ヘックス入門

読んだ本の感想。

半沢英一著。2013年3月20日 第1刷発行。



第1章 ウールワース
ウールワースは以下のように、上8枡、下6枡の二段の棒状の枡目で行う。




①二人のプレイヤーが先手◎、後手〇を動かす
②各プレイヤーは、上下二段の内、一個だけを動かせる
③〇は右方向に、◎は左方向に任意の空き枡だけ動かせる
④パスや相手の丸を飛び越える事は出来ない
⑤動かす丸が無くなったプレイヤーの負け

このゲームは先手必勝で、◎が左に二枡移動すれば良い。その胆は対称戦略で、相手に等間隔の対称形を渡す。左に二枡◎が移動すると、上下二段の〇と◎の感覚が等しくなり、〇のプレイヤーは対称を崩さなければ丸を移動出来ないため、◎のプレイヤーが対称を維持するように駒を動かし続ければ勝利が確定する。

<ウールワースの必勝戦略>
上下二段の間隔が等しくない時は先手必勝。上下の間隔が等しい形で相手に渡し続ければ良い。

第2章 ニム
三山崩しと呼ばれる。基本的にはウールワースと同じ。コインやマッチ棒等で三つの山を作り、以下のように行う。

①二人のプレイヤーで行う
②各プレイヤーは、交互に山から一個以上の数だけ石を取る
③石を取る山は、毎回いずれかの一山
④パスは許されず、最後の石を取ったプレイヤーの勝利

ニムも、各山の石の数を同数にして渡したプレイヤーが勝利する。

<二進分解>
二進法に直す直前の二進数の和への分解を二進分解と呼ぶ。

ニムで考えると、三つの山の石の数を二進分解した時に、三つの山の石の数を合計して二進数が偶数個出現する場合は二進対称と呼ばれ、一つでも奇数個の山があれば二進非対称と呼ばれる。

例:
三つの山に含まれる石の数が(9、3、10)の場合9 = 2の三乗 + 2の0乗、3 = 2の一乗 + 2の0乗、10 = 2の三乗 + 2の一乗であり、二進数が偶数個(2の三乗、2の一乗、2の0乗が各二個)出現するため二進対称である。

仮に山の数が二つであった場合、二進対称である事と、二進数の数が同数でなければ二進展開にならない。

<ブートンの定理>
ニムの負け形は二進対称、勝ち形は二進非対称であり、必勝戦略は二進対称形にして相手に渡す事を続ける事。

例:
三つの山の石の数が(11、7、13)である場合、二進数が2の三乗、2の二乗、2の一乗が各二個あるが、2の0乗が三個あるために二進非対称。

そのため、先手が2の0乗 = 1を三つの山のどれかから取れば、先手の必勝形が完成する。

第3章 ツェルメロの定理
ヘックスは、二人でプレイし、ゲームの情報が完全に与えられる2人完全情報ゲームというだけでなく、有限の選択肢、有限回の着手で決着する特徴を持つ(有限ゲーム)。

ツェルメロの定理では、全ての有限ゲームには先手必勝法があるか、後手必勝法があるか、引き分けに終わるかのどれかである。

言い換えると、任意の自然数nについて、全ての手数nまでのゲームには先手必勝法があるか、後手必勝法があるか、引き分けに終わるかのどれかである。

その考えでは、ニムは三つの山の石の数をnとした「手数nまでのゲーム」になり、ヘックスは六角形の枡の数をnとした「手数nまでのゲーム」になる。

<帰納法による証明>
①n = 0の場合
手数0のゲームは既に決着が付いているゲームであり、命題は成立している。

②n = k で成立していれば、n = k + 1でも成立する
手数がk + 1までのゲームとは、手数がkまでのゲームに一手足したもの。n = kのゲームに必勝法があれば、一手足したゲームにも必勝法がある。

第4章 ヘックス
正六角形の枡目を菱形に並べた盤で行われる。盤の大きさは任意に変更可能であり、以下のルールで行われる。

①二人のプレイヤーが黒石(先手)と白石(後手)を交互に置く
②黒石で左上辺と右下辺を結ばれれば黒の勝ち
③白石で右上辺と左下辺を結ばれれば白の勝ち
④菱形の頂点をなす四つの枡は黒白双方の辺につながる

ヘックスは1942年にデンマークの数学者ピート・ハインによって考案され、1949年にジョン・ナッシュによっても再提起されナッシュのゲームとも呼ばれる。ジョン・ナッシュはヘックスに先手必勝形がある事を証明した。

<ヘックスの証明>
以下を証明する。

①ヘックスには引分けが無い
②ヘックスには後手必勝法が無い

ヘックスに引分けが無いとは、以下である事。

(1)一方がつながれば他方はつながらない
(2)枡が全て埋まれば必ず一方はつながっている

ヘックスに後手必勝法が無いとためには、相手を真似る戦略について理解する必要がある。それには以下の条件が必要。

(1)ゲームが対称性を持つ
(2)先手・後手の形の相違が真似る事に影響しない

ヘックスに後手必勝法があった場合、先手は後手必勝法を真似る戦略を取れる。それでは先手が勝利してしまい、後手必勝法と矛盾する。上記の相手を真似る戦略が可能である事から、ヘックスに後手必勝法は無い事になる。

ただし、対称性を壊した非対称のヘックスは後手必勝に出来る(本書内では5×6の歪んだ菱形を図にしている)。それは非対称ウールワースの対称戦略に似ている。ヘックス盤を左右に分けて、左右対称になるように、枡目に同じ番号を付けておき、先手が置いたのと同じ番号に後手が石を置いておけば勝てる。

厳密な証明は良く分からなかった。

人気ブログランキングへ
スポンサーサイト

「全世界史」講義

読んだ本の感想。

出口治明著。発行 2016年1月15日。

「全世界史」講義 Ⅰ 古代・中世篇



第1部 第一千年紀―第二千年紀 = BC3000-BC1001
第1章 BC3000- BC2001 文字の誕生と最初の文明
メソポタミアで文字と帝国が誕生する。

〔1〕文字の発明はトークンから
狩猟採集から農耕牧畜に転換して5000年以上が経過した紀元前3500年頃に文字が発明される。デニス・シュマント=ベッセラは債権管理に使用したトークン(代用貨幣)から派生したとする。当時の世界総人口は1000万人程度。

〔2〕メソポタミアから文明が始まった
シュメール人の都市国家が文明の始まりとする。大国成立はエジプトの方が早く、ナルメル王のエジプト統一は紀元前3000年頃。ギザのピラミッドは紀元前2550年頃。メソポタミア文明はエジプトやインダスにも影響し、青銅器や二輪戦車は黄河文明にも伝わったらしい。

〔3〕アッカド王サルゴン、人類最初の帝国をつくる
メソポタミアは北部がアッシリア地方、南部がバビロニア地方で、バビロニア北部がアッカド地方、南部がシュメール地方。メソポタミア初の統一国家は紀元前2334年頃にアッカド王サルゴンが創始した。
サルゴンは動物園を作ったが、これは全ての人間を支配した後に、全ての生物を支配しようとした結果とする。それが進むと過去の支配に繋がり、アッシリア王の大図書館やナポレオンのルーブル、康熙帝の康煕字典となる。

〔4〕なぜ人間は交易をするのか
自らの生態系に欠けるものを、別の生態系から持ち込む形態としての交易と、威信財交易として君主同士が豊かさを見せつけあうための交易。

第2章 BC2000-BC1501 チャリオットによる軍事革命
〔1〕東地中海に君臨し、ギリシャ文明のもとになったエジプト王国
エジプト中王国(紀元前2040年頃~紀元前1794年頃)はファイユーム地方の干拓を行ったが目立った遺跡は残していない。

〔2〕中国の二里頭文化は伝説の王朝「夏」か
紀元前2000年頃から黄河流域で二里頭周辺に都市国家が生まれた。宦官の文化が遊牧民の風習を示すとする。

〔3〕ハンムラビのバビロニア王国、メソポタミアを統一
紀元前1000年代にアムル人のバビロニアが強力になる。六代のハンムラビ王(在位:紀元前1792年~1750年)がメソポタミアを統一する。

〔4〕ヒクソスのチャリオットがエジプト中王国を圧倒
紀元前4000年頃にユーラシア中央の草原地帯で蒙古馬が家畜化される。やがて二輪戦車が発明され、セム族のヒクソスがエジプト中王国を滅ぼす。二輪戦車導入は第一次軍事革命とされ、中国の商やインドのアーリア人も二輪戦車を活用した。

〔5〕鉄器を手にしたヒッタイトがバビロニア王国を滅ぼす
アムロ・アジア語族(セム語族:アッカド、バビロニア、アッシリア、ハム語族:古代エジプト、ベルベル)等のメソポタミアの地にインド・ヨーロッパ語族(カスピ海北部地帯)のヒッタイト人が侵入。鉄を産出するアナトリア半島に移住し、紀元前1595年頃にバビロニア王国を滅ぼす。
インド・ヨーロッパ語族はギリシャへの向い、軍事色の強いミケーネ文明を興した。

第3章 BC1500-BC1001 黄河文明の登場と
               BC1200年のカタストロフ

〔1〕エジプトは新王国へ
紀元前1540年頃からエジプト新王国が始まる。メソポタミアではヒッタイト、カッシート(バビロニア第三王朝)、ミタンニ(フルリ人)が覇を競う分裂状態となる。
エジプト新王国は東地中海へと拡大し、アメンヘテプ三世はルクソール神殿を完成させた。

〔2〕黄河文明、興る
甲骨文字の出現。九州(九つ前後の文化地域)の中で、文字が登場したのは黄河中流域の中原区のみ。夏の伝説では九州の首長達に銅を献上させて九つの鼎(三本足の釜)を製作している。鼎は周が秦に滅ぼされた時に河に沈んだとする。

〔3〕世界最古の国際平和条約
紀元前1286年にカデシュでヒッタイト王ムワタリとエジプト王ラムセス二世が国際平和条約を結ぶ。

〔4〕海の民、東地中海を襲う(BC1200年のカタストロフ)
東地中海の「海の民」による民族移動でヒッタイトやミケーネ文明が滅ぶ。気候変動によって北方の人々が南下したとする。

〔5〕ヒッタイトの滅亡により鉄器時代が始まる
ヒッタイト滅亡によりメソポタミアや地中海沿岸に鉄器製作技術が広まり、青銅器時代が終わる。

〔6〕フェニキア人が活躍し、辺境の地で生まれたアルファベットが広まる
紀元前1800年代の原シナイ文字からヒエログリフが生まれる。メソポタミアの楔形文字とエジプトのヒエログリフとの交易を行う人々が簡便な文字を作り出したとする。

〔7〕アーリア人がインドに侵入。バラモン教や『リグ・ヴェーダ』が成立
紀元前1500年頃にアーリア人がパンジャブ地方(インダス川中流域)に進出。

〔8〕中国で商周革命が起きる
紀元前1023年の牧野の戦いで商が周に滅ぼされる。
商では王の祖先を神様として祖先崇拝と結び付けたが、周では「天」という抽象的で人間臭の無い神が崇拝され、祭政分離がなされた。それまで占いで政策を決定していたのが、王の命令で政策を決定するようになる。
修飾語と被修飾語の関係も変化し、商では「帝辛」 = 「辛という帝」だったのが、周以降は「武王」と呼ぶようになる。

第2部 第三千年紀 = BC100-BC1
第1章 BC1000-BC1① 世界帝国の時代
〔1〕最初の世界帝国アッシリア
紀元前720年頃から勢力を伸ばしたアッシリアが世界帝国を築く。アッシュールバニパル(在位:紀元前668年~紀元前627年)は大帝国を築くが紀元前612年頃に、カルデアとメディアの連合国によってアッシリアは滅びる。

〔2〕ダレイオス一世が実現したグローバリゼーション
キュロス二世(在位:紀元前559年~紀元前530年)によってアカイメネス朝が創始され、カンビュセス二世によるエジプト制服、ダレイオス一世(在位:紀元前522年~紀元前486年)によって世界帝国が構築される。

道路整備やアラム語の共用語化、全国を20の地域に分割しての知事(サトラップ)派遣など。

当時のメソポタミア北方には遊牧国家スキタイが騎馬軍団によって強勢になっているが、ペルシャ帝国はギリシャとも対立した。

〔3〕アレクサンドロス大王の実像
紀元前359年に即位したマケドニアのフィリッポス二世の後を継いだアレクサンドロス三世(紀元前336年~紀元前323年)による征服。ギリシャ人の言語コイネーの共通語化。

〔4〕パルティアの建国とローマが帝国になるまで
紀元前247年にアルサケス一世がパルティア(安息)を建国。市民皆兵によって強国になったローマ(都市国家)が、カエサルによって国の規模が大きくなるに連れて君主や官僚組織、常備軍を整備した帝国となる。カエサル暗殺は紀元前44年頃だが、彼の死後もアウグストゥス(在位:紀元前27年~14年)によってローマ帝国は完成し、ペルシャと同じように道路を整備した大国となる。

〔5〕アレクサンドロス・ショックでインドが統一
アレクサンドロス大王の侵入を契機にして、インドにマウリヤ朝が出来る。三代のアショーカ王(在位:紀元前268年頃~紀元前232年頃)はインドの南端以外を支配した。
その後、インドは16世紀のムガール朝まで統一国家は生まれず、パンジャブ地方とガンジス川中流域を中心とした歴史が生まれる。

〔6〕中国を統一した天才、秦の始皇帝
紀元前221年頃に始皇帝による中国統一。

皇帝という称号や文書行政を軸にした郡県制、度量衡や車軌の統一等。

第2章 BC1000-BC1② 知の爆発の時代
前兆
〔1〕ギリシャ、フェニキアに対抗するためにギリシャ・ルネサンスが起きた
自己存在を主張すべき対抗者のためのアイデンティティとしてギリシャ・ルネサンス(紀元前八世紀~紀元前七世紀)が発生したとする。ホメロスのイーリアス、オデュッセイアやヘイオドスの神統記等。

〔2〕インド、因果応報思想と輪廻思想が融合してウパニシャッドが生れた
二百冊以上あるウパニシャッド(奥義書)がギリシャ・ルネサンスと同時期に作られた。

〔3〕中国、西周が滅んで漢字が広まり、中華思想が生まれた
中華とは夏や商、周があった中原の地域で、漢字が広まった事で、その発祥の地である中華が権威となった?

〔4〕鉄器の普及が知の爆発を引き起こした
紀元前500年頃からの鉄器普及による農業生産性向上。

知の爆発
〔5〕ギリシャ、ソクラテスによる哲学の転回、プラトンの二元論
外界に興味を持つイオニア学派(世界を構成する物に関する考察)に対し、ソクラテスは内面に考察を向けた(汝自身を知れ)。弟子のプラトンは魂と肉体の二元論を説いた。

〔6〕インド アジタ・ケーサカンバリンの唯物論、仏教とジャイナ教の誕生
イオニア学派と同じ発想の唯物論等。

〔7〕中国① 自然破壊、文書行政、諸子百家
鉄器による自然破壊。広い地域を支配する文書行政。自分の思想を発表する様々な思想家達。

〔8〕中国② 孔子、墨子、老子、商鞅
文明肯定の孔子、文明否定の墨子、傍観者的な老子、国政改革の商鞅等。

〔9〕中国③ 孟子の易姓革命と荘子
孟子による易姓革命は人民主権を認めている。荘子は近代的自我として道教を確立した。

〔10〕中国④本音は法家、建前は儒家、知識人の道家
中華帝国のバランス。

〔11〕ユダヤ人のディアスポラが旧約聖書成立の引き金となった
バビロン捕囚終了でエルサレムに帰還したのは保守的な司祭階級等で、ユダヤ人のアイデンティティを確立するために、紀元前4世紀頃に旧約聖書が成立したとする。


第3部 第四年紀 = AD元年
第1章 AD元年-500 漢とローマ帝国から
             拓跋帝国とフランク王国へ

AD元年頃の世界人口は1億五千万人を超えた。そのごのユーラシア寒冷化によって巨大な民族移動が発生する。

〔1〕ヒンドゥー教に対抗して大乗仏教運動が始まった
バラモン教を分かり易く十二人いた神を、シヴァ(破壊と創造)、ヴィシュヌ(慈悲深い)、ブラフマー(造物主)という三神にまとめあのがヒンドゥー教。対抗して多くの人を救うとする大乗仏教運が起こった。

〔2〕クシャーン朝で仏像がつくられ始める
ヒンドゥー教の大衆化の力になった神像に触発されて仏像が作られたとする。

〔3〕王莽による西漢の簒奪と東漢の成立
大臣の役職を儒教の通りにしたり、七年間に四回も貨幣改革を行った。高句麗という国名は下句麗という風に変えさせている。この時代に西域を経由して大乗仏教が伝来した。洛陽の白馬寺は中国最古の仏教寺院。

〔4〕イエスの刑死とパウロの回心、そして新約聖書の成立
60年頃~90年頃に、イエスの思想を信者のパウロ風に組み立てた新約聖書が作られる。

〔5〕ローマ帝国は「人類の最も幸福な時代」へ
18世紀の歴史家ギボンが『ローマ帝国衰亡史』で出した表現。 

〔6〕ユーラシアの寒冷化が巨大な民族移動を引き起こした
鮮卑やゲルマン民族の大移動。

〔7〕遊牧民が簡単に入れなかった国、インドとペルシャ
インド北側はチベット高原とヒマラヤ山脈があり、西北のパンジャブ地方は豊かなために常にどこかの国が押さえている。遊牧民大移動の頃は騎馬民族のクシャーン朝があった。
ペルシャ東北は砂漠地帯で、カスピ海南側はアルボルズ山脈が遮断。

〔8〕漢が滅亡、晋は北を捨てて南へ逃げる
遊牧民の侵攻によって五胡十六国時代になる。

華北を統一した前秦の符堅は儒教を手本にして東晋を攻めるが383年の戦いで裏切られて亡びる。同時期にローマ帝国ではユリアヌス(在位:361年~363年)が登場し、キリスト教がギリシャ・ローマの神や文献を焚書する事に抗議しているがサーサーン朝との戦いで戦死している。

〔9〕北魏が華北を統一。拓跋帝国の始まり
拓跋部が北魏(386年~534年)を建国。隋や唐の礎となる。

〔10〕ローマ帝国は分割統治を経て、東に重心を移す
東方のサーサーン朝、西方の蛮族に対抗するため、ディオクレティアヌス(在位:284年~305年)はローマ帝国を四分した(テトラルキア)。四つの首都が前線近くに置かれたためローマ市(元老院)の重要性が低下。

〔11〕ユーラシアの西方ではフランク族が抜け出す
フランク族によるメロヴィング朝建国等(481年)。

第2章 501-700 一神教革命の成就
〔1〕隋建国、拓跋部が中国の覇権を握る
北周の武帝(在位:560年~578年)が華北を統一し、武帝の没後、外戚の楊堅が隋を建国(581年)。洛陽から長安に遷都し、開皇の治によって律令制を完成し南朝の陳を滅ぼして、589年に中華を統一した。チベットでは吐蕃がラサを都として成立した(633年)。

〔2〕最強のトルコ系遊牧民、突厥がモンゴル高原に建国
552年に突厥が柔然を駆逐。柔然の中で西進したグループはアヴァールと呼ばれ、ドナウ帝国を建国(557年)。突厥は583年に東西に分裂。

〔3〕ローマ帝国のユスティニアヌス一世、東西統一を夢見る
ユスティニアヌス一世(在位:527年~565年)による西の再征服運動。キリスト教の協力を得ようとして、ギリシャやローマの古典を教えていたアカデメイア(総合大学)を閉鎖してしまう。学者達はホスロー一世(在位:531年~579年)のサーサーン朝に逃れた。

〔4〕サーサーン朝のホスロー一世と二世もペルシャ帝国の夢を追う
ホスロー一世は、エチオピア勢力をアラビア半島から追い払い、東方交易を独占した。ホスロー二世(在位:590年~628年)は、614年にシリア・パレスチナを占領、619年にはエジプトを征服。

〔5〕ローマ帝国とサーサーン朝によるシリア・エジプト争奪戦
ヘラクレイオス(在位:610年~641年)は、622年にシリア・エジプトをサーサーン朝から奪回する戦いを始める。628年に奪い返す事に成功。

〔6〕預言者ムハンマドがイスラム教を興し、一神教革命が成就する
ローマとペルシャが疲弊した権力の空白で、ムハンマドが610年にイスラム教の布教を開始。地中海世界の南北からギリシャ・ローマの古典文明を築いた多神教の神々が消えた。

〔7〕隋唐世界帝国の成立
遊牧民出身の皇帝のため万里の長城は作られなかった。異民族の長を官吏に任命した(羈縻支配)。

〔8〕ハルシャ・ヴァルダナによる北インドの統一
606年に来たインドをハルシャ・ヴァルダナが統一。40年ほどで国が滅亡するが、繁栄期に三蔵法師がインドを訪れ、ナーランダ大学で学んで645年に帰国。
ハルシャ王の時代に、密教として特定の行者に秘密の教えを説く形式が始まる。大衆的な大乗仏教に飽き足らないインテリ層に普及。

〔9〕白村江の敗戦ショックと倭国の鹿鳴館政策
663年の白村江の戦の敗戦で、胡服や歴史書、律令制が導入されたとする。

〔10〕女帝・武則天、大唐世界帝国の実力者となる
持統天皇のモデルになったとする。

〔11〕宮宰ピピン二世、フランク王国(メロヴィング朝)の実権を握る
宮宰のピピン二世が687年にメロヴィング朝の実権を掌握。息子のカール・マルテルがカロリング朝の始祖となる。

第3章 701-800 ムハンマドなくしてシャルルマーニュなし
〔1〕フランク人の改宗。ローマ教会はローマ帝国からの自立を目指す
東ローマ帝国のレオン三世(在位:717年~741年)は偶像破壊を訴えたが、識字率の低い西欧では偶像が必要であるために東西のキリスト教が分かれた。

〔2〕カロリング朝が誕生し、ローマ教皇は領土を持つ「君主」に
ローマ教皇によるカロリング朝の権威保障。ランゴバルド族を破ってローマ教皇に領土を寄進。ピピン三世に従って来た豪族達がイタリアの貴族の元になる。

〔3〕シャルルマーニュ、ローマ皇帝として戴冠する
ピピン三世の子シャルルマーニュ(カール大帝)が800年にローマ皇帝になる。

〔4〕イラン東部からアッバース革命が始まる
749年にクーファの街でムハンマドの叔父の家系であるアッバース家の当主サッファーフがカリフに推挙される。アッバース朝はイラン東部(ホラーサーン)を拠点に誕生した。この地は東西交易の拠点で、遊牧民対策のために強力な軍隊が置かれた。

〔5〕バグダート建設が生み出した巨大な有効需要
アッバース朝二代目カリフ マンスールはバグダートを建設。インド洋交易と地中海交易を結んだ。

〔6〕「ムハンマドなくして、シャルルマーニュなし」の意味
ベルギーの歴史学者アンリ・ピレンヌが表現。地中海がイスラムの海になる事で古代が消滅し、カロリング朝に代表される中世ヨーロッパが始まった。

〔7〕安史の乱とアッバース革命は連動していた?
755年の安史の乱で疲弊した唐は、780年に楊炎が税法を改正して持ち直す。それまでの均田制と租庸調(自作農の文化)を改めて、大土地所有を認めて資産に比例して課税するようにした。夏の麦・綿、冬の稲を対象に、年二回の徴税なので両税法と呼ばれた(一六世紀後半に一条鞭法が施行されるまで続く)。

安史の乱とアッバース革命は同時期に発生しており、安禄山の父はサマルカンド出身のソグド人、母は突厥であるため、両者は繋がっていたのかもしれない。

〔8〕チベットでインド仏教(密教)が中国仏教を圧倒した理由
八世紀末に密教と大乗仏教の論争が行われ密教が勝利。敦煌から連行された中国僧と、インドから布教に訪れたインド僧の意欲の違い?

〔9〕ヴァイキングの登場
793年にヴァイキングがイングランド北部にあるリンディスファーンの大修道院を襲った記録。

第4章 801-900 イスラムの大翻訳運動とヴァイキングの活躍
〔1〕製紙技術を学んだイスラムが大翻訳運動を始めた
サーサーン朝にあるギリシャ・ローマ古典の翻訳運動。七代目カリフ、マアムーンの時代にぴーうを迎え、830年の図書館兼天文台建設に繋がる。これは大乗仏教典を漢訳した、五胡十六国時代の鳩摩羅什を中心にした運動に匹敵するとしている。

〔2〕アッバース朝がマムルークを採用する
アッバース朝八代目カリフ、ムウタスィム(在位:833年~842年)は、マムルーク(トルコ系奴隷)を戦士として採用。軍隊と市民の関係が上手くいかないので、サーマッラーに遷都。60年後の十五代カリフの時代にバクダードに戻るが、この頃からアッバース朝は揺らぎ始める。

〔3〕イスラム教とトゥルクマーン、マムルークの関係
840年にキルギスがウイグルを滅ぼして、ウイグルのグループが西進する。

〔4〕サーマーン朝とマムルークビジネス
中央アジアのブハラを首都にサーサーン朝(875年~977年)が生まれる。トゥルクマーンの東からの通り道にあり、マムルークをアッバース朝に輸出した。

〔5〕唐の武宗による宗教弾圧とトゥプトの滅亡
十五代 武宗による道教を除く全宗教の弾圧(845年)。

〔6〕唐で黄巣の乱が起きる
875年に黄巣の乱が発生し、長安が奪われる。884年に平定されるが唐は没落した。

〔7〕カンボジアにアンコール朝が成立
扶南の属民だったクメール人が、九世紀にアンコール朝を開く(802年)。

〔8〕フランク王国は三つに分かれ、ローマ帝国にはマケドニア朝が成立
イスラム軍による830年のローマ包囲等。カロリング朝は救援に向かえず、843年のヴェルダン条約、870年のメルセン条約等で分かれていく。
ローマ帝国では867年にアルメニア系のマケドニア朝が成立し、テマ制として、領土を分割して軍事権、徴税権、行政権を知事に任せるようになる。

〔9〕ヴァイキングが活動開始、東はロシアへ、西はイングランド、フランスへ
10世紀に向けた温暖化でヴァイキングの活動が活発化。

〔10〕マジャール族がパンノニアに侵入、ハンガリー建国へ
九世紀に、ドン川中流域に暮らしていたウラル語族のマジャール族がパンノニア(ハンガリー、クロアチア)に侵入。ハンガリー初代国王イシュトヴァーン(在位:997年~1038年)はハンガリーのキリスト教化に貢献。

第5章 901-1000 唐宋革命とイスラム帝国の分裂
〔1〕唐が滅びて五大十国時代へ
907年に党が節度使の朱全忠に滅ぼされる。朱全忠は大運河による物資集積地である開封を首都に後梁を建国するが、20年足らずで後唐に滅ぼされる。その後の後晋、後漢、後周と節度使による政権が続くが長続きしない。
中原を除く地方には十国が登場し、五代十国時代と呼ばれる。

916年に耶律阿保機が建国したキタイは、後晋の建国を助けた返礼として936年に北京や大同を含む燕雲十六州を獲得している。

〔2〕フランク王国(カロリング朝)の滅亡、ドイツはザクセン朝、フランスはカペー朝へ
911年に東フランク王国でカロリング朝が絶えて、フランケン公のコンラート一世がドイツ王に選ばれ、その後はザクセン公のハインリヒ一世が継ぐ。
西フランク王国では987年にルイ五世が夭折してカロリング朝が絶え、ユーグ・カペーによるカペー朝が誕生。

〔3〕オットー一世がローマ皇帝戴冠。帝国教会制作を採る
ドイツのオットー一世は、子供のいないキリスト教司祭を知事に任命し、貴族の世襲化を防いだ。

〔4〕アッバース朝が衰え、三人のカリフが並立する
907年に設立されたファーティマ朝の君主が910年にカリフを宣言。後ウマイヤ朝の君主も929年にカリフを宣言。アッバース朝と併せて三人のカリフが並立した。
後ウマイヤ朝は、10世紀半ばに全盛期を迎え、コルドバは人口五十万人で世界最大の年であり、アブド・アッラフマーン三世(在位:912年~961年)によるザフラー宮殿はヴェルサイユ宮殿に匹敵する規模を持った。
981年に宰相になったアル=マンスールはイベリア半島全域を支配したが、その死後、後ウマイヤ朝は没落し、1031年に滅亡している。

〔5〕バシレイオス二世が再現した東のローマ帝国の黄金時代
ローマ帝国のバシレイオス二世(在位:976年~1025年)がブルガリアに大勝(クレディオンの戦い:1014年)し、ドナウ川を北の国境とする。

〔6〕宋が建国。唐宋革命と呼ばれるほど大きな変化が生まれる
後周の最後の皇帝 世宗は、皇帝直属の禁軍を強化し華北を統一。趙匡胤が皇位を禅譲させ、960年に宋を建国。979年に二代目 太宗が中国を再統一。
温暖化を背景とする農業革命で人口は隋唐の盛んな時代の五千万人から一億人に増加し、科挙や石炭活用、飲茶の習慣等が生まれた。

第4部 第五千年紀前半 = 1001-1500
第1章 1001-1100 ユーラシアの温暖化と商業の隆盛
ユーラシア全域で人口が増大。欧州では1000年に約2500万人だった人口が、1300年には約7500万人まで増加。人口増大は地中海交易活性化や十字軍の原因ともなる。
中国では軍事の北部(遊牧民国家)、経済の南部(漢民族)という壇淵システムが機能し、約300年の安定が多雨づく。

〔1〕キタイと宋が壇淵の盟(ODA)を結ぶ
キタイの六代 聖宗と宋の三代 真宗が1004年に壇淵の盟を結ぶ。宋は毎年、銀10万両と絹20万疋をを贈る。真宗は最後の封禅(山東省の泰山で天地を祀って敵国の守り神を祀る儀式)を行った。

〔2〕仏教伝播の第三波、上座部仏教がスリランカからビルマへ
ビルマのパガン朝が上座部仏教を導入。その後、タイのスコータイ朝やカンボジア、ラオスにも伝わる。

〔3〕宋の名宰相、王安石の構造改革。小さな政府で中間層を育成して富国強兵を図る
宋で1067年に即位した神宗が王安石による国政改革を行う。小さな政府で中間層を育成する事を目標とする。

王安石は、科挙を詩賦(詩や韻文)中心であったのを経典(儒学の四書五経)中心に切り換え、周礼等の注釈書を作った。

〔4〕インドで二つの大王朝が繁栄、ガズナ朝とチョーラ朝
9世紀半ばに、インド南東部タミル地方に、紀元前三世紀~三世紀頃に栄えたチョーラ朝の末裔を称する一族が建国。ラージャラージャ一世(在位:985年~1016年)の時代には南インドとスリランカ北部を支配した。
息子のラージェンドラ一世はマラッカ海峡を支配したシュリーヴィジャヤに遠征(1025年)し、スマトラ島までを勢力範囲とした。

〔5〕ファーティマ朝のハーキム、「知恵の館」を建設
ファーティマ朝の六代目カリフ ハーキム(在位:996年~1021年)がカイロに知恵の館を開設。

〔6〕トゥルクマーンによる初の帝国、セルジューク朝の誕生
トゥグリル・ベクが1038年にセルジューク朝を建国。1040年のダンダンカーンの戦いでガズナ朝に勝利し、ホラーサーンを支配した。

〔7〕セルジューク朝の大宰相ニザーム・アル=ムルク
セルジューク朝二代目スルタンアルプ・アルスラーン(在位:1064年~1072年)の宰相に任命されたニザーム・アル=ムルクがバグダードにニザーミーヤ学院を設立(1067年)。

〔8〕ムラービト朝の成立とイスラム勢力のアフリカ進出
モロッコで1056年にベルベル人のアブー・バクルがムラービト朝を建国。ムラービト朝はガーナ王国もイスラム化した。

〔9〕スペインにキリスト教の王国が出現
1035年にナバラ王サンチョ三世の息子がカスティージャとアラゴンを継承。

〔10〕アルフォンソ六世がトレドを掌握、トレドの翻訳学派がルネサンスの扉を開く
カスティージャのアルフォンソ六世が1085年に西ゴート王国の首都トレドを攻略。アラビア語に翻訳されたギリシャ・ローマの古典をラテン語に翻訳する。

〔11〕ムラービト朝のユースフ、アンダルスを征服
1091年にムラービト朝のユースフがアルフォンソ六世を敗走させ、アンダルスを再度イスラム圏にする。

〔12〕ノルマン人がイングランドを征服(ノルマン・コンクエスト)
ノルマンディー公ギョームが1066年にイングランドを征服。

〔13〕シチリアにもノルマン朝が誕生
ノルマンディー公国のタンクレードという小貴族の六男ロベルトがローマ教皇によってプーリア、カラブリア、シチリアを封じられ、1091年にイスラム教徒を倒してシチリアを征服。

〔14〕一0七一変の敗戦後、ローマ帝国は軍事戦から外交戦へ
マラズギルトの戦いでセルジューク朝に敗れ、南イタリアでノルマン人に敗れたローマ帝国は、外交戦を重視する戦略に転換する。

〔15〕イタリアで海の共和国の活動が活発になる
10世紀頃からイタリア半島で地中海交易が盛んになる。背景にはイスラム世界が後ウマイヤ朝、ファーティマ朝、アッバース朝と別れて弱体化した事がある。1088年には欧州最古のボローニャ大学が生まれる。

〔16〕東西教会は大シスマ(分裂)へ
1054年に南イタリアの教会の帰属を巡ってローマ教皇とコンスタンティノープル総主教が互いを破門し合う。公会議は無くなり、1965年まで分裂は続く。

〔17〕カノッサの屈辱。叙任権闘争と三身分思想「祈る人、戦う人、耕す人」
グレゴリウス七世は、司教の叙任権は教皇にあると主張し、ドイツ王ハインリヒ四世と対立。司教は祈る人なのだから、戦う人の総大将であるローマ皇帝が任命するべきでないという思想。カノッサの屈辱は1077年。その後、1084年にハインリヒ四世がクレメンス三世をローマ教皇に据えてグレゴリウス七世は憤死する。

〔18〕十字軍が始まる。その主目的は「聖地奪回」か「出稼ぎ」か
1095年に教皇ウルバヌス二世がフランスのクレルモンで東方遠征を宣布。その後、1270年までに七回(八回?)の十字軍が派遣される。

〔19〕シトー修道院創設。エル・シッド伝説生まれる
1098年にブルゴーニュにシトー修道院が開かれる。質素を旨として開墾運動を実践した。
1099年に死亡した武将ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバールは「エル・シッド」としてレコンキスタの象徴となる。

第2章 1101-1200 中世の春
〔1〕ヴァルムス協約で叙任権闘争が集結。教皇権が強化される
1122年にローマ皇帝ハインリヒ五世と教皇カリストゥス二世とヴォルムス協約を結ぶ。司教の叙任権は教皇に、司教の領土を授封する権利はローマ皇帝にあるとした。俗権と聖権の文理。

〔2〕北イタリアの有力都市がコムーネ(自治都市)となる
皇帝と教皇の叙任権闘争による権力の空白から、12世紀に北イタリアの都市が自治能力を持つようになる。

〔3〕ザンギー朝の誕生と第二回十字軍
セルジューク朝がサンジャル(在位:1118年~1157年)によって再興するが、シリア方面はトルコ系マムルークのザンギーに任される(1127年)。ザンギーは十字軍国家のエデッサ伯領を滅ぼし、シリアを支配下に置いた。
ローマ教皇エウゲニウス三世は第二回十字軍を組織するが、1147年から二年続いた戦争による戦果はほとんど無かった。

〔4〕アンジュー帝国(プランタジネット朝)の成立
1154年にイングランドでプランタジネット朝が始まる。

〔5〕アイユーブ朝のサラディン、エルサレムを奪回する
1154年にザンギー朝のヌールッディーンがダマスカスに入城し、ファーティマ朝と共闘すべく、クルド人の武将シール・クーフを派遣。その死後、甥のサラーフッディーンが1169年にファーティマ朝の宰相となりアイユーブ朝を建国。中東を一つの勢力圏としたサラディンは1187年にエルサレムを奪回。

〔6〕三人の君主と第三回十字軍
第三回十字軍に参加した以下の君主。

バルバロッサ:
ローマ皇帝でアナトリア経由でシリアに向かう途中、溺死する。

フィリップ二世:
フランス王で形勢不利を悟ると帰国。

リチャード一世:
イングランド王で帰国中のドイツでハインリヒ六世に捕われ、母であるアンジュー帝国摂政アリエノールに身代金を払って貰う。

〔7〕ローマ皇帝ハイリンヒ六世が急逝、カタストロフが生じる
1197年にハインリヒ六世死ぬと、勢力の空白が生じる。息子のフェデリーコはフリードリヒ二世として欧州初の近代君主とされる。

〔8〕ヨーロッパで「中世の春」、一二世紀ルネサンスが興る
歴史学者ホイジンガが十四世紀~十五世紀のブルゴーニュ公国を書いた『中世の秋』の前の時代。ゴシック様式の建築が登場(1163年に建築が開始したノートルダム寺院等)。

〔9〕宋と金、海上の盟を結ぶ
女真族の金が完顔阿骨打という君主によって猛安・謀克という社会組織を整備し、鉄資源を生かして強国となる。1122年に宋と金は海路を往来し、キタイを挟み撃ちする盟を結び、1125年にキタイは敗北して西に逃れ、カラキタイを中央アジアに建国する。

〔10〕靖康の変。宋は南宋へ
1127年に金の大軍が宋の開封を落とし華北を征服。

〔11〕宋と金の和議、秦檜と岳飛の対立
1129年に杭州に遷都した宋は1138年に金と和議を結ぶ。

〔12〕セルジューク朝とガズナ朝が滅亡し、ゴール朝が北インドを支配
セルジューク朝は1141年に金に追われたキタイの耶律大石が率いる軍に敗れ(カトワーンの戦い)、セルジューク朝は衰亡する。1194年にはホラズム・シャー朝に滅ぼされる。
ガズナ朝は1150年にイラン系のゴール朝に首都ガズナを落とされる。1186年にガズナ朝はラホールでゴール朝に滅ぼされる。ゴール朝は1193年には北インドをほぼ征服し、アイバクというトルコ系マムルークをデリーの代官に指名。

第3章 1201-1300 パクス・モンゴリア
〔1〕第四回十字軍、コンスタンティノープルを襲う
1204年に教皇インノケンティウス三世が第四回十字軍を組織。黒海の交易ルートを独占したいヴェネツィアの意向によってコンスタンティノープルを占拠してラテン帝国を樹立。

〔2〕フィリップ二世対ジョン、アンジュー帝国が瓦解する
1203年にイングランド王ジョンとフランス王フィリップ二世が戦争に突入。ジョンはローマ皇帝オットー四世と組むが、1214年のブーヴィーヌの戦いでオットー四世がフィリップ二世に敗れ、欧州大陸での地歩を失う。

〔3〕カタリ派弾圧のためにアルビジョア十字軍が結成される
カタリ派(肉体を悪、精神を善として禁欲的な生活を求める)が1209年~1229年に異端としてローマ教皇インノケンティウス三世やフランス王ルイ八世に弾圧される。

〔4〕一二一二年に起きた三つの事件
①フリードリヒ二世誕生
フェデリーコがドイツに入りドイツ王になる。
②少年十字軍運動
『少年十字軍』(マルセル・シュウォッブ)。
③ナバス・デ・トローサの戦い
アンダルスでカスティージャ等のキリスト教連合軍にムワッヒド朝のイスラム軍が敗北。ムワッヒド朝はアンダルスの支配権を失い、1269年にマリーン朝に倒される。

〔5〕マグナ・カルタ(大憲章)成立、第一次バロン戦争
1215年に国王が勝手に課税出来ないように、国王の権利を制限するマグナ・カルタが結ばれる。イングランド王ジョンが調印を拒否したために戦争になる。

〔6〕ローマ教会が耳聴告白制を確立
ローマ教会が1215年に耳聴告白制を導入。豊富な情報を手に入れる。

〔7〕カタリ派対策としてドミニコ会がつくられる
1216年にドミニコ会が創設される。南フランスを中心にカタリ派と論争する。1223年にはイタリア中部でフランチェスコ会が創設され托鉢を行った。

〔8〕「中世で最初の近代人」フリードリヒ二世、ローマ皇帝戴冠
1220年にフリードリヒ二世がローマ皇帝に戴冠される。1224年にはナポリ大学を官吏養成のために創設。1226年にバルト海沿岸への植民を計画するドイツ騎士団四代目総長ヘルマン・フォン・ザルツァに金印勅書を与え、1230年からドイツ騎士団がプルーセン人の地であるプロイセンに侵入。
1228年にはアイユーブ朝五代スルタン、アル=カーミルと外交交渉し、10年間の平和条約を結ぶ(第五回十字軍)。

〔9〕異端審問の制度化、第六回十字軍、マムルーク朝の誕生
教皇グレゴリウス九世の時代に異端審問が制度化される。1248年にはフランス王ルイ九世が第六回十字軍を組織するも、1250年のマンスーラの戦いでマムルークのバイバルスに敗れて捕虜になる。

〔10〕フリードリヒ二世の死とホーエンシュタウフェン朝の断絶
1250年にフリードリヒ二世が死去し、後継者が次々と死ぬ中で庶子マンフレディが南イタリアとシチリアを統治するが、1266年にフランス王ルイ九世の弟シャルルとの戦いに敗れ、フリードリヒ二世の子であるコンラディンも斬首され、ドイツは約20年間の大空位時代という有力君主のいない時代になる。

〔11〕最後の十字軍
1270年にルイ九世が第七回十字軍を組織。チュニジアに向かうもチュニスで客死。

〔12〕ドイツでハプスブルク家が台頭
1273年にスイスに領地を持つ弱小のハプスブルク家のルドルフ一世がドイツ王に選ばれる。ルドルフ一世は1278年にボヘミア王オタカル二世を敗死させてオーストリアを奪取している。

〔13〕第二次バロン戦争から模範議会へ
1264年~1267年にヘンリー三世に仕えたシモン・ド・モンフォールが王に大憲章を再確認されるも、王位を狙っている噂が流れ内乱になる。
1295年にエドワード一世が開いた議会派、高位聖職者、大貴族の他に各州二人の騎士、各都市二人の市民で構成され、国王の権力が制限された模範議会とされる。

〔14〕シチリアの晩鐘、シャルル追放される
ルイ九世の弟シャルルは南イタリアとシチリアを統治するが、1282年にシチリアの住民が蜂起し、シャルルは追放され、マンフレディの娘コンスタンツァの夫であったアラゴン王ペドロ三世がシチリア王になる。

〔15〕一三世紀の地中海とヨーロッパの交易
フローリン金貨、アフリカの砂金、シャンパーニュの大市、バンコ
1252年にフィレンツェでフローリン金貨、1284年にヴェネツィアでドゥカート金貨が作られて国際通貨になる。商業が盛んになり、パリの東方シャンパーニュでは両替商が使用した木製のカウンターがバンコと呼ばれ、バンク(銀行)という名称の起源になる。
やがてジブラルタル海峡を支配するイスラム勢力が弱体化すると、シャンパーニュも衰え、地中海とバルト海の中間である低地地方に交易拠点が移動した。

〔16〕アンダルスのナスル朝と北アフリカのマリーン朝
1232年に成立したナスル朝と、フェズに都をおいたマリーン朝の話。1340年にキリスト教諸国に敗北したマリーン朝は、以降遠征を控える。

〔17〕中央ユーラシアに二つの太陽が昇り、チンギス・カアンが勝利する
ホラズム・シャー朝の七代アラーウッディーン・ムハンマドは1215年にゴール朝を滅ぼして中央アジア、アフガニスタン、イラン、イラクを支配するが、モンゴル高原を統一したチンギス・カアンが1219年に開始した西征によって滅ぼされる。

〔18〕モンゴル帝国の合理的発想
①十進法の軍隊
10人の部下を持つ10人隊長、その隊長を10人管理する百人隊長、千人隊長とピラミッド型に軍隊を構成。
②遠方に長男を配置
末子相続の伝統があり、年長で判断力がある長男を新しい支配地に置き、末子を直接指導する体制。

〔19〕ゴール朝のマムルークのアイバク、インドのデリーにマムルーク朝を樹立
1206年にゴール朝が解体すると、インド総督だったアイバクが自立してマムルーク朝をデリーに建国。1193年にナーランダ大学、1203年にはヴィクラマシーラ大学を破壊してインド仏教を絶滅させている。
以降のハルジー朝、トゥグルク朝、サイイド朝、ローディー朝と続くが、アフガン系のローディー朝以外はトルコ系でデリー・スルタン朝と呼ばれる。

〔20〕チンギス・カアンの後はなぜか三男ウゲデイが継ぐ
1229年にモンゴル帝国を引き継いだウゲデイは1234年に金を滅ぼす。

〔21〕グユクが即位するも倒され、モンケが四代カアンとなる
1246年のクリルタイでウゲデイの息子グユクが即位するも1248年に死ぬ。

〔22〕マムルーク朝の英雄バイバルス
1260年にアイン・ジャールートの戦いでモンゴル軍を破ったバイバルスがマムルーク朝の君主になる。

〔23〕モンケから始まったモンゴルの世界暦
モンケの弟フレグは1259年にフレグウルクの首都マラーゲに天文台を造り、クビライは大都に司天台を造る。ナスィールッディーン・トゥースィーによるイル・ハン天文表や郭守敬による授時暦の作成。グレゴリオ暦は1582年で、渋川春海が授時暦を参考に北京と江戸の時差を補正した貞享暦を作成したのは1684年。

〔24〕「タタールの軛」の真実
モンゴルによるロシア支配は寛容であったという説。

〔25〕現実を熟視した英傑クビライ
1260年にクリルタイでカアんになったクビライは、モンゴル全体の支配を放棄し、中国に専念した。国際通貨である銀を循環させる経済システムの構築。

〔26〕一四世紀につながる二つの出来事、オスマン朝の成立と、フランス王と教皇の確執
1299年のオスマン朝建国kと、1300年にローマ教皇ボニファティウス八世がユダヤ教の五十年祭にヒントを得て始めた聖年という宗教的儀式が、信者に金を持たせてローマに巡礼させるものであったため、聖職者への課税禁止に対抗してローマ教会への送金を差し止めていたフランス王フィリップ四世との確執を招いた。

第4章 1301-1400 寒冷化とペストの時代
〔1〕モンゴル世界帝国は極盛期を迎える
以下の君主達。

大元ウルス:
六代テムル(在位:1294年~1307年)
七代カイシャン(在位:1307年~1311年)

フレグウルス:
七代ガザン(在位:1295年~1304年)
八代オルジェイトゥ(在位:1304年~1316年)

ジュチウルス:
ウズベク・ハン(在位:1313年~1342年)

中国では王禎が世界初の農業百科全書『農書』を作り、1313年には科挙が復活。出版事業が盛んになって『十八史略』や『貞観政要』等が出版された。

〔2〕「マルコ・ポーロと呼ばれる誰か」について
マルコ・ポーロの名は、大元ウルスの皇女をフレグウルスに嫁がせる船に乗り込んだ人間の一覧表に記載されていない。

〔3〕北インドのトゥグルク朝、デカン高原に遷都
1320年に登場したトゥグルク朝は、二代目のムハンマド・ビン・トゥグルク(在位:1325年~1351年)がインド南部支配のためにデカン高原のダウラターバードに遷都するが数年でデリーに戻る。
道路が整備されガンジス川とデカン高原を結ぶ道路が整備されるが、1336年にはヴィジャヤナガル王国にインド南部を奪われる。

〔4〕ペスト、発生す
ペストが1330年代に中央アジアに発生し、中国やインドを襲い、1347年にはクリミア半島のジェノヴァの植民都市カッファに到達した。欧州人口の三割以上を殺傷したとされる。

〔5〕大元ウルスが衰え、紅巾の乱が起きる
1351年に紅巾の乱が発生し、1368年には明が生まれる。創始者の朱元璋は、海運を支配していた張士誠と戦って勝利している。軍師の劉基を参考にして『三国志演義』が明の時代に書かれたらしい。そのため、小説中の諸葛孔明の行動に、朱元璋の学んだ朱子学の影響が付加されたとする。

〔6〕大明建国とティムールの台頭
海陸の補給路を封鎖された大元ウルスは大都を放棄してモンゴル高原に去る。東部ではチャガタイウルスの武将だったティムールが1370年にティムール朝を開き、フレグウルスを傘下に、ジュチウルスの都サライにまで攻め入った。

〔7〕モンゴル史と歴史の真実について
モンゴルが野蛮というのは明の資料によるもので、トルコ語やペルシャ語の資料では別の見方がある。

〔8〕フランス王フィリップ四世と教皇ボニファティウス八世の死闘
アナーニ事件として、1303年んい教皇ボニファティウス八世が、フランス王フィリップ四世の派遣したギョーム・ド・ノガレによって故郷のアナーニで避暑中に軟禁される。

〔9〕ヴェネツィアの繁栄とアフリカの金
1302年にヴェネツィアがマムルーク朝のアレクサンドリアに領事館を開いて交易を始める。

〔10〕教皇のアヴィニョン捕囚と一三日の金曜日
フランス王フィリップ四世が、1309年に教皇クレメンス五世をローヌ川河畔のアヴィニョンの教皇宮殿に住まわせる(1377年まで続く)。その間に選ばれた教皇は全員フランス人。
1307年10月13日の金曜日に、フィリップ四世がテンプル騎士団の幹部を逮捕して死刑にした後で、フィリップ四世と三人の嫡子全てが死去しカペー家が絶えた事から、十三日の金曜日は不吉とされるようになった。

〔11〕スイス三州がハプスブルク軍を撃破。この頃からヨーロッパは大雨に
1294年にスイス誓約同盟を結んで事実上独立したスイス三州に対して、スイス領主のハプスブルク家が攻め込むも、1315年んおモルガルテンの戦いで敗れスイスを追われる。この頃から六年間、欧州で大雨が続いたらしい。

〔12〕フィリップ四世が死去。カペー朝が終わり、ヴァロア朝が始まる
フィリップ四世が1314年に死去。フィリップ四世の弟ヴァロア伯シャルルの子が後を継いでフィリップ六世になる(ヴァロア朝)。

〔13〕モスクワ大公国の誕生とセルビアの興亡
1328年にジュチウルスのウズベク・ハンがモスクワのイヴァン一世に大公位を与え、モスクワ大公国が生まれる。
バルカン半島では、セルビアにステファン・ウロシャ四世ドゥシャン(在位:1331年~1355年)が出現し、1330年にブルガリアを撃破するとバルカン半島を制圧するが、彼の死後、急速にセルビアが弱体化する。

〔14〕イングランド王エドワード三世、百年戦争をフランスに仕掛ける
フリップ四世の娘イザベラの息子エドワード三世が、1337年からフランス王位を主張して戦争を始める。

〔15〕ペストがルネサンスのきっかけの一つになる
人が簡単に死ぬ状況で生を充実させる風潮。『デカメロン』はペストを避けた10人の男女が語る滑稽談。

〔16〕ドイツの分割固定化とハンザ同盟の成立
ルクセンブルク家のカール四世が1356年に金印勅書を発布してローマ皇帝を選ぶ手順を定めた。四世俗諸侯(プファルツ、ザクセン、ブランデンブルク、ボベミア)、三大司教(マインツ、トリーア、ケルン)の七名にローマ皇帝を選ぶ権利があるとした。

これにより七選帝侯の領土が確定し、小国家分立状態で商業が活発化した。1358年にリューベックとハンブルクが結んだ商業同盟はハンザ同盟に発展していく。

〔17〕百年戦争はフランスが巻き返す。「税金の父」登場
1364年に王位についたシャルル五世の巻き返し。税制改革によって人頭税、消費税、塩税を柱として財政基盤を築き、税金の父と呼ばれる。

〔18〕オスマン朝にイェニチェリ誕生
オスマン帝国は1363年にアドリアノープルに遷都し、騎馬には不利なバルカン半島で歩兵を育成するために少年を集めて歩兵にするイェニチェリを始める(事務官僚養成はカプクル)。

イラン西北部では黒羊朝(1375年建国)、トルコ東部では白羊朝(1378年建国)が生まれる。

〔19〕ハンザ同盟、魚の塩漬けでバルト海の覇権を握る
ノルウェーのベルゲンから鱈、鰊を手に入れ、北ドイツのリューベックに運び、リューネブルクの岩塩で塩漬けにして欧州全域に販売した。魚の塩漬けはハンザ同盟の独占商品で、内陸部で海魚が食べられる事は画期的だった。

対抗するために、デンマークは1397年にノルウェー、スウェーデンと連携しカルマル同盟を結ぶ。

〔20〕アヴィニョン捕囚は終わるが、小シスマ(分裂)が始まる
1377年のグレゴリウス一一世ローマ帰還後も、アヴィニョン枢機卿団を中心にローマ行きを拒否する人々が独自の教皇を擁立し、二人の教皇がいる状態が30年~40年続いた。

〔21〕インドランドでワット・タイラーの乱、「人民の、人民による、人民のための統治」
1381年にイングランドでワット・タイラーの乱が発生。「人民の、人民による、人民のための統治」という言葉を神学者ウィクリフが聖書の序文に書いてオックスフォード大学を追われ、1414年のコンスタンツ公会議で異端とされた。

〔22〕ヤギェウォ朝、ドイツ騎士団に大勝する
1385年にポーランド女王ヤドヴィガとリトアニア大公ヤギェウォの婚姻が約され(クレヴォの合同)、ヤギェウォ朝が誕生し、1410年にタンネンベルクでドイツ騎士団に勝利した。

〔23〕急伸するオスマン朝、対抗馬はティムール朝
イェニチェリによって膨張するオスマン朝と、1398年にデリーを落としたティムールの対立。

〔24〕大明暗黒政権
「文字の獄」として南京を中心にインテリを十数万人虐殺、他に鎖国政策等。

「全世界史」講義 Ⅱ 近世・近現代篇



第4部 第五千年紀前半 = 1001-1500
クアトロチャントとは、イタリア語で「一四00年代の世紀」という意味。十五世紀はイタリア栄光の世紀で、ルネサンスはその象徴。

第5章 1401-1500 クアトロチェント
〔1〕ティムールの死と永楽帝の即位
1405年にティムールが69歳で死亡。明の三代皇帝 永楽帝は1402年に即位。

〔2〕クビライへのライバル心から鄭和の大艦隊が生まれた
永楽帝は朱元璋の四男で北平の守備に就いていた。長兄の嫡子である建文帝から皇位を簒奪した意識から、同じく簒奪者と言えるクビライを意識し、交易を禁止した明において元のような交易を行うため、朝貢貿易のために鄭和の大艦隊を組織したのかもしれない。

永楽帝は1408年に『永楽大典』を完成させたが、永楽帝が簒奪者である文脈は抹消された。1415年には四書五経の注釈書である『四書大全』と『五経大全』を編集させている。

1406年に死去したイブン・ハルドゥーンが『歴史序説』において「アサビーヤ(集団における連帯意識)」が歴史を動かすとして客観的な網羅を重視したのとは違うかもしれない。

〔3〕ティムール朝の動静がユーラシアに影響を与えた
ティムールの死後、四男のシャー・ルフ(在位:1409年~1447年)が明やオスマン朝と平和条約を交わし、サマルカンドからアフガニスタンのヘラートに遷都する。彼の死後、次のウルグ・ベクが二年で暗殺され、ティムール朝はサマルカンドとヘラートの二つの政権に分かれる。

〔4〕オイラトのエセン、土木の変で明の英宗を捕虜とする
1449年に明の英宗がモンゴル系遊牧民オイラトに大敗し捕虜になる。弟の景泰帝が即位するも、1450年に英宗は明に帰還し、1457年に景泰帝が病死すると天順帝として再度即位した。

〔5〕騎馬軍団、歩兵と鉄砲に完敗
インドでは1451年にアフガン族のバフルール・ローディーがデリーを中心にローディー朝を建国し、デカン高原のバフマニー朝(1347年~1527年)、南部のヴィジャヤナガル王国と三つ巴になる。

この頃から鉄砲の騎馬に対する優位が確立し始める(1473年にアナトリア半島のバシュケントの戦いでオスマン朝がアクコユルン朝に勝利)。

〔6〕鄭和の大船団が万里の長城に化ける
二万八千人が六十隻の船に乗る鄭和艦隊を整理し、万里の長城を整備した。

〔7〕ハンガリー王ジギスムント、ローマ皇帝戴冠。シスマを解決するが、フス戦争で敗北
1410年にローマ皇帝になったジギスムントは、1414年のコンスタンツ公会議で小シスマを解決。コンスタンツ公会議ではウィクリフ(オックスフォード大学神学者)とフス(プラハ大学教授)を火刑にするが、1419年にボヘミア王になった事でフス派の人々が蜂起した。

〔8〕百年戦争が再開される
1415年に百年戦争がイングランドのヘンリー五世(1388年~1422年)によって再開される。ヘンリー五世はフランス語が話せない最初のイングランド王で、1420年にトロワ条約をフランスと結んだ二年後に死亡し、生後一年に満たないヘンリー六世がフランス王及びイングランド王になる。
フランスの王太子シャルルはランスで戴冠しイングランドと戦争を続ける。

〔9〕エンリケ航海王子のアフリカ西海岸探検が始まった
15世紀前半のエンリケ航海王子の話。

〔10〕メディチ家のコジモがフィレンツェに帰ってきた
フィレンツェの政争に敗れたコジモが1434年に帰還。

〔11〕ローマ帝国の滅亡、百年戦争終結後、ローディの和
1453年にコンスタンティノープル陥落と百年戦争終結。1454年にはコジモによって「ローディの和」が提唱され、40年近くイタリアに平和な時代が訪れる。

〔12〕イングランドは薔薇戦争へ
ランカスター家(エドワード三世の四男を祖とする)とヨーク家(エドワード三世の五男を祖とする)の間に1455年~1485年まで内乱が興る。ランカスター家と遠縁のヘンリー・テューダー(ヘンリー七世)が勝利しテューダー朝が始まる。
戦争によって古い貴族が没落して王権が強化された。

〔13〕「世界の蜘蛛」ルイ一一世とシャルル突進公、そしてハプスブルク家の幸運
ルイ一一世(在位:1461年~1483年)は、ブルゴーニュ公国シャルルを唆してスイスと戦争をさせて、シャルルが戦死後にブルゴーニュを取り上げる。
シャルルの一人娘マリーはローマ皇帝フリードリヒ三世の子マクリミリアン一世と結婚し、フランドル地方がハプスブルク家の領土になる。戦争無しで領土を広げるハプスブルク家の幸運。

〔14〕メディチ家はロレンツィオが当主に、イタリア・ルネサンスが全面開花
1469年に20歳でメディチ家当主となったロレンツィオの時代はルネサンスの全盛期。

〔15〕スペインの誕生と異端審問所の開設
スペインの単一中央集権化は1707年。十五世紀はレコンキスタの過程で異端審問が盛んだった。

〔16〕一四九二年に起きた時代を特徴付ける出来事
1492年にアンダルスのイスラム国家ナスル朝が滅びレコンキスタが完成した。そしてコロンブスがバハマ諸島に上陸。イタリアではロレンツィオが亡くなる。ローマ教皇にボルジア家のアレクサンデル六世が就任。

〔17〕ロレンツィオの長男ピエロの失政と、修道院長サヴォナローラの神権政治
1494年にフランス王シャルル八世がナポリ王国継承権を主張して第一次イタリア戦争が始まる。交渉に出向いたピエロはフィレンツェ市民によって追放され、サンマルコ修道院長サヴォナローラが指導者になる。彼の政治は四年で終わり、1498年に共和政に戻る。

〔18〕アレクサンデル六世の政治と、大西洋を分割したトリデンシリャス条約
アレクサンデル六世は、ドイツ、スペイン、ミラノ、ヴェネツィアと神聖同盟を結んでナポリ王として戴冠されたシャルル八世に対抗し、フランス軍は引き上げる。
1499年に次のルイ一二世は第二次イタリア戦争を始め、1500年にミラノを占領するがナポリ再征服は出来なかった。

アレクサンデル六世は1494年にはトルデシリャス条約を仲介し、ブラジルはポルトガルに、その他の新大陸はスペインに帰属する事にした。

〔19〕ドイツで「神聖ローマ皇帝」の名称が多用され始める
1508年にマクリミリアンはドイツ王に選ばれた者は自動的にローマ皇帝になると宣言。1512年には国名も「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」となる。

〔20〕イタリック体(活字)の誕生、アメリゴ、ヴェスプッチの新大陸探検
活版印刷のためにイタリック体という読み易い活字が生まれる。1497年に新大陸を探検したアメリゴ・ヴェスプッチは、1503年の『身新大陸』で新大陸がインドでない事を立証した。1507年にドイツの地理学者ヴァルトゼーミュラーは新大陸をアメリカと命名。

〔21〕イタリアの世紀の終焉とメディチ家の最後
大西洋航路の発展によってイタリアは衰えていく。メディチ家は1737年に男子が全員死に絶えて滅ぶ。

第5部 第五千年紀後半 = 1501-2000
第1章 1501-1600 アジアの四大帝国と宗教改革、
           そして新大陸の時代

十五世紀末の印刷産業発展から、十六世紀から文献の量が飛躍的に増加する。

〔1〕サファヴィー朝のイスマーイール、髑髏杯で酒を飲む
1500年にジュチ・ウルスのウズベク・ハンの末裔を自称するシャイバーニー・ハンがサマルカンドを占領し、1507年にはヘラートも落城させてティムール朝を滅ぼす。ティムール朝のバーブルはアフガニスタンのカブールに拠点を移した。

ペルシャでは、サファヴィー教団(シーア派の一派である十二イマーム派)のイスマーイール一世がアクコユンル朝WP破って、1501年にタブリーズに入城。

1510年のメルヴの戦いでシャイバーニー・ハンとイスマーイール一世が戦い、イスマーイール一世が勝利し、シャイバーニー・ハンの髑髏は酒杯になった。

〔2〕オスマン朝によってヨーロッパという地域概念が生まれる
1514年のチャルディラーンの戦いで、オスマン朝のセリム一世と、サファヴィー朝のイスマーイール一世が戦い、オスマン朝の鉄砲隊が勝利。
オスマン朝は1529年に第一次ウィーン包囲を行い、対抗するために1569年にはポーランドとリトアニアが一つの国になる。

〔3〕ムガール朝のインフラをつくったスール朝
1539年にアフガン系のシェール・シャーがムガール朝のフマーユーンを倒してスール朝を建てる。六年の在位でガンジス川流域を整備し、北インドを47州に分けて官僚制度を整理し、ルピー銀貨を発行した。フマユーンはサファヴィー朝の援助によって1555年にムガール朝を再興。

1539年にはシク教を創始したグル・ナーナクが死去。

〔4〕明が北虜南倭に苦しんだ時代、日本では石見銀山が発見され、鉄砲が伝わり、ザビエルがやってきた
1526年に石見銀山(島根県)が大内氏によって本格的に開発され、1533年には灰吹法が導入される。十六世紀後半から十七世紀初頭の世界銀産出量の三割は石見産とされる。

<ダライ・ラマ>
1538年に北元の序列二位となったアルタンが、1578年に遠征先の青海で、チベット仏教のスーナム・ギャッツォにダライ・ラマ三世の称号を与える。一世と二世は追贈。

アルタンは1550年に北京を包囲し、1555年には倭寇が南京を略奪、1557年にはマカオのポルトガル人に居住を認めた。明の徐階は1552年に登場し、それまで五年に一回だった朝貢貿易を止め、互いに市場を開いて交易する方法を始めた(互市)。

〔5〕共通点の多い同時代人、アクバルと織田信長
以下の共通点。

①恵まれない少年時代
アクバルはフマーユーンの亡命中、幾度も捕虜になった
②新しい政策
楽市楽座や宗教への寛容
③新首都
ファテープル・シークリーと安土城

〔6〕明の少年皇帝と張居正の政治改革
1572年に万暦帝が即位し、張居正が内閣大学士として改革を始めた。

①丈量
土地の測量をして隠し田を摘発
②一条鞭法
土地に課税し銀納とした

当時は徐階が海禁を行った影響で中国に銀が流入していた。

〔7〕文禄の役(壬辰倭乱)と慶長の駅(丁酉倭乱)
1592年に文禄の役、1597年の慶長の役。

〔8〕好戦的なローマ教皇ユリウス二世
1502年に登極したユリウス二世は、スイス傭兵を導入し、ヴェネツィアに対抗するカンブレー同盟を1507年に結ぶ。その後、フランスに対抗する神聖同盟も結ぶ。

〔9〕メディチ家出身のローマ教皇により後期ルネサンスが開花した
1513年にローマ教皇になったレオ一0世は、ミケランジェロやラファエロを登用した。

〔10〕贖宥状の販売と宗教改革の始まり
サン・ピエトロ大聖堂の建設資金を確保するため等から、1515年からドイツで贖宥状が販売される。1517年にはマルティン・ルターが「贖宥状に対する九五カ条の論題」を公表。

〔11〕その後のメディチ家。フィレンツェのコジモ一世とフランスに嫁いだカトリーヌ
1533年にフランソワ一世の次男アンリに嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスが一人用の椅子に座り、素手でなくナイフとフォークを使う食事を伝える。

〔12〕恋に病んだスペインの女王とカール五世
ローマ皇帝マクシミリアン一世(1493年~1519年)の息子フィリップはカスティージャ女王の娘フアナと結婚するも夫の死後、奇行が増えたとする。

〔13〕ポルトガルが東方への交易ルートを制圧 スペインはアステカ帝国、次いでインカ帝国を滅ぼす
1509年にポルトガルがインド西海岸にあるディーワ沖の海戦でマムルーク朝、オスマン朝の連合艦隊に勝利し、1510年にはゴアを占領。スペインは1522年にアステカ帝国、1532年にインカ帝国を滅ぼす。

〔14〕スウェーデンで起きた大虐殺
スウェーデン独立運動に立腹したデンマーク王クリスチャン二世は、1520年にスウェーデンの貴族を殺す(ストックホルムの血浴)。虐殺を逃れたグスタフ・ヴァーサが1523年にヴァーサ朝を開き、デンマーク・ノルウェーの同君連合が1814年まで続く。

〔15〕カール五世とフランソワ一世の戦い、プロテスタント諸侯の動向
婚姻政策成功により、北東のフランドル、ドイツ、南のスペインとハプスブルク家に取り囲まれたフランスの対立。

〔16〕イエズス会とイングランド国教会の誕生
1534年に結成されたイエズス会はプロテスタントに対抗する意味があり、同年にはイングランド国教会が創設される。ヘンリー八世は国王至上法によって英国内の修道院を潰した。

〔17〕カルヴァン、スイスで宗教改革
1534年にジャン・カルヴァンが『キリスト教綱領』を発刊し予定説を主張。1541年からジュネーヴで神権政治を展開し20年続いた。

〔18〕オスマン朝がフランスにカピチュレーションを与える。不平等条約の始まり
フランソワ一世はスレイマン一世と結び、1536年にはカピチュレーション(外交上の特権:領事裁判権や通商・居住の自由、租税免除等)を与えられる。

〔19〕スペインの悪政、エンコミエンダ政
1503年に始まったエンコミエンダ政とは、コンキスタドールに先住民を信託する仕組み。1542年のインディアス新法で段階的に廃止された。

〔20〕プロテスタントの攻勢のなかで退任したカール五世
1545年のトリエント公会議は1563年まで続き、プロテスタントに対抗し、ローマ教会は少し質素になった。プロテスタントは流行し、1555年のアウグルブルク帝国会議で、ドイツ諸侯が自領でルター派を信仰する事が認められる。カール五世は1556年に退位し、二年後に死去。
死後、長男のフェリペはスペイン・ハプスブルク家のフェリペ二世となり、弟のフェルディナント一世はオーストリア・ハプスブルク家の祖となった。

〔21〕リヴォニア戦争とロシアの苦境
1558年~1583年のリヴォニア戦争にて、バルト海の良港を求めてラトビアを巡ってポーランド・リトアニア、スウェーデンと戦ったロシアのイヴァン四世は敗れた。
1582年にはコサック小隊のイェルマークがリビス・カン国を攻略し、その地がシベリアと呼ばれるようになる。

〔22〕ユグノー戦争と三アンリの戦い
1562年からフランスでは計八次のユグノー戦争が始まる。
1572年8月4日のサン・バルテルミの虐殺は、①シャルル九世の弟アンリ三世、②ローマ教会派の指導者ギーズ公アンリ、③ユグノー派の指導者ブルボン家のナバラ王アンリの戦いとされる。

ギーズ公アンリ、フランス王アンリが暗殺されてヴァオア朝が絶え、ユグノー派のアンリが即位してブルボン朝のアンリ四世となる。

〔23〕スペイン、没落へ。フェリペ二世と血の純潔規定
コンベルソ(ユダヤ教からの改宗者)、モリスコ(イスラム教からの改宗者)を追放した事でスペインは没落。血の純潔規定は1808年にスペインを占領したナポレオンが廃止するまで続く。

〔24〕アンリ四世、ナントの勅令を出してフランスの宗教戦争を終らせる
アンリ四世はローマ教会に改宗し、1598年にナントの勅令でプロテスタントにローマ教会と同じ権利を認める。

第2章 1601-1700 アジアの四大帝国が極大化、
            ヨーロッパにはルイ一四世が君臨

ローマ教会とプロテスタントの戦いでは、プロテスタントは自分で聖書を読める事が前提にあり、戦う度にローマ教会派が弱くなった。

〔1〕世界初の株式会社、東インド会社の誕生
ネーデルランドが1602年に東インド会社設立。スペインに対抗してポルトガルのインド洋利権を奪う狙い。1619年にはジャカルタのバタヴィアが本拠地になる。

〔2〕三十年戦争前夜
1605年に『ドン・キホーテ』が出版、1630年ンはティルソ・デ・モリーナが『セビージャの色事師(主人公ドン・ファン)』を書き、同じ頃にはシェイクスピアのハムレットが上演された。
1581年に独立宣言したネーデルラントとスペインの戦争は1609年の停戦協定で事実上は独立が承認された。

〔3〕ドイツで三十年戦争が始まる
1617年にボヘミア王になったフェルディナント二世によるプロテスタント弾圧から三十年戦争が始まる。

〔4〕三十年戦争にデンマーク介入、第二幕へ
クリスチャン四世(在位:1588年~1648年)は、1623年にオスロ西部で発見した銀鉱を財源としてコペンハーゲンの市街地を整える等して、1625年にドイツに侵入するも敗れる。

〔5〕三十年戦争、第三幕へ。スウェーデンの介入の裏にフランス宰相リシュリュー
1611年に即位したグスタフ二世が1630年にドイツに侵入。1635年にはフランスが参戦。

〔6〕ローマの反宗教改革とジャンセニスム
1640年に出版されたネーデルラントの神学者コルネリウス・ヤンセンの遺作『アウグスティヌス』はヤンセン主義(ジャンセニスム)として人間本性の罪深さを説いてパスカルやラシーヌに受け継がれた。
ローマ教会派1713年に教皇クレメンス一一世によってジャンセニスムを禁止している。予定説は教会の権威を重んじるローマ教会に嫌悪された。

〔7〕三十年戦争の終幕と神聖ローマ帝国の死亡診断書
1648年のヴェストファーレン条約によってフランスがアルザス・ロレーヌ地方、スウェーデンもドイツに領土を得て、ネーデルラントとスイスが正式に独立し、カルヴァン派も承認された。

〔8〕三王国戦争(清教徒革命)でイングランド共和国が誕生
1642年にチャールズ一世が議会と戦い始め、五年後に議会が勝利する。1648年にチャールズ一世が脱走して内乱になるが議会側に敗北。制限選挙による民主制を主張する独立派が勝利。

〔9〕サファヴィー朝とムガール朝の極盛期
サファヴィー朝のアッバース一世(在位:1588年~1629年)は1598年に首都をイラン中央部のイスファハーンに移し、アルメニア商人等を集めて交易し、世界の半分と形容されるほど栄えた。
ムガール朝では、1628年に即位したシャー・ジャハーンがタージ・マハルを建設。

〔10〕ヌルハチ、清の前身となる後金を建国 日本では関ケ原の戦いと大阪夏の陣
1583年に建国された満州国では、八旗制(300人をニルとし、五ニルをジャラン、五ジャランをグサとして八つのグサを編成)を基礎とする軍事力で1616年に後金を建国して明からの独立を宣言。

〔11〕ホンタイジ、国号と後金から清へ。四重帝国という特異な帝国
1626年に即位したホンタイジが、1636年に国名を清とする。

1637年に島原の乱を経験した日本では、宗門改という制度を設け、全国の住民を檀家制度によって寺院に結び付け、毎年一回、自分がキリスタンでない事を自己申告させた。その代わり、檀家となった地域住民の冠婚葬祭は全て寺院が行い、日本の仏教は葬式仏教になった。

〔12〕明が滅亡し、清の順治帝が中国を統一
1644年に明が滅亡し、清が中国を支配。1661年に八歳で即位した康熙帝はホンタイジの妃であった孝荘文皇后の補佐によって名君となっていく。

〔13〕クロムウェルの航海条例でイングランド・ネーデルランド戦争が勃発
1651年の航海条例でイングランドに外国船を入れない事に反発したネーデルラントとの戦争(1652年~1654年)。

〔14〕ポーランド・リトアニアの受難、東ヨーロッパの覇権はロシアに
1648年にポーランド・リトアニアの支配下にあったウクライナでコッサクが反乱を起こし、ヘーチマン(頭領)国家として自治権を得て、1653年にはロシアに保護国化される。スウェーデンのカール一0世は1655年にポーランドに侵入。
1667年に戦争は終わるが、ポーランド・リトアニアはウクライナの半分を失い、プロイセン公国の独立を認めた。

〔15〕イングランドとネーデルランド、第二次戦争へ
航海条例改正によるネーデルラント商船排除を行った事で、1665年~1667年に戦争が起こる。

〔16〕ルイ一四世が親政開始。イングランドとフランスが組んで第三次ネーデルランド戦争へ
1661年に枢機卿マザランが死去してルイ一四世の親政が始まる。1670年にイングランドとドーバーの密約を結び、1672年からオランダと戦争を始め、イングランドとの戦争は1677年に王弟ヨーク公の娘メアリーとオラニエ公ウィレム三世が結婚する事で終結し、フランスとは1678年のナイメーヘンの和約でネーデルラントの全領土を保全する事で終結。

〔17〕ロシアのピョートル一世即位とオスマン朝の第二次ウィーン包囲
1682年に即位したピュートル一世は1694年に親政を開始。

〔18〕名誉革命でイングランドとネーデルランドが同君連合に
オラニエ公ウィレム三世(ウィリアム三世)とメアリー二世は1688年にイングランドの共治主になるが、アムステルダムからロンドンに富豪や銀行家が移動する契機になった。

〔19〕ルイ一四世のプファルツ戦争(大同盟戦争)により第二次英仏百年戦争が始まる
1688年にルイ一四世は、ドイツのプファルツ選帝侯の継承権が弟のオルレアン公フィリップの妃エリザベート・シャルロットにあると主張して大同盟戦争が始まる。

戦争に備えるために1693年にイングランドは国債制度を導入し、1694年にはイングランド銀行を設立。国債市場によってアムステルダムの銀行家はますますロンドンに集まった。

〔20〕アウラングゼーブ、ムガール帝国を拡大
1658年に即位したアフラングゼーブは、デカン高原の制圧により大帝国を作ろうとする。

〔21〕清の康熙帝の親政
1669年に親政を開始した康熙帝は三藩の乱(1673年~1681年)を平定して中国を完全に支配した。

〔22〕一七〇〇念の世界
当時の世界GDPシェアは、清22.3%、ムガール朝等のインド24.4%、オスマン朝8.3%、サファヴィー朝6.5%、フランス5.7%、イタリア3.9%、ドイツ3.6%、スペイン3.6%、ロシア3.1%、英国2.9%、ネーデルラント1.1%、日本4.1%。

第3章 1701-1800 産業革命とフランス革命の世紀
理性を重視した設計図を描く革命に対して、エドマンド・バークやトクヴィルに代表される過去に信を置く近代保守主義の成立。

〔1〕大北方戦争。カール一二世の転戦
1707年のナルヴァの戦いでロシア軍に勝利したカール一二世は、1709年のポルタヴァの戦いで敗れてオスマン朝に逃れる。オスマン朝のアフメト三世は1710年にロシアに宣戦布告し1711年のプルート川で勝利するも、1696年に占領されたアゾフを返還される事で和議を結ぶ。

〔2〕スペイン継承戦争とプロイセン王国の誕生
1700年にスペイン王カルロス二世が死去し、ルイ一四世の孫であるフェリペ五世が即位してスペイン・ブルボン朝が始まる。イングランドはスペイン王位継承に反対してオーストリア・ハプスブルク家と結んでフランス、スペインと戦争を開始する。

神聖ローマ皇帝レオポルト一世は、ブランデンブルク選帝侯(兼プロイセン公)にスペイン継承戦争に援軍を派遣する代償にプロイセン王位を約束し、1701年にはプロイセンでホーエンツォレルン家のフリードリヒ一世が戴冠してプロイセン王国が始まる。

〔3〕ドイツ人の王が君臨し、議会が統治するグレートブリテン
1714年にアン女王が死去してステュアート朝は断絶。ジョージ一世がハノーファーの選帝侯兼グレートブリテン王となり、現代に繋がるハノーファー朝の祖となる。

〔4〕バルト帝国からロシア帝国へ。イタリアにサルデーニャ王国が成立
1721年のロシアとのニスタット条約でスウェーデンは海外領土を全て失い、バルト三国はロシア配下となる。

1720年にサヴァイア公ヴィットーリオ・アメデーオ二世は、神聖ローマ皇帝カール六世と交渉してシチリア島をサルデーニャ島と交換。

〔5〕オスマン朝のチューリップ時代
1718年のオーストリアとのパッサロヴィッツ条約でセルビア北部、ボスニア北部を失ったオスマン朝アフメト三世はイブラヒム・パシャの献策で政情を好転させる。

〔6〕アウラングゼープの治世にムガール朝はガタガタに
1707年に死去したアウラングゼーブの後に、次男の四人の子供による帝位継承戦争が発生し帝国は混乱する。

〔7〕清は名君、雍正帝の時代を迎える
1722年に康熙帝が亡くなり、四男の雍正帝が即位。

奏摺(地方長との定期的な報告書のやり取り)によって1200人分の仕事を確認したとされる。太子密建の法によって皇太子を秘密にした。

1724年にはチベットを二分し、ダライ・ラマの政府(ガンデンポタン)に南西部を委ねた。

〔8〕雍正帝、人頭税を土地税へ変革
1726年に地丁銀制(土地税である地銀と人頭税である丁銀の一括銀納)を廃止し、地銀制に変革。それによって丁銀逃れのために隠れていた人々が表面に出て来た(1741年の人口調査では1億4341万1559人、1750年の世界人口は約7億2000万人)。

1729年には少人数による常務会である軍機処を設けてジュンガル部に大公。

〔9〕サファヴィー朝の滅亡と「最後の征服者」ナーディル・シャー
1721年にペルシャのサファヴィー朝はアフガニスタンのホターキー朝にイスファハーンを占領され、太子のタフマースブ二世がガズヴィーンで即位。ホラーサーンのクズルバシュ、アフシャール族のナーディル・シャーの援護で1729年にイスファハーンを奪還。

ナーディル・シャーは1736年に自分が皇帝になってアフシャール朝を開く。1739年にはデリーを占領し、1741年にはオマーンを占領。しかし、1747年に暗殺され、アフシャール朝は衰退する。

〔10〕各国利害の縮図、ポーランド継承戦争
1733年にポーランド・リトアニア王アフグスト二世が死去すると、フランスが援助するスタニスワフ・レシチニスキとロスアが援助するアウグスト三世の間で線s脳があ興る。1735年に領土が再編され、ポーランド王はザクセン選帝侯アウグスト三世になる。

〔11〕オーストリア継承戦争が始まる
1740年にマリア・テレジアが即位した事でオーストリア継承戦争が始まる。

〔12〕マリア・テレジアの外交革命と七年戦争
1756年にオーストリアとフランsヌがヴェルサイユ条約を結び、同年に七年戦争が始まる。

〔13〕七年戦争が終結、マリア・テレジアとフランスが失ったもの
マリア・テレジアの外交革命は、ドイツの盟主の座がハプスブルク家からプロイセンのホーエンツォレルン家に代わる契機になった。フランスのルイ一四世は、ライン川が自然国境として間断無くドイツ領内への侵略を続けており、シレジアを取り戻すためにブルボン家と結ぶ事にドイツ諸侯は感情的に反発した。

フランスはインドや新大陸の権利の多くを失った。

〔14〕なぜ産業革命が起きたのか
産業革命はインドの真似から始まった。

インドの国内総生産の大きさは綿織物生産によっており、英国は技術革新によってインドの市場を奪った。貧しくなったインドは商品作物(茶、コーヒー、ジュート、ゴム、阿片等)を生産して食糧生産が減少し自給自足が崩壊した。

〔15〕中華帝国の最後の輝き、乾隆帝の時代
乾隆帝(在位:1735年~1795年)は、1755年に遊牧国家ジュンガルを滅ぼして清の領土は最大になった。1763年の人口調査では人口が二億人を超える。

〔16〕東インド会社、インド支配を強める
1765年のアラーハーバード条約で、東インド会社はカルカッタを含む三つの州、ベンガル、ビハール、オリッサの徴税権を手にした。そして、1767年~1799年の四度の戦争で南インドのマイソール王国を滅ぼし、1775年~1818年の三度の戦争でデカン高原のマラーター同盟を破った。

〔17〕乾隆帝の時代が終幕へ
1790年に三億人を超えた中国では人口爆発が始まる。

〔18〕エカチェリーナの攻勢。オスマン朝の自浄作用とポーランド・リトアニアの消滅
ロシアはオスマン朝との1774年のキュチュク・カイナルジャ条約によって黒海の自由航行権を獲得し、黒海北岸の領土を得る。1792年のヤッシー条約でクリミア半島を失ったオスマン朝のセリム三世は新式軍隊を導入しようとする。

1795年のロシア、プロイセン、オーストリアの第三次ポーランド分割でポーランドは滅亡(第一次は1772年、第二次は1793年)。

〔19〕アメリカの独立
1783年にアメリカ独立がパリ講和条約で認められる。フランスとの戦争による戦費を新大陸からの税金で穴埋めしようとした事に対する反発。

〔20〕フランス革命
ルイ十四世の時代からの第二字英仏百年戦争により、ルイ十六世治下では財政赤字が税収の九倍を超える。事態を打開するための増税が革命を引き起こす。

第4章 1801-1900 ヨーロッパが初めて世界の覇権を握る
〔1〕皇帝ナポレオン
以下の事績。

・ローマ教会との関係修復
1801年にローマ教会と政教条約を結んで国内の宗教対立を緩和。

・フランス民法典
1804年にフランス民法典を公布し、同年には皇帝になる。神聖ローマ皇帝フランツ二世が神聖ローマ皇帝の称号を放棄してオーストリア皇帝として即位したのもこの年。皇帝が一人であってこそローマ皇帝を名乗れる。

・エジプト遠征
1798年に行ったエジプト遠征後、オスマン朝に派遣されたムハンマド・アリーが1805年にエジプト総督になり事実上は独立する。

ナポレオンは欧州中に自由・平等・友愛の思想を振り撒いた。

〔2〕会議は踊る。ウィーン会議とタレーランの手腕
1814年のウィーン会議で、タレーランが正統主義を主張し、元の体制に戻す事を主張。敗戦国のフランスは元の領土をほとんど失う事無く欧州の国境が元に戻る。

〔3〕ウィーン体制という反動
共和国の存在が否定され、1815年にロシア、プロイセン、オーストリアで結ばれた神聖同盟ではキリスト教精神に基づいて自由主義を抑圧した。

〔4〕シモン・ボリバルによるラテンアメリカ独立運動とアメリカのモンロー宣言
1816年にアルゼンチンが独立すると、1818年にはチリ、1819年には大コロンビアが独立。1820年にはスペイン本国でリエゴ革命が起こり、国民主権を定めた1812年憲法が復活する。
1823年には米国のモンロー宣言による新旧大陸相互不干渉が主張される。

〔5〕アジアの黄昏、仕掛け人は連合王国
1819年に英国はマラッカ海峡の要衝シンガポールを獲得し、ネーデルラントとの力関係が入れ替わる。1770年代から東インド会社がベンガル地方で栽培したアヘンによって、1827年から清との貿易収支が逆転する。

〔6〕アヘン戦争と南京条約
1840年のアヘン戦争後、1842年の南京条約で自由貿易が認められる。アヘン輸入は1888年にピークを迎える。

〔7〕連合王国の巧みな侵略戦争
1845年に東インド会社はパンジャブ地方のシク王国(1801年~1849年)と開戦し、インドのほとんどを領有するに至る。英国は複数回に分けて戦うのが普通で、最初の戦いで有利な平和条約を結び、その後で分断工作を行い、内紛に乗じて次の戦争を仕掛ける。

〔8〕革命の余波と反動の嵐が、ヨーロッパでせめぎ合う
1829年のアドリアノープル条約でギリシャの独立が承認され、1830年にはフランスで七月革命が起こる。選挙権の縮小を命じる七月勅令が原因で、ブルボン家のシャルル一0世は英国へ亡命し、オルレアン家のルイ・フィリップが新しい王となり立憲君主制に移行。

〔9〕労働者階級の台頭と共産党宣言
1837年にヴィクトリア女王が即位し、サリカ法典によって女性の継承権を認めないハノーファーとの同君連合が終わる。

1847年にはロンドンで共産主義者同盟が作られ、1848年には共産党宣言が出される。

〔10〕一八四八年のヨーロッパ革命。ウィーン体制の終焉とルイ・ナポレオンの登場
1848年に二月革命が起きて第二共和制が成立。ドイツやオーストリアでも三月革命が発生して君主の権利が削られる。

〔11〕太平天国の乱と日本の開国。アメリカが日本に求めたこと
1843年~1864年の太平天国の乱は八旗軍でなく、志願兵によって鎮圧される。

太平天国が南京を落とした1853年には浦賀にペリーが来航し、米中交易のための中継地とする。

〔12〕連合王国の横暴。第二次アヘン戦争とインド第一次独立戦争(インド大叛乱)
1856年~1860年のアロー号戦争では、清に中国人の海外渡航を認めさせ、東南アジアでの港湾や都市建設の労働力とする。

1857年のパリ条約ではガージャール朝にヘラートとアフガニスタンの主権を放棄させて関税自主権も取り上げた。1857年のセポイの乱の後はインド統治法によって連合王国領のインド帝国が誕生。

〔13〕明治維新とは何だったのか
織田信長の時代に世界シェア4%~5%だったが、鎖国の間に半減した日本のGDP(1870年時点で2.3%)を取り戻す運動?

〔14〕クリミア戦争とイタリアの誕生
1853年~1856年のクリミア戦争で、ジャーナリズムに煽られた世論が戦争を引き起こし、鉄道が勝敗を決した事から近代戦の幕あけと言われる。

サルデーニャ王国のカヴールはイタリア統一に英仏の支援を取り付けるべく出兵したとされる。

1859年にサルデーニャは、オーストリアからロンバルディア(ヴェネツィア、ミラノ含む)を奪還するためにイタリア統一戦争を起こす。プロンビエールの密約で、フランスに援助と引き換えにサヴァイアとニースを割譲する事を約束。

2866年の普墺戦争ではヴェネツィアを獲得し、1870年の普仏戦争ではローマを占領して教皇領を併合。

〔15〕南北戦争とメキシコの英雄
1861年にメキシコ大統領となったベニート・ファレスに対して英・仏・西が戦争を仕掛けるが、1865年に米国がモンロー宣言を盾にフランスに撤兵を呼び掛け、1867年にフランス軍は撤退する。

〔16〕宰相ビスマルクによるドイツの統一
1866年の普墺戦争、1870年の普仏戦争によるドイツ統一。

〔17〕ロシアの野望を挫くビスマルクの調整能力
ロシアは1868年頃から中央アジアのトルコ系遊牧民の国ブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国等を征服していき、タシケントにトルキスタン総督府を置いて軍政を敷いた。初代総督カウフマンは中央アジア近代化の父と言われる。

1878年のサン・ステファノ条約ではロシアのバルカン半島南下政策に資するルーマニア、セルビア、モンテネグロ独立や大ブルガリア建設等を承認させるも、英国が反発したたため、同年のベルリン条約によるビルマルクの仲介で大ブルガリア構想は否定される。

〔18〕ビスマルク体制と呼ばれた時代
ビスマルクはベルリン条約に不満を持つロシアに配慮し、1881年に即位したアレクサンドル三世とオーストリアを含めた三帝協商を締結。さらに1882年にはドイツ、オーストリア、イタリアで三国同盟を締結。

1885年には中部アフリカに関する権益の確定と植民地分割の原則確認の議定書を主要列強14ヵ国で結ぶ。

〔19〕ビスマルクの解任と仏露の接近
ビスマルクの戦略目標は、フランスの孤立化、英国と敵対しない、ロシアを封じ込めつつ味方にする事。しかし、1890年にヴィルヘルム二世がビスマルクを解任すると、新航路政策によってロシアとの再保障条約の不更新を通告。

1894年に露仏同盟が結ばれ、ドイツは東西から挟まれる事になる。

〔20〕ドレフュス事件とシオニズム
1894年にユダヤ人のフランス大尉ドレフュスがスパイ容疑で流刑になるも最終的に無罪になる。ユダヤ人に対する偏見が克服出来ない事から、新聞記者テオドール・ヘルツルはシオニズムを提唱。

〔21〕ボーア戦争が始まる
1880年にケープ植民地トランスヴァール共和国との間で戦争が始まる。1902年に英国がトランスヴァール共和国とオレンジ共和国を吸収。

〔22〕近代化へ歩み始めた日本
明治維新後の近代化施策。

1868年の神仏分離令後は、廃仏毀釈として寺院の打ち壊しが10年ほど盛んに行われた。

〔23〕日清戦争と三国干渉
1894年の日清戦争。

〔24〕フィリピンの独立運動とアメリカの門戸開放政策(open door policy)
1898年にフィリピンが米国領になると、独立派との戦争が1913年まで続く。

〔25〕義和団の乱(北清事変)
1899年に白蓮教の流れを汲む義和団が山東省で蜂起。1901年の北京議定書で返済に1938年までかかる賠償金が課せられた。

第5章 1901-1945 二つの世界大戦
強国となったドイツの処遇に関して起った世界大戦。

〔1〕大英帝国と日英同盟
1902年の日英同盟は、ボーア戦争で50万人を動員した英国がロシアに対する陸上兵力不足を日本で補おうとする戦略だったのかもしれない。

〔2〕3B政策と3C政策
3B政策:
1899年にドイツはオスマン朝からバクダード鉄道の敷設権を獲得し、完成すればベルリン、ビザンティウム、バグダートを結ぶ鉄道でペルシャ湾に兵力を展開可能になり、そこからインドを狙う事が出来るようになる。

3C政策:
カイロ、ケープタウン、カルカッタを結ぶ三点で、カイロとケープタウンの縦軸はフランスのアフリカ横断政策(セネガルの首都ダカールから東へ権益を拡大)に対抗するもので、カイロとカルカッタの横軸は3B政策とぶつかる。

〔3〕日露戦争の見事な幕引きと日比谷焼き討ち事件
1904年の日露戦争は1905年のポーツマス条約で終わる。





同年には1814年からスウェーデンの同君連合だったノルウェーが国民投票で独立し立憲君主国家となっている。

〔4〕英仏協商から三国協商へ、列強の野望が波紋を広げる
1904年の露仏協商、1907年の英露協商で三国協商が形成される(協商は協定より緩やかな協力関係)。

1908年には青年トルコ革命が発生したすきに、オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを、ギリシャがクレタ島を併合。1911年にイタリアがリビアに侵入した伊土戦争の最中に四国同盟(ギリシャ、ブルガリア、セルビア、モンテネグロ)が起こした第一次バルカン戦争(1912年~1913年)でオスマン朝は欧州における領土をほぼ失う。

バルカン半島は山がちな土地で海から押さえるのが困難で、小国が離合集散を繰り返す危険な地域となっていく。

〔5〕第一次世界大戦の引き金になったのは、ハプスブルク家の愚かさだった
フランツ・ヨーゼフ一世は、甥である後継者フランツ・フェルディナントが伯爵令嬢で身分が低いゾフィー・ホテクと結婚した事で、ゾフィーに皇族としての特権を放棄させ、ウィーンでは夫と妻が同席出来ないフランツ・フェルディナント夫妻は地方へ行く事が多くなり、1914年6月のサラエヴォ事件で第一次世界大戦の遠因となる。

〔6〕日露戦争後の日本の進路
1904年の第一次日韓協約から1910年の朝鮮併合まで。

〔7〕ガンディー、南アフリカで非暴力・不服従運動を開始
1906年にガンディーがサティヤーグラハ(非暴力・不服従運動)を始める。

〔8〕孫文と辛亥革命の展開
1911年の辛亥革命でモンゴルが独立し、1913年にはチベット・モンゴル相互承認条約でチベットも独立(チベットは1951年に中国に併合される。)。

〔9〕第一次世界大戦の展開とロシア革命、大英帝国の“三枚舌”外交
膠着状態(塹壕戦)となった第一次世界大戦は、フサイン・マクマホン協定(マッカの太守フサインに、オスマン朝への参戦と引き換えにアラブ地域の独立を約束)やサイクス・ピコ協定(フランス、ロシアとオスマン朝の領土分割を決める)、バルフォア宣言(ロスチャイルド家にパレスチナをユダヤ人の民族的郷土にすると明言)によって紛争の種が播かれる。

〔10〕ウィルソン大統領の一四カ条の平和原則と第一次世界大戦の終結
1918年の一四カ条の平和原則について。

〔11〕ヴェルサイユ体制の問題点
19121年に1320億金マルクという1913年のドイツのGDP2.5年分の賠償金が課せられる。その52%はフランスの取り分で第二次世界大戦の原因となる。

〔12〕ウィルソンの提唱した民族自決の理念は世界に拡がった
1919年から民族独立運動が盛んになる。

〔13〕パレスチナの混乱とトルコ共和国の誕生
1920年に、フサイン・マクマホン協定に則り、アラビア半島にヒジャーズ王国を建国したマッカ太守フサインの子供ファイサル一世がシリアにアラブ王国を建国。
その直後、イタリアのサンレモで中東の領土問題で協議が行われ、イラクとパレスチナは英国が委任統治し、シリアとレバノンはフランスが委任統治すると決定され、フランスとファイサル一世の間にトラブルが始まる。ファイサルは英国の仲介で1921年にイラク国王となる。

〔14〕国際協調と軍縮の潮流、ドイツではハイパーインフレーションが起きる
1921年に史上初の軍縮会議がワシントンで行われ、各国の主力艦の保有比率を、米英:日:仏伊で、五:三:一・七五とする事が決められた。米国の国力は日本の10倍以上であったため、結果的には米国の軍備増強に歯止めをかけるものであったが、日本では理解されなかった。

〔15〕ヒトラーの登場を、なぜドイツ人は許したのか
1925年のロカルノ条約でドイツは1926年からドイツは国際連盟に加入が認められるが、同年にはヒトラーの『わが闘争』が出版される。連合国の軍隊が侵入していないため、普通の市民は敗けた実感が無かった。

〔16〕孫文の国共合作と蒋介石の登場
1924年から中国国民党と中国共産党が組む第一次国共合作が決定される。

〔17〕蒋介石の北伐と張作霖爆殺事件
蒋介石は1926年に北伐を宣言し、1927年に上海や南京を征服。上海クーデターで共産党員を逮捕する。1928年に張作霖の息子 張学良が蒋介石に降伏し、中華民国国民政府が中国を統一した。

〔18〕不戦条約と暗黒の木曜日
1928年に米国国務長官ケロッグとフランス外相ブリアンの提唱で不戦条約が結ばれ63ヵ国が調印。1929年には米国のヤング(ゼネラル・エレクトリック会長)の主導でヤング案が作られ、ドイツの賠償総額1320億金マルクがやく73億金マルクに軽減された。

同年には賠償金支払いを円滑化させる機関としてバーゼルに国際決済銀行(BIS)が設立される。そして、1929年10月24日の暗黒の木曜日のニューヨーク株式市場大暴落で世界大恐慌が始まる。

〔19〕日本の満州侵略
1930年のロンドン海軍軍縮会議で、潜水艦や補助艦、駆逐艦の保有割合が協議される。米英対日の保有比率が、10対6.975になり、不満を持った人々に浜口雄幸首相が銃撃され、内閣は総辞職する。さらに1936年に日本は軍縮会議から脱退する。

日本が脱退すれば、米国はさらに軍艦を増やす事が出来るので、結果的には日本が不利になる。

1931年の柳条湖事件から1932年の満州国建国まで。リットン調査団は、中国の主権の下に日本の居住権や商圏を専用した自治政府を作る事を提案するが日本は拒否して国際連盟を脱退する。

〔20〕ガンディーの独立運動
1930年にガンディーはサティヤーグラハを再開。

1931年にはカナダ、オーストラリア、ニュージランド、南アフリカがウェストミンスター憲章で独立が認められ同君連合になる。1937年にインド領ビルマを分離して英国直轄領とする事で、インド独立後もビルマを確保する道筋をつけている。

〔21〕電光石火の勢いでヒトラーが総統に
1932年にドイツのヒンデンブルク大統領が賠償金支払い不可能声明を出して、同年にローザンヌの会議で賠償金が30億金マルクまで削減される(ドーズ債、ヤング債が完済されるのは2010年)。

1934年にヒンデンブルク大統領が死去した後にヒトラーが総統になる。

〔22〕第三帝国の伸長
ドイツは1935年に徴兵制を復活させる。1935年6月に英国は英独海軍協定で、ドイツの艦隊保有率を対英35%、潜水艦を対英60%とするが、これはヴェルサイユ条約の死文化になる。

〔23〕中国共産党の大長征、毛沢東の台頭
1934年に中国共産党は本拠地であった瑞金を追われて、遵義の地で共産党幹部会議を開き、毛沢東が主導権を握る。1936年には陝西省延安に新しい根拠地を作る。

〔24〕日本で軍部大臣「現役」武官制が復活した
1936年に広田弘毅首相が軍部大臣「現役」武官制を復活させ、陸相や海相を現役軍人に限る事にした。

〔25〕スペインとフランスの人民戦線の行方
1936年にフランスでは左翼勢力によって社会党政治家ブルムを首相とする人民戦線内閣が誕生するも1937年に崩壊。1936年に成立したスペイン人民戦線内閣に対しては、七月にモロッコでフランコが叛乱を起こす。

〔26〕盧溝橋事件から日中戦争へ
1937年に北京西南の盧溝橋で日中両軍が小競り合いをして日本軍による華北への派兵が決まる。これにより、1937年9月に第二次国共合作が成立する。

〔27〕ヒトラーがズデーテンを併合し、「水晶の夜」事件が起きる
1938年にヒトラーがオーストリアを併合。同年にはチェコスロバキアのズデーテン地方を併合。11月にはドイツ全土でポグロム(ユダヤ人に対する集団略奪を指すロシア語)が発生し、水晶の夜と呼ばれる。

〔28〕第二次世界大戦始まる
1939年のヒトラーによるボヘミア、モラヴィア併合、1939年にはポーランドに侵攻する。1940年5月にはフランスに侵攻。同年七月にはバグダート鉄道が開通している。

〔29〕日本が太平洋戦争を始めるまで
1941年に真珠湾を奇襲するまで。

〔30〕アメリカの国力が世界大戦の帰趨を決めた
1942年にルーズベルト大統領が、連合国共同宣言を発表し、単独でファシズム国家と休戦・講和しない事を明らかにした。

〔31〕第二次世界大戦、終幕へ
1945年に日独が無条件降伏するまで。

第6章 1945-2000 冷戦の時代
第二次世界大戦後の冷戦下では核の抑止力が米国とソヴィエト連邦の全面衝突を防ぎ、どちらかの陣営に属していれば安定が保障された。バランスを崩したのはオイルショックで、対応によって自由経済と計画経済の優劣が明らかになった。

〔1〕第二次世界大戦後の東アジア
日本軍と連合軍の権力交代時の空白を機にアジア諸国の独立運動が活発化する。

〔2〕早くも激化する東西対立、チャーチルの「鉄のカーテン」演説
1945年10月には国際連合が活動を開始するが、1946年3月にチャーチル首相が「鉄のカーテン」演説によって反共連合が必要とした。
中国では1946年6月に蒋介石が国土の1/4を占めていた共産党支配下の解放区への全面侵攻を命令し国共内戦が始まる。

〔3〕米ソは冷戦体制に入る。マーシャル・プランとコミンフォルム
1947年3月にトルーマン大統領はトルーマン・ドクトリンを発表し、自由主義を守る事が米国の政策とした。1947年6月にはマーシャル・プラン(欧州復興計画)を発表するが、ソヴィエト連邦と東欧諸国は参加せず、1947年9月に結成されたコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)に東欧七カ国とフランス、イタリアの共産党が参加した。

〔4〕ソ連のベルリン封鎖と第一次中東戦争
米国がトライゾーン(米英仏の占領地域)を統合して通貨改革を行おうとした事に反発し、1948年6月にソヴィエト連邦がベルリンからトライゾーンに通じる道路と鉄道を封鎖するが、ベルリン空輸によって1949年5月に封鎖は解かれる。

1947年には第一次中東戦争が始まる。

〔5〕NATOの設立、ソ連の原爆実験
西欧州12カ国は、北大西洋条約に調印し、1949年にNATO(北大西洋条約機構)を設立。
1949年9月にソヴィエト連邦が原爆実験に成功し、米国の核の独占は終わる。

〔6〕極東戦略の転換を迫られたアメリカと運命の風向きが変わり始めた日本
1949年10月に国共内戦が毛沢東の勝利で終わり、蒋介石とソヴィエト連邦を封じ込める米国の戦略が転換を迫られ、米国は日本を共産圏に対する防波堤にする事にする。

〔7〕朝鮮戦争と日本の復興
1950年~1953年の朝鮮戦争は、日本にとって復興の足掛かりとなった。現在の水準で20兆円~30兆円の有効需要が四年間続いた事になる。

〔8〕米ソの水爆実験と第三世界の台頭
1952年に米国が水爆実験に成功。1953年にはソヴィエト連邦も水爆実験に成功。ソヴィエト連邦のGDPは米国の1/3であるため、軍事力での競争は相当に無理があった。

〔9〕ナーセル大統領のスエズ運河国有化宣言
1956年6月にエジプト大統領になったナーセルは、1956年7月にスエズ運河国有化を宣言。1956年10月に第二次中東戦争が始まるが、1956年11月に国連決議で停戦となる。

〔10〕フルシチョフのスターリン批判とハンガリー動乱
1956年2月の共産党第二0回大会で、フルシチョフがスターリンの粛清と個人崇拝を批判。1956年10月にハンガリーで起った市民蜂起は武力で鎮圧し、親ソ政権を樹立する。

〔11〕ド・ゴールがフランス大統領に就任
フランス領アルジェリアで1954年に民族解放戦線(FLN)が結成され武装闘争が本格化。弱腰のフランス政府に腹を立てたフランス軍が1958年5月にクーデターを起こし、フランスはド・ゴールに全権を委任して反乱を鎮静化する。

1959年1月にド・ゴールは大統領に就任し、9月にアルヘリアの民族自決を決める。

〔12〕キューバ革命、ダライ・ラマ亡命
1959年にキューバ革命が発生。同年にチベットで反乱が勃発し、ダライ・ラマ十四世はインドに亡命。

〔13〕ソ連のロケットが月面着陸、フルシチョフは得意の絶頂へ
1959年9月、ソヴェエト連邦のルナ2号が月面着陸に成功。アイゼンハワー大統領とキャンプ・デービッド会談で平和的手段による国際問題解決に合意する。

〔14〕戦後の世界秩序が固まった一九六〇年
1960年はアフリカの十七カ国が独立したアフリカの年で、OPEC(石油輸出国機構)が結成された。米ソ冷戦を基調に世界各国の対応が明確化されていく。

〔15〕ケネディの登場、ガガーリン宇宙へ、ベルリンの壁
1961年1月にケネディが米国大統領に就任し、1961年4月にはソヴェエト連邦が有人宇宙飛行に成功。1961年8月にはベルリンの壁が築かれる。

〔16〕アデナウアーとド・ゴールの見識
1962年9月にド・ゴールが西ドイツのアデナウアー首相と会談し、パリ・ボン枢軸と呼ばれる絆を確認。共通の歴史教科書や姉妹都市を作る事で合意。
1963年1月のエリゼ条約では、独仏首脳や大臣の定例会合を定めた。

〔17〕キューバ危機、部分的核実験禁止条約、ベトナム戦争
1962年10月に、キューバ国内のミサイル基地建設に抗議する米国の海上封鎖により、米ソ全面核戦争の緊張が高まったが、フルシチョフがキューバからの攻撃的武器撤去命令により戦争は回避された。

1963年8月には部分的核実験禁止条約に調印し、地下実験を除く核実験は禁止される。

1965年からは米国による北ベトナム空爆が始まる。

〔18〕中ソ対立、フルシチョフ失脚、第三世界勢力の後退
1963年7月に中ソ会談が決裂し、二つの共産主義国家の不仲が公然の事実になる。1965年の九月三0日事件でインドネシアのスカル大統領が倒され、インドのネルーが1964年に死去する等、指導者がいなくなっていき第三勢力は後退していく。

〔19〕毛沢東、大躍進政策の失敗から文化大革命へ
1966年5月に北京大学の壁新聞で封建的、資本主義的文化を批判し、新しい社会主義文化を創生しようという名目で全国が混乱した。
1958年から大躍進政策として三年で英国を追い越すとした毛沢東の政策が失敗し、1959年に自己批判して国家主席の座を劉少奇に譲ったため、その奪権運動だったとされる。

軍事開発は継続され、1966年には核ミサイル発射実験に成功し、1967年には水爆実験に成功した。

〔20〕ベトナム戦争の泥沼化、人心が荒れていくアメリカ
1968年5月にパリで米国と北ベトナムが和平交渉を行う。

〔21〕第三次中東戦争、プラハの春
1967年6月にイスラエルによる第三次中東戦争が発生する。1968年8月にチェコにソヴィエト連邦の軍が侵入し、チェコ共産党第一書記ドゥプチェクが進めた民主化運動は弾圧された。
1968年に日本の名目GDPが世界二位になる。

〔22〕中ソの武力衝突、アポロ一一号の月面着陸、ブラントの東方外交
1969年に中ソがダマンスキー島、アムール川、新疆ウイグルのテレクチで軍事衝突する。1969年10月に西ドイツでは社会民主党のブラントが首相になり東方外交によってナチスの蛮行を謝罪する。

〔23〕米中の関係正常化
1971年3月に名古屋で行われた世界卓球選手権大会に六年ぶりに参加した中国チームは翌月に米国チームを北京に招待し、米国は対中貿易緩和措置を発表。このやりとりはピンポン外交と呼ばれる。

1972年にニクソン大統領が中国を訪問し両国関係は正常化する。

〔24〕ウォーターゲート事件からベトナム戦争終結まで
1972年6月にニクソン大統領がウォーターゲートビルの民主党本部に盗聴器を仕掛けていた事が発覚。ニクソン大統領は失脚し、フォード副大統領が昇格。1973年に米国のベトナム撤退が決まる。

〔25〕ピノチェトのクーデタ、第四次中東戦争とオイルショック
1973年の南米チリのクーデターでアジェンデ大統領がピノチェト将軍に襲われて死亡。その後の16年間の軍事独裁で亡命者は人口の10%、100万人に達する。

1973年の第四次中東戦争では石油の値上げが武器として使用される。

〔26〕東西ドイツ基本条約、サミット、スペイン・ブルボン家の復活
1972年に東西ドイツ基本条約が調印される。スペインでは1975年にブルボン家のファン・カルロス一世が即位する。

〔27〕毛沢東が死去して鄧小平体制へ。日中国交正常化
1976年に周恩来が死去し、鄧小平が実権を握る。1978年に日中国交正常化。

〔28〕サーダートによるイスラエルとの和平、ローマ教皇にヨハネ・パウロ二世選出
1977年にイスラエルを訪問したサーダートは和かいを訴える。1979年にエジプト・イスラエル和平条約が結ばれ、シナイ半島がエジプトに返還される。
1978年にはポーランド人のヨハネ・パウロ二世が教皇になる。

〔29〕ポル・ポトの大虐殺と中国の先富論
1979年に樹立したヘン・サムリン政権でポル・ポト政権による大虐殺が明るみに出る。

〔30〕イラン革命とテヘラン大使館人質事件、ソレンのアフガニスタン侵攻
1979年にイラン革命でパフラヴィー朝が倒れる。同年にソヴィエト連邦がアフガニスタンに侵攻。

〔31〕ユーゴスラビア内戦、イラン・イラク戦争、ポーランドの「連帯」
1980年にチトー大統領が死去し、ユーゴスラビア内戦の原因となる。

〔32〕鄧小平はキングメーカーに。フォークランド紛争と国連の海洋法条約
鄧小平は、胡耀邦(総書記)や趙紫陽(首相)を前面に立て自分は後ろに回るスタイルを撮った。1982年にはフォークランド紛争が勃発し、海洋法条約で領海は12海里、排他的経済水域は200海里と定められた。

〔33〕ゴルバチョフの登場、プラザ合意
1985年に共産党書記長に就任したゴルバチョフはペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を旗印に改革開放路線を取った。

〔34〕冷戦の終結(マルタ会談)
1989年のマルタ会談で米ソ首脳が冷戦終結を確認。

オイルショックを契機に高い石油に対応した自由主義陣営と、ソヴェエト連邦が安い石油を供給し続けた計画経済陣営の違いと言える。

〔35〕ソ連の崩壊と消滅、湾岸戦争
1991年8月にソヴィエト連邦で自由化に反対するクーデターが発生し、1991年12月にはアルマトイ宣言でソヴェエト連邦消滅が決定する。

〔36〕ブッシュの冷戦勝利宣言、地球サミット
1992年にブッシュ大統領が冷戦勝利宣言を行う。インターネット等の軍事技術を民間に転用し、米国経済は発展した。

〔37〕パレスチナに平和をもたらすかに思えたオスロ合意だったが
1993年にPLOとイスラエルが結んだオスロ合意はヨルダン川西岸とガザに暫定自治政府を作り、パレスチナ国家に繋げる画期的合意だった。しかし、オスロ合意は具体化が進む前にイスラエル首相ラビンが暗殺される事で挫折する。1996年には右派政党リクードのベンヤミン・ネタニヤフが首相に就任し和平交渉は停滞している。

〔38〕マンデラが南アフリカ大統領に就任、アメリカはベトナムと国交回復
1992年5月にマンデラが南アフリカ大統領に就任。

〔39〕上海協力機構、鄧小平死去、アジア通貨危機、京都議定書
1996年に中国主導で中国、ロシア、カザフスタン、キルギス、タジキスタンが首脳会議を開き、中央アジアの安全保障を話し合い、2001年の上海協力機構の基礎となる。

〔40〕EUがユーロ導入、日銀がゼロ金利へ
1999年にEUが共通通貨ユーロを導入する。同年に日本銀行がゼロ金利を導入。

〔41〕二〇〇〇年、ヨハネ・パウロ二世の特別ミサ
ヨハネ・パウロ二世が歴史的にローマ教会が行ってきた宗教戦争、十字軍、東西の教会分裂、異端審問、反ユダヤ主義、千住民族の強制改宗等を過ちであったと懺悔した。

〔42〕二〇世紀の後半は冷戦の時代だった。その後に平和の配当が生まれた
冷戦後に軍事技術が民間に恩恵を齎した。

終章 どしゃ降りの雨で始まった第六千年紀
全体的なシステムへの信頼について。

人気ブログランキングへ
プロフィール

ABCDEFG

Author:ABCDEFG
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード