日本史の謎は「地形」で解ける【環境・民族編】

読んだ本の感想。

竹村公太郎著。2014年7月17日 第1版第1刷。



第1章 なぜ信長は「安土の小島」に壮大な城を築いたか
1576年(天正4年)に琵琶湖東岸に安土城は築城された。

近江は伊勢からの東海道、美濃からの中山道、越前からの北陸道が合流し、琵琶湖水運も活用出来る。

著者は織田信長の原風景を津島として、氾濫原の中の洲を本拠地とする思想があったと推測する。

第2章 なぜ「日本の稲作文明」は湿地帯を克服できたか
湿地帯を克服して穀倉地帯を造る試み。

第3章 なぜ家康は「街道筋の駿府」を終の棲家に選んだか
駿府は遠浅の海岸を持った。遠浅では船が動かし難く防御壁として活用可能。その点で鎌倉と似ており、徳川家康は源頼朝を模倣したのかもしれない。駿府を挟む東海道五十三次の由井と岡部も険しい峠越えの難所であり、駿府は要害の地である。

第4章 なぜ世界一の「リサイクル都市」江戸は崩壊したか
リサイクルが盛んだった江戸は臭いが酷かったとする。1820年~1829年に日本に滞在したオランダ商館のJ・F・フィッセルは下肥の臭いが不愉快と記録している。

近代水道は無臭を実現したが、環境に厳しい。2013年現在?で日本国内では年間550万tの化学肥料を使用しているが、日本人口一億人で同程度の下肥を排出しているらしい。





第5章 なぜ日本列島は「生きたリン鉱脈」の宝庫なのか
宮城県田尻町の農家で、「冬みず田んぼ」として、冬の田に水を張って、渡り鳥の生息地とする事で、その糞を利用する試みがあるらしい。

さらに、水を張る事でイトミミズが大量発生し、糞や泥が混ざり粒子の細かい土となる事で、雑草の種が沈み込んで発芽し難くなるらしい。蛙が虫を食べる事による防虫効果もある。

第6章 なぜ江戸城の「天守閣」は再建されなかったのか
日本列島は災害が多いが、山脈や海峡、川によって地形が分断されているため、歴史的には日本全域に長期間影響する災害は少ないらしい。

1657年の明暦の大火(振袖火事)の復興では、インフラ整備に注力するために江戸城の天守閣を再建しなかった。



第7章 なぜ勝海舟は「治水と堤防」で明治政府に怒ったか
1896年に利根川等で降水被害があった。

勝海舟は、明治政府が①堤防の基礎を深く掘って強化する事②堤防を二つ作る。川に近い堤防の内側に田畑を配置し、その向こうに堅固な第二堤防を配置するの二点を守らないと指摘している?

一番堤と二番堤の間に水を溜める事で、洪水位を低くする。



第8章 なぜ正倉院の「神秘の宝物」は盗掘されなかったのか
正倉院は8世紀中頃に、倉庫として建設された。

奈良盆地の人口は多くなかったが、人口が密集しており、正倉院に辿り着くには町屋の狭い路地を抜けなくてはならないため、不審者が近づき難かったとする。

第9章 なぜ江戸時代には、車の動力が「人間」に退化したか
日本では牛馬を去勢する風習が無く、人通りの激しい都会では、牛車は都合が悪かったとする。平安貴族の牛車も、多くの人間が牛を取り囲んで御す必要があった。

江戸名所図屏風、江戸図屏風には車が描かれていない。

第10章 なぜ9歳の本因坊秀策は「東海道を一人旅」できたか
本因坊秀策は1829年(文政12年)に広島県に産まれる。9歳で江戸に行き、本因坊家に入った。そして1863年?に死亡。

著者は、9歳の児童が一人旅をした事から、東海道に追いはぎが出没するというのは宿屋のデマだったと推測する。

第11章 なぜ京都が日本の「線路誕生の地」となったか
大津は西日本と東日本、日本海と太平洋を結ぶ結節点である。

第12章 なぜ大阪の街は「五・十日」渋滞が名物なのか
大阪において、1998年では平日の平均渋滞時間が325時間なのに対し、五・十日は20%~40%増しの380時間~470時間となる。

五・十日は納品期限であり、支払いの決済日である。その日は顔を見に行く日であるらしい。

第13章 なぜ大阪は日本の「都市の原点」であり続けるか
大阪は人口密度が濃い。関東平野は2108人/㎡、濃尾平野は2398人/㎡なのに対し、大阪平野は6797人/㎡である。

また歴史が濃く、法務局に登記されている(地籍が確定している)土地の面積は1%程度である。奈良県は8%、京都府は6%、東京都は17%と歴史的に古い町は低い(全国平均は43%)。

著者は大阪は人付き合いも濃いと主張している?

第14章 なぜ「間引きされた地図」は伝える力を高めるか
情報を省略する事で際立たせる。



第15章 なぜ「世界屈指の雪国」で高度文明が創られたか
日本は島の文明であり、雪という特色がある。積雪50㎝以上の地域の人口密度は、日本107人/㎡、ノルウェー12人/㎡、カナダ2人/㎡である。

定期的に閉じ籠る風習が、物を凝視して細工する文化を生んだのかもしれない。幕の内弁当や箱庭等の詰め込む文化。



第16章 なぜ日本文明は「海面上昇」でも存続できるか
日本列島周辺の海面が30m上昇しても日本列島事自体は残る。平野部が沈む。

著者は発電による温排水の影響を考慮しており、原子力では10万kw/時当たり約2万2000㎥が排水され、火力では10万kw/時当たり約1万4400㎥が排水される。

日本全国の原子力発電所で一年間に3170億kw発電されると、年間680億㎥ = 利根川の約7年分の推量が約7℃温められて排出される事になるらしい。

それに火力を合計すると、利根川の年間総流出量の約16倍、世界全体では約173倍が7℃温められている事になる。紀元前1万8000年頃のウィスコンシン氷期から紀元前4000年頃の縄文海進期までで、1℃上昇に平均1700年が必要だったが、今後100年間で3℃~5℃の気温上昇が発生する見込みがある。

第17章 なぜ日本語は「分裂」せず、現代まで生き残ったか
日本ではテレビが言葉を統一する役割を担った?

江戸時代には江戸からの書籍、絵画、芝居、服装等の流行が一体感を生んだとする?参勤交代は強力な情報拡散システムだったとする。

第18章 なぜ日本は「100年後の未来」にも希望があるか
人口減少という転換点に日本はある。

縮小は不安を生むが、20世紀の人口増加が異常だったという見方もある。22世紀初頭の日本人口7000万人は、1940年代に戻るだけの事。

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日本史の謎は「地形」で解ける【文明・文化編】

読んだ本の感想。

竹村公太郎著。2014年2月19日 第1版第1刷。



第1章 なぜ日本は欧米列国の植民地にならなかったか①
日本列島の無資源。広大な土地も奴隷にする人々も少ない。災害も多い(日米和親条約が結ばれた1854年に安政伊賀地震、安政東海地震、安政南海地震発生)。

さらに日本列島の70%は山々であり、湿地も多く騎馬によって一気に制圧する事が困難。

第2章 なぜ日本は欧米列国の植民地にならなかったか②
植民地化の原則である分割統治が行われない。封建制から呆気なく中央集権制に移行。

1872年に新橋~横浜間で蒸気機関車が稼働する等、交通インフラが整備された事が大きい。それから30年余りで鉄道は7000㎞に達した。

第3章 日本人の平均寿命をV字回復させたのは誰か
近代水道の役割。

明治末期から大正10年頃にかけて平均寿命が低下傾向にあるが、1921年の42.7歳から反転し、乳児死亡数も減少している(1921年に年間33万人)。

大正10年(1921年)は、東京市で水道の塩素殺菌が開始された年だった。日露戦争における毒ガス用に液体塩素が製造され、大正9年に東京市長だった後藤新平によって民生に転換されたらしい。

第4章 なぜ家康は「利根川」を東に曲げたか
利根川東遷:
南下して東京湾に流れ下っていた利根川の流路を東の銚子に付け替えた。

埼玉、茨城、千葉の県境にある関宿を防衛上の脅威(北関東と房総半島がつながる)とし、上総が占拠されて江戸湾の制海権を奪取される可能性に備えた?銚子沖で南からの黒潮と北からの親潮がぶつかるため、房総半島以北では太平洋に流される可能性があり、船は房総半島(館山、富浦、上総湊、君津、木更津、柚ヶ浦)で下りて陸路を使う。

1590年代に整備された小名川、新川は悪天候でも船橋に到達出来る軍用水路であり、北関東と房総半島が陸続きになっている関宿に堀を作って利根川を流れ込ませる事で防衛線とする。それが開墾以外の利根川東遷の仮説とする。

第5章 なぜ江戸は世界最大の都市になれたか①
参勤交代によって地方の物資や金銀が集まった。

第6章 なぜ江戸は世界最大の都市になれたか②
森林資源確保。

利根川や荒川流域の他に、船を使用して全国から木材を運搬した。

第7章 なぜ江戸は世界最大の都市になれたか③
江戸幕府は、日本列島の主だった流域の上流域を天領として森林を抑えた。

しかし、森林伐採は激しく、1700年頃に天竜川から供給された木材は年間33万本だったが、1720年には23万本になり、1750年には4万本になり、1770年には1万本以下になって途絶している。

日本の開国は森林資源を使い切ったタイミングでの化石エネルギーへの転換を促したかもしれない。



第8章 貧しい横浜村がなぜ、近代日本の表玄関になれたか
1859年に日本初の国際港となった横浜は、1889年には人口12万人の市になっている。

大河川が付近に無いために水確保が課題で、1887年に相模川からの導水工事が成功している。それまでは二ヶ領用水(多摩川農水)を利用?

第9章 「弥生時代」のない北海道でいかにして
    稲作が可能になったか

各種の工事。

蛇行する石狩川を直線にする工事は1918年に開始され、全長360㎞だった石狩川は268㎞まで短縮された。増水時に水が一気に海に流れるようになった。

さらに石狩川の川底が流下能力上昇によって下がり、石狩平野の地下水が下がった。寒冷地の北海道では植物が分解されずに炭化した状態で堆積して泥炭層となる。

農作土を他から搬入しても、水分を多く含む泥炭層によって農作土が腐食してしまう。そのため、地下水を下げたとする。

著者は、平均気温が4°~5°上昇した状態では北海道は現在の東北の気温になるため、穀倉地帯として期待出来るとしている。

第10章 上野の西郷隆盛像はなぜ「あの場所」に建てられたか
戊辰戦争における彰義隊との戦いで、黒門と山王台は激戦地で、慰霊の場となる。西郷像の背後には彰義隊の墓がある。普段着の西郷像は平和を象徴するらしい。

第11章 信長が天下統一目前までいけた本当の理由とは何か
弱者であったために、他者の思い付かない作戦(桶狭間の特攻や長篠の合戦での馬防等)を思い付いたとする。

第12章 「小型化」が日本人の得意技になったのはなぜか
山々に囲まれて遠くを見渡せない日本人は情報好きで旅行を好んだため、荷物の小型化に拘ったとする。



第13章 日本の将棋はなぜ「持駒」を使えるようになったか
インドの盤上ゲーム、多と蘭画の伝播の波。

第一の波:
インドから東南アジア、中国、アラブ等。日本到着は6世紀頃。タイのマックルックで「歩の成り」という改良が為される。日本で駒が立像から平型になり、漢字表記となって、五角形の駒の尖った先が進む方向を示すようになる。

立像から平型への転換は日本人の小型化志向によって持ち運び易くするためと推察。旅行途中で使用するのであれば、勝負を速くつけ易くするために持駒を使用するようになる?

世界のチェス系では、第二、第三の波で駒の働きを強くする改良が行われているが日本では受け付けていない。



第14章 なぜ日本の国旗は「太陽」の図柄になったか
月と星の国旗を持つ国々は熱帯か亜熱帯に位置しているとする。そうした熱い地域では、昼間は最小限の働きをして、夜間に活動する。

日本では冬があり、太陽の下で活動する風がある。

第15章 なぜ日本人は「もったいない」と思うか
移動する民族は最小限を携帯し、不都合になった物は捨てる。分断された日本列島では、その土地にある物を全て有用資源にするので不要な物が少ない。

第16章 日本文明は生き残れるか
1898年に来日したグラハム・ベルは、日本の水資源を活かすべしと言った?著者は、既存ダムの運用を変更するだけで多くのエネルギーを生み出せると主張する。

第17章 【番外編】ピラミッドはなぜ建設されたか①
ピラミッドはナイル川西岸にのみある。発見されただけでも80基あり、山岳地形の東岸には無い。

著者は、ピラミッドの役割を「からみ」と推察する。

筑後川下流部でも1000年前から確認される工法で、干潟に何本から丸太を打ち込み、木の蔓等を巻き付けると、潮の満ち引き時に、その周辺で潮の流れが緩やかになって土が沈殿する。その土を固めて堤防として活用する。

ピラミッドも同じ活用をされたのではないか。



第18章 【番外編】ピラミッドはなぜ建設されたか②
ギザ台地の三大ピラミッドの役割を、ナイル川河口の干潟における目印と推測する。

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日本史の謎は「地形」で解ける

読んだ本の感想。

竹村公太郎著。2013年10月21日 第1版第1刷。



第1章 関ケ原勝利後、なぜ家康はすぐ江戸に戻ったか
徳川家康の江戸転封は1590年。徳川家康は、利根川を遠くへバイパスし、水はけを良くすれば関東平野を水田地帯に変貌出来る事を見抜いたとする。

1621年には、利根川と西の流域を結ぶ約13mの赤堀川が開通した(下総台地の最も狭い部分、栗橋と関宿の間)。さらに1625年には赤堀川を約6m拡幅し、1654年には川底を約6m掘り下げた。1809年には約73mまで拡幅されている。

1600年の日本の農地面積は140万haであるが、1700年には300万haになっている。それ以前の約1000年間は120万ha~140万haで横這い。

第2章 なぜ信長は比叡山延暦寺を焼き打ちにしたか
延暦寺の創建は788年。長岡京の東北の位置にあり、防御拠点だった。琵琶湖南岸の大津から京都へ山越えする逢坂を守る。

比叡山は京都への侵入口である逢坂を見下ろす位置にあり、1571年の延暦寺焼き打ちは、峠越えにおいて隊列が細長くなる軍隊の安全を確保するためだったとする。

著者は、1568年に足利義昭を奉じて織田信長が上洛したのは、比叡山の僧兵への備えだったとする。そして琵琶湖を制した直後に比叡山を焼き打ちし、その後に足利義昭を追放している。

第3章 なぜ頼朝は鎌倉に幕府を開いたか
鎌倉は狭く(最大人口は三万人程度)、全面の由比ヶ浜という遠浅の海岸は舟底が砂浜を突くために進み難く防御に最適。

794年に建設された平安京は、東西4.2㎞、南北4.9mの範囲に20万人ほどが居住した。都市の二倍の範囲を居住地とすると、人口密度は1K㎡当り4900人、現在の東京都の人口密度は5500人なのでかなり高い。その400年後の平安京の衛生状態は悪かったものと推測される。

疾病を恐れ、源頼朝は鎌倉に閉じ籠ったとする。不衛生にならないためには狭くて人口が増えない鎌倉が良い。

第4章 元寇が失敗に終わった本当の理由とは何か
日本では牛馬を去勢する文化が無く、平安絵巻に登場する牛車は、江戸図屏風からは消えている。

牛車が活躍するような乾いた大地は日本には少なく、モンゴルの騎馬勢は日本の泥に苦しんだのではないか。

江戸時代に制定された東海道53次では、41番目の宮から42番目の桑名まで海路で結ばれる。その間の約28㎞に濃尾平野の泥があり、交通困難。

第5章 半蔵門は本当に裏門だったのか
半蔵門は江戸城の裏口で、将軍が逃げ出す非常用の門と言われる(二重橋と大手門の反対側にある)。

しかし、著者は歌川広重の「山王祭りねり込み」に半蔵門の土手が描かれている事から、非常用の門であるなら、敵が攻め込み易い土手があるのは不自然とする。

甲州街道と江戸城を結ぶ正門とする。大手門は半蔵門と正反対の低平地にあり、そこを通る大名は坂を登らなくてはならない。天皇家も公式行事では半蔵門を通るらしい。

第6章 赤穂浪士の討ち入りはなぜ成功したか
赤穂浪士47人の内、16人が半蔵門付近に潜伏していた(平川天満宮周辺)。

半蔵門へ向かう新宿通り(麹町通り)を守護するために、麹町周辺には徳川御三家や親藩の上屋敷があり、数多くの旗本がいた。

警備が厳重な半蔵門周辺に赤穂浪士が潜伏出来た理由として、江戸幕府による保護を主張する。

討ち入り前に吉良邸は東京駅八重洲口の呉服橋門から、両国橋向岸の本所へ移転している。江戸城郭内からの移転であり、これも江戸幕府によるアシストとする。

吉良邸討ち入りにより、養嫡男である吉良佐兵衛は上野介を守れなかった責任を問われ、吉良家は断絶させられている。

第7章 なぜ徳川家は吉良家を抹殺したか
吉良家は名門であり、朝廷と幕府を取り持つ高家という高職にあった。

1605年に徳川家康は愛知県の矢作川の流路を切り替えて、矢作川河口で塩田や干拓農地を広げていた吉良家の邪魔をしたとする。もとから、矢作川の取水権をめぐる争いが両家の間にあったと推測。

吉良家は1221年の承久の乱後に足利義氏が三河の守護となって吉良庄の地頭職を兼務した事が始まりで矢作川下流域を支配した。1441年には足利義教の暗殺によって吉良義尚が将軍代理を務めるほどの名門。

その後、徳川家康が吉良領に攻め込み、吉良家を従わせる事になる。徳川家康は征夷大将軍になるために朝廷との関わりを持つ吉良家を必要とした。その後の世襲でも吉良家が必要であり、それが復讐のエネルギーになったとする。

第8章 四十七士はなぜ泉岳寺に埋葬されたか
泉岳寺は1612年に徳川家康が創建した。

徳川幕府が赤穂浪士を忠義の志として宣伝するために、浅野内匠頭と同じ泉岳寺に埋葬した?

江戸市内には町境の要所に木戸があり、夜間は扉を閉める。東海道の高輪の大木戸は重要であるが、赤穂浪士討ち入り後に札の辻から高輪に移設されている(1710年?)。

泉岳寺は高輪大木戸と品川宿の間にあるため、多くの旅人が滞留し、赤穂浪士がピーアールされる。

第9章 なぜ家康は江戸入り直後に小名木川を造ったか
小名木川は、江東区を東西に流れる。

隅田川(荒川)と中川を結ぶ水路として作られ、船堀川(新川)、江戸川(利根川)を通じて塩田のある行徳まで行けた。

著者は、小名木川を海の波に影響されない移動路とする。利根川から千葉一体、隅田川を上って埼玉、さらに江戸川上流を制する。

第10章 江戸100万人の飲み水をなぜ確保できたか
虎ノ門堰堤の貯水池を活用。

1653年の玉川上水完成以前は、貯水池の水を活用した。

現在、東京都は利根川から一日に240万㎥の水を導水しており、大量の水を使用している。

第11章 なぜ吉原遊郭は移転したのか
1657年の明暦大火を切っ掛けに日本橋付近から浅草の日本橋への移転。

浅草は、関東の大湿地帯の中で中州上の小高い丘にあり、1000年以上の歴史があった。徳川幕府は、荒川を制御する際に構築した日本堤と隅田堤を維持するために、吉原遊郭を移転し、人口を増やす事で住人による維持を実現したとする。

徳川吉宗は隅田堤両脇に桜を植えており、料亭が隅田堤周辺に誘致され、歓楽街とする事で水漏れ防止要員を確保した?

第12章 実質的な最後の「征夷大将軍」は誰か
征夷大将軍というシステムは、農耕民族による狩猟民族迫害という宿命を内包する。

しかし、江戸末期には征夷大将軍は最高統治者を表す官職名になり、夷を征伐する意味は失われていた。

著者は、最後の夷を関ケ原の戦いにおける西軍総大将 毛利輝元とする。毛利家の領土である中国地方に平野は少なく、狩猟民族であったとする。その後、毛利家は長州に押し込められ干拓と塩田に勤しんで農耕民となっていく?

夷 毛利輝元と戦った徳川家康が最後の征夷大将軍?

第13章 なぜ江戸無血開城が実現したか
江戸時代の江戸は情報基地であり、船によって全国と結ばれていた。情報非共有による日本分裂を回避するために江戸城は無血開城したとする。

第14章 なぜ京都が都になったか
京都は日本列島の地理的中心であり、日本海側と太平洋側との連絡が容易。京都は内陸部にあるようでいて、淀川等を使用して各地に船で移動出来る。

交流軸は栄える。

<交流軸としての滋賀県>
1963年に名神高速道路が開通、1972年には北陸自動車道が開通。北陸自動車道は太平洋側と日本海側を直結し、滋賀県の米原で東名・名神高速道路に合流する。

高速道路開通前の滋賀県の一人当たり製造業粗付加価値額は全国中位だったが、1980年には全国第5位になっている。

第15章 日本文明を生んだ奈良はなぜ衰退したか
飛鳥時代の奈良はシルクロードという交流軸の延長に位置した。

奈良盆地から大和側が柏原に流れ込み、そこから河内湾に行けるならは交通の便が良かった。794年に桓武天皇が大和川流域の奈良から、淀川流域の京都に遷都し、琵琶湖を活用したネットワークを構築。

交流軸から外れた奈良は衰退した。

明治時代になって近畿と大阪、伊勢神宮を結ぶ鉄道が敷設されてから奈良は栄えたとする。

第16章 なぜ大阪には緑の空間が少ないか
都市の緑地は権力者が作るとする。

パーレビ王朝が作ったテヘランのバリアスル並木道、清王朝が作った北京の景山公園等。

大阪は庶民の町であり、緑が少ないとする。

権力者は広大な土地を獲得し、その土地を長期間保持出来る。

第17章 脆弱な土地・福岡はなぜ巨大都市となったか
福岡には稲作が発展するための沖積平野が無い。

現在の福岡は340㎡の地に約150万人が居住する。巨大河川が無いために筑後川から福岡導水を通じて毎日18万㎥の水が送られる。

しかし、大陸との交流軸として発展したとする。



第18章 「二つの遷都」はなぜ行われたか
794年の平安遷都、1603年の江戸幕府開府は、資源確保が目的とする。

4世紀頃に都となった奈良は、大きな湿地湖を有し船を活用出来たが、奈良盆地を抱える大和川流域は小さく、水と森林を活用し難い。

平城京内外に約10万人が居住したとすると、一人の人間が年間に使用する木材は江戸時代で20本~30本であり、10本に節約しても奈良盆地で年間100万本の立木が必要になる。資源確保のために大和川より大きい淀川流域に移転したものと推測。

江戸への遷都も、1600年時点で大阪、京都でそれぞれ約40万人を維持する木材を確保する困難が理由かもしれない。

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