない。

地下のビール工場
生物兵器製造にも使用出来る自家製ビール醸造キットの輸出を密告された貿易会社社長が殺害され、犯人の秘書が自殺した。不正輸出でなく、自らの手で生物兵器を造ろうとした可能性。不正輸出という密告をすれば、テロを防ぐ事が出来るが、密告が露見して争いになって殺害してしまった?

沖縄心中
沖縄で反米運動をしている「九条を沖縄憲法にする会」の増島宏美と恋人の米兵ロバート・リードの心中事件。事故によって殺人を犯したロバート・リードが、「九条を沖縄憲法にする会」が絡む犯罪行為にも関わっていたため、警察による追及を避けるために逃げ出し、追い掛けた増島の誘導によって自決した可能性。

再会
「月の扉」で人質となった玉城聖子の話。父親はテロリストに立ち向かえなかった負い目から社会的廃人となっている。さらに航空会社を脅していた可能性。
成績優秀者に奨学金を出す沖縄孝月学園(中高一貫校)への入学を考える。

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教科書一冊で解ける東大日本史

読んだ本の感想。

野澤道生著。2017年1月20日初版1刷発行。



以下は、「野澤道生の『日本史ノート』解説」へのリンク。

http://www.geocities.jp/michio_nozawa/

0時間目
小学校の教科書で解くNHKドラマの主人公・吉備真備と遣唐使

古代遣唐使は、律令に基づく能力で選ばれた役人による中央集権制度、天皇の交代に関係無く政務を行う場としての都城の建設(飛鳥時代までは天皇が変われば政務を執り行う宮も変わった)、漢字を使用した歴史書の編纂による支配の正統化、年号等を日本に伝えた。

吉備真備は唐に留学(717年~735年)して儒教、歴史、兵法等を習得し、孝謙天皇(称徳天皇)の皇太子時代の教師だった事もあり信任を得た。筑前国の怡土城建築や764年の藤原仲麻呂の乱鎮圧等の功績があり、766年には右大臣になっている。

1時間目 5世紀から10世紀へ 神様が仏様はじめました
日本の神々への信仰は自然崇拝に由来し、後に渡来した仏教は氏族を祀った古墳を仏教寺院によって代替していく。奈良時代には神宮寺建立や神前での読経等の神仏習合の風潮が見られ、平安時代前期には僧形の神像彫刻が盛んに作られた。神々への信仰が仏教理論によって体系化され、本地垂迹説(神は仏の化身)が生まれた。

日本の寺院の伽藍配置(塔や金堂、講堂等の建設物 = 伽藍の配置)は、古いほど塔が中心にある。仏舎利(釈迦の遺骨)を安置する塔でなく、本尊を祀る金堂が中心的位置にくる。最初の寺院とされる飛鳥寺では、塔の心礎から副葬品(祖先の遺品)が見つかっており、古墳(副葬品を納めた石室を中心とする)と寺院とが習合したと考えられる?

2時間目 8世紀 次男房前、参議となる
奈良時代は個人の能力に基づく官僚制度が導入されたが、実際には有力貴族が政治を独占していた。しかし、貴族の中から儒教的学識を備えた官僚政治家が現れ、氏族制を継承する勢力は後退していった。

壬申の乱の後に中臣氏は朝廷の中枢から一掃されたが、藤原不比等が下級役人から出世し、大伴氏や佐伯氏等と勢力を競いながら、次男房前を参議として717年に朝政に参加させ、その四年後に嫡子武智麻呂を中納言とした。藤原氏は兄弟四人が同時に公卿となり、一定範囲の上級貴族から一人ずつという議政官構成の伝統を破り、藤原氏による複数議政官の端緒となる。

3時間目 12世紀から16世紀へ 遠くの身内より近くの他人
鎌倉時代の守護は軍事警察権を持つだけだったが、室町時代には国人を家臣化し、荘園、公領を侵略して領国支配権を確立した。国人達は一揆を結ぶ等して守護に抵抗し、戦国大名は分国法を制定して紛争裁定を自らに委ねさせて主従関係を強化した。

鎌倉時代の武士による荘園支配は惣領個人による支配でなく、組織体としての支配だった。宗家の首長(惣領)が分家を統括して一門として団結する(惣領制)。しかし、分割相続の繰り返しで惣領制は解体していき、単独相続が一般的になり、血縁よりも地縁的結合が重視されるようになる。

鎌倉時代の守護は軍事指揮官であり、土地の支配権は無かったが、室町時代の守護は将軍からのお墨付きを根拠に地域支配権を確立し、戦国大名の支配へと繋がっていく。

4時間目 14世紀 建武の新政
後醍醐天皇は綸旨(土地所有権の確認)に絶対的な効力を持たせ、政務機関としての記録所(土地関係の訴訟機関、産業や流通統制にも取り組む)等を設置して天皇への権力集中を図った。北畠顕家(神皇正統記)は武士への恩賞給与や家柄を無視した人材登用が天皇の権威を低下させると批判した。

後醍醐天皇は平安時代の終りに国政改革に取り組んだ後三条天皇を参考にしたものと思われ、荘園を整理して公領を増やした。

後醍醐天皇が構想した雑訴決断所による全国支配のための訴訟制度は室町幕府に引き継がれ、足利義満による公家、武家、寺社勢力の抑え込みのモデルになったとする。

5時間目 17世紀 江戸時代初期の朝廷と幕府
徳川幕府は禁中並公家諸法度を制定して朝廷運営の基準を示し、天皇の勅許に優先するとしながらも、天皇の権威を利用するため伝統的儀礼を再興した(1646年の伊勢神宮に毎年派遣され、15世紀後半以来、中絶していた伊勢例幣使再興等)。

後水尾天皇は幕府による統制に反抗して、1627年に幕府に諮らずに十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与え、幕府は勅許状の無効を宣言して、抗議した大徳寺の沢庵らの高僧を東北地方に流罪にしている(紫衣事件)。

後水尾天皇は明正天皇に譲位し、7歳の幼い女帝によって朝廷運営が停滞したため、三代将軍家光は、後水尾の院政を認めた。後水尾は若手公家を対象とする勉強会を催して和歌を添削し、寛永文化の土台を作った。

6時間目 17世紀から19世紀へ
家康公はそんなつもりではなかったぞ

1609年に徳川家康は、大阪の豊臣秀頼に味方する恐れのある西国大名の軍事力を削減するために大船禁止令を出した。当初は外洋航海禁止が目的でなかったが、鎖国形成時期に武家諸法度に加えられた事から、幕末には諸大名が貿易によって富強になる事を防ぐ施策と理解された。

7時間目 19世紀 長州征討と諸藩への影響
1864年の長州征討においては、諸大名、旗本が定めの通り、各自の知行高に応じて人馬や兵器を用意した。一旦は屈服した長州藩は高杉晋作がクーデターによって主導権を握って幕府が示した領地削減に抵抗したため、1865年に再度の征討が決定されたが、長州藩と結んだ薩摩藩が命令を拒否し、他の藩も消極的になった。

8時間目 激動の20世紀前半 石橋湛山の「一切を棄つるの覚悟」
日露戦争後のポーツマス条約において、日本は旅順・大連の租借権と長春以南の鉄道と付属の利権を手にした。政治家の石橋湛山は、1921年のワシントン会議前に発表した「一切を棄つるの覚悟」にて中国の利権を放棄して、朝鮮半島や台湾の植民地を放棄する事を主張したが、植民地は重要な市場・原材料供給地であり資本投下の場でもあったため実現は出来なかった。

中国で北伐が始まると、対中国政策は権益を実力で守る方針に変わり、山東出兵や張作霖爆殺事件、満州事変へと戦線が拡大した。

石橋湛山は、「大日本主義の幻想」にて、朝鮮、台湾、満州を合わせても1920年では9億円余りの取引しかないが、米国とは輸出入合計14億3800万円、インドとは5億8700万円、英国とは3億3000万円の取引があり、植民地よりも米国の方が重要とした。

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東大の日本史「超」講義

読んだ本の感想。

相澤理著。2015年11月5日 初版第1刷発行。



以下は、「学びエイド」へのリンク。

https://www.manabi-aid.jp/

第1章 古代
問題1 「政治の要は軍事」と悟った天武の経験
663年の白村江の戦いで敗北した日本は、天智天皇(668年即位)を中心に、大宰府北の水城、大野城や、669年に遷都した大津宮(内陸にあり難波津からの侵入の直撃を避け、琵琶湖から日本海側に脱出可能)等の国防強化に務める。

672年の壬申の乱では天武天皇が東国(美濃や尾張)の兵力を結集して畿内有力豪族を一掃し、飛鳥浄御原に遷都して中央集権国家建設を行う。

<庚午年籍>
670年に作成された日本初の戸籍で、正丁(21歳~60歳の成年男子)3人~4人に一人の割合での徴兵を可能にした。壬申の乱では庚午年籍に基づいて徴兵が行われたらしい。

律令制下の「戸」は、正丁3人~4人が含まれるように、生活する家族の実体とは無関係に25人程度で編成された。国郡里制の地方行政区画の一番下の里は50戸で構成されたため、どの里からも50人の兵士が集められる。

問題2 政争の時代をしたたかに生きた吉備真備
吉備真備(694年?~775年)は716年に唐に留学し、735年に帰国。唐にならって中央集権体制を確立するために、都城建設、正史編纂、貨幣鋳造等が行われる中、吉備真備の知識は孝謙天皇等に重宝された。

<遣唐使>
第一回の舒明天皇2年(630年)から最後の承和5年(838年)まで、計16回行われ、8世紀前半には500人を超える一団が派遣された。唐を模倣する事が国の威信を高めた時代であり、大宝律令が完成した翌年の702年には33年ぶりの遣唐使が行われており、国の自信にも結び付いたらしい。

694年に遷都した藤原京で宮が中央にあるのに、710年に遷都した平城京の宮が北部にあるのは、天子南面する長安城の影響かもしれない。

問題3 摂関家と中下級貴族の「潤う」関係
律令制初期の官僚は給与収入を主収入としたが、蔭位の制によって身分が世襲化し、10世紀に人事権が摂関家等の上流貴族に集中すると、中下級貴族は上流貴族への貢物を通じて受領への任官を望むようになる。

律令制の前提条件である6年に一度の戸籍作成と班田は継続困難で対外戦争の危機が遠のくと公的秩序から私的秩序への移行が始まる。

10世紀前半の朝廷は、国司に一定額の徴税を請け負わせ、代わりに一国内の統治を委ねたため、国司の最上級である受領は強力な権限を得た。開発領主は、不輸(租税免除)・不入(国司の介入拒否)の権を得て私腹を肥やした。

問題4 文字文化が広まった政治的背景
大和政権は外交や国内統一、史書編纂、行政に漢字を必要とし、9世紀前半には唐風化政策の下で勅撰漢詩文集も編まれた。10世紀に国風文化が開花すると大和言葉を表す万葉仮名が成立し、和歌や日記文学が発達した。

第2章 中世
問題5 頼朝政権が勝ち残った、鎌倉の「地政学」
鎌倉幕府は京都から離れた鎌倉で、朝廷公認の守護、地頭の任命を通じて主従関係を確立した。京都を根拠地としたために先例に無い事をすると公家に反発された平氏や、京都から遠過ぎた奥州藤原氏と違い、鎌倉は適度に京都から離れていた。

鎌倉には源頼朝の死後、人工の和賀江島が建設され、物流拠点とされた。

<奥州藤原氏>
前九年合戦(1056年~1062年)、後三年合戦(1083年~1087年)を経て、陸奥出羽押領使に任じられた清原氏が藤原の姓を名乗るようになる。衣川関の南にある平泉に館を建設し、陸奥の南端から北端を結ぶ奥大道を建設。京の六勝寺(院政期に建立された勝の付く六つの寺院の総称)に対抗して、藤原基衡は毛越寺、円隆寺、嘉勝寺等を建立した。

問題6 東国と西国では違った地頭のあり方
鎌倉時代において、開発領主を出自とする東国の地頭は在地支配権を握ったが、承久の乱後に派遣された西国の地頭(新補地頭)は得分(収益としての取り分)のみが認められた。

新補率法という基準では、田畑11町につき1町の免田、段別5升の加徴米等が認められた。

西国は荘園領主の影響力が強く、荘園領主と新補地頭の対立があり、地頭請(地頭に荘園管理を一任する)や下地中分(荘園を荘園領主と地頭で折半する)等の解決策が取られた。

1232年の御成敗式目には、承久の乱後に激増した所領紛争増加に対応して裁判基準を明確化する意味があった。

<二毛作>
鎌倉時代に畿内や西国で始まり、室町時代に関東への普及。乾田化(畑作のための排水)や肥料(草葉を腐らせる刈敷や草木灰等)が技術的条件になる。

問題7 「他力」の守護大名から「自力」の戦国大名へ
鎌倉時代の守護の権限は軍事警察に限定されたが、室町時代には刈田狼藉取締権(収穫前の立稲を盗む行為を取り締まる権利)等の司法行政権が認められた。戦国大名に至ると喧嘩両成敗法によって自力解決を否定して裁判権を確立し、家臣として城下町に集住させる形で自力支配を打ち立てた。

<大犯三箇条>
守護の主な任務。

①謀反人逮捕
②殺害人逮捕
③大番催促(御家人に京都大番役 = 御所警備役を命じる)

鎌倉時代の守護は徐々に土地台帳(大田文)の作成を在庁官人(国衙の実務を行う下級役人)に命じるようになり、行政権も持つようになっていく。

観応の擾乱(1350年~1352年)においては、近江、美濃、尾張の守護に限定して半済(兵糧米として年貢の半分を徴収する権利)が認められ、後に全国の守護に適用されるようになる。

問題8 実力社会の中世に広がった<徳政>
室町時代は、貨幣経済に巻き込まれた民衆が酒屋や土倉への借金に苦しみ、天皇や将軍の代替わりに徳政が行われた。永仁の徳政令(1297年)は幕府が御家人救済のために売却地返却を命じ、正長の徳政(1428年)は民衆が一揆で債務を破棄した。

14世紀前半から畿内で広がった自治組織(惣村:名主層を指導者に惣百姓を加えて運営された)が運送業者の馬借の機動力を背景に結び付き、一揆が畿内一帯に広がる事があった。

享徳の土一揆(1454年)においては、室町幕府は実力で債務を破棄する一揆を禁止し、債務者が借銭の一割を幕府に納入すれば徳政を認めた(分一徳政令)。その三年後には債権者が債権額の二割を幕府に納入すれば徳政の適用を免除するように定める。

そして八代将軍 足利義政の代には一揆を抑える力が幕府に無くなり、13回の徳政令が出されている。

第3章 近世
問題9 江戸幕府がなしえた統一的な軍事動員
太閤検地により統一基準で土地の面積、等級が定まると、全国の生産力を米の量にて換算して把握する石高制が確立した。石高制に基づいて将軍が大名に知行地を給付し、知行高に応じて軍役を負担させる大名知行政が成立し、農民も村高を基準とした夫役の賦課が可能になった。

室町幕府の時代には一元的権力が存在しないため、一揆によって問題を解決する風潮があったが、近世には統一的基準が定められ、全国共通のルールの下で支配が行われた。

太閤検地後は、一地一作人の原則として、耕作者(名請人)が定まり、複層的権利体系が解消されて荘園が消滅した。

問題10 許されなかった大名の末期養子
徳川幕府においては、大名同士の連帯を警戒し私通や私婚が禁止され、大名は相続人を事前に決定しておく事が奉公とされた。跡継ぎがいないのなら早めに養子縁組をするべきとして、末期養子は奉公の怠慢とされた。

末期養子の禁違反によって改易された数は、徳川将軍家 初代~三代の時期で46家(改易の総数は198で、その内の93は関ヶ原の戦いや大阪の役によるもの)で改易によって主君を失った浪人の増加が社会問題になり、1651年に就任した四代将軍 家綱の時代では文治主義に転換し、五代将軍 綱吉が1683年に発した天和令では文で治める時代が強調され、末期養子の禁が緩和された。

問題11 幕府から自立できない藩経済
幕藩体制下、各地で生産された商品は人口の集中する三都に運ばれ、流通網を掌握する商人は株仲間に公認される形で幕府の統制下に置かれた。

河内の木綿、竜野の醤油、灘の酒等が上方から江戸に運ばれ、江戸から大阪には九十九里浜の干鰯が運ばれ、畿内地方で栽培された菜種、木綿等の肥料として使用された。

株仲間(幕府が問屋仲間に営業権を認めるシステム)は既得権化して自由競争を阻害するために17世紀後半まで禁止されていたが、享保の改革にて営業税(運上、冥加)納入を条件に認められた。

徳川幕府では、中世の惣村を村請(年貢を村単位に納入させる)に利用したり、檀那寺を寺請制度に利用して民衆支配を行う等、既存組織を上手く活用した。

問題12 農村の危機と松平定信の幕政改革
貨幣経済浸透による階層分化、農村からの人口流出に対応するため、出稼ぎ制限や帰村推奨や倹約令等を行った。

第4章 近代
問題13 「民衆」が動かした倒幕への道
1864年、1865年の徳川幕府による長州征伐では、知行高を基準に諸大名に人馬や兵器提供の軍役が命じられたものの、二度目は不満が大き過ぎて多くの藩が消極的になった。

1830年代に民衆の間で御蔭参り(村や町で講を組んで寺社参詣を行う)が流行したように、封建的身分秩序で最下層に置かれた奉公人や女性が通行手形を持たないまま抜け参りの形で参加して解放感を味わう事があった。

<長州征伐>
1863年5月に長州藩が下関沖でフランス艦に砲撃(下関事件)し、三条実美らと組んで十四代将軍 徳川家茂に攘夷決行を迫った。薩摩藩、会津藩は尊攘派の台頭を警戒し、両藩の兵が宮門を固める中で、1863年8月に急進派の公家7名が罷免される。
その後、新選組によって長州藩等の尊攘派の志士が京都から追放され、1864年に長州藩が勢力挽回のために京都に攻め上がり、蛤御門付近で薩摩・会津・桑名の藩兵と交戦した敗れた(禁門の変)。長州藩は朝敵とされ、徳川幕府は諸藩兵を動員して長州征討を行った。

問題14 日本経済の発展と貿易の動向
明治、大正期の日本経済の柱だった紡績業は輸入綿花、機械に頼っており、貿易収支は赤字だった。第一次世界大戦によって一時的に景気は良好になったが、戦争後に景気は悪化した。

1960年代後半までの日本は重工業製品や石油を輸入に頼った赤字体質で、外貨準備が底をつくたびに経済成長が停滞していた。

明治、大正期に貿易黒字になったのは、1880年代後半、1890年代前半、1910年代後半。1880年代後半、1890年代前半は大蔵卿 松方正義による財政緊縮策が黒字の原因。軍事費以外の歳出を抑制し、官営工場を払い下げ、1885年には銀本位制を確立。世界的な金高銀安の為替動向によって円安になり輸出に有利に働いた。

松方財政は紙幣整理によるデフレ政策であり、米価、繭価が低下して自作農の多くが土地を手放して地主が土地を集積し、安価な労働力供給と資本蓄積という資本主義に必要な要件を準備した。

問題15 政党内閣の成立と戦争の深い関わり
第三次伊藤内閣が対露戦争に向けた軍拡のために地租増徴案を提出(1898年)すると、自由党と進歩党が合併して憲政党を結成した対抗した。その後、政権は禅譲されて第一次大隈重信内閣が成立する。しかし、憲政党が新憲政党と憲政本党に分裂し、僅か四か月の短命に終わる。

1918年の米騒動で寺内正毅内閣が言論弾圧との批判を受けて退陣すると、立憲政友会総裁の原敬が総理大臣となり、初の本格的政党内閣が生まれる(貴族院議員だった大隈重信と違い、原敬は衆議院議員だった)。

<憲政の常道>
衆議院第一党の総裁が、自ら議席を持ち、首相となる。直近の民意を反映した衆議院の第一党が組閣する事や、失政により内閣が倒れた時は第二党に禅譲する。大日本帝国憲法では政党内閣が制度的に保障されておらず(議会と内閣は天皇に直属する独立機関)、憲政の常道は慣行だった。日本国憲法では国会の信認に基づいて内閣が存立する議院内閣制で、首相は国会議員の中から国会が指名するため、政党内閣が制度的に保障されている。

政党内閣は金融恐慌(1927年)、昭和恐慌(1930年)等の問題に対策を打ち出せず、軍部に期待する動きが起こり、1932年の五・一五事件によって犬養毅首相が殺害されると憲政の常道は幕を閉じた。

問題16 ワシントン体制と日本の国際的立場
領土的野心を列強から警戒された日本は、戦後恐慌によって財政難であったため、ワシントン会議にて米英との関係改善を図る一方、軍備制限を行おうとした。

1920年に戦艦八隻、巡洋艦八隻からなる八・八艦隊構想のため、軍事費が一般会計の30%近くまで膨張していた。

<ワシントン会議>
以下が締結される。

①四カ国条約
日米英仏の間で太平洋における各国権利の現状維持を確認。日英同盟は解消された。
②九カ国条約
中国の主権尊重や商工業上の機会均等の確認。
③海軍軍縮条約
主力艦の保有量の制限と、今後10年間の建造禁止。

上記のワシントン体制は列強間の枠組みであり、中国は組み入れられておらず、日本が満州での権益を守るために1931年の満州事変が引起される。

問題17 欧化主義への反発と国権論の高揚
国権論は不平等条約交渉の失敗の過程で高められ、井上外相の欧化政策(鹿鳴館建設等)への反発から、徳富蘇峰の平民的欧化主義(民友社:国民生活向上)や三宅雪嶺の国粋主義(政教社:日本の伝統的精神の称揚)が台頭し、日本美術を再評価する機運から東京美術学校が設立された。

<三大事件建白運動>
民権派による以下の追求。下記③は、民権派でも国権論意識が高まっていた事を示す。

①地租軽減
②言論の自由
③不平等条約改正の達成

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げんきな日本論

読んだ本の感想。

著者:橋爪大三郎、大澤真幸。2016年10月20日第一刷発行。



第一部 はじまりの日本
1 なぜ日本の土器は、世界で一番古いのか
日本は山地が70%で、水系が細かく分かれているため移動困難。土器は丈夫だが重いため定住民の用いる道具。縄文人達が準定住状態にあった事が土器を必要とした原因かもしれない。

2 なぜ日本には、青銅器時代がないのか
青銅器時代:
青銅(銅と錫の合金)は、別々の場所で産出する銅と錫の流通経路を押さえた中間地点の人々によって多用される。青銅は希少であり、紀元前3500年頃にメソポタミアで家畜化された馬に高価な戦車を引かせた一部の人間が軍事力を支配権を手にする。こうした時代が鉄器が出てくるまで2000年ほど継続したとする。

鉄器の特徴は安くて大量に生産出来る事で、武器以外に農具にも使用するので農業生産性が向上し、農民を武装させた大量歩兵の時代になる。

日本には青銅と鉄が同時に渡来し、青銅は祭具に使用されたが、青銅器のみがあった場合の社会変化(奴隷制、貴族制)が発生しなかった。

3 なぜ日本では、大きな古墳が造られたのか
日本では遊牧民族(異民族)が存在しなかったために、大規模城壁が造られず、余剰労働力を非軍事的に消費した。古代社会が高度化する中間段階で古墳は造られ、血縁を超えた権力が定着した段階で造営の必要が無くなったのかもしれない。
銅鐸、銅剣、銅鉾を配ったのも、血縁を超えた上位指揮権を可視化し、多くの人間の自己同一性を設定するためだったのかもしれない。権力の基本は、戦争が無い場合は儀式になる。

4 なぜ日本には、天皇がいるのか
天皇は姓を持たずに、人々に姓を分配する地位。
中国では神を祀らずに天を祀る。天は先祖では無いので、こちらに好意的とは限らず、統治者が無能であると天命が他の者に下る。神を祀る場合は、自分の祖先を祀るので断たれる事が無い。
日本では苛烈な征服を経験していないので、血族を超えた天を必要としなかったのかもしれない。

5 なぜ日本人は、仏教を受け入れたのか
仏教は建築、暦法、冶金、漢字、衣料等のパッケージとして導入された?農業の余剰は古墳築造でなく、仏教に投入されるようになる。普遍思想としての仏教を、氏集団が残存し、その頂点としての天皇が存在する状態で導入すると精神的に分裂する。神々の関与する農業と、一部の貴族が信望する仏教の対比。分断は漢字と仮名の分断に象徴されているのかもしれない。

6 なぜ日本は、律令制を受け入れたのか
中国の政治システム(律令制)は、白村江の戦で敗北し、軍隊を整備するために導入されたとする。中華的正統性は政治のパフォーマンスを問われるため困難を含む。

中国の兵制は農民を動員し、税金によって武器や兵糧を供給し、官僚制的軍隊を組織する。日本でも対抗するために律令制を導入。

しかし、天命を正統性の根拠とする中華皇帝に対して、日本の天皇は統治の正統性を説明する義務が無い。中華のように宦官を導入しなくても、氏のシステム上は養子でも問題が無い。

天の概念が導入されない日本の律令制は、その後、私有地や非正規軍の一般化によって崩壊していく。

第二部 なかほどの日本
7 なぜ日本には、貴族なるものが存在するのか
貴族は土地所有者であり、中央政府に位を持つ事から威信が加わる。中国では皇帝よりも古い家柄の貴族は儒教や皇帝の観念とは合わないため駆逐された。

本来は地位が世襲されないはずの律令制で地位が世襲され、特権によって土地を所有して権力を蓄えていく。欧州の貴族は自己武装するが、日本では地位と権力が中央政府に帰属し、政府から独立するために政府と接続しなければならない。

貴族によって土地が私有化され、中央政府が弱体化したのは、異民族との戦争の可能性が無かったからで安全保障の緩みが荘園制の背景となる。

8 なぜ日本には、源氏物語が存在するのか
日本の歌は口頭表現が最初で、田園で歌を詠んだ人々が、中国風の邸宅に住むようになり、男女の接触が困難になった時に、字で書いて歌を届けるようになる。平仮名はそうした女性も字を書かなくてはならない状態で生まれたのかもしれない。

平仮名、片仮名が混在する文章は室町時代から急増し、半分以上が仮名混じりになる。

仮名は音と文字が対応するために文学、歌、日記が成立する。日本では王宮にハーレムが無く、皇后が行政官が出入りする場にいて、公的空間に女性が大勢いて相互に意思疎通をする。源氏物語が描くのはそうした世界。

9 なぜ日本では、院政なるものが生まれるのか
日本の根幹にあるのは「空気」の支配であり、具体的にどのような内容を持つかは一般性が無い。誰の意志にも帰属出来ない非人称のコンセンサスでは、天皇に権力があるよりも、側近に実質的権力がある方が収まりが良い。

天皇が天皇の資格で権力者となるのでなく、引退してから権力を行使する。

10 なぜ日本には、武士なるものが存在するのか
武士は戦闘を遂行する領主である。かつては武装していた貴族達も、平安期には大陸からの脅威が無くなり、武装する必要が無くなる。周辺部の争いを調停するために、武装集団を利用し、有利な方を押領使(逮捕任務を持つ令外官)に任命し、政府所属の治安部隊とする。

日本の王朝権力は、日本列島を一元的に支配し、秩序を保つ性能を持たなかったために周辺部に権力の真空が生まれ、武士が必要とされた。

11 なぜ日本には、幕府なるものが存在するのか
征夷大将軍は右近衛大将にも任命され、政府の機能も持つ。右近衛大将は上位ではないために京都に常駐する必要が無く、御家人同士の争いを調停する問注所を運営出来る。さらに鎌倉幕府では惣追捕使(警察権)も手にして公家の領地でも反対勢力を討伐する権力を手に入れた。

鎌倉幕府は、頂点の源頼朝が低い地位に留まったので配下の武士達も高い地位を望めなくなる。鎌倉幕府内では、北条氏が実権を握るも執権に留まり、四代目以降の将軍を京都の摂関家等から招聘し、若い内に退位させている。

単一勢力だけで日本列島を一元支配する事は困難であり、任命権者(天皇)によって唯一の地位(征夷大将軍)となる事で権力の正統性を手にする。任命権者無しで唯一を自称すると、同じ事をする者が現れてしまう。

武士は基本的にローカルな存在であり、強いから支配するというのは狭い範囲しか支配出来ないため、天皇による正統性を必要とする。

12 なぜ日本人は、一揆なるものを結ぶのか
14世紀以降、日本の農村が自治的共同体として成立し、徴税も村請となり、世帯毎でなくて村全体に一括課税されるようになる。村全体で行動するようになり、一揆を結ぶ場合は神社に出かけ、連判状も書く等して首謀者が分からないように放射線状に名前を書く。指導者が明確にならず平等。

第三部 たけなわの日本
13 なぜ信長は、安土城を造ったのか
天皇の居住地である清涼殿を安土城に作り、自分の執務室より下と示す事で権威をしめそうとした?

14 なぜ秀吉は、朝鮮に攻め込んだのか
豊臣秀吉の手法は他勢力を存続させながら自分の勢力下におくものであり、永続する支配にならない。仮に明を征服すれば、自分が中華皇帝になり天皇より上になる。
本来であれば織田信長の家臣の一人でしかないから、勝ち続けて領土を獲得し、論功行賞を進めていなければ権威を保てない。

しかし、中国と朝鮮は武家政権が成立した日本とは違う文化になっているため、軍事的に拡張する余地が無かったために失敗し、後の幕藩制に向かっていく。

15 なぜ鉄砲は、市民社会をうみ出さなかったのか
あらゆる人間が兵士になる平民性を抑止して、兵農分離が行われた。鉄砲は個人を際立たせずに集合化、平等化し、個人の威信に繋がらない。
欧州のように鉄砲を持つ者が政治的に主体化せずに、それに対する防衛本能として刀狩りや身分秩序固定が行われた?

16 なぜ江戸時代の人びとは、儒学と国学と蘭学を学んだのか
鎌倉幕府では御家人(小領主)が将軍家と一対一で個別に封建契約を結ぶが、徳川幕府では全ての武士は大名の家臣。徳川幕府の正統性は弱く、儒学で正統性を確保する。

日本のイエ制度は、全ての業務をそれぞれのイエに分担させるシステムで、イエを士農工商のカテゴリーに分離し、個人はイエに帰属して固定される。

そうした特異な儒教ではあり得ない状況(君主が複数存在する)を説明するために国学が必要とされる。国学では漢字が渡来する前の日本社会を範とする。

それは文章の言語、法則性を充分に踏まえて客観的に検証する態度であり、テキストを取り替えされすれば、漢字を大和文字に置き換えて導入したように、蘭学を日本語で導入する態度となる。

17 なぜ武士たちは、尊皇思想にとりこまれていくのか
儒学の論理では徳を失った天皇に代わって徳川幕府が正統性を手にするが、それでは不徳であった天皇が徳を取り戻した場合に権力を手にする事になる。
朱子学の原則では指導者に対する忠誠は徳という条件付きであるが、国学では天皇は徳によって天皇であるのではないから政治的パフォーマンスを証明する必要が無い。

18 なぜ攘夷のはずが、開国になるのか
開国をした江戸幕府に対抗するために攘夷を唱えた?日米和親条約で日本が独立国である事を米国が証明したために、攘夷をしなくとも日本の独立は保障された。

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読む年表 中国の歴史

読んだ本の感想。

岡田英弘著。2012年3月2日 初版発行。



「中国」の本来の意味は首都であり、「史記」では陝西省の渭河流域から河南省の黄河中流を通って山東省に至る細長い地帯となる。この地域が漢人の居住地域で、洛陽盆地の華山を中心とする。

中国の起源は始皇帝が中原(黄河中流域の平原地帯)の都市国家を征服し、生活形態の違う異種族が混血したところから始まる。

<統一以前>
紀元前3000年~紀元前2000年頃、黄河中流域に都市文明(仰韶文明)が生れる。洛陽から開封に至る200㎞は水路が安定し、商業網が構築された。商業網に組み込まれた都市住民が漢族の祖である。

夏:紀元前1900年頃
中華最古の都市国家。禹王が建国し、東南アジアに由来する?龍神を祀る。漢字を華北に齎したのは夏人で、文字通信専用の雅言となっていく。

殷:紀元前16世紀~紀元前15世紀
東北アジア狩猟民に共通する卵生神話を持ち、モンゴル高原から南下した民族が建国したと思われる。

周:紀元前1111年~
始祖は、姜原という女神が巨人の足跡を踏んで妊娠し、棄と名付けられたとする。姜は犬戎(東北チベット遊牧民)の名で、始祖の棄が后稷(穀物神)とされるのは狩猟民が農耕化した事を示すのかもしれない。

春秋・戦国時代(紀元前770年~紀元前221年)は西戎(秦)と南蛮(楚)中心の戦いであり、鉄器が普及した。紀元前6世紀からは葬儀業者の儒教等が政治に関わるようになり、多くの学派が独自の漢字の読み方を行う百家争鳴の状態だった。

<一期:秦~隋:紀元前221年~589年>
紀元前221年に秦が中華を統一。始皇帝の下で、かつて国と呼ばれた都市は県となり、幾つかの県を統括する36の軍管区が群(常備軍)と呼ばれ、群長官として派遣された太守が治安維持に務めた(郡県制)。この時代の皇帝は商業都市網を支配する総合商社社長のような存在。紀元前213年の焚書令は、諸子百家による独自の読字方を統一し、字体と発音を統一するものだったとする。

その後の漢は武帝の時代に支配地を広げ、シルクロードやインド洋への貿易路を確保。威信確保のために朝貢貿易を行った。光武帝の時代には朝貢貿易の費用がかさみ、漢倭奴国王の金印は、日本列島にある百余国の献見を受ける余力が無いために、関係業務を奴国に一括するためだったとする。

これらの時代に儒教が普及し、紙を使用した意思疎通が一般化。

やがて200年~230年の三国鼎立初期を経て中華人口は500万人と半世紀で1/10まで減少。220年に魏の曹丕が中原の地と定めた河南省、山東省西南部に250万人程度のかんじんが立て籠もり、その外側に匈奴人をはじめとする異民族が移住する。

華北の支配者は北方遊牧民となり、反切(漢字の伝統的発音を記録)や韻書(漢字の読音の母音、尾子音をグループ化)したものから、二重子音が消失し、頭子音rがlに変化した事が確認され、中国人の言語基層にアルタイ系の要素が加わったと思われる。

<二期:隋~元:589年~1176年>
鮮卑系の王朝の後継として隋、唐が生まれ、洛陽盆地と華中の生産力を結ぶ大運河によって勢力を維持した。この時代の中国人は北方から移住した遊牧民の子孫である。

隋:589年~618年
607年から始まる科挙試験によって人工的記号体系である漢文が普及した。612年~616年にかけて開鑿した大運河(浙江省杭州から長江デルタを縦断して、淮河下流域を通り、河南省開封の西で黄河に入る)によって江南の物資が首都に直通するようになる。

唐:618年~907年
突厥と結んで隋を倒す。630年には東突厥を滅ぼし、北アジア遊牧部族の君主である天可汗の称号を贈られる。太宗の時代にチベット(吐蕃)が歴史に登場し、ソンツェンガンポに文政公主を嫁がせている(640年)。

李白(701年~762年)、杜甫(712年~770年)による漢字表現力拡大(トルコ語の影響?)があり、厳格な規則を持つ近体詩が唐詩を完成させ、科挙の試験で詩作が行われるようになる。

突厥:552年~682年
トルコの部族長であるブミンが柔然から独立し、西魏と同盟(トルコ共和国はこの時を建国年とする)。583年に東西に分裂。682年にはクトルグが突厥第二帝国を建国。ソグド文字に改良を加えたアルファベットでトルコ語を記録した。

契丹:916年~1218年
北京(モンゴル、満州、華北の接点に位置する軍事拠点)を中心に建国。936年には後晋建国を助けた見返りとして燕雲十六州を割譲される。
1124年には金から逃れた皇族の耶律大石がサマルカンドに西遼(カラ・キタイ)を建国し東西トルキスタンを支配した。

宋:960年~1276年
趙匡胤が後周を乗っ取って建国し南方諸国を併合していくが、1004年に契丹軍に敗れ、澶淵の盟によって契丹にそれ以降の約120年に渡って貢物を贈るようになる。1126年には金に追われ、1138年から杭州(臨安)を首都とする南宋が成立。

1084年に成立した「資治通鑑」は紀元前403年~959年までを扱う編年体の歴史書だが、漢民族王朝のみを皇帝と呼ぶ。12世紀には朱子学(新儒教)が完成し、道徳の実践を人間の本性とし、君臣の序列も強制的でなく天理と定義した。

金:1115年~1234年
トゥングース系の女真族によって建国。1126年には開封を占領して宋の徽宗、欽宗を捕らえた。女真族は狩猟の他に農耕も行い、契丹よりも都市に馴染み易かったが、銅鉱山が少ない華北のみを占拠したために、通貨供給の補助手段として約束手形を発行し、信用経済の基礎とした。

<三期:元~日清戦争:1176年~1895年>
元朝のフビライは世界帝国のハーンでありながら中華皇帝もかねる初めての君主である。

フビライは、大都(北京)に中書省をおいて所領を支配し、地方には中書省から出向した役人による行中書省にて現地住民を管理。遊牧地帯については上都(カラコルム)に行政センターをおいて支配した。

1351年には白蓮教(ゾロアスター系)による反乱が発生し、1368年には朱元璋が明朝を建国。

〇里甲制
明朝の開祖 洪武帝が定めた地方制度は、十進法によるモンゴル帝国の軍事制度の影響があるとする。1381年に全国で戸口調査を行い、人民を軍戸、民戸に分けて、県の下に里(百戸所)をおき、里の下に甲(十戸)を十おいた。

明朝の軍戸は元朝時代の非漢人の子孫として、初代将校はモンゴル風の名らしい。

1399年の靖難の役で健文帝を殺して即位した永楽帝以降の明朝は1420年に南京から北京に遷都し、モンゴル人やイスラム教徒、キリスト教徒などの非漢人色の強い華北を地盤とし、元朝の後継とも言える。

〇オイラト部族
イェニセイ河の上流域(モンゴル西北端のダルハト盆地)に居住するシベリア森林地帯狩猟民に、フビライの弟 アリク・ブガを支持する反フビライ連合が合流。フビライ家を支持するモンゴル人と抗争を繰り広げる。

明朝は1449年の土木の変でオイラトに敗れて正統帝がオイラトの捕虜になり、その後、1457年に天順帝として即位した正統帝はオイラト軍を防ぐために大同を囲む長城を建築士、成化帝(在位:1464年~1487年)のオルドスに沿った長城、弘治帝(在位:1487年~1505年)や正徳帝(在位:1505年~1521年)、嘉靖帝(在位:1521年~1566年)の時代に嘉峪関 から渤海湾に至る長城が建設された。

それでも遊牧民の侵攻は食い止められず、1571年には明の隆慶帝が大元のアルタン・ハーンと講和し、アルタンを順義王に封じて朝貢貿易を行った。

清(後金):1616年~1912年
1571年にフィリピンにマニラ市が建設されてからメキシコ銀が中国に流れ込み、高麗人参や毛皮の需要が高まった事で女真人の経済力が高まった。
二代目のホンタイジは、山海関方面を迂回してモンゴル高原回りで明を責める事とし、1628年にモンゴル人諸部族を征服。清朝は1644年から中華を支配したが、満州人は八旗(八部族の部族長会議)の議長として支配し、チベット人はチベット仏教の保護者として支配し、モンゴル人は大ハーンとして支配した。

漢人は清朝皇帝の官僚にはなれたが、他部族の行政には関与出来なかった。その後、1851年の太平天国の乱を漢人将軍の曽国藩や李鴻章等が鎮圧した事で漢人の発言権が高まり、日清戦争における敗北で伝統的統治システムの限界が明らかになった。

<現代:1895年~>
日清戦争敗北を機に欧米システムが採用されるようになる。1905年に科挙が廃しされ、旧来の古典的文法に日本製熟語を借用した時文が新聞用語等に使用されるようになる。

魯迅の「狂人日記」は白話(口語)文で書かれ、魯迅が日本語で考えた文章を漢文に写したもので日本文学の主題を漢語で表現出来るようになった?

現代中国では共産党と国民党の二つの対立が残っており、蒋介石は辛亥革命で宣統帝から禅譲を受けた中華民国が正統と主張し、宋・元・明・清の皇帝の秘宝を証拠とした。

対等の中国人国家が存在する事を認めると、正統が失われるという歴史観が、紀元前100年頃に書かれた「史記」以降、現代も継続している事を示す。

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カラス

読んだ本の感想。

杉田昭栄著。2004年3月31日 第1刷発行。



音やテグス網、赤い布、木酢液等による撃退。慣れてしまうため、同じ方法は長続きしない。

カラスは雑食性であらゆる場所に巣を作るため、人間の生活領域でも繁殖し易い。

カラスの脳は10gと体重比で考えると大きい。ハシボソガラスの体重は320g~690g、ハシブトガラスは550g~750g程度。人間でも体重60kgの人間の脳の体重に占める割合は約2.3%なので、それと同じくらい。鶏の場合は体重1200gで脳の重さが3g程度。

脳幹はカラスと鶏で大差が無く、大脳の違いが大きい。カラスの線条体(学習能力を司る)が発達しており、背側髄板(間脳と大脳を連絡する神経線維)や内側髄板(福高次線条体同士を連絡する神経線維)も太い。

発達した脳による高い学習能力が罠に対抗するために役立ち、鏡や目玉風船は三日程度で効果を無くす。複数要素を組み合わせ、変化させていく事が大切。特にテグスが有効で飛行中に羽に触れる場所を避ける。

カラスは一部では食用になっており、信州のカラス田楽(肉を磨り潰し、ヤマイモ、小麦粉と混ぜて焼く)や中韓の滋養強壮料理等があるらしい。

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