世界史の10人

読んだ本の感想。

出口治明著。2015年10月30日 第一刷。



共同体が継続するために、軍隊と官僚組織が必要とする。著者の意見として、民主主義と官僚制の組合せが、これまでのところ最適とする。

第1部 世界史のカギはユーラシア大陸にあり
騎馬民族と鉄砲の優劣が逆転したのは、1473年の白羊朝とオスマン朝が、バシュケントで戦った時とする。1514年に、オスマン朝とサヴァヴィー朝がチャルディラーンの戦いで激突した時もイエニチェリの鉄砲で騎馬民族を破っている。軍事革命は中東で発生していた。

File1 バイバルス 奴隷からスルタンに上りつめた革命児
十字軍と戦ったザンギー朝のヌールッディーンが、弱体化していたエジプトのファーティマ朝に、シールクーフというクルド人の将軍を派遣し、その甥がサーラフ・アッディーン(1169年にアイユーブ朝を建国)。

バイバルスは、1220年代にロシアのキプチャク草原で生まれたトルコ人だが、モンゴル人の奴隷となり、転売されてアイユーブ朝の奴隷戦士となる。

バイバルスは、1250年にエジプトに攻め込んだフランス王ルイ九世の第六回十字軍に圧勝する。次のマムルーク朝のスルタンとなったアイバクにシリアに追放されるものの、モンゴル軍が攻め込んできた事で呼び戻され、1260年のアイン・ジャールートの戦いで勝利する。

そして、スルタンだったクトゥズを殺して自らがスルタンとなる(マムルーク朝五代目)。1277年に死亡するが、マムルーク朝はオスマン朝に滅ぼされる1517年まで続く。

著者は、ロシアのジュチ・ウルスと同盟してフレグ・ウルスと対抗した事や、メッカのカアバ神殿に黒い布(キスワ)を奉納する慣習を作った事や、カイロとダマスクス間を駅伝制度で接続した事、紅海を通じた交易網を維持した事等を評価している。

File2 クビライ 五代目はグローバルなビジネスパーソン
モンゴルの軍事力とウイグル人の官僚組織が結び付いた成果としてのモンゴル帝国。その偉業からユーラシア草原には、チンギスの血統を引かなければ皇帝になれないチンギス統原理が残る。ティムールもカアンを名乗れず、アミール(提督)の称号を使用した。

著者がクビライを評価するのは、全モンゴル帝国を治める事を放棄し、中国を中心とする地域で我慢した事。1267年に大都(北京)を建設。海に接続する設計と更地から立ち上げた土地という特徴を持つ。

1271年には国号を「大元ウルス」とするが、中国で皇帝自らが国号を付けたのは、これが初めてらしい。

占領した民族を不平分子として残さないために、失業官僚対策としての百科事典(事林広記)の編集や失業軍人対策としての周辺アジア諸国攻略に乗り出したとする。

クビライは、銀と塩引(塩と交換出来る高額紙幣)を取引に多用するようにしたため、宋銭と呼ばれる銅貨が余り、日本に輸出される事で、日本の新興勢力が活発化し、守護・地頭のような既存勢力を脅かしたとする。



File3 バーブル 新天地インドを目指したベンチャー精神
サマルカンド・ティムール朝の王族として1483年に生れる。

1504年にカーブルを征服するが、ウズベク族のシャイバーニー・ハンには勝てず、1511年にはサヴァヴィー朝と組んでサマルカンドを征服するものの、守り切れない。

そして、1514年に鉄砲を使用するオスマン朝にサファヴィー朝が敗れると、鉄砲隊を組織してインド征服を目指す。ムガール朝建国は1526年。

著者は、サマルカンドを諦めて、インドに新天地を求めた決断力を評価している。

<インド>
19世紀半ばまでは、世界のGDPの二割前後をインドが占めていた。その強味はインド洋の中継港として機能した事にあり、綿花栽培によって作られた服が船乗りの必需品として販売された。

ガンジス河畔の中心地デリー、パンジャプ地方の中心ラホール等の豊かな町が分散しており、南北に長い事からくる病原菌の違いも分散によって影響を防ぐ事が出来たとする。

インドは統一し難いので、強い軍隊と官僚機構が無ければ国家は維持出来ず、トルコ人の武力とアカイメネス朝からの官僚の伝統を持つペルシャ人の組合せで王朝を保ったとする。インドの公用語であるウルドゥー語はヒンドゥー語とぺルシャ語の混合。

第2部 東も西も「五胡十六国」
File4 武則天 「正史」では隠された女帝たちの実力
女性の力が強い遊牧民の伝統が、655年~705年の武則天の専横を可能にしたとする。称徳天皇も武則天の影響を受けたのかもしれない。

File5 王安石 生まれるのが早すぎた改革の天才
唐宋革命とされる、貴族制から官僚制へ政治システムが変化した時代の人物。

紙と印刷技術が普及したために、全国一律の試験が可能になり貴族が没落していく。

10世紀~14世紀は温暖化の時代で、占城稲(早生で麦との二毛作が可能)の普及、飲茶革命(茶碗に使用する陶磁器産業が盛んになる)、火力革命(コークスの使用)等が発生する。

1004年には「澶淵の盟」として銀10万両、絹布20万匹をキタイに毎年贈る事で国境を維持した。1127年に宋が中国南部に移ってもこのシステムは変わらずに平和を維持した。

しかし、軍隊は膨れ上がり建国時には40万人程度だった軍隊が、仁宗の時代には120万人ほどになり、官僚の数も増えて国家財政の負担になっていた。

<王安石の改革>
王安石は1021年に生れ、1043年には四番の成績で官界入りしている。その後、16年間地方回りをして、万言書を提出する。

その政策は小さな政府(大地主や大商人を抑えて中間層を育成する)を主軸にし、若手官僚を集めて政策を纏め、地方で実効性を試してから全国で施行された。

反対派の司馬光は『資治通鑑』を完成させている。

以下の政策。

1069年 青苗法(国が低利で苗代金を農民に貸す)
1069年 均輸法(物価抑制)
1070年 募役法(労役を貨幣納付によって免除)
1071年 三舎法(官僚養成校によるミドルキャリア育成)
1072年 市易法(国が低利で小売業者に融資)

しかし、1074年に大旱魃があり、その責任を取らされる形で王安石は左遷される。彼は科挙受験者の参考書となる『三経新義』を書き、その影響が残ったために宋は、その後150年間継続したとする。

第3部 「ゲルマン民族」はいなかった?
ゲルマン民族というコンセプトは、ローマ人の末裔を自負する英国人への対抗心から、19世紀のドイツ人が発見したという説。

File6 アリエノール 「ヨーロッパの祖母」が聴いた子守唄
1122年に生れ、アキテーヌ公である父ギョーム十世はフランス国土の1/3を領地としていた。

1137年にはルイ七世と結婚し、二人の女子が生れる。夫婦仲は良くなく、1152年に離婚し、アンジュー伯アンリ(イングランド王ヘンリー二世)と再婚。ウィリアム、ヘンリー、リチャード、ジェフリー、ジョン等を産む。

末弟のジョンがイングランド王になるが、フランスにあるアンジュー帝国領を召し上げられてしまい、フランス領土を取り戻すための戦争準備に増税を要求したところ、「マグナ・カルタ」で貴族から王権を制限されてしまう。

*************

1200年に、78歳になったアリエノールはスペインのカスティージャ王アルファン八世に嫁がせた娘エレノアの三女ブランシュをルイ八世の妃として嫁がせる。

ブランシュは1226年からはフランス王家の摂政となり、13人の子供を産んだ事もあって、アリエノールの血筋は永く続いた。

File7 フェデリーコ二世 ローマ教皇を無視した近代人
東フランク王国の流れを汲むホーエンシュタウフェン朝の君主。

1229年に10年間の期限付きでキリスト教徒側にエルサレムを返還する「ヤッファ条約」を締結。さらに、1231年には皇帝の書(メルフィ法典、シチリア法典)を交付し、都市・貴族・聖職者の権利制限、司法・ぎょえしの中央集権化、税制・金貨の統一等を行っている。

ドイツ人のとってのフェデリーコは頼もしい君主であり、フリードリヒとしてハルツ山に眠り、ドイツの危機においてはドイツを救うという伝説が生まれた。

第4部 ヨーロッパはいつ誕生したのか
欧州の王権は、侵略する遊牧民を防いだ人物が掌握している。強大化したオスマン朝に対抗してポーランドやリトアニアが強大化し、ユーラシア大草原と欧州との間に壁が築かれた事でヨーロッパが成立したのではないか?

遊牧民への恐怖から解放され、「自分達は何者か?」という意識が芽生えたとする。

File8 エリザベス一世 「優柔不断」こそ女王の武器
ヘンリー八世と二番目の妻であるアン・ブーリンの子。跡継ぎがいないために、1558年に25歳で即位する。

極めて慎重な性格であり、ヘンリー八世の姉マーガレットの孫であるメアリー・スチュアートを英国王に推す勢力が出た時も、めありー・スチュアートをすぐには殺さずに二十年間軟禁している。

ネーデルランドにおける新教派支援、アイルランドにおけるローマ教会派の反乱鎮圧、フランス国王アンリ四世への支援もすぐに軍を引っ込めて慎重を表している。

File9 エカチェリーナ二世 ロシア最強の女帝がみせた胆力
1741年に即位したロシア皇帝エリザヴェーダの昔の婚約者の妹の娘ゾフィー。

ピョートル三世に嫁いでパーヴェルを産むが、夫とは不仲であり、1762年にクーデターを起こしてエカチェリーナ二世として即位する。

パーヴェルの次男にコンスタンチンという名を付けて、南下政策を採用。1796年に67歳で死ぬ。

File10 ナポレオン三世 甥っ子は伯父さんを超えられたのか?
皇帝民主主義を主張。

1808年に、ナポレオン一世の弟ルイとオルタンス(ナポレオンの妻だったジョゼフィーヌの連れ子)の子として産まれる。1810年に両親が離婚し、オルタンスに引き取られる。

1836年にはフランス北東部のストラスブルーで一揆を起こすが二時間で失敗し、米国に国外追放される。1840年にはブローニュで再度の一揆を起こしパリ北のアム要塞に投獄される。五年半の入獄中で本を読んで「監獄は私の大学であった」と後に語る。

1848年の二月革命を機に大統領に当選し、1851年のクーデータで大統領任期を四年から十年に延長し、権限を強化した。

大統領制を定めた憲法の下で皇帝となり、1850年代前期を権威帝政、1860年代後期を自由帝政と呼ぶ。クレディ・モビリエ銀行による産業金融(鉄道に投資等)や関税自由化等を著者は評価している。

さらにパリを美化し、英国との関係を良好化させてクリミア戦争(1853年~1856年)、アロー号戦争(1856年~1860年)では英国と協調して戦い、インドシナの海外植民地も拡張している。

この時代のフランスのGDPは世界シェア約5%と過去最高だった。

1871年の普仏戦争で敗北し、アルザス・ロレーヌ地方割譲や賠償金支払い等の失意の内に1873年に死ぬが、全体としては評価すべき業績とする。

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