<世界史>の哲学 古代篇

読んだ本の感想。

大澤真幸著。2011年9月20日 第一刷発行。



第1章 普遍性をめぐる問い
1 ホメーロスの魅力という謎
特殊な歴史的コンテクストに規定された特異な作品が普遍的魅力を持つ不思議。

マルクスは、『経済学批判序説』の中で、ホメーロスの叙事詩が今でも魅力的である事を謎としている。遥か古代に創られた物語が現代人を感動させる普遍性の不思議。

個々の作品は、創られた時代の社会的文脈に細部まで規定されており、当時の常識を知らない現代人には作品の意味が分からないはずであるが、それでも現代人は感動する。

それは哲学におけるニーチェの影響力にも比肩し、ファシズム、ハイデガー、ポスト構造主義等に影響した。ニーチェの思想は19世紀の特殊な文化的環境に組み込まれており、「奴隷のルサンチマン」はパリ・コミューンを経験した事に、超人思想は進化論流行に規定されている。

それでも現代人はニーチェから普遍的含意を引き出す事が出来る。

2 普遍性をめぐる問い
20世紀後半以降、普遍的とされた思想が実際には近代の産物であるとして、普遍性を歴史主義的に相対化する事が流行している。

自由主義でさえも17世紀前半の30年戦争の後に出た宗教的寛容の理念から発生しているため、西欧の伝統に収まらない寡婦殉死等の風習を許容出来ない。

ジョン・グレイの自由主義の普遍性に関する以下の論難。

①自由主義と知性
自由主義は知識を成長させる(ハイエク)というが、知識成長が必ずしも善とは言えない。
②全員一致の矛盾
全員一致(ロールズ)のために特定の価値観が特権化されていなくてはならない。
③幸福
幸福を根拠とする自由論(ミル)は、特定の幸福概念を強制している。

著者は、このように普遍性批判は間違っていないとするが、一方で、例えば人権を普遍的としたからこそ社会改革が実現したと主張する。特殊であるはずの思想から如何にして普遍性が生れたのか?

3 資本主義の二重性
資本主義は如何なる文化圏でも反映するように見えるが、一方で西欧でのみ誕生した特殊性を持つ。

4 キリスト教へ
マックス・ヴェーバーは、資本主義的普遍性を生み出した特殊性をプロテスタンティズムの倫理的態度とする。プロテスタントはキリスト教の原点回帰運動である。キリスト教ではキリストという個人を導入することにより、神による恩寵の配分に偶有性が入り込み、且つ、恩寵に普遍性があると想定しなくてはならない。

資本主義の胎児としてのキリスト教。

第2章 神=人の殺害?
1 冤罪による処刑?
キリストの死の世界史における影響。異邦人を救済の対象としないユダヤ教を全人類を対象とする宗教にした。キリストの処刑には当事者達に自覚されない無意識の倫理があったものと推測される。

2 王権の軸/死の軸―ピラトの前のイエス
ルイ・マランは、ローマ総督ピラトの前で二つの意味論的軸が並行するとしている。

①王権の軸
ピラトはイエスに、ユダヤ人の王であるかを問い、イエスは肯定する(間接的肯定)。そして、イエスは茨の冠を被せられパロディ化される事で間接的に王である事を否定される。さらに、十字架に磔される事で王権を積極的に否定される。

⇒一時的王から永遠の王への変換

②イエスの死に関与する民族性の指標の強度
ユダヤ世界からローマ世界へと外化される。ユダヤの民衆は、「その血の責任は、我々と我々の子孫の上にかかっても良い」と叫ぶ事により、テクストの展開はユダヤ性を否定される。逆に、イエスを義人とする妻の夢に感化されたピラトの態度はローマ性の斬増を意味する。

⇒特殊で閉鎖的な民族共同体から開かれた超民族的普遍性への転換

3 復活の福音―墓における女たち
マタイ福音書は、女達がイエスの墓に出向き、復活を知る場面を記述する。イエスの身体の偏在性は、身体の具体性をメッセージの理念性に置換する。

4 ユダヤ教とキリスト教
キリスト殺害は、身体の物質的、具体的性格を否定し、理念的、抽象的準位に再措定する操作である。

第3章 救済としての苦難
1 負ければ負けるほど崇拝される
ユダヤ教はシリア・パレスチナの平原という二大河川文明に挟まれた地域で誕生した。イスラエルは戦争に何回も敗れたが、信仰心は薄れていない。マックス・ヴェーバーも『古代ユダヤ教』の結末近くで、敗れるほどに信仰される神を不思議としている。

2 「イスラエル(神と争う)」と「ペヌエル(神の顔)」
「イスラエル」とは、神と争うという意味。創世記において、イスラエル十二支族の祖ヤコブが父イサクと兄エサウの元に戻ろうとして、その都有で神と戦い、イスラエルという名を賜る。そして、戦った地をベヌエル(神の顔)と名付けた。神の顔を見たのに生きているからである。

3 合理化とは何か
出エジプトとカナン定着を通じて、ヤハウェを崇拝する民族が成立した。やがて北のイスラエル王国と南のユダ王国に分かれ、紀元前8世紀にイスラエル王国だけがアッシリアに滅ぼされる。これにより、北のイスラエル王国は異教の神を信じたためにヤハウェの不興をかったという解釈が成立する。バビロン捕囚によっても信仰は無くてなっていない。

4 ユダヤ教を構成する外的/内的対立
マックス・ヴェーバーによるとユダヤ教純化までに以下の二つの対立があった。

①外的
純粋なヤハウェ信仰と呪術的異教の対立。
②内的
ユダヤ教内部の祭司と預言者の対立。預言者は王権と結託する祭司を批判する?

5 真の終末論
神による繁栄は絶対的であるはずで、中途半端な繁栄にあるものが神に選ばれたはずはないという論理。ブルトマンによると、不可逆な時間という観念と結託した終末論はダニエル書等の黙示文学において完成したとする。それまでは世界が破滅と再生を繰り返す終末論が信じられていた。

ダニエル書は最古の黙示文学だが、旧約聖書の中では後期にあたる紀元前2世紀頃に書かれたとする。シリア王アンティオコス四世によるユダヤ人迫害の時期で、ヤハウェの日が近いという切迫感が必要だった?

第4章 人の子は来たれり
1 ヨブ―キリストの予型
ヨブ記においては、神が信者(ヨブ)に課した試練が、結局は神がヨブを救う事が出来ないという矛盾を示してしまう?つげ義春の「噂の武士」のように自らの全能性を誇るほどに痛々しくなる。

2 人の子
「人の子」はイエスの時代の口語アラム語の表現であり、潜在的意味は無い。

3 神の国はどこに
イエスは、「神の国はあなたの手がとどく範囲」になるとした。

神の国は現前する現象を超えた所には無い。現象世界の自己否定性が神の国と同一視される。例えば、貧しい者が「現状が不足している。現状では駄目だ」という事を具現しており、その事によって神の国を代表している。現状の世界を変革する事によってこそ肯定される。

第5章 悪魔としてのキリスト
1 イエスの治療活動
イエスの活動は、主として病気の治療である。

2 荒野の行進
イエスによる荒野の行進は出エジプトの詩的表現かもしれない。荒野の行進は、他の民族(バビロンの新年祭アキトゥ祭儀等)にも見られ、善悪の二項対立という精神の範型に従って構造化されたのかもしれない。
荒野への神の進軍によって敵が撃破されたように、イエスの治療によって病が撃破される。

3 悪魔としてのキリスト
グノーシス主義は、善悪の戦いを極限まで押し進めた。グノーシス主義は1世紀に生れ、2世紀~3世紀に広く伝播した。荒野:沃野 = 善:悪という等式で考えた時、荒野を拡大して地上全てと同一視すると、沃野は物質的世界とは別の霊的領域に措定される事になる。それがグノーシス主義の特徴である。

グノーシス主義では、世界が悪とすると、神も悪でなくてはならないため、善神と悪神の二つを想定しなくてはならない。グノーシス主義はキリストの人間性をどうしても認められない。グノーシス主義における善神は物資的な悪なる神から厳然と分離される。

キリスト教においては、神がキリスト(人間)であって、霊的な現実が否定される。論理的には善と悪の区別が失われる事になり、極論するとキリストと悪魔が同一物に帰する。

第6章 ともにいて苦悩する神
1 神を信じない神
神を経験可能な現象世界を超えた所に存在する他者とすると、キリストとされるイエスの死は神の否定である。『我が神、我が神、何ぞ我を見捨て給いし』という言葉には、神への失望 = 神が存在しない事の確認となる。神(イエス)ですらも神を信じていない。

2 私≠私
私 = 私というトートロジーの中の否定。私が私であるという事の究極的保証は求心化作用にあり、私に対して現象している世界全体が私を原点として私の近傍に拡がっている事が根拠になる。

イエスの絶望の叫びによって否定されるのは、幸福を保証する超越的な世話人としての神である。神がいるとすれば他者のようにいる。他者は私を救出せずに、私と一緒に苦しむのみである(マイケル・ケイトン=ジョーンズの『ルワンダの涙』)。

3 キリスト殺害の二つの効果
以下は、キリスト殺害の効果。

①抽象化
第三者の審級としての神を抽象化して、超民族的作用圏を有する実体とする。
②解消
経験的な現象の自己否定の中に神を解消する。

4 悲劇の条件
中世のキリスト教は悲劇を基本とした。

アリストテレスは、悲劇固有の悦びとは、「心痛と恐怖ゆえの悦び」としている。苦難する悲劇には幸福から不幸への逆転が必要であり、無知から既知への移行がある。

二つの視点があり、幸福から不幸への逆転が超越的他者の視点からは必然であるが、登場人物の視点からは過誤になる。内在的視点を有する登場人物が、運命を規定する超越的他者の視点を認知する事が悲劇であり、苦難を受け入れる。

それは超越的他者からの承認を得る事であり、悲劇の主人公は徳と正義においてほどほどに優れていなければならない(極端に優れていれば超越的他者になる)。

第7章 これは悲劇か、喜劇か
1 悲劇としての福音書
福音書には、悲劇の構成要件である①苦難②逆転③認知があるが、イエスは事前に受難を予見しており、認知が先取りされている。そしてイエスが復活する事により、超越的他者が現れる。

2 喜劇としての福音書
福音書では苦難の過剰によって悲劇が喜劇に裏返る。威厳こそが悲劇を成り立たせており、悲劇を通り越したケースでは、登場人物に人間威厳が残されていない。

3 キリストとともにいるユダ
ユダの裏切りには威厳が無く、喜劇の範疇に入る。超人的で英雄的に死ぬキリストの脇に喜劇的なユダがいる。それこそが、キリストの死のあるべき姿かもしれない。キリストは純粋に喪失的な人物 = 無償の犠牲を生きるユダをキリスト性の転移先にしたのかもしれない。

ユダの裏切りは抽象的な神を殺す。それによって悲劇と喜劇は併存する。

第8章 もうひとつの刑死
1 ヘレニズムとヘブライズムの融合
西洋とはヘレニズム(古代ギリシア文化)とヘブライズム(キリスト教)である。キリスト教を理論的に整備したのは、ギリシア的教養を身に付け、新約聖書を著したパウロである。

2 二つの刑死―類似と相違
紀元前399年のソクラテスの刑死はイエスの刑死と類似している。二つとも冤罪であり、民主主義的決定の形式をとる。異なるのは弟子達の反応であり、ソクラテスの弟子達はソクラテスを救出しようとする。

何よりもソクラテスの律法に従って死ぬ姿勢と、イエスの神に見捨てられて死ぬ姿勢は大きく違う。

3 告白とパレーシア
ミシェル・フーコーは、西洋における近代の出現を跡付け相対化した。初期においては過去の事物が如何なる無意識の規則に従ったかを探求し、後期では規則を体系化する権力を追及した(権力の系譜学)。

晩年は規律訓練する権力への従属から逃れる方法を模索。ヘレニズム(自己への配慮)がその鍵とする。

『監獄の誕生―監視と処罰―』(1975年)
18世紀末に権力型の大きな転換があった。近代的権力は監獄によって隠喩的に表現される。

『性の歴史(知への意志)』(1976年)
個人を主体化する近代権力の系譜。西洋における性の科学は、キリスト教の告白の伝統から生まれた。信者は自己の欲望や罪について告白しなくてはならない。

フーコーは支配者と従属者の関係を牧人と羊の群れに喩え、古代ヘブライズムの影響が見出せる。ギリシア思想への傾倒もあり、ギリシア思想の中心的テーゼは自己への配慮である(汝自身を知れ)。それは権力の支配を逃れる拠点となる。

パレーシア:
率直に語り、真実を語る事。ギリシアの概念。レトリックは相手を納得させるが、パレーシアは自らが納得する言説。告白では言説を従属的位置にある導かれる者が算出するが、パレーシアは指導者が語る。

4 天才の真理/使徒の真理
ソクラテスにとっての真理は想起の形式を取る。無知については潜在的に知っていた事にする。輪廻を繰り返す魂は全てを知っている。

キリスト教の真理は神が受肉し顕現した事を認める事が絶対条件となる。普遍性が特異な歴史的事件によって担保される。

第9章 民主主義の挫折と哲学の始まり
1 外交官としての使徒
『哲学的断片』(キルケゴール)ではソクラテス(ヘレニズム)とキリスト(ヘブライズム)を対比し、能力によって評価される天才と、無条件に評価される使徒の差とする。

使徒は外交官(メッセンジャー)に喩えられる。

2 パレーシアと民主主義の両義的関係
ソクラテスのパレーシアは、政治から自覚的に身を引いた場で真実を言う事を意味していた。当時のギリシアで率直に語って影響力を行使する特権は上流男性市民にのみ許されていた。

3 民主主義から哲学へ
プラトンは哲人政治を理想とし、アリストテレスは民主制を可能ではるあが倫理的な前提とは無関係に形式として理解した。そこにパレーシアと民主制の背反がある。
プラトンにおいては、パレーシアは民主制の中では「好き勝手な事を言う事」と同じ意味になってしまう。

古代においては統治者と大衆に区分けし、パレーシアは統治者の特権となる。全てにパレーシアを認めては社会が維持出来ない?

4 失敗することで成功したク・デタ/
成功することで失敗したク・デタ
フーコーは、紀元前6世紀のソロンの行動をパレーシアの一例とする。友人であるペイシストラトスが私兵を持つ権利を民会に認めさせようとした時、それを断念させるために民会に甲冑で武装して姿を現す。ソロンはペイシストラトスに対するパレーシアとして私兵取得の真実を暴露し、民会へのパレーシアとしてその臆病を暴いた。

⇒ペイシストラトの私兵取得は認められたが、たしした独裁者にはならなかった

カエサルは紀元前44年の暗殺の前に、護衛兵を解散して殺された。このク・デタは成功したように見えるが、ローマは帝政に転換した。

カエサルが生きていた時は、抽象的にも具体的にも「皇帝」が一体化していたが、具体的な皇帝が死んだ事で抽象的皇帝位が継続していく。

ソロンの時代には抽象的な皇帝位が存在しなかったために独裁は出来なかった。

第10章 観の宗教
1 観の宗教
ユダヤ教の伝統では造形芸術は肯定的評価の対象にならない。ギリシアにおいては神を観る事が宗教的体験の核にあった。

2 純粋な立体芸術
古代ギリシアにおいては遠近法が確立されていなかった。パノフスキーは古代の遠近法は、対象と眼の距離に依存するのでなく、対象を捉える時の視覚の大きさに依存しているとする。
古代においては手で掴む事の出来る物だけが描かれる対象であり、視角とは固定的一点から対象を見る時にどれだけの角度を運動するかを示し、視線を仮想的腕と見做す。

⇒観は、触(手で触る)の水準に降り立ち近接するため、視線そのものが対象の輪郭をなぞる腕のようにイメージされる

3 造形芸術に範をとった哲学
ハイデガーは、プラトンもアリストテレスも造形芸術に範をとっているとした。

4 存在としての無
古代ギリシアの哲学者にとって、見たり触れたりする具体性を持つ存在と、生成変化する世界の矛盾は課題だった。かつて具体的物と物の間は無としてが、原子論では不可視の具体物を仮定し、プラトンは無も存在するという命題を擁護した。

存在は非存在としての無との差異において存在しているだから、どのような存在にも無が随伴者として伴う。こうして西欧の哲学からは無を思考し得ない領域とする仏教の空の概念は生まれない事になる。

さらにイエス・キリストの受肉も超越的な神が存在しない事を意味するが、存在としての無を前提にすると、イエス・キリストが死んでも神は生きている事になり、イエス・キリストの受肉の衝撃が回避される。

第11章 闘いとしての神
1 「見ること」から「思惟」
ギリシア的生の根幹は、視覚的体験である。オイディプス王は、罪を自覚すると自らの眼を潰す。

カール・ケレイニーの二つの頂点:
①神々と対面し神々を見る
②神々のように見る

知る事は観る事に基礎づけらている。そして学問を最大に所有するのは神であり、通常の知を遥かに超える思惟が想定される。受動的な視覚に対して積極的に向かい、距離の限界が無い。

2 羞恥(アイドース)
古代ギリシアにおいて宗教的態度の原点に羞恥の感情があるとする。羞恥は私を捉える他者の視線を私が直覚する事によって生じる。
人間は他者に見られている自分が特定の規範的像と合致していない時に羞恥する。それだから視線の源である他者は、規範の効力を担保する超越的他者である。

オイディプス王が自らの眼を潰したのは、強い羞恥に対して、自らに注がれる他者からの視線を遮るためである。

3 「万物は数である」
ピタゴラス学派は、万物は数としたが、ここで想定される数は有理数であり、単独の数でなく複数の数の比が重視された。比という表現を持つ体験的事実は闘争であり、闘争を掬い取る表現として「万物は数である」という表現が受容されたのでないか。比によって表現される数学的事実は、背後に不断の闘争があり、力が拮抗している事の徴である。

4 テオーロス
テオーロスは、公的な祝祭への訪問者、使者である。国家の神の代りに遠方の祭りを見に行く。視覚の延長としての思惟(積極的視覚)を実現する。

テオーロスはオリンピアでの競技観戦にも派遣され、各地の都市国家の観客が動員された。単一の神(原点)は存在せず、闘いが万物の父であり、闘争に代わる単一の神は未生である。

第12章 予言からパレーシアへ
1 倫理的なパレーシアの三つの契機
パレーシアはソクラテスにおいて完成し、民主主義から生まれるも、民主主義的政治の場を否認する事で完成した。

フーコーによる以下の三つの契機。

①神々との関係
ソクラテスは神託を検証する。検証するためには、神託の意味内容とは独立に真理が成り立つ事を示す。
②検証の形式
ソクラテスは様々な市民と対話する事で神託の真偽を確かめようとする。
③勇気
ソクラテスは真実を語る事で相手を論破し、死刑になるがパレーシアを控えない。

そしてソクラテスは、無知の知(自分が何も知らないと思っている)に至る。

2 オリンピアの祝祭的な闘技
闘いの原型は自己と他者の眼差しの葛藤にあるとする。

創世記にあるヤボク河岸でのヤコブ野営のエピソードでも、ヤコブと謎の人物との戦いは「顔と顔を合わせる体験」として要約されており、これは眼差しの交錯である。謎の人物はヤコブにイスラエルの名を与え、不可視の領域に去る。

これはテオーロス(都市国家から神の代理人として来る)がオリンピアの祝祭を観戦する事と似ている?そして、オリンピアの祝祭の構図は、オイコス(家族)の家長として家庭内で絶対的権力を持つ人々が、国家内で平等な資格を持つ直接民主制と似ている。

ヤコブの戦いとの相違は、テオーロス達が単一個人に収束せずに分散したままである事と、ヤコブのように人間として現れた個人が神に昇華せずに、人間と神々の区分が固定したままである事。これは抽象的な神の概念が古代ギリシアに無かったためかもしれない。

3 主人の言説としての存在論
フーコーによると、古典古代における真実を語る様式は、パレーシア以外に予言(神託)、智慧(賢者)、技術知(専門家)の三つである。

存在論は、世界がどうであるかを語る。予言は的中するために存在論的であるが、それでは例外的な言説においてのみ存在論が成り立つ事になる。

言説を事実確認文(状況を示す)と行為遂行文(依頼や命令等)に分けると、存在論は確認文によって構成されているはず。ジョン・サールは適合方向という概念を提唱し、言葉が世界に適合していく(事実の確認)と、世界を言葉に適合させる(依頼や命令)等を考えた。

適合方向を考えると、宣言文をどちらにベクトルさせるかが問題となる。「これで会議は終了です」という宣言は、会議終了という記述でもあるが、終了の命令でもある(確認文の外観を持つ遂行文)。

予言も宣言文と同じで、確認文の外観を持った遂行文である(時間的に未来に拡大される)。存在論は主人の言説(神の予言)に属する。

4 予言はなぜあたるのか
予言は予言された事によって実現する(予言の自己成就)。予言は確認文の体裁を取るが遂行文であり、人々に選択を迫る。予言の発話は絶対的な妥当性をもって他の可能性を抑圧する。

そして予言的な知おいて抑圧されたものは、賢者の智恵として謎めいた指令になるし、技術者の限定的、機能的な言説となる。

それらを超えたものとして、ソクラテスのパレーシアは、予言を仮説として相対化し、予言の担い手である神の第三者の審級としての効力を否定する(より抽象的な神を想定?)。

ソクラテスが政治から身を引いたのは、パレーシアを実現するための抽象的な第三者の審級が用意されていなかったからだし、彼が脱獄しなかったのは自己への配慮として、神の自分への配慮と同等のものを自らに向けたためとする。

第13章 調和の生と獣のごとき生
1 「私たちはアスクレピオスに雄鶏一羽の借りがある」
ソクラテスは、治癒神アスクレピオスへの供犠を依頼して死んだ。ソクラテスは、新興神を抽象的神の位置に置き、自らの魂の治癒を願ったのかもしれない。
アスクレピオスの名を掲げて病人を治療した集団が、イエスの教団の原型かもしれない。民主制下で、ばらばらの個人ではなく連帯感を持った「私達」として、第三者の審級(アスクレピオス)に倫理的な責務がある。

それは政治的には実現出来なかったが、倫理の領域では強い連帯が生まれた事への感謝である。

2 一者の哲学
パレーシアは第三者の審級の具象性を否定し、抽象的形態を再措定する中で生まれたとする。超越する一者。

一者は魂が身体を一つにするように存在者を存在せしめる。一者は第一原因である。これらの思想は一神教と折り合いが良い。

3 調和の生―ストア派
キリスト教に収斂する前のギリシア的思考としてストア派をあげる。中間的、中庸的思想。純粋作用(働きかけるだけで、働か着かけられる事がない)としての神を認めず、全ての質料につきまとうロゴスとして神を考える。

4 獣のごとき生―キュニコス派
フーコーは、ストア派だけでなくキュニコス派(犬儒派)にも大いに魅了された。ストア派は秩序を重視したが、キュニコス派は歯に衣着せぬ物言いや無作法な態度を様式とした。

フーコーは、真理の生への極限的な適用をキュニコス派とした。

以下の四つの真理の源泉。

①開示(公然たる露出)
②純粋(所有物の拒否)
③正則(自然に適合した獣の生)
④不動(非権力)

抽象的な真理へ移行しようとするストア派に対し、キュニコス派では哲学者自身が具象的な第三者の審級の位置を占めようとする。それはイエス・キリストの姿かもしれない。

第14章 ホモ・サケルの二つの形象
1 「生」の二つの概念
ゾーエー(動物的な生)、ビオス(人間的に様式化された生)。キュニコス派の哲学者達は、ビオスを追求した結果、ゾーエーに行き着いてしまった。

2 ホモ・サケルとしてのイエス・キリスト
ゾーエーの次元を具現するのは、ホモ・サケル(聖なる人間)である。如何なる規範的形式にも束縛されない剥き出しの生。これはローマ法の例外規定にある以下の二条件を満たす人間とされる。

①殺人を罰せられない
②供犠に用いる事が出来ない

ジョルジョ・アガンベンは、中世の狼男をホモ・サケルの一例にしている。重罪を犯した者が共同体から締め出され、森の中を放浪する。

3 倫理預言者でも、模範預言者でもない
倫理預言者は神の言葉を伝える事を使命とし、模範預言者は自らが模範となって信者を統率する。キリストはどちらにも合致しない。

イエス・キリストの衝撃は相対的に高潔であった事で無く、神が人間として呆気なく死んでしまう事にある。ソクラテスやキュニコス派は人間を神のような普遍的模範に向上させようとするが、イエス・キリストにおいては神が人間として下降している。

4 偶有性の必然性/必然性の偶有性
天才の場合、発言の妥当性によって尊敬される。しかし、キリストの真理性は彼がキリストである事によって担保される。これはイエスの行動が偶有的にどうであっても、イエス・キリストであるという必然性によって正当化される事である。

必然的真理として現れる事は偶有的なのだ。

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