モーパッサン全集/短編集

読んだ本の感想。

モーパッサン全集:1965年9月30日 初版発行。
モーパッサン短編集:1971年1月15日~25日 発行。









モーパッサン短編集は、第一巻に田舎もの、第二巻に都会もの、第三巻に戦争・怪奇ものとテーマ別に収録されている。

以下は、「モーパッサン」の記事へのリンク。

http://nonono7.blog12.fc2.com/blog-entry-2720.html

モーパッサンの思想が最も分かるのは、『パリ人の日曜日』という短編だと思う。

モーパッサン全集「パリ人の日曜日」P68:
雷雨の前に、さいちゅうに、あとに、つりたまえ。天は開いて火線のしまを生じ、地は雷鳴にとどろき渡るときをこそ選びたまえ。すなわち、ことごくのさかなは、貪婪(どんらん)のためか、はた、恐怖のためか知らねど、動揺狼狽(ろうばい)ひとかたならず、日ごろの習性を失いて、右往左往する傾向あり。

⇒モーパッサンが描写した19世紀末のフランスの状態だと思う

大きな変化があった時代。

モーパッサンの描く田舎にあっては、宗教の影響力が未だに強く、仲裁役として司祭が頼りにされる。都会にあっては単調な繰り返しの生活が基本。そして戦争や怪奇の描写では日頃の習性を失う人々が描かれる。

モーパッサン短編集Ⅱ「父親」P179:
生活になんの変化も起ることなく、だんだん年齢をとっていった。希望もなければ、期待もなく、単調で憂鬱な官吏生活を送っていた。毎日、おなじ時間に起きると、おなじ町を通り、同じ門衛の前で、おなじ門をくぐり、おなじ事務室にはいって、おなじ椅子に腰かけ、おなじ仕事をする。彼はこの世でたったひとりきりだった。

⇒似たような記述が幾つか見られる。変化を忌むようでいて、老いによる変化を恐れる

『パリ人の日曜日』の主人公バチソオは、秩序を重んじ、政府が出来ればいずれを問わず、原則的に帰服する。権力には盲目的に服従し、君主を仰ぎ見るために君主を模倣する。

しかし、共和制下においては模倣熱のやり場が無くなってしまう。これは19世紀末の多くのフランス人の状況だったのではないか。

四民平等の中で、多くの人間達が自らの階級を高めるための証を欲する。『首かざり』のマチルドは上流階級への証として首飾りを欲しがり、『勲章』のサクルマン氏は勲章を欲しがり、『夫の復讐』のルイエ氏は友人の妻を欲しがる。

その行動原理は、田舎ものに登場する宗教や慣習に支配された人々と異なるように思える。万人の万人による闘争が行われている。

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用兵思想史入門

読んだ本の感想。

田村尚也著。2016年11月30日 第1刷印刷。



第1章 用兵思想の夜明け
古代用兵思想は、以下の段階を踏んで進歩した。

〇紀元前26世紀~紀元前25世紀頃のメソポタミア
多数の歩兵が密集した方陣(四角い隊形)を組んで戦う。後にファランクス(束ねた木の棒)と呼ばれる。

〇アッシリア
紀元前7世紀前半までにオリエントの世界帝国になる。騎兵や弓兵、槍兵等の異なる兵器を持つ部隊が協同で戦う諸兵科連合部隊を持つ。

〇ギリシアの諸ポリス
紀元前7世紀にファランクス(縦8列~12列)が主流になる。ペルシアと戦うが、山地が多いギリシアではペルシアの騎兵部隊は不利だった。

<重点の形成>
エパメニノンデス(?年~紀元前362年)が、紀元前371年のレウクトラの戦いで重点を形成 = 左翼に極度に兵力を集中した陣形でスパルタ軍中心のペロポネソス同盟軍を破る。

〇マケドニア
フィリッポス二世(紀元前359年~紀元前336年)の時代に軍制改革を実施。従来の重装歩兵(ホプリタイ)より軽装で、6m~7mの長槍を持つ重装歩兵(ペゼタイロイ)で構成されるファランクス(縦16列)を導入。

第2章 ローマの遺産
ローマにおける以下の発展。

〇ファランクス
初期にはファランクスを採用するが、サムニテス戦争(紀元前343年~紀元前290年)におけるカウディウム渓谷の戦い(紀元前321年)で投槍を持つサムニテス人軽装歩兵に山中で降伏した経験から?、軍制を変える。

〇紀元前3世紀頃のマニプルス
ケントゥリア(60人~100人の隊)二個からなる、マニブルス(中隊)を先頭の基本単位とする。一つのレギオ(軍団)が10個のコホルスを持ち、一つのコホルスが3個のマニブルスを持つ。

⇒大規模なファランクスより戦列交代や密集度変更を容易に行える

〇紀元前2世紀末のコホルス
ガイウス・マリウス(紀元前157年?~紀元前86年)による軍制改革。

紀元前107年に執政官に選出されると、兵士に武装や俸給を支給し、部隊編成を標準化した。歩兵の武装を兜、甲冑、投槍、剣に統一し、各レギオにコホルスが10個所属し、各コホルスにケントゥリア(定員80人)が6個所属した。軽装歩兵や騎兵はローマ市民権を持たない補助軍に頼る事になる。

コホルスを戦術単位としており、大きな単位で密集した戦う。

⇒無産市民が職業軍人となり、市民軍から職業群に変化した。やがて軍が市民社会から乖離し、私兵化が進む

〇騎兵部隊
3世紀頃には軍団は地方の農民から徴募されるようになり、機動力の高い騎兵分遣隊(ウェクシラティオ)が編成されて戦うようになる。四世紀前半には野戦機動軍(コミタートゥス)が編成されるようになる。

アドリアノープルの戦い(378年)でゴート騎兵がローマ歩兵部隊を壊滅させると、騎兵優位の時代が続く。

〇ピザンツ帝国
国土を数十の軍管区(テマ)に分割して地方群を管理し、屯田兵制を導入。外敵進入時には、その地域のテマが時間を稼ぎ、近隣のテマと合わせて敵を攻撃。11世紀には版図を過去最大まで広げたが、ローマ同様に長期出兵等で自由農民が没落し、傭兵に頼るようになり、軍事奉仕と引き換えに公有地の管理を委ねるプロノイア制が11世紀末に導入される。

第3章 封建制と絶対王政が生み出したもの
以下の段階。

〇8世紀~9世紀
ヴァイキングやマジャール人の騎兵に対処するためフランク王国で騎兵の地位が高まる。

〇百年戦争(1339年~1453年)
クルトレーの戦い(1302年)にて英国軍長弓兵がフランス騎兵を破る等、騎兵の劣位が進む。

スイス歩兵密集隊形:
1315年のモルガンテンの戦いや、ブルゴーニュ戦争(1474年~1477年)等で地位を上げる。軽装で長槍を持つ。しかし、16世紀前半からの火器に対処出来なくなり、火器を導入した南ドイツの傭兵(ランツクネヒト)が優位になる。

〇イタリア戦争(1494年~1559年)
テルシオ:
ゴンサーロ・デ・コルドバ(1453年~1515年)が、パヴィアの戦い(1525年)の頃から、長槍兵の前後を小銃兵で挟む隊形(テルシオ)を導入。

〇オランダ独立戦争(1567年~1625年)
マウリッツの反転行進射撃:
小銃兵を10列に並べて、連続的に射撃させる。

〇三十年戦争
グルタフ・アドルフの三兵戦術:
小銃兵、槍兵、騎兵による戦い。

〇七年戦争
フリードリッヒの運動戦として、フリードリヒ二世(1740年~1786年)は、交通の結節点となる都市の倉庫に食糧や武器弾薬を備蓄し、移動を容易にした。

第4章 ナポレオンと国民軍の衝撃
18世紀半ばからオーストリア軍やプロイセン軍で軽歩兵が活用され始め、アメリカ独立戦争で活躍する。

〇フランス革命
ナポレオンの前から以下の変化があった。

ジャン・マリッツ(1680年~1743年):
砲身に砲口をあける工程を改善し、大砲を軽量化。

フロラン=ジャン・ド・ヴァリエール(1667年~1757年):
フランス軍の大砲の口径を体系化。

ジャン=バティスト・ド・グリボーヴァル(1715年~1789年):
大砲部品を交換可能にし、砲車等を軽量化。

ピエール=ジョゼフ・ブールセ(1700年~1800年):
1760年代に師団編成を導入し、自軍を幾つかに分割して戦えるようにした。

ジャック=アントワーヌ=ヒッポリト(1743年~1790年):
倉庫からの補給でなく、現地調達による運動戦を提唱。

⇒国民軍の基礎

戦術面においては中央に正規兵による横隊を置き、左右に民兵の縦隊を置く混合隊形を採用。火力を発揮する横隊と突撃衝力を持つ縦隊の組合せ。錬度の低い民兵が敵前で迅速に隊形変換出来ない事に対応。

戦略面ではナポレオンの先見性が光り、開戦が行われる戦場に数日~数週間単位で長距離移動して優位な場所を押さえたり(戦術次元での移動を超える作戦次元における移動)、数度の会戦で戦争全体での勝利を得る(戦術次元と戦略次元の結び付き = 作戦術)という思想が見える。

<戦争術概論>
アントワーヌ=アンリ・ジョミニ(1779年~1869年)による。戦争に普遍の原則があるとして、戦力を重大ポイントに結集すべきとした。内線作戦と外線作戦の概念。

<戦争論>
カール・フォン・クラウゼウィッツ(1780年~1831年)による。戦争に絶対の原則は無いとした。弁証法的な分析法で、一方による他方の完全打倒という絶対的戦争と、制限戦争である現実の戦争を比較。

精神や敵との相互作用、情報の不確実性を戦場の霧として、偶発的事象による影響を「摩擦」という概念に纏めた。また、力と運動の中心を「重点」として、敵の重点を打撃すべきとした。

第5章 産業革命とドイツ参謀本部
産業革命による兵器の進歩。

1841年のドライゼ銃(後装式)の登場や、1858年のアームストロング砲(後装式)の登場等の戦術次元の変化と同時に、プロセンで参謀制度という戦略的変化が発生。

第一次シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争(1848年~1851年)において、動員計画や兵員配備を所掌する機関が存在しなかったため、鉄道輸送等の具体的計画を立てられなかった。

1857年に参謀総長事務取扱に任命されたヘルムート・カール・ベルンハルト・フライヘア・フォン・モルトケ(1800年~1890年)は、商工省等と協議し、鉄道に関する動員計画調整を行う鉄道班を創設。さらに動員通知に電信を用いるようにし、1859年には動員完了まで29日間と1850年の動員時の半分の期間に短縮している。

モルトケは「委任戦術」として、上級指揮官が下級指揮官に全般的企図と達成目標のみを伝え、具体的方法論は下級指揮官に委任する戦術を採用。最高指揮官が全てを把握出来ない事に対処した。

第6章 海洋用兵思想の発展
15世紀の大航海時代にスペイン等の海洋国家が出現。18世紀末頃から蒸気機関が船舶の推進に用いられるようになる。

アルフレッド・セイヤー・マハンの他にジュリアン・コーベット(1854年~1922年)を取り上げる。『海洋戦略の諸原則』では、海戦における第一の目標を海洋における意思疎通網の確保とした。

また、海軍ではなく、陸軍によって決定的勝利が手に入るとした(陸海軍の統合運用)。

第7章 国家総力戦の現出
ドイツの戦略。

〇大モルトケ
当初に限定的勝利を得た後、防勢による消耗戦に転移し、外交交渉によって勝利する。

〇アルフレート・フォン・シュリーフェン(1833年~1913年)
二正面作戦における消耗戦を拒否し、フランス軍を殲滅後にロシア軍を短期で倒すとした。

全てを綿密に計算したが、現実の作戦では失敗した。

第一次世界大戦は長期に及ぶ消耗戦になり、軍隊だけでなく、国家の全てを動員する国家総力戦となった。

第8章 諸兵科協同戦術の発展
〇フランス軍の徹底攻勢主義
1868年に『古代以来の戦闘の研究』を出版したフランス軍のシャルル=アルダン・デュ・ピック大佐(1821年~1870年)は、精神面の重要性を強調。

日露戦争によっても精神力の優位がフランスで強調されたとする。アンリ・ベルクソンの「生命の躍進」とも共鳴する理論。そのため、1913年のフランス軍作戦要務令では、攻撃以外の原則は排除された。

第一次世界大戦においては、1917年に発布された新しい教令で、歩兵部隊の最小単位を半小隊とし、軽機関銃が配備された。小規模な軍隊が柔軟に起動し敵軍を包囲する(戦闘群戦法)。

対するドイツでは、小規模な舞台が敵後方に滲透する滲透戦術が採用され、1918年にはパリ手前90㎞まで迫ったが、決定的勝利は得られなかった。

第9章 航空用兵思想の発展
第一次世界大戦から捜索や偵察に飛行機が活用される。その後、空軍を独立運用するようになり、1918年のドイツでは空軍が設立された。

ジュリオ・ドゥーエ(1869年~1930年)の『制空権―航空戦技術論(1921年)』が引用されており、航空機の潜在力が指摘されている。他にウィリアム・ミッチェル(1879年~1936年)、アレクサンダー・セヴォスキー(1894年~1947年)等。

彼等の思想は第二次世界大戦での大規模な戦略爆撃として実現する。

第10章 機甲用兵思想の発展
〇英国
第一次世界大戦における1916年のソンムの戦いで史上初めて戦車戦を展開。

〇フランス軍
1917年のエーヌ会戦でシュナイダー突撃戦車を投入。ルノーFT軽戦車は車重6.5tで最高速度8㎞/時と軽快な走行性能等で大量生産された。

〇ドイツ
第二次世界大戦から戦車を装備。

1918年のドイツ軍の最後の攻勢カイザー・シュラハトが失敗した原因を砲兵部隊の機動力不足により歩兵部隊と連携出来なかったためとして、1920年にドイツ軍統帥部長官となったハンス・フォン・ゼークト(1866年~1936年)は機動力を生かす陣地戦を志向した。それを引き継ぎ、ハインツ・グーデリアン(1888年~1954年)は快速戦車部隊を基準とする機動戦を提唱。

第二次世界大戦におけるフランス軍は陣地戦を志向しており、戦車を後方に待機させていたため、ドイツ軍による機動戦に対処出来なかった。

第11章 ロシア・赤軍の用兵思想の発展
〇日露戦争後
複数の軍を指揮する正面軍司令部を置くようになる。第一次世界大戦を経て、異なる正面の「連携」という思想に発展。第一次世界大戦では、ブルーシロフ将軍の南西正面軍が四個軍を指揮統制し、オーストリア軍に打撃を与えた。

<縦深戦闘>
道路が未整備なロシアにおいて騎兵部隊が敵後方で戦う。干渉戦争(1917年~1922年)でセミョーン・ブジョンヌイ(1883年~1973年)が実施。

<連続作戦>
ニコライ・ファロフォロメーエフ(1890年~1941年)が提唱。強力な砲兵に支援された狙撃軍団を基幹とする打撃軍数個による作戦を提唱。

<作戦術>
戦術を調整して単一な行動を実現する作戦。戦略の示す道筋に沿って戦術的成功を接合する。1941年の独ソ戦においては、複数の作戦を時間差で連携させる事で、ドイツ軍を破った。

第12章 アメリカ軍の現代用兵思想の発展
朝鮮戦争当時まではドイツ軍の用兵思想の影響が強かった。

〇マクナマラ
戦場における様々な事柄を定量化。敵死体の数で彼我の優位を比較する方法は批判された。

〇アクティブ・ディフェンス・ドクトリン
火力によって敵を消耗させる。ジェームズ・シュレジンジャーが提唱。ワルシャワ条約機構軍に対する兵力の劣勢を火力で補おうとした。

この理論を載せた1976年版FM100-5は米軍史上最大の論争を引き起こしたとされる。1977年にTRADOCの司令官になったドン・スターリーはセントラル・バトルとして、敵後方への火力による打撃を提唱した。

〇エアランド・バトル・ドクトリン
連携によって敵軍の組織的行動を妨害する。1979年にアクティブ・ディフェンスの見直しに着手した結果採用された。

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