ヘロドトス,トゥキュディデス

読んだ本の感想。

責任編集 村川堅太郎。昭和45年8月20日初版発行。



主題は、歴史叙述の誕生だとする。ヘロドトスもトゥキディデスも神話を離れて主体的に真実を追及する歴史記録を描いた。

背景にあるのは、紀元前750年頃にギリシア人が地中海岸に多数の植民市を建設し始め、広い世界を見た人々が自然を合理的に説明しようとする自然哲学を生んだ事がある。真理探究と批判の精神は、ヘロドトスやトゥキディデスの書の根幹でもある。

ヘロドトス:
紀元前480年頃の生まれで、アテナイやバビロニアに滞在した経験に基づいて著述を行ったらしい。主題であるペルシア戦争の叙述は、巻五~巻九までで、他はリュディア王国による小アジア征服や各地の風俗等が記述される。

トゥキディデス:
『戦史』において、紀元前450年代から始まったアテナイとスパルタとの武力衝突を記録する。巻九までの叙述であるが、明らかに未完らしい。

両者ともに、真実への拘りがあるが、結局は当時の時代背景に縛られており、現代人から見ると荒唐無稽になってしまう箇所がある。

P70~P72:
リュディアの王カンダウレスが、自分の妻を溺愛するあまり、気に入りの部下であるギュゲスに妻の裸を見せる話。怒った妻は、ギュゲスを唆して謀反を起こし、ギュゲスは王国を手中にした。

P110:
アルメニア人が、獣皮で出来た船で河下りをしてバビロンで商売をする。船には驢馬を載せており、バビロンで商売した後に、獣皮を積んでアルメニアに帰る。河の流れが速いために、河を船で遡って帰る事は出来ない。

P115:
エジプトのプランメティコス王が、生まれたての赤子を羊に育てさせ、最初の言葉が「ベコス」であると知る。「ベコス」が、プリュギア人がパンを呼ぶ時に使用する言語であると知ると、プリュギア人が最古の民族とした。

P238:
ペルシア王クセルクセスのギリシア派兵に反対していたアルタバノスが、王と同じ夢を見た事で、ギリシア派兵に賛成するようになる。

P308~P311:
ペルシア王クセルクセスは、弟マシステスの妻に懸想するが手に入れられず、その娘アルタユンテを息子のダレイオスの妻にして、女を手に入れ易くしようとする。しかし、息子の妻になる事が決定すると、今度はアルタユンテに懸想し、正妻アメストリスに贈られた上着を贈呈する。
怒ったアメストリスは、原因はマシステスの妻にあるとして、彼女に残虐な暴行を加えたため、マシステスは反乱を起こすが鎮圧されてしまう。

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ひらいて

読んだ本の感想。

綿矢りさ著。発行 2012年7月30日。



折り鶴を開く比喩が良く分からなかった。三角関係の中でしか人間関係を作れない女性という事なのかな?

主人公 木村愛が発狂していく過程。

以下のような価値観。

P41:
少しも信じていないけど、世の中には順位があることを朝から徹底的に思い出させてくれる星座占いは好きだ

P84:
人間の眼が美に対して異常に厳しい事実に、私は戦慄する。どんな人間も美を選別する能力は神から授けられていて、だから誰もがたやすく美の審査員になれる

①最初の三角関係
主人公は予備校生の仲間の中で三角関係にある。友人のミカは、多田という同級生が好きだが、多田は主人公に気がある。多田が主人公に告白し、関係は破綻する。

P56~P57:
ミカが私を避けるようになって初めて、私はミカと遊ぶためにグループに参加していたのだと気づいた。
(中略)
幸の薄そうな彼女の佇まいを、私はずっと隣で見ていたかった

②本編の三角関係
主人公は自分が好きな西村たとえが、同級生の美雪と付き合っている事を知ると、美雪と同性愛的関係になる。

そして、主人公は徐々に発狂していき、西村たとえの父親を殴り、卒業式に関する連絡事項が話される教室で、西村たとえに突き進み、「お前も一緒に来い、どうにかして、連れて行ってやる」と言われ、美雪の教室に走り、「美雪、あなたを愛している。また一緒に寝ようね」と言い、電車で出発する。

折り鶴を開く事にどのような意味があるんだろう?



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恋愛中毒

読んだ本の感想。

山本文緒著。平成10年11月25日 初版発行。



ストーカー体質な女性 水無月美雨(圭子)を主軸とする話。主人公は、自分の痛みに敏感であるが、他人の痛みに鈍感なため異常性に後半まで気付けないようになっている。

湊かなえ先生の小説に似ている。

前夫 藤谷の浮気相手にストーカー行為をしたために離婚し、執行猶予中の主人公が、作家 創路功次郎の愛人となる。作家を独占するために、他の愛人達を排除していくが、娘を監禁したために、逮捕される。

逮捕後、二度と会わないと言われるが、年に数回は創路功次郎と会っている。

創路功次郎:
テレビの構成作家だったが、著述業に専念するようになる。愛人が何人もいる。美代子(一番古い愛人)、陽子(実務的な面を司る)、鈴木千花(アイドル)、のばら(本妻)。奈々(前妻との子供、19歳)。

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劇場版 PSYCHO-PASS

読んだ本の感想。

深見真著。2016年3月25日 初版発行。



2116年が舞台。

日本に侵入したテロリストを始末した主人公 常守朱は、テロリスト達が狡噛慎也と関係している事を知り、東南アジア連合(SEAUn)に飛ぶ。

海上都市シャンバラフロートは、日本と同じシビュラシステムを採用していたが、実際には憲兵隊は精神測定の対象外になってる。

シビュラシステムの目的は、海外進出にあり、インフラ整備が実現した時点でクーデーターを起こすつもりだった。主人公の東南アジア連合行きは、介入の名分作りにあり、国際捜査中の刑事が不正を発見、隠蔽しようとした憲兵隊を政府軍と公安局が鎮圧したという流れを作るためのものだった。

<敵役>
デズモンド・ルタガンダ:傭兵隊長
ユーリャ・ハンチコワ:旧ロシア出身の女性
ウェバー:フランス人の大男
ブン:タイ人のスナイパー

『peau noire masques blancs(黒い皮膚・白い仮面)』(フランツ・ファノン著)



P79:
人が人らしく思想と尊厳を保てる環境などどこにもない。そんな中で、自らの価値基準だけを道標に運命を切り開いていける意志と行動の力は、殊更に輝いて見えるものだろう

P156~P157:
個々人の水準においては、暴力は解毒作用を持つ。原住民の劣等コンプレックスや観想的ないし絶望的な態度をとり去ってくれる。暴力は彼らを大胆にし、自分自身の目に尊厳を回復させる
(中略)
フランツ・ファノンはご存じない?

P203~P204:
国家が崩壊した世界では、『暴力の民間化』が行われる。なぜなら組織された暴力の独占こそが国家の本質だからだ。暴力が拡散すると、それは『政治以下的』なものになる。社会的憤怒を源泉とした、経済活動としての組織暴力だ
(中略)
『地に呪われたる者』、か。ポストコロニアルかぶれの傭兵とは始末が悪い



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執行官 狡噛慎也 理想郷の猟犬

読んだ本の感想。

深見真著。2015年4月25日 第1刷発行。



人間の精神状態を数値的に測定し、善人か悪人かを犯罪係数によって判別可能になった社会。犯罪係数が規定値を超えれば、潜在犯として逮捕される。犯罪係数が高い人間を処理するには、同じく犯罪係数が高い人間が適しており、潜在犯が刑事となる。

測定された精神状態の通称―サイコ=パス。

以下の三つからなる

①監視官時代
2104年。肉体強化アスリートが殺されるバラバラ殺人事件が発生する。被害者は、織部滷摩の運営するトレーニングジムの関係者であるが、織部滷摩の犯罪係数が低いために犯人が見つからない。

捜査中に、津嘉山という人間が狡噛慎也に襲い掛かり、殺され、彼が犯人という事で一応は決着する。

②執行官時代
2112年。バラバラ殺人事件が発生。

織部滷摩は共感覚の持主であり、電気信号を数字として認識可能であり、自らをサイボーグ化して犯罪係数を誤魔化す事が出来る。織部滷摩が読んでいたウラジミール・ナボコフの『ディフィンス』にはチェスについて共感覚を思わせる記述があるらしい。

織部滷摩は、練習生にインプラントを埋め込んで実権をしており、バラバラ殺人は脳を破壊した人体実験を誤魔化す目的があったらしい。8年間も実験を我慢したのは、狡噛慎也が出世するか、犯罪係数が上昇して外されるのを待ったためとする。

③日本からの脱出
槙島聖護が移動に使用した車を使って、彼の隠れ家まで移動し、無人コンテナ船からアジアに脱出した。

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あたしはビー玉

読んだ本の感想。

山崎ナオコーラ著。2009年12月10日 第一刷発行。



南田清順(16歳)の持つビー玉が意志を持ち、喋ったり、動いたりするようになる。食事もすれば体重も増えるらしい。

南田清順は、バイト先の竹中直子(チクチュー)に恋しているが、彼女は同級生の岡本と付き合うようになる。

P242:
オレは無意識に、岡本を見下していた。だから、岡本にチクチューを取られるなんて思ってもみなかったんだ
(中略)
自分が驕っていたことに、気がついた。恥ずかしいよ

そして、清順はビー玉になり、結婚した姉の亜美(24歳)の新居でビー玉と暮らすようになる。

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王妃の帰還

読んだ本の感想。

柚木麻子著。2015年4月15日 初版第1刷発行。



私立女子中学校の派閥争いをフランス革命に見立てて描いたらしい。

失脚した階層上位のクラスメイト王妃(滝沢美姫)を元の地位に戻すまでの物語。

読みようによっては、王妃(滝沢美姫)が、クラスメイト達のヘイトを且つてのNo2に集中させ、彼女に恩を着せる形で復帰したようにも思える。

基本的パターンとして、①新メンバーが加入した事で、ちやほやされなくなった既存メンバーが裏切って別グループに行く、②敵だった人間に親が有力者等の利用価値がある事が判明して味方になるを繰り返している気がする。

最初の方で、王妃(滝沢美姫)が農民グループに馴染めない描写があるが、話が進むに連れて簡単に友達を変えられるようになっていく事に違和感がある。

以下の五つのグループ。

①農民グループ
前原範子(ノリスケ):
主人公。

遠藤千代子(チヨジ):
主人公の親友。トンボ眼鏡。自分の父親と主人公の母親を結婚させようというロッテ作戦をしている。グループの広報担当で、誰とでも話せる。

鈴木玲子(スーさん):
大柄で色白。落ち着いた雰囲気。父親は聖鏡女学園大学の理事。

リンダ・ハルストレム(リンダさん):
スウェーデンと日本のハーフ。赤毛、碧目、獅子鼻。

②姫グループ
王妃(滝沢美姫)がいたグループ。五人。

村上恵理菜:
王妃(滝沢美姫)の元親友。小学校時代はノッボ、デカ女と意地悪されていた。

安藤晶子:
王妃(滝沢美姫)が抜けた事で、ギャルグループから姫グループに入る。村上恵理菜が小学校時代に出したラブレターを持っている。

③伯爵グループ(ギャルグループ)
ギャル系グループ。

④商工業者層(ゴス軍団)
ロックが好き。

黒崎沙織:
村上恵理菜に乗せられて王妃(滝沢美姫)を告発する。

⑤体制側(チームマリア)
聖歌隊やハンドベル部に所属する優等生達五人。

伊集院詩子:
委員長。細い髪にコンプレックスを持っているが、校則違反に厳しい両親のためにお洒落が出来ないらしい。

*****************

①追放
王妃(滝沢美姫)が、自分の腕時計を安藤晶子の鞄に入れ、泥棒の罪を被せた事が黒崎沙織によって告発される。姫グループを追放された王妃(滝沢美姫)は、主人公のグループに入る事になる。我儘な王妃(滝沢美姫)に辟易した主人公達は、王妃(滝沢美姫)を元のグループに戻す事にする。

②裏切り1
農民グループ達のヘアアレンジを王妃(滝沢美姫)がする事で、その価値をアピールするが反発される。リンダ・ハルストレムが自分が構ってもらえなくなった事で、ゴス軍団に入る。

しかし、主人公の母親が編集者でビジュアル系バンドのボーカル上田と仲が良い事を知った事で、ゴス軍団と主人公達の関係が良くなる。

③淫行
担任の星崎教諭が、安藤晶子と一緒に移っている写真がクラス全員にメールで送信される。文化祭は担任不在のままだが、何とか乗り切り、安藤晶子が姫グループから追放される。

村上恵理菜が、色々な人間を煽っているとされる。

④裏切り2
王妃(滝沢美姫)に夢中になっている主人公に嫌気がさした遠藤千代子(チヨジ)が姫グループに入る。しかし、クリスマス会での昭和のアイドル作品鑑賞を推し進めた事で反発され、失脚する。

⑤対決
主人公が、村上恵理菜と対決する。村上恵理菜が小学校時代に出したラブレターを見せびらかしてダメージを与えるが、王妃(滝沢美姫)が村上恵理菜をかばって、友達関係は最初に戻る。

***************

話のメタファーとして機能しているのは、主人公の母親 久美子(43歳)と、担任の星崎卓巳(32歳)の恋愛だと思う。母親は11歳も若い恋人と自分の関係を信じ切れていない。

同じ事が、主人公と王妃(滝沢美姫)の関係にも当て嵌まり、価値観や趣味嗜好が違う相手とは長期間は一緒にいられないとする。

結局、主人公の母親と担任の関係は中途半端になり、遠藤千代子(チヨジ)の父親を二人で出掛けるようにもなる。


P106:
一人は怖いし、悪目立ちしたくない。笑われることを考えただけで、体が熱くなってしまう。これが私なの、と胸を張れるだけの個性も主張もない。足りない自分を補い合うために仲良しで固まることを、どうして悪いことのように言うのだろう

P155:
どこかで思っていた。平凡で善良な自分が人から拒絶されるわけがない、と。糾弾されるのは、どこか傲慢な部分のある強者だけだと

P185:
他人のしくじりを笑うと、自分が安全な場所にいることが確認出来て、心が穏やかになる。一緒になって悪口を言う時が、もっともクラスメイトとの絆を感じる。小さな頃は、決してそんな性格ではなかったはずなのに

P224:
正しいことをやっているという絶対の自信。力の限り相手を痛めつけても批判されない安心感。女の子達の歓声と、次第に弱まっていく村上恵理菜の抵抗に、範子はしばし恍惚としてしまう

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丸かじりドン・キホーテ

読んだ本の感想。

中丸明著。1998年6月25日 第1刷発行。



1998年時点で『ドン・キホーテ』は聖書に次ぐベストセラーであり、70ヵ国語、4000の版を重ねているらしい(聖書は1815年~1975年で349ヵ国語、25億冊)。

物語の舞台であるラ・マンチャはアラビア語で「乾いた大地」を意味するマンシャからきており、平均海抜600mの中央イベリアの、九州全土より広い土地である。

『ドン・キホーテ』を読み解く13の鍵
『ドン・キホーテ』の歴史的背景

①亡国
スペインの原型は「西ゴート王国」にある。

紀元前197年にイベリア半島を最初に統一したのは、ローマ帝国である。海洋民族フェニキア人に対抗するために、地中海を制する港を確保し、資源開発と道路建設を行った。

ローマ帝国は四世紀から五世紀にかけて衰亡し、アジア系のアラン族がフン族に追われて侵入し、ポルトガルに居住した。他にバンダル族やスエビ族等のゲルマン民族が侵入し、スペイン南部を示すアンダルシィーアは、バンダル → アンダルスに由来するという説があり、蛮行を意味するバンダリスモという言葉はバンダル族に由来するらしい。

やがて西ゴート族にイベリア半島は征服される。

<ゴート族>
スウェーデン南部(ゴーテ)に居住したゲルマン民族。270年頃にウクライナに移住し、黒海沿岸に南下して東と西のゴートに分かれた。東ゴート族はフン族に追われてギリシアに移動し、西ゴート族はガリア地方に移住。415年にはローマの傭兵としてイベリア半島に侵攻し、イベリア半島を平定すると573年~586年頃にトレドを都とする。トレドは内陸であり、西ゴート族が交易を主体としない事を示す。

1561年にフェリーペ二世が、首都をトレドから70㎞北のマドリードに移すが、ここも内陸である。

西ゴート族が十万人程度であったのに対し、イスパニア・ローマ人は四百万人を超えていた。支配のためにアリウス派のキリスト教徒だった西ゴート族が、十八代目のレカレード王の代に多数派のローマ・カトリックに改宗(589年)。

西ゴート族の歴史は三百年程度で、34人の王がおり、一人の平均在位は10年に満たない。王の八割は暗殺されており、権力闘争の激しさが伺える。

そして、711年にフリアン伯爵が、娘フロリンダ(ラ・カーバ・ルミーア)をロドリーゴ王に凌辱された恨みからモーロ人の総督ムーサを手引きしてスペインに攻め込ませ、スペインはイスラム教徒の支配下となる。

前編第41章:
ラ・カーバ・ルミーアを「キリスト教の悪女」という意味だとしている。

後編第33章:
ロドリーゴ王が、蛙、毒蛇、蜥蜴の多くいる墓穴に生きたまま入れられた話がある。

②レコンキスタ
モーロ軍に追われた人々が、西ゴート貴族ペラーヨ(在位718年~737年)を王に戴いてレコンキスタ(国土回復戦)にかかった。ゲリラ戦は、この時の山岳戦ゲルラに発するものらしい。

その最中の813年に、ガリシア地方コルーニャ県サンティアゴ・デ・コンポステーラにて、聖ヤコブ(サンティアゴ)の遺骨が発見されたという伝説が生まれた。『ドン・キホーテ』後編第58章にて、この伝説に触れている。

戦況が不利になると、聖ヤコブが舞い降りた等の噂が流れ、アルフォンソ二世(在位792年~842年)やオルドーニョ一世(在位850年~866年)が伝説を利用した事が伺える。聖ヤコブはマタモーロス(モーロ人殺し)という綽名を頂戴し、スペインの国家守護神に祀り上げられた。

③羊の大地
スペインのパエリアは、米作とサフランというイスラム文化が土台になっている。モーロ人は元来が遊牧民であるが、土着民に農作業を行わせていた。

同じようにスペインの王侯貴族も、遊牧民のように羊の大軍を率いて南征しており、メリノ種の羊から取れる羊毛は最大の輸出品だった。

<メリノ種>
北アフリカの蛮族ベニ・メリネス族がスペインに持ち込む。イスラム教徒に品種改良され、毛足の細長い、上質な羊毛の取れる種となった。メリンスという日本語はメリノ種に由来する。

<メスタ>
1273年にアルフォンソ十世(在位1252年~1284年)に確立された移動牧羊組合の制度。羊の通行権として、農民達は羊の移動路に石垣を築く事が許されず、1300年頃に約150万頭だった羊頭数は、1526年には約350万頭になった。

1501年にイザベル女王が出した法令は、移動中に羊が草を食んだ土地は、全て永久に牧草地になるとされ、農業発展を阻んだ。

『ドンキホーテ』前編第18章にある羊の大軍との戦いは、セルバンテスの諷刺かもしれない。

④乞食とペストと聖同胞会
メスタ(移動牧羊組合)の制度によって、農民の労働意欲が削がれたとする。さらに、14世紀半ばから半世紀間流行したペストにより、村を捨てる浮浪者が激増。ドミンゴ・デ・ソト師等の托鉢修道会は、施しを受ける権利を主張した。

1476年には聖同胞会が組織され、浮浪者によって乱れた治安を回復する組織が生れた。それまでにあった自警団を中央の統制下に置いて、王室の命令にのみ従うように改組したもの。警察権と裁判権を併せ持った強力な機関となる。

『ドン・キホーテ』の前編16章、23章、45章にて聖同胞会について言及されている。

⑤イスラムの長い影
プロスペル・メリメが1830年にスペインを旅し、『カルメン』の素材とする。オリエンタルなスペインの風情が多くの観光客を生んだとする。

『カルメン』の語り部が旅したコルドバは、756年~1031年まで回教徒の首都であり、六百の回教寺院、40万冊の蔵書がある大学があり、アラビア人の教授がギリシア古典について講義し、それがルネッサンスの母胎になった。

『ドン・キホーテ』後編67章では、アラビア語由来のスペイン語について講義し、alで始まるほとんどの言葉がアラビア語由来とするが、実際には一割(約四万語)がアラビア語起源である。

⑥ユダヤ人
ユダヤ人は、西ゴート族がトレドを首都に定めた頃には商業活動を行っていたらしい。エルサレムに住んだユダヤ人は神殿と密接な関係を持つ祭司や、モーセの掟に忠実なパリサイ派、サドカイ派であるが、商業活動に自由な人々は金銭の流通が自由なエジプト、ギリシア、イベリア半島に住む事を好んだ。

ユダヤ人達はモーロ人の侵攻に手を貸し、アンダルシィーアの文化に同化して大臣になる者さえいたが、1056年にアルモラビド族が侵入すると迫害されてキリスト教徒の領地に逃げ込んだ。

スペイン語を広めるのに貢献があり、アントニオ・ネブリーハが1492年に『カスティーリア文法辞典』を編纂している。しかし、1597年に出版された『ベニスの商人』でユダヤ人が高利貸というイメージが定着。シェイクスピアはセルバンテスと同年の1616年に死んでいる。

⑦大航海時代
レコンキスタが完遂した1492年以降、コロンブスによる大航海時代が始まる。

正確には、イザベル女王の大伯父にあたるエンリケ航海王子(1394年~1460年)のアフリカ西岸探検に始まる1420年から、1620年のメイフラワー号北米到達までを指す。

コロンブスを支援した財務官ルイス・デ・サンタンヘルはユダヤ教からの改宗者である。コロンブスの手紙にはイタリア語のものが皆無で全てがスペイン語。そのため、ユダヤ教からの改宗者が迫害から逃れるためにスペインのヘノバから、イタリアの同名の地ジェノバに移住したという説がある。

新世界植民地化に邁進した人々の中には、騎士道小説の愛読者もあり、エルナン・コルテス(1485年~1547年)は、ドン・キホーテも好んだ『アマディース・デ・ガウラ』の著者オルドニェス・モンタルボの書いた『空地の開拓』に出てくるカリフォリニアという地名をメキシコ北部の地に命名した。

****************

一攫千金に取り憑かれた若者が海外に飛び出した結果、1500年代初頭のスペインの農村は過疎化して荒廃したとする。ペルーのポトシ銀山が発見されるのは1545年だが、セルバンテスの生年はその二年後。

著者は、日本が十六世紀、十七世紀に鎖国しなければスペインのように人材が海外に流出したとする。

⑧異教徒追放令
コロンブスが第一次航海に出帆する三日前の1492年7月31日に、改宗を拒んだユダヤ人達が航海に旅立った。

レコンキスタを完遂したスペイン王家は、改宗を拒んだユダヤ人16万人~17万人を追放して財産を奪っている。

アルハンブラ宮殿でイザベル女王とフェルナンド王が、ユダヤ人国外追放令を金貨三万ドゥカードと引き換えに解除する事を協議したが、改宗者トマス・デ・トルケマーダ(1420年?~1498年)の注進によって追放令が署名された逸話がある。このユダヤ人追放令が解除されたのは1968年の事である。

スペインにおける異端審問制度は、1478年にローマ教皇庁に申請され、開設されたが、設立を建言したのが、宮廷で重職に就いていた改宗ユダヤ人達で、同胞達の中にユダヤ教に戻る者が多くなるのを見て、自分達の社会的地位が危うくなるのを恐れて告発する道を選んだとする。

1492年当時のスペイン総人口は約700万人ほどであり、ユダヤ人は50万人程度だったが、都市人口の30%以上はユダヤ系であり、追放令が発令されて一年後にはセビリア市の歳入は1/3になり、バルセローナの市中銀行が倒産している。

イスラム教徒も当初は寛大な措置が取られたが、1609年には改宗したモーロ人30万人以上が国外追放されている。イスラム教徒追放はバレンシアの農業に深刻な打撃を与えたとする。『ドン・キホーテ』後編第54章では、サンチョ・パンサの友人であるモーロ人リコーテが追放された話がある。

⑨血の純潔
サンチョ・パンサは由緒正しいキリスト教徒である事に拘る。これが「血の純潔」だ。兵籍に入るのも「血の純潔証明書」が必要で、政治的統一を欠いていたスペインでは、カトリックという共通信仰による異端審問所設置が、カスティーリア人、アラゴン人、カタルーニャ人を結び付けた。

それによって、旧教対新教の宗教戦争を回避出来たのかもしれない。

<カトリック両王の結婚>
1469年に行われたイザベル女王(カスティーリア王国)とフェルナンド王(アラゴン王国)の結婚は、入婿という契約結婚であり、フェルナンドが政治的にイザベルに従う事が結婚契約書に明記されていた。

アラゴン王国の領土はカスティーリアの1/4、人口はカスティーリアの六百万人の1/6であった。二人の結婚資金はユダヤ人が用立てて、フェルナンド王は母方からユダヤ人の血を引いていた。

最初の異端審問所長官トマス・デ・トルケマーダは改宗ユダヤ人であり、スペインのユダヤ教迫害はパラドキシカルでもある。

⑩ハプスブルク家のスペイン
イザベル女王は1504年に没するが、男子に恵まれなかったため、王位を継いだのは次女のフワナであり、ハプスブルク家のフェリーペ一世と結婚している。

フワナは精神に異常をきたし、トルデシーリャスの修道院に幽閉され、王権は長男のカール(カルロス)が代行した。カールは17歳の1517年にスペインに来て、新教徒との戦資金や、神聖ローマ皇帝位を継ぐための選挙資金をスペインから獲得する事を宣言した。

アウグスブルクのフッガー家は、資金を融通する代わりに、スペインの銀鉱採掘権や、貨幣鋳造権、免罪符の販売権まで手にしている。

フランスのフランソワ一世もローマ皇帝位には執心していたため、カルロス五世(スペイン王カルロス一世)としばしば干戈を交わす事になる。

40年間に及ぶ治世中、スペイン王としてのカールの年収は通常100万ドゥカードであり、1542年以降は150万ドゥカードに増額されたが、治世中にスペインを担保にして2886万ドゥカードを借りており、返済総額は3800万ドゥカードに上っている。

サンチョ・パンサが『ドン・キホーテ』に仕える前の月収は、「飯付きで月に二ドゥカード」であった事から、その巨額が分かる。1554年版が最古として残る『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』は腹ペコの少年が主人公であり、当時のスペインが良く見えるとする。

1557年のトリエント公会議でルター派を異端として断罪したカルロス五世の後を1557年に継いだフェリーペ二世は反宗教改革の中心とならざるを得ず、1503年~1660年に欧州の銀保有量の約三倍にあたる1600kgの銀、18万5000kgの金(欧州の金供給量の1/5)がセビリアに運ばれたが、宗教戦争の費用のために国外に流出していた。

『ドン・キホーテ』後編60章から61章に登場するローケ・ギナールは実在の盗賊だが、街道筋を支配して金銀の密輸で生計を立てていた。

ユダヤ人とモーロ人を欠いたスペインではメリノ羊毛を安く売って、製品化されたものを高い値段で売り付けられるようになり、1629年には新大陸の金銀の75%は、ロンドン、ルーアン、アントワープ、アムステルダムに集中したと言われる。

異端思想の侵入が恐れられ、1558年には外国の書物輸入が禁じられ、1559年には禁書目録が増え、同年にスペイン人の海外留学が禁じられた。『ドン・キホーテ』前編第6章で村の住職達がドン・キホーテの蔵書を燃やす話がある。

⑪レパントの海戦
『ドン・キホーテ』後編第1章にて、ドン・キホーテの明晰を判断するために、村の住職達がレパントの海戦(1571年)を仄めかす個所がある。

この戦いには、24歳のセルバンテスも参戦し、左腕を切断する重傷を負っている。

1580年にはポルトガルも併合し、1588年には英国に敗れるものの、スペインは世界一の強国だった。しかし、フェリーペ三世(在位1598年~1621年)の治世では、不況とインフレが頻発し、乞食や盗賊が横行し、1614年には改宗したモーロ人30万人以上が追放されている。

こうした世相を背景に、『ドン・キホーテ』前編が1605年、後編が1615年に出版された。

⑫郷士
ドン・キホーテは郷士であり、貴族と平民の間に位置した。騎士は馬に乗れる身分であるが、郷士はそれ以下。軍役奉仕する義務があった。家系を定めるのは父親の血筋であり認知されれれば娼婦の子でも郷士を名乗れた。

『ドン・キホーテ』前編49章では、ドン・キホーテがブルゴーニュで冒険したグティエレ・キハーダの男子直系と言っている事から、ドン・キホーテの先祖は遍歴の騎士だったようである。

レコンキスタが最終段階に入った十五世紀には、職業軍人が台頭し、軍隊も組織化され、郷士の存在理由が薄れ、自尊心を堅持しながらも乞食化する人々もいたらしい。

元来、ドンとは王侯貴族にのみ冠せられたが、レコンキスタの時代にドンの称号が増産され、1541年の『年代記』の数字では、741万5000人程度の総人口の内、10万8000人のドンがいた事になっている。

『ドン・キホーテ』後編第45章で、サンチョ・パンサがドンと呼ばれて眼を剝く場面や、正式な表題である『才智あふるる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』という郷士とドンを並列する事は、セルバンテスの皮肉かもしれない。

⑬ドン・キホーテの食卓
ドン・キホーテが冒頭で食した食人は以下の通り。

(1)羊肉よりも牛肉を余分に使った煮込み
原文ではオージャ(深鍋)。ひよこ豆、腸詰、豚の脂身や骨、じゃが芋、野菜などを煮込んだ料理。当時、羊よりも牛の方が安かった。

(2)昼の残り肉に玉葱を刻み込んだ辛し和え
辛し和えはサルピコンと呼ばれ、塩(サル)とピコン(挽肉)に玉葱を加えた料理。

(3)塩豚の卵和え
原文では「悲嘆(ケプラント)と破壊(ドウエロ)」。ベーコン・エッグであるらしい。『ドン・キホーテ』前編18章で、ドン・キホーテに羊を殺された羊飼い達は、羊を「砕かれ(ケプラント)」、「損失(ケプラント)」し、「悲嘆(ドウエロ)」にくれ「服喪(ドウエロ)」の内、肉を塩漬けにして、卵を和えて食べたとする。

(4)扁豆
レンズ豆の事。

(5)小鳩の一皿
聖霊が小鳩に宿ると考える。



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疲れている

自分で思っているより疲れていたようだ。

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帰り難い空気

会社から帰り難い雰囲気だった。

「心細いから帰らないで」

何て言って断れば良かったんだろう?

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もう少しで今週が終わる

慌ただしい人や忙しい人を見ていると余裕が無くなる。

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逃げる「孫子」

読んだ本の感想。

守屋淳著。2004年8月15日 第1刷。



以下が、「逃走」を戦略的に使用する原理。

①迂回
目的地への速度を競う場合、敵と戦うよりも、迂回した方が早く到達出来る場合がある
②消耗
敵から体力や蓄えを削り、自分は体力を温存しておき、敵の余裕が無くなった時に戦う

<孫子十三篇の概要>
始計篇:戦争の影響の大きさ、臨機応変の重要性
作戦篇:長期戦の無謀を指摘
謀攻篇:戦わずに勝つ知謀に基づく戦い方
軍形篇:不敗の重要性
兵勢篇:奇正や勢い等の要素
虚実篇:主導権を握り、手薄に追い詰める
軍争篇:軍の行動特性や指針
九変篇:将軍が念頭に置くべき事柄
行軍篇:地形に応じた戦い方
地形篇:細かい地形毎の対処法
九地篇:地形における戦い方、部下への対処
火攻篇:火攻め、水攻め
用間篇:情報の重要性

<曹操>
各地に散在していた『孫子』を再編集し、一つに纏めて自らの注を施している。現在一般的に流通している『孫子』は曹操の再編集版。

200年に曹操(兵力二万)と袁紹(兵力十万)が戦った「官渡の戦い」は、『孫子』的思想では、戦ってはならない戦だった。しかし、逃げ場のない戦いであったために先頭を選ぶ。

曹操の戦術としては、まず延津に向かい、黄河を渡って袁紹の背後に回ると見せかけて、敵を引き付けてから白馬に急行して敵の不意を突いた。

⇒孫子 虚実篇における各個撃破の原理。敵を分散させ、味方を集中して戦う。虚実篇では敵を分散させる方法として、どこが攻撃されるか分からないようにするべきとある

⇒各個撃破のためには敵の情報を収集し、味方の情報を隠匿しなくてはならない

そして、曹操は袁紹軍の兵糧が積んである鳥巣を襲撃し、輜重を全て焼き払う事で勝利する。人間は食料と睡眠でエネルギーを補わなくてはならない

⇒その後の南方への遠征では、孫子 軍争篇における「五十里の遠征では、兵力や物資が半分しか戦場に到着しないから、上軍の将が討ち取られる」の言葉通り勢いが続かずに敗れる

******************

クラウゼヴィッツは、戦闘を決闘の拡大版として一対一の発想(敵の殲滅)であったが、孫子では敗戦部隊の大きさで勝利が確定するとして、敵が多数存在する状況を仮定している(自己保存)。ために謀略を使用して無傷で勝つ事を目指す

<毛沢東>
毛沢東が『孫子』を読んだのは、1935年頃(42歳)の時である。

1921年(28歳)に中国共産党に入党した毛沢東は、1927年(34歳)で井岡山を根拠地とし、朱徳と合流し、遊撃戦の思想を生み出す。

〇遊撃戦
敵が進めば退き、敵が止まれば攪乱し、敵が疲れれば襲い、敵が退けば追い掛ける。多い敵、他の敵部隊と近接している敵、堅固な陣地を持っている敵とは戦い難い

1930年末に、蒋介石の国民党軍の包囲討伐をうけた毛沢東は、敵を自軍根拠地に深く誘い入れて分散させ各個撃破する戦略を採用する。

しかし、李立三に消極的な戦術を批判されて実権を奪われる。李立三は都市での革命を実施しようとするが失敗し、次は李徳(オットー・ブラウン)、博古、周恩来のトロイカ体制となる。

李徳は、亀の甲戦術(堅固な陣地から一定距離机上離れない戦術)を採用する国民党軍に対し、敵殲滅を厳命するクラウゼヴィッツ的支持を与えるが、装備に優れた国民党軍が有利となる。

この苦境に付け込んで実権を奪い返した毛沢東は、長征を行い、延安に逃げ込む。その最中の遵義で行われた会議で『孫子』に言及があり、毛沢東は初めて『孫子』を読んで開眼する。

『孫子』における情報の重要性から、偵察や推論によって一般的に正しい指導を実現する事が可能とした。そして、逃げるためには堅固な根拠地が必要であり、そのためには広い国民の支持が不可欠と考え三大規律 八項注意という軍律を策定した。そして、退却しながら分進する敵軍の弱い部分を偵察し、地形を活かして各個撃破する戦術を採用。

<戦後の毛沢東>
中華人民共和国建国後の毛沢東は、対外的にはクラウゼヴィッツ的、対内的には孫子的に振舞ったとする。

〇国内
『孫氏』では、賞罰で人を動かす事が基本だが、他に以下のような記述がある。

九地篇:
兵士に作戦計画や軍の狙い等についての情報を知られてはならない

全軍を絶体絶命の窮地に追い込んで死戦させる

兵士に規定外の報奨金を与えたり、常識外れの命令を下す事で、全軍を自在に操作出来るようになる

⇒部下への情報を遮断して思考力の無い大軍を作り出し、逃げ道を奪って必死に戦うように仕向ける

毛沢東は建国後も、上記のような形を実行した。情報を遮断し、常識外れなキャンペーンを実施する事で、多くの人間が目先の指示に全力を尽くすだけの存在に陥った。そうして誰も自分に逆らえない体制を築く。

〇国外
戦争論的な殲滅戦の思想。

1950年代から米ソ冷戦が激化すると、核戦争が発生しても中国人が最も多く生き残るために有利だとした。

<ヴェトナム戦争>
ホー・チ・ミンは敵を麻痺させる事に対して『孫子』的発想を戦略の要諦として。

虚実篇:
敵の態勢に余裕があれば疲れさえ、食料があれば糧道を断ち、備えが万全であれば計略でかき乱す

軍争篇:
有利な場所で遠来の敵を待ち、休養を取って敵の疲れを待つ。これを「力」の掌握という

ゲリラ戦で敵を緊張状態に置く。対して米軍はクラウゼヴィッツ的殲滅戦略で対応。ヴェトナム人の多くが戦争を望んだために情報量で独立軍が有利であり、当時の国防長官マクナマラが重視した敵の死体数等の損耗率は、国全体を相手とする場合には不適だった。

損耗率を過大に評価する状態では、敵被害について虚偽の報告をする司令官が出世していき、正しい情報が伝わらない。1968年のテト攻勢では、40あまりの都市に攻勢がかけられ厭戦気分が米国内に蔓延。この時、ヴェトナム軍側もゲリラ戦でない正面攻勢のために被害が大きかったが、正しい情報が伝わらない米国はそれを活かす事が出来なかった。

ヴェトナム戦後に国防長官マクナマラが導き出した教訓は、「我々は敵も自分自身も知らなかった」という『孫子』の謀攻篇にある言葉と同じようなもので、以後、米国の国防大学では『孫子』の研究を組み入れていく。

<失敗について>
以下の二つの人間観。

①人間は間違える
②人間は強く美しくあらねばならない

『孫子』においては、②の立場であり、正しい指揮官が部下達を手足のように動かす事を理想とする。1960年代の米軍や経営理論も同様な思想を持っていたが、『孫子』における部下は地位を与えれば全力を尽くす甘い存在ではなく、死地に落として短期決戦で全力を引き出す視点があった。人間はボタンを押せばその通りに動く機械には成り得ない。

命令されるだけの駒扱いでは積極性が生れず、過ちが愚かさとして評価されない環境ではマイナス情報の隠蔽が生じる。

<ピーター・ドラッカー>
上記のような問題から、人間は間違えるという柔軟な思想を持つ経営哲学が求められた。

ピーター・ドラッカーの以下の視点。

・間違えない人間は信用出来ない
・経営者は自らの過誤を認識し得る能力に対して報酬を得る

計画を過信すると硬直化するため、間違いを柔軟に改めるべき。体系的廃棄 = 敗北を認める事が変化の原動力となる。

<マイケル・E・ポーター>
企業の強味、弱味について探究。

以下の三つの手法を提唱。

①低価格
②差別化
③集中

低価格か差別化のどちらかに集中し、中途半端はしない。

以下のような思想は『孫子』に近いとする。

〇勝者にも無益になるような消耗戦は避ける
〇ある事業単位に攻撃を仕掛け、他を疎かにさせる戦略
〇予告によって競争業者の気持ちを推し量る
〇競争相手に代替技術を奨励する
〇大抵の企業には脅威に対して過剰に反応する部門がある

<トム・ピーターズ>
以下の二つの原理を提唱。

①巨大組織を小さいユニットに分割
②年商二百万ドルを超えた組織は作り変える必要がある

権限を下に委譲する事で、他人任せの心理を排除し、水のように柔軟な組織にする。『孫子』の場合は指揮官と部下が分離するが、ピーターズは自分が自分の指導者になるように仕向ける。

『孫子』が志向するのは短期決戦であるが、長期戦では硬直化による弊害を避けるべき。『孫子』の「窮地」という方法は短期的に成果を出す事を目指すもので、ピーターズの「権限と責任」は長期的視点である。

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明日は忙しい

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ゴールデンウイークまで一週間

休暇が待ち遠しい。

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文明を変えた植物たち

読んだ本の感想。

酒井伸雄著。2011年8月30日 第1刷発行。



第一章 ヨーロッパ発展の原動力ジャガイモ
じゃが芋の原産地は、南米の東コルディエラ山脈と西コルディエラ・ネグラ山脈の間にある標高4㎞のアルティプラノ高原である。紀元前3000年頃には栽培が始まり、ティワナク文明(9世紀~11世紀)やインカ帝国発展の原動力となる。

芋類は地下で大きくなるので気候変動の影響を受け難く調理し易いが、水分が多いために保存に適さず、重いために大量輸送にも問題があり、同量のエネルギーを摂取するには穀物の四~五倍の芋が必要である。

<チューニョ>
乾燥じゃが芋。
四月~九月のアンデスは乾季となり、一日に30度以上の温度差が生じる。気温差が大きい六月~七月にじゃが芋を野天に広げて数日放置し、じゃが芋が凍結~解凍を繰り返すようにして水分を出し易くして、足で踏みつけて水分を抜いて、さらにそのまま乾燥させればコルク状の澱粉質のみが残る。生のじゃが芋の水分を80%とすると、重量が1/5になり、保存にも適すようになる。

⇒輸送や貯蔵に便利になった事で文明が発生した?

*************

じゃが芋は16世紀半ばにはスペインで栽培されるようになり、1580年代にはイタリアに、1588年にはオランダ、1600年までにはオーストリア、ベルギー、フランス、スイス、ドイツ、ポルトガルにまで伝わっている。

食糧としてのじゃが芋普及に貢献したのは、プロイセンのフリードリッヒ大王(1712年~1786年)で、じゃが芋の強制栽培令を発布している。冷害によって麦類の凶作が続く中、じゃが芋は救荒作物として有用だった。

フランスでは七年戦争(1756年~1763年)でプロイセンの捕虜になったアントワーヌ・パルマンティエが、帰国してからじゃが芋普及に活動し、ルイ16世の援助によってパリ郊外のレ・サブロンの原野で試験栽培を行っている。

18世紀頃にはアイルランドでも栽培されるようになり、1754年に320万人だった人口が1845年には820万人になり、1845年~1849年のじゃが芋の病気流行で大打撃を受けた。この時、米国に移住した人々がじゃが芋の栽培を米国に広めたとする。

*************

じゃが芋は麦類だけに頼った人々を飢饉から解放し、飼料としても活用された。寒冷地でも育ち、種芋を植えてから三ヶ月程度で収穫可能。

スウェーデン王位アカデミーのシャルル・スキテスは蒸留酒の実験で1747年に、一エーカーの土地から収穫したじゃが芋のアルコールを566とすると、同条件の大麦は156としており、じゃが芋は大麦の三倍以上のエネルギーを持つ事になる(アルコールは原料中の炭水化物を発酵させて作る)。

さらに、じゃが芋100gの中には35㎎のビタミンCが含まれており、じゃが芋の澱粉が水中にビタミンCが溶け出すのを防ぐ事から、水煮したじゃが芋には生の60%のビタミンCが残るとされる。新鮮な野菜が不足する北部欧州で、じゃが芋は壊血病予防に活用されたと思われる。

さらに余ったじゃが芋を豚の餌として活用するため、19世紀半ばには冬期にも食肉用に牛や豚を飼育出来る環境が整い、新鮮な肉を食べられるようになった。欧州を臭い肉から解放したのは香辛料ではなく、じゃが芋だった。

第二章 車社会を支えるゴム
<車輪>
紀元前3000年紀頃のシュメール人の絵文字に車を表すものがある。メソポタミアの出土品等から、当時の車輪は三枚の板を横木で繋ぎ合わせてから丸く切り出し、中心に心棒を通したものと推測される。車輪を長持ちさせるために外周部に皮を打ち付けて摩耗すれば取り替える。

紀元前2000年紀頃には、何本かの木を繋ぎ合わせて外周部を作り、それを木製のスポークで支える事で軽量化が実現した。

紀元前1000年頃にはケルト人が、車輪の寿命を延ばすために車輪に鉄の外周を付けるようになる。鉄の代りにゴムを使用するようになるのは、1845年頃?空気入りタイヤの特許取得は1888年頃。

<ゴムの使用>
南米から伝わったゴムは、1770年頃に鉛筆の字を消せる事が分かってから、1772年に消しゴムが英国で販売された。18世紀後半には生ゴムが精油に溶ける事が分かり、生ゴムを溶かして運ぶ方法が考え出された。

さらに、1839年にチャールズ・グッドイヤーが硫黄を混ぜる事で生ゴムの弾性を温度に関わらずに保つ方法を見つけ、カーボン・ブラック(細かい炭素の粒子)を練り込む方法を1900年?にモート?が発見した。

<ゴムの普及>
19世紀までの生ゴムは、アマゾン川流域のパラゴムの木から採取された。英国は、持ち出しが禁止されていたパラゴムの種子を1876年にヘンリー・ウィッカムに持ち出しさせ、1877年にはセイロン島でゴム栽培が始まる。

1889年には四トンだったマレー半島の年間生ゴム生産量は、1922年には世界生産量の93%を占めるようになる。1990年以降は、タイが生産量の世界一位で、1/3を生産する。

合成ゴムの研究では1933年に、ドイツのIG社がブナSの開発に成功し、米国も第二次世界大戦中に合成ゴムを開発し、1945年の生産量は82万トンである。

2009年現在の天然ゴム生産量960万トンに対し、合成ゴムは1200万トン。飛行機のタイヤ(高度一万m以上の低温と、着陸時の高温の落差)とコンドーム(0.02㎜の薄さ)には天然ゴムが使用されている。

第三章 お菓子の王様チョコレート
カカオ豆の利用は、紀元前1000年頃のメソアメリカのオルメカ文明に遡るという。高温多湿で育つカカオの豆は、以下の手順で利用される。

①発酵
果実から取り出した実を箱の中で放置し、果肉を液化させて実を取り出し易くする
②乾燥
カカオ豆の約55%は水分であるため、一週間~二週間で水分を抜く
③ロースト
苦味や弱くなり、香実味が生れる
④風選
実(ニブ)から殻(シェル)と胚芽(ジャーム)を除去する。実には脂肪が55%程度含まれるため、30度以上の高温で磨り潰すとペースト状になる。茶褐色のカカオマスの完成。

******************

チョコレートに砂糖を入れて飲むようになったのはスペインのカルロス一世とされ、1615年にフランスのルイ13世がスペイン王女アンヌ・ドートリシュと結婚するとチョコレートを飲む習慣がフランスに伝わる。1660年にマリー・テレーズがルイ14世に嫁ぐ頃にはチョコレートは上流階級の飲み物として定着していた。

1828年にオランダの化学者コンラート・バン・ホーテンがカカオマスから脂肪分の2/3を除去する方法を考案し、ココア粉の製造方法として特許を取得した。

英国のJ・S・フライ・アンド・サンズ社は、除去された脂肪分をカカオマスに加える事で、流動性のあるペースト = 固形チョコレートの元祖として1849年に発売した。

第四章 世界の調味料になったトウガラシ
紀元前8000年頃~紀元前7000年頃の唐辛子は、宗教上の儀式等に使用されたと推定される。やがて、蛋白質に塩味の単調な食事の中に、唐辛子の辛味がアクセントとなる事に人々が気付く。ペルーのアンデス山脈では同時期に唐辛子が栽培されている。

唐辛子は分類上は四種類に分類されており、ロコト(アンデス高地に分布)、南米大陸南部、アマゾン川流域、カプシコカム・アンヌーム(メキシコ原産)の内、カプシコム・アンヌームのみが世界的に普及している。

西洋では長らく観賞用の植物とされていたが、1806年~1807年の大陸封鎖令でアジアの香辛料が入手困難になると、唐辛子が香辛料として活用されるようになる。

***************

唐辛子の世界的普及に貢献したのはポルトガル人で、16世紀半ばには日本まで伝わっている。肉や魚にはアミノ酸のうま味が自然に備わっているが、野菜にはうま味が欠けているため、煮ただけでは美味にならず、澱粉質の単調な食事に唐辛子を使用する。澱粉質への依存度が高かったアジアやアフリカの国で唐辛子は短期間に普及した。

日本料理は、魚と野菜を中心に、素材の鮮度の味を引き出す料理であり、もともとがスパイスと縁が薄い。江戸時代に山葵を使用するようになったが、葱、芹、紫蘇、三つ葉が主で、唐辛子の普及は1825年にマイルドな七味唐辛子(辛味を中和するために胡麻や山椒、けしの実、蜜柑の皮の粉等を混ぜる)が売り出されてからだった。

江戸時代の辛味文化の中心である山葵と七味唐辛子は、客が使用程度を決定出来る事に特徴がある。

第五章 生活の句読点だったタバコの行方
タバコ属の植物は66の種があるが、その内45種はアメリカ大陸に生育する。喫煙用に栽培されているのは、タバクム種とルスティカ種の二種類だけである(両方ともアンデス高地原産)。

9世紀~11世紀に栄えたティワナク文明ではパイプを吸う太陽神の像がある。マヤ族やアステカ族にも喫煙の風習があったが神事であり、庶民が簡単に吸うもので無かった。

喫煙方法は種と関係があり、パイプの出土品がある地域はルスティカ種(乾燥すると細かくなり易い)の栽培地域と重なるし、噛みタバコ(南米北部沿岸、アマゾン川上流域)や嗅ぎタバコ(エイアドル、ペルー、ボリビア等)はタバクム種の栽培地域である。

スペインの植民地だったイスパニューラ島では1560年頃からタバコ栽培が始まり、スペインが栽培を独占していた。米国での栽培開始は、1607年のバージニア入植に求められ、1611年にジョン・ロルフが現地のルスティカ種でなく、欧州人好みのタバクム種の種子を入手し、1615年から英国に輸出している。タバコ以外には植民地経済を維持する産品は無かった。

<葉巻>
タバコは薬草として欧州にもたらされ、ペストや頭痛に効果があるとされた。19世紀まではスペインのローカルな風習だったが、1808年にナポレオン軍がイベリア半島に侵攻すると葉巻がスペインに駐留した英国人やフランス人にも普及した。

<嗅ぎタバコ>
ルイ13世の治世(1610年~1643年)のフランスでは嗅ぎタバコが嗜まれ上流階級に定着した。しかし、フランス革命後は嗅ぎタバコは旧体制の象徴として衰退するようになる。

<パイプ>
進出先の北米でパイプが使用されていた英国でパイプ喫煙が主流になり、1618年~1648年の三十年戦争によって、パイプ喫煙が英国からドイツ、オーストリアにも伝わった。

<シガレット>
細かく砕いたタバコの葉を樹皮等で巻いて喫煙するシガレットは中南米が起源で、スペインに伝わり、紙巻タバコになる。紙巻タバコはスペインからトルコ、ロシアにまで広まり、クリミア戦争(1853年~1856年)には英国やフランスにも伝わる。

何枚もの葉を必要とする葉巻は高価だし、陶器のパイプは壊れ易かった。紙巻は自分で刻んだタバコを吸うという簡易が気に入られた。

<煙管>
日本にタバコが伝来したのは、天正年間(1573年~1592年)までで、伝わった当初は高価だったタバコを活用するために煙管が生み出されたとする。刻んだタバコを一つまみ火皿に詰めるだけで、葉巻のように何枚もの葉を使用しない。

ならず者がタバコを吸い交わす事で誓いを結んだため、1609年には最初の禁煙令が出されるが、徐々に容認されていき、むしろ換金性の高い農産物として栽培が推奨されるようになる。

第六章 肉食社会を支えるトウモロコシ
玉蜀黍栽培はメキシコで始まったと考えられ、紀元前6800年~紀元前5000年頃の地層から原始的な玉蜀黍が見つかる。現在のような玉蜀黍は紀元前1500年以降の地層から見つかる。

以下の優れた特性。

①収穫率
播いた種から取れる種の量では、18世紀初頭の欧州での小麦が五倍~六倍、江戸時代の稲が三十倍~四十倍なのに対し、トウモロコシは八百倍
②面積率
玉蜀黍は同じ面積の畑で小麦の三倍以上の収穫がある
③適応性
北はカナダから南はアルゼンチンまで栽培可能

新大陸の先住民は紀元前1000年頃には、玉蜀黍、インゲン豆、南瓜を同時に栽培していた。玉蜀黍に含まれる蛋白質のアミノ酸価は13と低く体内での利用効率が低い。蛋白質を補うために、インゲン豆(全体の20%の蛋白質)や南瓜(ピタミンAや脂肪分)が副食となる。

欧州での玉蜀黍栽培は、メキシコ中央高原の栽培種が持ち帰られて栽培される1520年頃で、16世紀末にはトルコまで伝わった。しかし、食文化までは伝わらず、ルーマニアや北イタリアでしか日常食として定着していない(玉蜀黍の粉を練り粉状にして食べる習慣)。対して、16世紀中頃に伝わったアフリカでは主穀物となる。気温や日照時間が中南米と似ていたためかもしれない。

玉蜀黍には必須アミノ酸の一つであるリジンの含有量が低く、蛋白質を補う副食が必要である。さらに旨味が強いために、返って主食にすると飽きる。

現在では玉蜀黍の生産量の40%は米国であり、その45%程度が飼料として使用される。1935年に開発されたビタミンDの合成技術は紫外線を浴びずともビタミンを補給する事を可能にし、抗生物質の登場と合わせて家畜飼育方法を変えた。

牧草中心だった時代には体重500kg程度に牛を育てるのに三年以上が必要だったが、現在は生後一年以内に出荷可能であり、豚もかつては一年以上の飼育期間が必要だったが半年で100kg以上になる。

玉蜀黍はアミノ酸組成面で問題があるが、100g当たり350㎉のエネルギー量があり、大豆粕やコーリャン等の穀物と合わせる事で配合飼料にしている。

青い内に刈り取った玉蜀黍を、葉や茎と一緒に細かく裁断して乳酸発酵した飼料は繊維質を含むために、バランスの良い資料であるらしい。

終章 コロンブスの光と影と
新大陸に欧州人が入植した事の影響について。伝染病流行による先住民人口激減や梅毒の流行等。

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China 2049

読んだ本の感想。

マイケル・ピルズベリー著。2015年9月7日 第1版第1刷発行。



抽象度が低いため、鳥瞰的な視点から読む事が困難な本。

天安門事件を契機に、親中から反中に転向した著者の意見。

中国は、1949年頃から百年をかけて計画的に世界の覇権を握ろうとしていると主張。その本質は精密な工程表や詳細な青写真ではなく、態勢を整えておき、好機を逃さない事にある。

読んでいると、他者理解とは自己投影であり、自己と他者が同一でないと悟った時に憎しみが生じるように思える。著者は中国が米国に恐怖を覚え、支配されないために戦っているとするが、それは著者自身の姿勢でもある。

・中国に関する間違っていた前提:
①繋がりを持てば、完全な協力が得られる
②中国は民主化(米国化)への道を歩んでいる
③中国は脆い

米国はソヴィエト連邦への対抗上、中国を支援したが、中国は自らを偽って、弱く善良に見えるよう対外的に情報発信しており、報道からは真実を知る事は出来ないとする。

そうなると、本書に書いてある事の根幹は著者の推測という事になってしまう。以下の対中戦略は、著者が中国の戦略と呼ぶものと似ている。敵と戦うために敵になってしまうという事か。

・対中戦略:
①問題を認識する(中国を競争相手と認める)
②自分を知る(国内の対中支援者を知る)
③競争力測定(測れるものは改善可能)
④競争戦略を考える
⑤協力体制を作る
⑥反体制派を支援し、汚染者を突き止める

⇒他にもあったけど、全てを実行した場合、『中国』になってしまうんじゃないの?

【中国の思想】
毛沢東は資治通鑑を愛読した。その核は戦国時代の兵法であり、世界秩序は本質的に階層を成し、頂点には唯一の統治者が存在する。中国共産党の戦略は、容赦ない競争世界における生存競争を基本にする。

さらに歴史上の成功と失敗から具体的教訓を得ようとする。中国の公式発表や軍事政策においては、歴史上の出来事や格言が語られる。

以下は、戦略の9要素。

①敵の自己満足を引き出し、警戒態勢をとらせない
②敵の助言者を味方につける
③勝利するまで長期間我慢する
④目的のために敵の思想や技術を盗む
⑤軍事力は決定的要素ではない
⑥覇権国(米国)は地位を維持するために極端になる
⑦勢いを見失わない(騙す事と待つ事)
⑧自他を相対的に測る尺度を確立、利用する
⑨常に警戒し、騙されたり、包囲されないようにする

「鼎の軽重を問うな」とは、楚の壮王が、周王室に鼎(周が所有する釜)の軽重を問うた事から、周の所有物を奪う意図を疑われ、敵に対峙出来るまでは敵意を悟られないようにするという教訓に繋がる言葉。中国では、強くなるまでは欺くべきとする。

中華的思想からは、米国の競争と協力を繰り返す政策は、敵意と策略に満ちているように見える。

個人主義的な米国の価値観と異なり、中国には個人の権利が存在せず、中国が覇権を握る世界では民主主義が脅かされるとする。

【米国の中国支援】
1971年にニクソン大統領が対ソ戦略のために中国と交渉した事に始まる。

①インド軍の情報を提供
1971年9月、ニクソン大統領訪中を前に、第三次インド・パキスタン戦争について、インド軍の情報を中国に提供し、中国のパキスタン支援を認めた

②対ソ協力の約束1
1972年1月、ニクソン大統領は中国と協力してソヴィエト連邦に対抗する事を約束(対中禁輸措置からの転換)

③対ソ協力の約束2
ニクソン大統領は毛沢東と会談し、中国に対するソヴィエト連邦の攻撃行動に、米国が反対すると約束

④対ソ協力の約束3
ニクソン―毛会談と同じ日に、キッシンジャーは、葉剣英・喬冠華と対談し、中ソ国境のソヴェエト連邦軍の配置や核攻撃目標の情報を提供

⑤対ソ協力の約束4
1973年2月、北京で対ソを軸に米中協力して安全保障に努める事が確認される。

⑥対ソ協力の約束5
米国とソヴェエト連邦が交わす合意を全て中国とも交わす事を約束。1973年6月のニクソン―ブレジネフ会談の準備中に、キッシンジャーはその事を確認している

⑦人民解放軍への支援
1973年11月に北京を訪問したキッシンジャーは、ソヴィエト連邦が中国を攻撃した場合、「装備や他のサービス」を提供すると約束

⑧技術提供1
1979年1月31日、鄧小平は米国と科学交流を加速させる協定に署名。5年間で1万9000人の留学生が生れた

⑨技術提供2
1978年に調印された大統領指令43は、米国の科学を中国に伝えるプログラム創設を命じている

⑩軍事支援
チェスナット作戦。1979年頃に、中国北西部に信号情報傍受基地設立を許可。戦略情報収集で中国と協力

⑪軍事協力
1982年に米国とベトナム共和国軍が、中国、タイ、シンガポール、マレーシアの支援により、カンボジアプログラムをバンコクで展開。1984年にはその50倍の規模の協力をソヴィエト連邦をアフガニスタンから追い出すために行う。他にアンゴラでも対ソ協力している

⇒中国は弱者を装って米国から支援を引き出し、無為という戦略で他者同士を闘わせたとする

【米中対立】
著者は、1989年のソヴィエト連邦弱体化に伴い、中国政府が米国を危険な覇権国と見做すようになり、国内メディアを通じて米国に敵意を持つ者を育成するようになったとする。

1990年以降は愛国教育プログラムとして、米国が中国の繁栄を抑制しようとしてきた歴史が語られるようになる。中国国家博物館では、中国人民の歴史的優越と、外敵からの侵略に抵抗した歴史が展示されているとする。2004年から世界中に設立された孔子学院は、中国語と文化を学ぶ場として、中国の平和的イメージを外国に植え付けている。

中国古代の歴史を普遍的真実とするならば、米国は覇権国であり、戦国時代の覇権国のように利己的で疑い深く、無慈悲な振る舞いをするはず。

以下が、中国が米国に感じる恐怖。

①封鎖
中国の海岸線に沿って島々が並んでいるため、日本からフィリピンを抑えられると容易に封鎖される。領海内の資源等も奪取され、海上交易が脅かされる

②分断
広大な中国は陸路からの侵攻にも弱く、台湾やチベット、新疆などに分裂分子を抱える

【中国の軍事戦略】
越王勾践のように、中国は、機が熟するまで西洋に協力を約束し、弱体化するまで報復の機会を伺うとする。

人民解放軍の大佐が書いた『超限戦』という本では、直接的な軍事行動によらずとも、法や情報、経済によって勝利する事が出来る。

情報統制を重視しており、①直接的規制、②経済的利益と懲罰、③広告主等による間接的圧力、④サイバー攻撃等で、世論操作を行っている。

殺手鐗(強者に勝つための武器)として、敵を打ち負かすための新技術 = 非対称兵器の開発にも注力している。強襲レーダーやコンピュータウイルス等。安価な武器を秘密裡に開発し、敵が準備する前に使用する。米国軍は情報システムに依存しており、スパイ活動やサイバー攻撃に脆弱である。宇宙衛星への攻撃も手段の一つ。

【中国の米国理解】
特に1880年~1914年までの米国の外交史は、米国が英国を騙しながら覇権国の地位を奪取した過程とする。

共産党中央党校で学ばれている戦略プログラムでは、米国の繁栄は政府による企業支援にあるとしている。国内市場の保護や企業への経済支援を中国は模倣した。

助成金によって政府に育成された企業が市場を拡大し、醸造メーカー等が海外に工場を建てる事を支援している。また、米国は小麦やオート麦をシリアルに加工する技術等を欧州から盗み、ピルズベリー社が活用した。

1900年に製紙の新技術を持つドイツ企業を吸収合併して業界トップになり、鉄鋼業でも政府支援を行った。銅やアルミニウム製造、ゴム産業と石油産業は1880年代には世界的に支配した。

第一次世界大戦までに世界的指導者の地位になり、1914年からの50年間でエレクトロニクスや製薬も支配。

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海岸線の歴史

読んだ本の感想。

松本健一著。2009年5月8日 初版第一刷発行。



以下の三つの論点

①地形は人間の活動によっても変化する
②土地の経済的価値は社会変化によっても変わる
③経済以外の土地の価値

古代都市トロイアは、建設された頃の紀元前3000年~紀元前2500年頃はダーダネルス海峡に面していた。しかし、紀元前1800年~紀元前1275年頃には海岸線から3㎞~4㎞ほど内陸となり、現在では港の面影が無い。日本でも大浦や大津浜、大湊等の、かつては貿易港だったが、内陸の小さな川や漁港となってしまった土地が多くある。

人為的条件によって土地の価値が変わった例としては香港がある。1840年頃の人口は2000人程度だったが、2000年現在では800万人である。かつての沿岸交易では喫水の浅い船のために、外海の大波が入れない浅海が港として使用されたが、外洋交易が盛んになると、水深の深い港が活用されるようになる。

瀬戸内海の「鞆の浦」は、江戸時代までは海上交通の要所として潮待ち、風待ちに利用されたが、大型船が停泊出来ないために現在では小さな漁港になっている。鞆とは、外海から荒波が入り込まない湊口が狭い入り江の意。

日本の外洋交易港である長崎、横浜、函館、神戸も深い水深の港である。水深があって岸壁の切り立った湾は、そのままでは荷下ろしに不便なため、海岸部分を埋め立てる事になる。

<日本の海岸線>
日本は約3万5000㎞という長い海岸線を持つ。国土面積が25倍ある米国の1.5倍、26倍の中国の2.5倍。海岸線という言葉自体が、江戸中期以前には遡れない言葉で、西洋のコーストラインの翻訳語かもしれない。それまでは渚や汀という言葉が使用され、漁撈の場という感覚だった?

太平洋の荒波のために、近代以前の日本は日本海側の海上交通が発達。灘(舟が辿り着けない地)という地名は、日本海側では玄界灘以外に無い。それでも、国土の70%程度が山地であるために、海上交通が発達した。

また、凹凸に富んだ海岸線であるために、緩やかな曲線を中心とする中国の海岸と比較して、海洋生物を生む岩礁が多い。

<洋船と和船>
江戸期までの日本の船は、中央に帆を立てた椀型で、波の上に浮いて沿岸をつたって移動した。欧州の船は外洋の波を横切るため、中央に竜骨を備え、波を切る構造になっている。船内に波が入らないように甲板があり、水の中に入る船腹を大きくする。和帆船は水深5m~6mで十分だが、喫水の深い洋帆船は水深10m以上を必要とした。

和船の特徴は、瀬戸内海の浅海に適している。

<日本の歴史>
①古代
筏状の船に帆を立てて海岸沿いの浅海を走り、浅い湊についたと思われる。出雲大社や平戸島の志々伎が奈良や京都の朝廷と直接的に繋がっていた記述が日本書紀等にあり、港の重要性が伺える。

②中世
後醍醐天皇の隠岐の島脱出に村上水軍が関わっていた事等から、中世の幕府権力は水上まで支配していなかったと思われる。この頃から漁撈の場だった海岸を、交易を盛んにする地域権力が出現したのかもしれない。

③江戸時代
防風林として植えられた松から白砂青松の風景が形成される。新田開発が盛んにならなければ、潮風に強い松を海岸に植樹する行為は無かった。

米栽培以外にも、四木三草(桑、茶、漆、楮、綿、麻、藍)の栽培が奨励され、それらを港に運ぶ海上交通が盛んになった。織豊時代に1600万人程度だった人口が2600万人~3000万人程度になる。

④明治維新以後
近代日本の四大工業地帯は、京浜(横浜)、名古屋(名古屋、四日市)、阪神(神戸)、北九州(博多、門司)と近代的港湾とセットになっている。外国の資源を運び入れ、加工し、海に運び出す行為。

<江戸中期、寛政(1789年~1800年)の三奇人>
①林小平:「海国兵談」を著す
②蒲生君平:「山稜志」を著す。天皇関係の御陵を調べ直す
③高山彦九郎:内陸の上州出身。尊王を訴えた

1785年を初版とする「海国兵談」ではカムチャッカからの黒船が記述されている。国内交易のためだけに港を考えた時代から、国家の防衛を意識する時代。その危機に対処する意識から「海国兵談」は出版され、「日本」という国を明確化しなければ、防衛目的が定まらないとした。守るべきものを明確にする意識が、やがては国体や天皇という問題意識に繋がっていく。

そして、海国であり長大な海岸線を持つ日本の防衛方法は、大陸国家のように海岸線に砲台を並べるのでなく、船に大銃を備えるべきとした。

<日本的意識の変化>
近代の都市生活では海を意識する事は少ない。第二次世界大戦後は防波のために海岸が埋め立てられため、海辺の光景(安岡章太郎)、青幻記(一色次郎)、潮騒(三島由紀夫)のように海辺を描いた文学も少なくなっている。

1965年に発表された幻花(梅崎春生)は戦争中の海岸を描いているが、2000年頃に出版された海辺のカフカ(村上春樹)では海辺の光景は描かれていない。

高度経済成長を期に日本人は海岸を喪失したのかもしれない。著者は、経済的価値以外に、日本人的心性として、海岸を復活させたいのか?

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日本史の全貌

読んだ本の感想。

武光誠著。2011年9月15日 第1刷。



古代 日本国の起こりと貴族の時代
統一体としての初期日本は古墳に現れる。最初の古墳は、奈良県桜井市の纏向石塚古墳とされる。古墳には、弥生時代の墳丘墓のような地域性が無く、大和朝廷にならったものと思われる。六世紀には仏教が伝来し、当時の仏教文化は朝廷の置かれた飛鳥にちなんで飛鳥文化(飛鳥寺、四天王寺、釈迦三尊像等)と呼ばれる。

仏教以後も大陸文化の流入は継続し、国体も中央集権制が整い、遣唐使を通じて白鳳文化(薬師寺や法隆寺、興福寺)と呼ばれる唐風文化が栄えた。それは奈良時代の国際色豊かな天平文化(正倉院)につながる。

中央政権は初期には公営田等の朝廷が直接経営する領土を多く持ったが、貴族層が私有地を持つ流れを押し留める事は出来ず、10世紀には私有地の守護者たる武士が発生する。

その頃には日本独自の文化を尊重する風潮があり、11世紀初めには平仮名と片仮名の字形が一定になり、和歌が流行した。調度品として日本独自の蒔絵が生れるのもこの時期である。

中世 分裂から統一へ
11世紀の貴族対立である保元、平治の乱に加担した事で武家が勢力を拡大する。

源頼朝が諸国に守護や地頭を任命する権利を与えられ、個々の武士が持つ領地支配権を尊重し、幕府が裁判や朝廷との交渉を行う形の政権が成立した。

武家社会では一族の子弟に所領を分ける分割相続がとられていたが、鎌倉時代後期には実家の長である惣領の権威が後退し、守護等の有力武士の保護が求められるようになった。彼等は中小武士団を結集し、勢力を拡大し、鎌倉幕府に対抗するようになる。鎌倉時代は中央文化が庶民に浸透した時代でもあり、彫刻や絵巻物などの写実的なものが好まれた。

鎌倉幕府の次の室町幕府は、守護を通じた全国支配のために、地方武士を組織する守護の権限を拡大した(軍費調達のために守護に年貢徴発を任せる半済令等)。足利義満の頃の北山文化は、金閣寺や五山文学等、禅宗や中国の影響が強いとする。禅文化の広がりは、東山文化にも繋がり、幽玄、侘びという精神性が好まれた。

その後、室町幕府弱体化によって戦国時代となり、江戸幕府の支配が発生する。

近世 幕府支配下の安定の時代
1603年に征夷大将軍となった徳川家康が志向した政権は、兵農分離のもとで農村の自治を重んじた。日本全国を幕府の直轄領とする事は出来ず、1615年の一国一城令や武家諸法度等で大名を制限するものの、中央集権は出来なかった。

一方で農村の購買力は高まり、交通路の整備に伴い、三井(呉服)、住友(銅山)、鴻池(酒造)のように近代財閥の礎となる商人が台頭した。

文化的にも元禄文化として中下級武士や上流町人が生み出した文化を庶民が共有する文化が生じ、合理的な学問を広まった。

江戸幕府の支配力が低下していき、徳川吉宗が採用した年貢増徴策が小農民の生活を圧迫し、彼等の土地を吸収した大地主が台頭する。専売制や藩営工場を通じて農村で成長した資本家層を支配側に取り込む事は、小農民から少量ずつの年貢を取り立てるよりも効率的だったが、幕府は小農民の側に立つ政策を放棄出来なかった。

やがて外国勢力の到来によって新政府が確立する事となる。

近代 戦争の時代から国際協調へ
朝廷を中心とする新政府は、富国強兵を目指して西欧化を進めた。

外国貿易では綿織物業を重視し、国内で綿花を栽培し、綿織物に加工する体制が整った。そして日清戦争、日露戦争を通じて大陸に進出した日本は、韓国保護下や満州経営によって米国や英国の利権と対立するようになる。

開国による経済の発展は、安価な輸入品の流入等により、自給自足の形を破壊し、財閥の成長や社会主義運動を呼び起こす。義務教育によっても大衆文化が発展し、大量出版の時代を迎えた。

多くの大衆が文化の担い手となる事で、耽美派(谷崎潤一郎、永井荷風)、白樺派(武者小路実篤、有島武郎)、新思潮派(芥川龍之介)、新感覚派(川端康成、横光利一)等の多様な文学や芸術が栄えた。

日本は第一次世界大戦による欧州の没落により、ますます大陸に進出していく。自給自足によって戦後恐慌の被害をより直接的に被る人々は軍事による解決を望むようになり、満州事変や日中戦争、太平洋戦争が発生する。

戦争に敗北した日本は、米国を中心とする自由主義陣営に組み込まれ、冷戦下で高度経済成長を成し遂げる。

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カルメン/セルバンテス

読んだ本の感想。

メリメ著。昭和47年5月20日 発行。



『セルバンテス』を読んでいて、メリメの作品とセルバンテスの作品が類似しているように思えた。

カルメン
セルバンテスの「美しいヒターノの娘」に似ている。

カルメンではバスク出身の軍人ドン・ホセがロマ人の女カルメンに魅了され、盗賊団に入り、嫉妬からカルメンの亭主である「片目のガルシア」を決闘で殺し、終にはカルメンまで殺める。

「美しいヒターノの娘」では、貴族の息子ドン・ファンがヒターノ(ロマ人)のプレシオサに魅了され、戦争に出征するという口実で家を出て、ヒターノの泥棒稼業に身を投じる。嫉妬に苦しむ下りや、剣での殺害の場面も似ている気がする。ただし、「美しいヒターノの娘」では、プレシオサが誘拐された代官の娘である事が明らかになり、祝福ムードの中で殺害は有耶無耶になり、幸福な終わり方をする。

P77~P78:
ガルシアはさっそく、鼠をはらう猫のように、腰を折っていました。防御用に左手に帽子を握り、小柄を前に突き出して構えました。これがアンダルシア流の構えです。私はナヴァレ風に構えました。つまり相手の前に直立し、左手は高く掲げ、左足を前に、小柄は右の太股にぴたりとつける構えです。この構えになると、私は自分がどんな巨人よりも強くなったような気分でした

P89~P90:
あんたはまだわたしに惚れておいでだけれど、だからあんたはわたしが殺したくなるのよ。わたしはなんとでも嘘をついて今度もあんたをだますことくらい造作ないんだけれど、わたしにはもうそれさえする気がないのよ
(中略)
カルメンはいつだって自由な女よ。カリとして生まれてきたカルメンは、カリとして死んでいきたいのよ
(中略)
いまわたしはだれにも惚れていないの。わたしはあんたに惚れた自分をいま憎んでいる
(中略)
あんたをこのうえ愛しつづけるなんて、とてもできないことだわ。あんたといっしょに暮らすのがわたしにはもういやなんだもの

タマンゴ
『ドン・キホーテ』に似ている。

欧米人と奴隷貿易で取引するアフリカ人タマンゴの話。酒に酔って自分の妻アイチェを奴隷商人ルドゥに渡すが、酔いが醒めて妻を追いかけて捕らえられて奴隷になる。

奴隷達を扇動して反乱を起こし、終には船を乗っ取るが、動かし方を知らないために船は漂流し、タマンゴだけが生き残って救出され余生をジャマイカで過ごす。

タマンゴの風体や精霊によって船を動かして故郷に戻ると主張する箇所が『ドン・キホーテ』と似ていると思う。

P105:
タマンゴは白人の船長を歓迎するために着飾っていた。彼はいまだに軍曹の金筋のついたままの青い制服の古ぼけた上着を着こんでいた。左右の方にはそれぞれ金色の肩章が一つのボタンに止められて、一つは前方に一つは後方に揺れながら下がっていた
(中略) 
こうした風体でこのアフリカの戦士は、ロンドンやパリの生粋な伊達男とエレガンスを競うつもりでいるのだった。

P107:
奴隷たちはフランスの水夫たちに引渡された。彼らは急いで奴隷たちの木叉をはずし、かわりに鉄製の首枷と手錠を与えた。この一事によっても、ヨーロッパ文明の優位が、はっきり誇示されたものだ

マテオ・ファルコネ
コルシカ人社会にて、逃げ込んだ犯罪者を時計を渡されて密告した息子を殺害する父の話。『ドン・キホーテ』を念頭に入れて読むと違う解釈が可能になる。

他に収録されている『オーバン神父』、『エトリュスクの壺』、『アルセーヌ・ギヨ』も、セルバンテスの「嫉妬深いエストレ マドゥーラ男」や『ドン・キホーテ』の中の短編小説「無分別な物好き」を念頭に入れて読むと印象が変わる。何かを模倣しなければ愛する事が出来ない者達。

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セルバンテス/ドン・キホーテ 前編 下

読んだ本の感想。

『セルバンテス』(野谷文昭編:2016年12月25日 第1刷)と、『ドン・キホーテ 前編 下』(荻内勝之訳:2005年10月20日発行)。





『セルバンテス』に収録されている「ドン・キホーテ」は前編のみで、後半はダイジェストだったので、『ドン・キホーテ 前編 下』で補った。

最期にドン・キホーテ達の墓に捧げられた詩は、『ドン・キホーテ 前編 下』の方が面白いと思う。

「ドン・キホーテ」のテーマは、「学習による人間の欲望」だと思う。

主人公は騎士道物語を読み過ぎて狂ってしまった人間で、自らが騎士であるかのように行動する。周囲の人間が主人公と戦ったり、揶揄ったり、怖がる内に周囲の人間達も彼の世界観に巻き込まれていく。

作品内で展開される恋愛も、第三者が存在しなければ成立しない関係ばかりで、他の人間が自らの恋人を愛する事で、自分の愛情を確認している。

第49章、第50章で、ドン・キホーテと参事会員が、騎士道物語について議論する。客観的事実と主観的事実の対立。

【無分別な物好き】
第32章~第35章で朗読される短編小説。

新婚の騎士アンセルモが、友人のロタリオに自分の妻であるカミーラを誘惑するように依頼し、自分の妻の貞節を証明しようとする。誘惑は成功してしまい、一旦はカミーラの演技で疑いが晴れるが、結局は浮気が露見し、アンセルモは憤死、ロタリオは戦死、カミーラは修道女になる。

〇ギリェルモの娘マルセラ
羊飼いのアンボロシオとグリソストモなどにアプローチされるが羊飼いを続ける。

P160~P161:
恋心への返礼として、わたしも皆さんを恋するようにと、恋してほしいと、そして恋さなくてはいけないと言われます(中略)恋されたからといって、恋してくれる相手を恋さなくてはならないというのが腑に落ちません。それに美しいものを恋する男が醜いことだってあるでしょう。醜いものは忌み嫌われるのにふさわしいのですから、『美しいお前がすきだ、俺は醜いけど、愛してほしい』なんて言うのはすごく変です

〇カルデニアの話
婚約者ルシンダを友人であるドン・フェルナンドに奪われる。物語の途中で、ドン・フェルナンドの恋人ドロテアに出会い、それぞれが元鞘に戻る。

【ドン・キホーテの本棚】
第六章で、ドン・キホーテの姪に頼まれた司祭達が、ドン・キホーテの蔵書を燃やそうとする。司祭による検分。

①アマディス・デ・ガウラ全四巻:
スペインで印刷された最初の騎士道本

②エスプランディアンの偉業:
アマディス・デ・ガウラの息子の物語。他に、アマディス・デ・グレシアという本もあるらしい

③ドン・オリバンテ・デ・ラウラ:出鱈目かつ傲慢と評される
④フロリスマルテ・デ・イルカニア:硬くうるおいの無い文章
⑤騎士プラティール:作者不詳の古い本
⑥十字架の騎士:無知な内容
⑦騎士道の鑑:
レイナルドス・デ・モンタルバンが大泥棒の仲間と登場する。マテオ・ボヤルドの創作にヒントを与えたとしている

⑧パルメリン・デ・イングラテーラ:
類まれな本と評される。ポルトガルの賢王が手掛けたという噂。ミラグアルダ城での棒絵kンが見事とする

⑨ドン・ベリニアス:
胆汁が多過ぎて怒りっぽいという評価。床屋に保存されるが、誰にも読まれないようにとされる

⑩その名も高き騎士ティラン・ロ・ブロン:
勇敢な騎士ドン・キリエレイドン・デ・モンタルバンの話。文体によっても世界一優れた本という評価。騎士達の食事や遺言という類書には見られない行為

⑪ラ・ディアナ:
詩集。賢女フェリシアと魔法の水の個所、長詩句の個所を削る必要があるとする

⑫愛の運命全十巻:異彩を放つ出来が良い本
⑬フィリダの羊飼い:思慮深い宮廷人
⑭珠玉の詩選集:詩の数が多過ぎる。作者は司祭の友人

⑮ロペス・マルドナード歌集:
作者は示唆の友人。良書とする

⑯ラ・ガラテア:
ミゲル・デ・セルバンテスの書。独創性があるが尻切れトンボで、第二部に期待とする

他に、ラ・アラウカーナ、ラ・アウストゥリアーダ、エル・モンセラーテ、アンジェリカの涙等の英雄詩があり、スペインが生んだ最高傑作と評価する。

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日本人と中国人

読んだ本の感想。

イザヤ・ベンダソン著。平成17年2月10日 初版第1刷発行。



難しい本だった。

明治維新が中国化革命であり、思想としての「中国」を絶対化するがために、理想通りでない現実の中国を憎むようになるという主張?それと第二次世界大戦中の日本感情的行動との結びつきが良く分からない。

<日中戦争における謎>
1937年のトラウトマン駐支独大使による和平斡旋により、蒋介石が①満州国承認②日支防共協定締結③排日行為の停止等の日本側の主張を受諾したにも関わらず、日本軍による南京城総攻撃が開始された事。

日本軍の決定には、決断した者が存在せず、市民感情によって攻撃が行われたとする。

〇江戸時代の中国思想流行
江戸時代に日本に亡命した朱瞬水によって、中国思想が伝播した。楠木正成の神格化は、江戸時代に発生したとする。楠木正成の墓碑である湊川の碑は1692年の建碑とされるが、裏面の文章は朱瞬水の作とされる。

1687年に出版された『靖献遺言』は、中国思想の殉教者の記録である。それまで日本には殉教者を尊ぶ気風は存在せず、中華的殉教者として楠木正成が再構築された可能性。

輸入された中国史王に基づいて過去を再評価すると、僅かな例外を除いて全員が不忠者になってしまい、過去が基本的に否定されてしまう。明治維新後の日本でも、摂関政治や武家政治は誤りであるという思想と、世界に冠たる日本史という思想が併存していた。

日本は歴史的に中国の周縁であり続け、中国文化否定は自己否定であり、中国に対抗するには中国の文化形態を移入して、それによって対抗する形を取る。現実の中国と、理念の「中国」を分離し、歴史的所産を伝統として客体化して対処する。

この場合、異民族が中国を政治的に支配しても、文化的支配権を入手したとは言えない。この思想を日本に当て嵌めると、天皇家が「中国」で幕府が「夷」という図式になり、尊王攘夷運動に繋がっていく。

<豊臣秀吉の話>
豊臣秀吉は、天下人となった後も、諸侯は建前としては先輩や同盟者であり、純然たる部下として遇する事が不可能だった。そのため、天皇への忠誠という形で自己の統治権を確立した。

諸侯に対して、天皇への起請文を出させ、天皇から任じられた関白に従うという形式で諸侯の誇りを傷つけずに自らに服従させる。室町時代の復古思想 = 古代は平和であったという古代礼賛感情を天皇に集約させた。

************

豊臣秀頼の朝鮮征伐は、織田信長の踏襲と思われる。1580年に織田信長は朝鮮仲介で明国に、日中貿易再開を申し入れている。①対明貿易再開②朝鮮貿易船数増加③船の大きさを制限しない④薺浦の開港等で、織田信長の意図は朝鮮との貿易活発化にあったと思われる。

豊臣秀吉の残した『箱屋文書』では、朝鮮と九州・四国を同列に置いている。四国に進攻して長曾我部を討って元親を降伏させた後に、土佐一国を与えて、朝鮮征伐の先鋒にする。降伏させた敵を次戦の先鋒にする方式で東アジアを処理出来ると考えていた。

さらに天皇家を北京に移す思想からは、中国を本家と見做す思想が伺える。だから明国から豊臣秀吉を見ると、日本が中華の属国である事を自認している人間に見える。

だから和平交渉時に「爾を日本国王に封じる」とする。しかし、豊臣秀吉は天皇家の権威によって自らを正統化していたため、中国の権威も同時に持ち目る事が出来なかった。武家というよりは天皇の権威に依存する公家の立場。

<崇拝と蔑視の逆転>
1829年に出版された『日本外史』(頼山陽)は、ベストセラーだった。皇国史観の民衆的要約であり、軍人勅諭にも影響したとする。

江戸時代の思想の系譜として、本居宣長が日本史の観点から中国思想の権威を否定していくと、その論理を活用して平田篤胤が中国思想を罵倒していく。

平田篤胤は、中国という絶対の権威と、その象徴である儒者の偶像を民衆の側から破壊した偶像破壊者だった。しかし、平田篤胤自身に独創的思想が無いために、その壊された後の社会に『日本外史』が広まっていく。

外国を権威として尺度とし、その尺度で自己の歴史を計ると自己のほとんどは賊となる。しかし、理念化、体系化、図式化した尺度で本家の外国を見ると、外国も基準から外れているために、今度は自己こそが本家となってしまう。

平田篤胤は、中国の基準にかなう例外的日本人を「全日本人」とし、それを基準にして中国を計るから、孔子という例外以外は全中国人が賊になってしまう。

日本の天皇制においても、「内なる天皇」と現実の天皇を同一視した場合、天皇に任命された政府が奸となってしまう。その理由は、明治維新以来の欧化政策である。天皇を西欧の法的基準で定義する天皇機関説は、尊皇思想と対立するが、その場合、尊皇思想が天皇自身を規定する絶対者となる。

何者も自らの思想の合理性を完全には論証出来ない。権威を借用して追随するのみ。外部の絶対者のイメージを自己と一体化し、一体化したと思い込めない限り精神的に安定しない。

このように「内なる中国」を絶対化し、「外なる中国」を排除した事が、日中戦争継続の理由?この論理が良く分からない。「蒋介石を相手とせず」という日本政府の声明は、「蒋介石が日本の内なる中国に適合するイメージを更新する」なら受容するという事?

当時の日本人は、自らの「内なる中国」が尊皇思想の帰結によるイメージであり、「外なる中国」とは別だという事が理解出来ず、他国という意識が無いままに現実の中国を排除したとする。

中国が自らのイメージ通りに行動しないと取引が成立しない。

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多文明世界の構図

読んだ本の感想。

高谷好一著。1997年1月15日印刷。



以下は、「新世界秩序を求めて」の記事へのリンク。

http://nonono7.blog12.fc2.com/blog-entry-2648.html

上記にて模索していた世界単位(人々が共通の世界観を共有する地理的範囲)を考える。

その方法論として①鳥瞰(世界を生態系によって区分する)と②実施(住民の価値観を実際に聞く)という二つを往還しており、全てを自分で見聞きする事は不可能であるために類推に頼る事になる。

第一章、第二章の内容は、ほぼ前著と等しい。第三章からの著者が類推する世界単位が、本書の独自だと思う。

<ユーラシア>
ユーラシア大陸の生態型を以下の5つに分ける。

①砂漠
ユーラシア大陸を横断し、四大河川が例外的に文明を栄えさせた。オアシスを利用した貿易路。
②草原
砂漠帯の北を並行してトルコからモンゴルまで続く。遊牧に適しており、武力の場として特徴付けられる。
③野
中国中央部とインドが、ユーラシアの大きな野。落葉樹と常緑樹の混合林が広い農地となった農民の空間。
④森
ユーラシア北方と東南アジアに拡がる熱帯林。人間を拒否する空間。
⑤海
居住出来ないが移動には便利。

<インド亜大陸>
ヒンドゥー教が以下の五つを纏める世界。

①デカン高原
玄武岩台地で肥沃ではあるが、雨が少ないため雑穀畑となる。
②インダス乾燥谷
完全な砂漠でありインダス川を利用して小麦を作るが、多くは放牧を行う。
③ガンジス湿潤谷
雨やヒマラヤからの流出水を利用して稲作を行う。
④東部丘陵地
ベンガル湾からの風が齎す雨を利用した稲作。丘や山が多いため、丘陵の間に水田が連なる。
⑤西岸多雨林帯
インド洋のモンスーンを受け、胡椒や肉桂等の熱帯の森林産物を産する。
⑥北部山地
ヒマラヤに続く山地。牧畜が盛ん。

インドでは、インダス乾燥谷を中心とするドラヴィダ系民族(灌漑麦作・牛飼いをする定住者、インダス文明)と、ガンジス湿潤谷を中心とするムンダ系民族(稲作)を紀元前1800ン円頃にアーリアンが侵略し、バラモン教を持ち込んで支配した事で一体化した。

紀元前1000年頃にムンダ系民族を征服すると、マウリヤ朝として統合され、結節点であるパータリプトラを都とした。インドにおける統一王朝はパータリプトラを都とする傾向がある。

インドではインダス乾燥谷から次々と騎馬民族が侵入するため、政治的に不安定である。四世紀~六世紀のグプタ朝は農業中心的であり、バラモン教も農村を中心とするヒンドゥー教に変質していく。インドではジャーティー制度として職業が生れ流れに固定され、ヴァルナとして貴賤が定められる。

<イスラム世界>
以下は、イスラムの世界群。

◎シリア・イラク
チグリス・ユーフラテス両河流域。紀元前4000年頃のシュメール文明が生れた地。

◎エジプト
紀元前3000年頃から高度に利用された農耕地。アレキサンダー大王のアレキサンドリア(港町)建設により海の要素が加わる。10世紀のファーティマ朝時代にカイロが創られ、交易が第一となる。

ファーティマ朝は12世紀後半に崩壊するが、次のアイユーブ朝、マムルーク朝でもイスラムの商人王がカイロに都する構図は変わらない。一方でナイル農業自体も国の柱である。

◎ペルシア世界
平均高度1000mの高原でありアーリアン、シーア派が住む。王に依存するナイル農民に対し、集落運命共同体的なペルシアの農民とする。

◎トルコ世界
草原帯。シリア・イラクをイスラム文化の中核とすると、周辺的。

◎マグレブ世界
ベルベル人。地中海沿岸でオリーブと麦を同一の畑で作る。

◎イエーメン世界
アラビア半島南端の農業世界。

◎アフガン世界
ペルシアに近い。尚武的。

◎トルキスタン世界
サマルカンド、タシュケントを中心にした東西交易の要。

◎モンゴル世界
典型的な草原の世界。

◎チベット世界
高い標高の草原の世界。

上記の砂漠・草原帯にあって、移動の激しい遊牧民や商人が地域的均質性を齎し、定着した農民が細分を可能にする。農民も農地移動や巡礼等で旅をする事が多く、イスラム圏は均質な傾向があるらしい。

<海の世界>
◎インド洋世界
アラビア海とベンガル湾を含む。砂漠から熱帯雨林まで多様な生態を包括する。

◎地中海世界
四周が乾燥した石灰岩台地からなる菌室で小さい海。紀元前3000年頃に現れたフェニキア人が交易を行い、後にヴェネツィアが活躍する。

◎北海・バルト海世界
川と湖が多く、陸路が使い難い。以下の三つの時期。

①バイキング時代(八世紀~十二世紀)
海に展開したゲルマン的農民が交易兼略奪を行った。北海からノルウェーに展開しノルマン朝を建てて地中海のシチリアにまで進出したグループと、バルト海のゴトランド島を中心に、キエフを建設してドニエプル河、黒海を中継してイスラム商人と交易したグループがある。

②ハンザ同盟時代(十三世紀~)
ドイツ商人が、ロシアの穀物・木材やノルウェーの塩漬け魚肉や魚油を運んだ。

③オランダ時代(十六世紀~)
英国から原毛を輸入して織物に加工し、販売したオランダ商人の活躍。オランダは最初は国ではなく、幾人かの承認がアムステルダムを根拠地に海域を牛耳った。領土的関心は無く制海権だけを握って富裕になる方法はヴェネツィアと同等。

◎東アジア海域世界
朝貢貿易を主体とする。海と陸の勢力の衝突がしばしばあり、海民勢力の中心である浙江財閥の蒋介石が、陸民の盟主である毛沢東と衝突し、陸民が勝利したとする。

◎東南アジア海域世界
マレー語圏。基本的に生活の海で、19世紀末までは森林物産を採取、搬出していた。その後、植民地経済の進行によって開発が行われた。

<欧州>
温帯混交林でケルト・ゲルマン系民族が焼畑、牧畜、狩猟を行った(汎神論)。キリスト教が伝播すると、高級文化を受容する余裕がある上層部と、下層部の差が広がる。ラテン語を話す選良と地方語を話す一般民衆等。

各地域はラテン語を話す王を主体とする家産制国家であったが、領土統合の結果、諸問題を王だけでは処理出来なくなったため、官僚制を整備し、業務を分担するために地方語が導入される事になる。王も地方語を使用するようになり、経済・文化圏が分化していき、国民国家が育まれていく。

◎フランス
パリ周辺の大きな盆地。パリは、地中海に直結するローヌ川を持つ。七世紀の欧州は四、五戸を一塊とする集落が一般的だったが、パリ盆地には五十戸を擁する大集落があった。十六世紀にはブルボン朝が栄え、イタリアのルネサンス文化を導入。

太陽王ルイ十四世(1643年~1715年)は宮廷文化を完成させ、パリに集まった人文主義者達が啓蒙思想を発展させていく。

◎ゲルマン世界
森で覆われた丘陵地帯。パリ盆地のような平坦地が無いため、大勢力が無く、領邦国家のような小集団が散在した。世俗中心の@パリと、宗教的中心であるローマから発信される普遍的価値と距離を置きつつも考える風習?

パリ盆地では王が商人と結び付いて勢力を伸ばしたが、ゲルマン世界は神聖ローマ帝国があり、やがては宗教改革が発生する。

◎イギリス
後進地。パリに宮廷文化が栄えていた頃は、フランス北部フランドルに供給する羊毛を生産する地だった。ヘンリー八世(在位1509年~1547年)によって原毛に輸出税、毛織物の輸出税軽減が行われ、毛織物工業が盛んになる。

海外進出については、東南アジアがオランダに抑えられていたためにインドに着目し、インド綿を用いた綿布産業が産業革命に繋がっていく。

著者は、英国人の紳士風を、後発であるがために生活様式や教養が重視されたとしている。

********************

【世界単位の類型】
①生態適応型
ジャワ世界や大陸東南アジア山地等。与えられた生態の上に、それに対応した生業が生まれる。
②ネットワーク型
居住に適さない人口希薄地に、ネットワークが生まれる。
③大文明型
中華世界とインド世界。高密度の人口が広範囲に広がる。人口の基盤は農民であり、その周辺に牧民や商人がいる。

東洋の歴史は、自形的な中華皇帝と、他形的な海民商人との相克の歴史である。中華皇帝の記録する歴史は朝貢であり、複雑な礼法があるが、商人達は便宜的に従っているだけで自形的な王に他形的に対応している。

近代とは欧州が武力を背景に量産した織物を世界中で販売する事で始まった。本来のネットワーク型世界は他形的であったが、強力な武力のために欧州は自形的となる。

現代は強制販売システムを基盤にしている。

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ゲルマン紙幣一億円

読んだ本の感想。

渡辺房男著。2009年12月1日 第1刷発行。



1870年~
1872年の話。

明治維新到来に伴う旧貨から新貨切り替えに伴い、藩札を買い占める事で一儲けを企もうとする者達の話。

ゲルマン紙幣が出来上がるまでに一年~二年が予想され、今すぐに新貨幣に切り替える事は出来ないため、小判と交換する事を持ち掛ければ、安いレートで藩札と交換出来るとする。

<ゲルマン紙幣>
明治政府の発行する新しい紙幣。明治通宝。ドイツで印刷されるためにゲルマン紙幣と呼ばれる。複雑な版面を反転工程して凸版し、紋様が均一になる。最初に細かい紋様を刷って、その上に鳳凰等の大きな図柄を刷り重ねるために白地の空白が無い。

明治五年に発行され、明治九年には従来の紙幣と入れ替わるが、百円と五十円、十円と五円、二円と一円が、同じ紋様、寸法であったために額面の数字を書き換える偽造紙幣が出回る。

西洋紙を使用したために顔料が十分に浸透せず、脱色し易かったためで、和紙を使用した神功皇后札が新たに発行され、明治十八年には日本銀行券の発行が開始される。

【登場人物】
野島小太郎(24歳~26歳?):
広島藩会計局に勤務していた。藩命で偽札を作成していたが、新政府となって偽札作成露見を恐れた藩に放逐され、新貨幣切り替えを利用した一儲けを目論む。

吉兵衛:
贋金の目利きをしている。野島小太郎と組んで藩札の買い占めを行う。買い占め途中で贋金を使用し、逃亡中に死ぬ。

おりん(18歳~20歳?):
計算が得意。両親が戊辰戦争で死亡?し、吉兵衛に面倒を見て貰っている。

柿田徹:
広島時代の野島小太郎の同僚。新政府に勤めるが、雄藩の出身でないために冷遇され、野島小太郎に新貨幣切り替えに関わる情報を渡す。
それと別にゲルマン紙幣の偽物を確保するが、それが露見し狂う。官憲に逮捕される時に、野島小太郎の近くにおり、巻き添えで野島小太郎も獄死する。

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歓迎会だった

今日は歓迎会だった。

他人と話すと疲れてしまう。

「私、イケメンが好きなんです。結婚するなら格好いい人がいい」

何て答えれば良かったんだろう?

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水野理瀬シリーズ

読んだ本の感想。

恩田陸の『三月は深き紅の淵を』に連なる物語群。現在、水野理瀬シリーズの完結編が連載中という事だけど、もうこの作品は出来上がらないのだろう。

作者の初期作品である『六番目の小夜子』、『球形の季節』を下敷きに、特別な人間達を主軸にする。

シリーズ後半にいくに連れて読むのが辛くなっていく。恩田陸初期作品は、脇役にしかなれない者達の話であるが、水野理瀬シリーズは主役である特別な人間の物語。『六番目の小夜子』や『球形の季節』では伝説の転校生をめぐる周辺が主だったけれど、視点が違う。

だから、全ては主人公の周辺者達の演技であり、主人公を目立たせるための作為のようにも思えてしまう。

どちらにしても帝国は完成しなかった。創作活動が、築くはずだった巨大の残骸を片付ける作業と感じられ、だから読み進めるのが苦痛なんだと思う。

********************

それから、物語の特徴は、自らの欲望を持たず、他者の欲望によって渇望する人々。

『三月は深き紅の淵を』の第三章 「虹と雲と鳥と」に登場する篠田美佐緒は、何の渇望も持たない故に、他者の憎悪や嫉妬を煽り、その情動を自らに投影して死んでいく。

小林祥子に憧れる穂積槙子は、『黄昏の百合の骨』に登場する脇坂朋子の原型だと思う。憧れは嫉妬であり、穂積槙子が想定する篠田美佐緒の小林祥子への嫉妬は自らのもの。それが『黄昏の百合の花』では、自らより優位にある者への嫉妬として描かれているように思う。

以下、ネタバレ含む。

三月は深き紅の淵を
2001年7月15日 第1刷発行。



架空の書物である「三月は深き紅の淵を」に纏わる物語群。

第一章 待っている人々
五年目の若手社員 鮫島巧一は、会長である金子慎平の家で毎年行われる「春のお茶会」に二泊三日で参加する。家の中にある幻の書物「三月は深き紅の淵を」を「柘榴の実」というキーワードから探す。

結局、「三月は深き紅の淵を」は金子会長が友人の宿泊客達と四人で合作中の物語であるとされる。

【他の宿泊客】
鴨志田:
銀座の天麩羅屋の三代目。

一色流世:
英米文学の教授。

水越:
横浜でホテルを営む。

【三月は深き紅の淵をの構成】
四部になっている。

①黒と茶の幻想(風の話)
四人の壮年(老年)の男女が屋久島?で旅をする。途中で様々な謎について話す。
・砂漠の外れの塔で三人の修道士が首を吊る
・霞が関の電信柱に小人の手形が付く
・密室状態の広場から子供達の集団が消える
・学校の校庭に「9」という数字を机で並べて書く

お祖母ちゃんの家の夜の話で、家の奥の座敷に、黒い漆塗りの盆の柘榴の実が盛ってある描写。

②冬の湖(夜の話)
失踪した恋人を、主人公の女性が恋人の親友と探す。キャンピングカーで来たに向かう。失踪者の昔の恋人の殺害事件が語られる。青森まで辿り着いて終わり。

死んだ彼女が発見された時、台所の流しに柘榴の皮が捨ててあった。

③アイネ・クライネ・ナハトムジーク(血の話)
海辺の避暑地にやって来た少女が、腹違いの兄を探す。

主人公が別荘地の少年から受け取るポストカードの写真が柘榴である(赤い透明なカプセルをバスケットに埋め込んだ玩具のような果実)。

④鳩笛(時の話)
物語作家が、浮かんだイメージを纏まりなく描く。物語を想像する場面に柘榴が出てくる。

第二章 出雲夜想曲
編集者である堂垣隆子、江藤朱音が北陸にいる「三月は深き紅の淵を」の作者を目指す。「三月は深き紅の淵を」は、1970年代半ば~1980年頃に書かれた本で、第二章現在はその二十年後くらいらしい。

【作者候補】
佐伯嗣瑛:純文学の大家。ミステリーに関する評論も書く
両角満生:耽美的作家
斉藤玄一郎:文芸評論家、大学教授

「黒と茶の幻想」で、夕方わざと障子の同じ箇所を破る老女の話、白馬の群れが浮かんで見える鉄橋の話、坊主めくりの本当の意味、角のある赤子の死体が埋められた教会の話、恐竜の骨の前で墜落死した男の話等が収録されているとする。

「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」に聖と黎二という人物が登場する事が語られる。

堂垣隆子は、「三月は深き紅の淵を」の作者を両角満生の娘と推測する。二人の娘の内の一人は、江藤朱音であるらしい。

第三章 虹と雲と鳥と
高校三年生 篠田美佐緒と高校二年生 林祥子が墜落死する。二人は異母兄弟であり、父親が殺人犯である事を知った篠田美佐緒が、完璧主義の林祥子にその事実を告げ、無理心中の体裁を取る。

篠田美佐緒の家庭教師だった野上奈央子は、彼女達の物語を書く事を決意する。

第四章 回転木馬
作者の構想風景を描く。水野理瀬の物語の原型。男性のように育てられた麗子。

P428:
これはひょっとして麗子の世界じゃないかしら。あたしたちは本当にここにいるのかしら?あたしたちは麗子の作った、この赤い日記帳の世界に生きてるんじゃないかしら―理瀬、もしかするとあたしたちはまたどこかで会えるかもしれない―また別の世界で―別の三月の国で

*************

P69~P70:
現代の我々の生活が巨大な入れ子であるという状況が影響していると考えています。TVドラマを見て、ドラマのストーリーや人物のキャラクターが商品や記号として語られる(中略)スイッチを切ったとたん、箱の中の物語は終了。我々はその外側の生活を生きる。新聞を読めば、我々の日常生活はまた、現実という海に多数漂流する小さな箱の一つでしかない。その外側には得体の知れない悪夢のような世界が広がっているわけです。その昔は、人間がマクロな視点というものを獲得するにはそれなりの努力が必要でした。命を懸けて大航海をするか、宗教や、哲学といったものから学んでいくしかなかった。しかし、現在ではいとも簡単にマクロな視点が手に入る。航空地図でも、青い地球の写真でも、みんなが神の視点を手に入れたわけです。そのことによって広い世界を獲得した人がいるかもしれないが、実際にはそれほどみんな幸せにはならなかった。自分の存在の卑小さだけが身に迫り、他人との差別化に血道を上げることになる。ゆえに、他人の人生がジェットコースターのように展開され、自分の掌に収まるフィクションが好まれるということになる。自分の人生が他人に消費されているということを否定し、他人の人生を自分が握っているという錯覚に陥ることを望む。自分は外側の世界にいたい、という気持ち。それがこんなに多くの入れ子式構造の物語を産んだ背景ではないでしょうか

麦の海に沈む果実
2004年1月15日 第1刷発行。



麦の海に沈む果実

私が少女であった頃、
私達は灰色の海に浮かぶ果実だった

私が少年であった頃、
私達は幕間のような暗い波間に声も無く漂っていた

開かれた窓には、雲と地平線の間の梯子を登っていく私達が見える。麦の海に溺れる私達の魂が。

海より帰りて船人は、再び陸で時の花弁に沈む。

海より帰りて船人は、再び宙で時の花弁を散らす。

********************

上記の詩は、この物語が果実(主役)の物語であり、麦(脇役)の物語ではない事を示しているのだと思う。

13歳?の一年間の記憶を持たない水野理瀬が記憶を取り戻すまでの話。

◉二月の最期の日
水野理瀬(二年生)が全寮制の中高一貫校に入学する。

<ファミリー(水野理瀬が帰属する集団)>
年次は四月からのもの。

聖:六年生。M工科大学への留学が決定している
寛:五年生。指揮者希望
俊市、董:いとこ。三年生と二年生。テニスプレイヤーを目指す
光湖:四年生。亜麻色の髪と瞳
黎二:四年生

◉三月
校長との茶会。降霊会によって死者の魂を呼び出す。校長の親衛隊の一員 修司が屋敷外で殺される

◉五月祭
憂理が推理劇を行う。劇の途中で麗子が乱入し、その後、自殺したと伝えられる

◉初夏
学園内のパーティー。麻理依の死亡。麻薬や地下施設の話。

◉10月
ハロウィーン。薬を飲んだ理瀬が記憶を取り戻す。生きていた麗子が黎二を刺し殺す。

睡蓮
『図書室の海』に収録されている。発行―2002年2月20日。



P72:
理瀬からは、誰よりも大きな花が咲くだろう。でも。(中略)そのためには暗くて冷たい、ぬるぬるした泥の中に沈まなきゃならない

P72:
小学校から帰ってきても、兄たちが帰るまでにはかなりの時間があった。二年生になったばかりの時にここに引っ越してきたが、既に稔は高校生だったし、亘は中学三年で受験を控えていた

P73:
理瀬、源氏物語って知ってるか?

P82:
リセハ、ゲンジモノガタリヲシッテイル?

黄昏の百合の骨
2004年3月10日 第1刷発行。



高校二年生になった水野理瀬の話。英国に留学後、紫苑高校(長崎県?)に入学した。

居住する白百合荘には、梨南子、梨耶子の二人の叔母(祖父の前妻の子)がいる。白百合荘は、かつて軍の諜報活動に使用されており、地下には軍関係の死体が薬品で溶かされ、放置されている(ジュピターの隠語)。死臭を百合の香で誤魔化そうとする思想。

近所に住む脇坂朋子は、幼馴染の勝村雅雪の友人 田丸慎二からアプローチされている。脇坂朋子は、水野理瀬の従兄弟である亘に懸想しており、しつこい田丸慎二を白百合荘の地下室に幽閉し、梨南子や水野理瀬の前で自分の身体を切りつける。

最期に、水野理瀬の婚約者のライバルに雇われた梨南子が水野理瀬を毒殺しようとするが、稔達が乱入して失敗し、自殺する。

P172:
女がそうやってお高く止まっていられる期間はほんの少しよ。自分が一番若いと思ったら大間違い。毎年、次から次へとあんたより若い子が出てくるんだから。ところてんみたいに、女は『若い女』という箱の中から年々押し出されて、下に落ちていくの。男なんて、しょせん女は若い方がいいに決まっている

⇒著者の中心思想の一つだと思う。価値基準が外部(男)にあるため、独立出来ない女性

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仕事が一つ終わった

年初にかけて行うべき準備作業が一段落ついた。

しばらくは気が楽になる。

現状の無駄が多い仕事が僕を養っている。

会社全体としては、プロジェクトの進捗状況が思わしくないようで工程の練り直しをしている。上手くいくはずのない作業をしており、そうした無駄があるからこそ僕は会社員をやっていける。

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暴走する文明

読んだ本の感想。

ロナルド・ライト著。2005年12月25日 第1刷発行。



10年ほど前の本だけれど、既に内容が陳腐化している事に驚く。

<ポール・ゴーギャン>
1897年にタチヒを訪れる。存在についての謎として、「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか?」を絵画に描いた。

それらの問いが本書の主題であるが、人間は常に新しく古い事が問題になる。現在の価値観の多くは300年程度の歴史しか持たない。それなのに文明は同じような崩壊の道程を辿る。

文明とは業績拡大の間だけ儲かるマルチ商法のようなもので、拡大する周辺から富を中央に吸い上げ、生態系への要求が極大化し、富の新たな源泉が見つからない場合に崩壊する。土壌侵食、不作、疫病等で、宗教が約束した支配者と天界の特別な関係が虚偽である事が明白になる。

古代文明はどれも局所的であり、特定の生態系が崩壊しても、人口移動により別の文明が生まれる。

長続きした文明はエジプトと中国で、エジプトは年毎にナイル川の洪水が運ぶ堆積物が土壌を再生し、シュメール文明を崩壊させた塩類蓄積が無かった。また、人口増加も緩慢で古代王朝からクレオパトラの治世まで3000年間で200万人から600万人に増えただけだった。一㎢あたり150人が、ナイル川流域における扶養能力の限界であり、水が媒介する伝染病が人口を抑制したと思われる。

中国では、農耕発祥より遥か前に、ユーラシア大陸の乾風が、後退する氷河によって露出された表土を巻き上げ、黄土の形で堆積物が数百フィートの厚さで蓄積されていた。黄土高原において土壌浸食が発生しても、その下から肥沃な地層が現れるので、絶頂期の漢帝国は5000万人程度の人口を維持出来た。中国は漢王朝没落後は南部に水田耕作を普及させ、新たな富の源泉を見つけている。

現代は決して例外ではなく、現代人は中国やインドから学ぶべきかもしれない。

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PSYHO-PASS ASYLUM 1、2

読んだ本の感想。

吉上亮著。

「PSYHO-PASS」が好きな人間でないと楽しめない話だと思う。

人間の精神を数値化し、一定値以上の人間を異常者として処罰する世界の話。

システム上の矛盾として、精神を安定数値にするために、多くの人間が薬物や虐待によるストレス解消に頼っている事で、定型者となるために異常行為を行わなくてはならず、それがエピソードの要となっている。

PSYHO-PASS ASYLUM 1
2014年9月10日 印刷。



◉無窮花:
2094年と2102年の話?朝鮮人民共和国の対日工作員チェ・グソンは、終身大統領 金夢陽の私生児であり、朝鮮人民共和国の内乱に巻き込まれ、去勢されて義妹を廃人にされ、日本に亡命する。

日本で運び屋として生き延びるが、義妹が仮想空間でのコンサートを望んだため、その資金捻出のため、麻薬売買に手を染める。しかし、義妹のスソンの発狂は治っておらず、コンサートは仮想空間での売春だった。

結局、麻薬売買が露見し、義妹は公安局員に殺され、グソンは反政府活動に従事する事になる。

桜霜学園の王陵璃華子は何だったんだろう?

P123~P124:
厚生省主導の<シビュラシステム>による統治が確立した2070年までの40年間は、手配師にとって黄金時代だったという。<サイコ=パス>が社会のあらゆる部分に浸透していくなか、健全な精神を維持し、ストレスによる色相悪化を防ぐため、多くの国民が薬物に手を出した

P140:
二二世紀の人類は、極端なストレス耐性の低さ・他者との同調しやすさを内包しており、それが負に傾けば、精神汚染という最悪の事態が待っているからだ。グソンはその恐ろしさを知っている。一国さえ滅ぼす悪意の伝播を防ぐためには、徹底した管理体制が必要だろう。そして、それを実現したのは日本だけだ

P186:
『ああ不思議な事が!こんなに大勢、綺麗なお人形のよう!これ程美しいとは思わなかった、人間というものが!』。……これのほうがよっぽど収穫だな。まるでミランダになったみたいだ

◉レストラン・ド・カンパーニュ:
執行官 縢秀星の話。

人工的に食物を作成する機械(オートサーバ飯)に天然物が混入された事件を捜査する。

犯人は天然素材を売りにするレストランを経営していた真谷五郎で、高機能料理製造機械を使用して、残飯を提供していた事を暴かれた事から、高級自動調理器を販売する企業グストーの櫛名光葉の評判を落とそうとしていた。

櫛名光葉と高家六雁が和解して終了。

P280:
天然食材を食することは、色相を濁らせかねないリスクを承諾した上で行われる、脱法行為のようなものだから、だそうだ。現行法では、新鮮な天然食材も腐敗した天然食材も、まったく同じものなのだ。

PSYHO-PASS ASYLUM 2
2014年11月20日 印刷。



◉Abouto a Girl
執行官 六合塚弥生と唐之杜忘恩の話。

虐待され妊娠した人間を殺し、代わりに赤ん坊を育てる組織を追跡する。航海する船の中で外部との通信を切断され、危機に陥るが、自衛隊の無人フリゲート艦と接続し、組織を壊滅させる。

P194:
この社会は、あまりに多くのものを排除し、喪失させてきた。シビュラによる相性適性で残すべきと選定された遺伝子のみが受け継がれ、それ以外は淘汰されていく。だからこの社会は、望まぬ妊娠ゆえに、生れることを祝福されなかったいのちを無視した

◉別離
執行官 宜野座伸元の話。

仮想迷彩によって、人間の孤児を動物に偽装し、動物のように扱った人々の調査。アニマルセラピスト三宅養努は、動物とされた子供達を集めてコミューンを作成。愛玩奴隷を飼育した人々を強請るが殺される。

P288:
動物たちの精神衛生を大きく損なう原因のひとつに、極めておぞましい行為がある。悪辣な飼い主が自らの色相改善―つまりストレス解消を目的に行う虐待だ。そして高価な動物をすぐには買い替えられないから、心理セラピで無理やりに動物の心理状態を回復させ、また虐待を強いるケースもある。

P308:
人間だったはずのモノが、だんだんと狂い、やがて本当に動物になっていく光景を見て、むしろ色相がクリアになるなんて……、今でも理解できないな。

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海から見た世界史

読んだ本の感想。

シリル・P・クタンセ著。2016年2月25日 第1刷。



各ページに掲載されている地図が良いと思う。

陸上の帝国と対置するべき海上帝国について。

以下の特色。

①交易
海洋上の交易を市は死する。ビザンティン帝国とヴェネツィア、英国とフランス(ナポレオン)のように、武力に対して経済力や貿易封鎖等で対抗出来る。

②戦略
ギリシア諸国家がペルシアに対抗し、英国がドイツを日干しにしたように、敵軍の補給を断つ。

③知的支配
理念を再構築する力。旅は確信を白紙に戻し、研究を促進する。

産業革命は海上帝国を世界帝国に変えた。強国の基盤は、大規模な軍事手段とともに、航路や中継地点を確保する事である。

海洋国家の時代―古代~1492年
序文
海洋国家は通商上の勢力を基盤とし、交易を発展させる事で命令権を得る。エーゲ文明時代のクレタ人は、地中海の交易、中継地点を確保し、対外取引所を運営する事で支配を確定した。

それらを維持するには、強大な海軍が必要である。

クレタ島、帝国の母胎
商売と権力が合わさった海上戦略はクレタ島から始まる。

クレタ島は東地中海の中央にある位置を利用して交易の仲介地となった。黒海の金属、小麦、エジプトのアラバスターや駝鳥の卵、クシュ王国(スーダン)の金、象牙等。

第1宮殿時代(紀元前2100年~紀元前1650年頃):
エジプトや中近東と交易。

第2宮殿時代(紀元前1650年~紀元前1450年頃):
東地中海全域と大陸ギリシア南部と交易。

第3宮殿時代(紀元前1450年~紀元前1200年頃):
競合するミュケナイ人の勢力が増し、キプロス島の銅取引に専念。

クレタ島はクノッソスの下に、サントリーニ島やキティラ島等を統一していき、オイルやワイン、陶器の生産技術が各地に分散した。ミュケナイは一時クノッソスの跡を継いで商業網を奪ったが、紀元前1200年頃に海の民によって滅ぼされる。

フェニキアからカルタゴへ
レバノン海岸のビブロスが、陸上取引と海上取引の接点となる港湾都市の原型である。後背地に杉やヒノキが豊富にあるため、エジプトの特権的パートナーになる。

紀元前1200年頃の港湾都市ティルスは、アクキガイから作る染料や家庭用品、宝石類等の職人による製品を売り出し、アラビア南部(白檀、宝石)、キプロス島(銅)、アナトリア(錫)、エジプト(亜麻)等と交易した。シバ王国の香は、エジプトの神殿で行う儀式に不可欠だったらしい。

やがて植民都市が発展し、紀元前10世紀頃のキティオン(マルタ島)を皮切りに、クレタ島、エウボイア島等が植民化され、アレクサンドロス大王による東地中海の混乱を契機に西地中海にも進出していく。

〇ヒミルコン
紀元前550年頃、ガリアの金、錫、琥珀を占有するためにウェサン島に派遣された。

〇ハンノ
紀元前500年頃、ギニア湾に金の通商路を探す。

フェニキア人は、紀元前5世紀頃のヒメラの戦いによってギリシア人に敗れ、シチリア島を失う。シチリア島の小麦を補うために北アフリカの開拓を進め、ワイン、オリーブオイル、イチジク、アーモンドを生産出来るようになるが、やがてローマに滅ぼされる。

ギリシアの冒険譚
ギリシアは複数の都市国家に分割されており、後背地が無い事から真の海上帝国になれなかった。

〇ミレトス
トルコ西部の都市。紀元前9世紀頃から黒海を経由して、カフカス(鉄)、スキティア(小麦、干魚)と交易した。トラキアの植民化やコリントス地峡経由で紀元前6世紀にはアドリア海(錫、銀、琥珀の陸上輸送ルートの出口)に到達。

その他のギリシア都市も知りリアの小麦や、西地中海の錫等を開拓。

〇三段櫂船
紀元前700年頃にコリントスのアメイクレスが考案。大陸帝国(ペルシア)との戦いで優位となる。海上を支配されたペルシア帝国は紀元前5世紀の戦いでは、ダーダネルス海峡を経由した補給を実施せざる得ず、ギリシアで大軍を長期間活動させる事が困難だった。

〇プトレマイオス朝エジプト
紀元前331年に建設されたアレクサンドリアを起点に、交易を陸路(セレコウス朝シリア)に依存しないよう紅海を開拓。プトレマイオス2世は古代の停泊地ミュオス・ホルモス、ソテリアス、リメインを整備し、プトレマイオス3世はアドゥリスを築いた。これらがインド交易の主要港となる。
しかし、プトレマイオス朝は地中海沿岸を支配するか、パレスチナを支配するかで迷いがあったとする。

海上帝国たるべきローマ
ローマの壺アンフォラは、規格サイズ(1.2mの高さでワインが25l入る)で、四つか五つ積み上げる事が可能。この壺を使用してローマは商業上の主導権を握った。

ローマの発展は通商上のものから政治上のものへ移行し、制海権を確保したうえで敵国海軍の船舶数を制限していった。紀元前67年に制定されたガビニア法では海賊対峙のために地中海全沿岸を統括する最高司令官が任期3年で機能する事になる。

紅海の開拓も進み、バブ・エル・マンデブ海峡にあるオケリスの港は年間約100隻の船が出発し、香辛料や金貨等を運んだという(エリュトゥラー海案内記)。

ビザンティン帝国、ローマへのノスタルジー
ビザンティン帝国はローマ帝国復活という目標に縛られてしまっため、海上帝国と陸上帝国のどちらにもなれないよう力が分散してしまったとする。

ビザンティン帝国は、以下の条件から後背地に恵まれた海上帝国に適していた。

①コンスタンティノープル
黒海とエーゲ海をつなぐダーダネルス海峡を支配する位置にある都。
②穀倉庫
エジプトを食糧供給基地と出来る

しかし、476年に西ローマ帝国が滅亡した事で西ローマ帝国の領土を奪い返す事が戦略的目標になってしまい、東地中海沿岸を戦略目標として集中出来なくなってしまった。

ユスティニアヌス皇帝(在位527年~565年)は北アフリカやイタリアを奪還したが、紅海の支配権を確保してペルシアとの対決に集中すべきだったかもしれない。

コンスタンティノープルは717年~718年にアラブ人に攻囲されるが、敵の補給網を寸断する事で勝利した。しかし、エーゲ海支配に不可欠なクレタ島が826年に奪われ、奪還するのが961年で、黒海やエーゲ海に注力すべき時にシチリアに注力していた。

セルジューク族が勢力を拡大した11世紀~13世紀頃も、マヌエル・コムネノス皇帝はイタリア再征服のために小アジアやバルカンで地歩を固めていた。

ヴァイキングの冒険
ヴァイキング船は当時の船の二倍の速度が可能であり、川を遡る事も出来た。さらに太陽の石(方解石の結晶)により、太陽光の偏光を解消し、方角を推測していたらしい。

810年頃から始まったヴァイキングの襲撃はオランダ北部のフリースラント地方で行われ、876年には英国にデーンロウ、911年にはノルマンディ地方を支配した。

〇ノルウェー・ヴァイキング
南のデンマーク・ヴァイキングを避けて700年頃にシェトランド諸島、800年頃にオークニー諸島、フェロー諸島、860年にはアイスランドを征服。982年にはグリーンランドを開拓した。それらの植民地は1200年以降の小氷河期で放棄される事になる。

〇スウェーデン・ヴァイキング
東へ向かい、バルト海のスタラヤ・ラドガを750年頃に毛皮交易の要所とし、ヴォルガ川を進んでイスラム等と交易した。それらは11世紀頃にアッバース朝の銀山が枯渇した事で衰退するようになる。

ジェノヴァとヴェネツィア、新大陸発見の準備地
〇ヴェネツィア
ダーダネルス海峡入口にあるテネドス島を占有していたために、南西の風を待って安全に黒海まで航海出来た。
10世紀頃に、トルキスタンの部族ペチュネグ人がロシアの隊がを支配し、北欧からビザンティン帝国への通商路を遮断した事を契機に、アルプス山脈を越える代替路を築いて南北通商の仲介役となる。

やがて十字軍を利用して隊商路の終着点を十字軍国家の港町におき、東西の集積地としてコンスタンティノープルに取って代わる。

1280年~1585年には地中海東岸の塩田を独占し、財源とした。

<海洋州>
コンスタンティノープルに至る航路にあるイオニア諸島やクレタ島等(真珠の首飾り)。通商路上の中継地点を確保する上に、造船所を基地として均質で専門化した船団を常時使用出来るようにした。

<本土州>
15世紀初頭にパドヴァ、トレヴィーゾ、ヴェローナを支配下に置き、内陸地域からの人材確保を考える。

〇ジェノヴァ
ヴェネツィアとは反対に存在権のためにコルシカ島やサルデーニャ島のムーア人と戦わなくてはならなかった。11世紀にはサルデーニャ島北部等がジェノヴァ帰属になる。
さらに1284年にはピサからコルシカ島を奪取し、十字軍遠征を通じて東地中海のコンスタンティノープルにも影響力を及ぼすようになる。
そして、黒海と小アジアの通商範囲がオスマントルコの圧迫で縮小していくに連れて、北アフリカのアラブ・イスラムとの交易を盛んにしていく。それにより中世最後の二百年間を主要な経済勢力として過ごした(スペイン帝国の銀行家として西インド諸島との取引を行う)。

イスラムの地、逃した機会
不安定な政治体制により海上進出を継続出来ず、統治すべき土地が広大な事から海上に注力し難かった。

サファヴィー朝、モンゴル帝国、オスマン帝国は陸上領土を守るのに忙しく海上進出の余裕が無い。その意味でオスマン帝国は海上に注力出来ないまま滅びたビザンティン帝国の後継者と言える。

〇東アフリカ
モンスーンと貿易風で、冬に南に進み、夏に北東に戻る。

8世紀以降、ペルシア湾岸の王達が象牙、豹皮等を所望するために、オマーンがパテ島、モガディシュに商館を建てた。さらに、アッバース朝のスンニ派の迫害を受けたシーア派がモガディシュやブラハに住み着く等して、イスラム人とバンツー族の混合でスワヒリ語が生れた。

ザンベジ川河口南部からの金とインドとの交易網は15世紀末に全盛期を迎え、そこにポルトガル人が流入する。

<オマーン>
17世紀末にオランダ人の支援を受け手、ポルトガル人を沿岸から放逐し、1698年にモンバサ、1699年にザンジバル、1710年にキルワを落とした。キルワは1785年、ザンジバルは1800年、モンバサは1837年に再征服し、象牙、奴隷、丁子等の交易で富を蓄えるが、1880年代のアフリカ分割でドイツと英国に大陸領土を奪われ、奴隷制廃止でザンジバルは衰退したとする。

インド、断固として大陸的
長い間、インド交易の基盤はアフガニスタン北部のラピズラリだった。

〇マウリヤ朝
紀元前4世紀頃からチャンドラグプタ王が航路専門の部門を持ち、アショカ王は海路でギリシアやエジプト等に外交使節を送った。交易も盛んで、香辛料や宝石等で、プリニウスはローマ帝国がインド商品を買うために毎年100万セステルスを浪費すると嘆いた。紀元前187年にマウリヤ朝が失墜すると、チョーラ朝が東洋との交易を主導するようになる。

〇チョーラ朝
6世紀前半からマレー諸島やインドシナと海上取引を行う。9世紀~10世紀のアーティティヤ1世とパラーンタカ1世の時代に発展。セイロンやモルディブも征服した。
1070年以降、セイロンから放逐されると衰退し、インド亜大陸の海軍全体も衰えた。ヒンドゥー教は航海を禁じ、黒い海を渡る事は不純になる危険に向かう事とした。

その後、インドはポルトガル人等の侵略を受けるが、中央アジア出身の君主達は伝統的な侵略路である北西部に気を取られ、マラータ王国は1674年の建国当初から大砲を備えた海軍を有したが遅すぎた。

おりあしき中国
頻繁な河川航行により海上交通も盛んだった。

960年~1279年の宋は、1127年に南宋となった後も人口の60%を維持し、外洋進出を行った。1132年には常設海軍を創設し、1161年の唐島の戦いと采石の戦いでは金の海軍に勝利している。

1271年~1368年まで中国を支配した元も海上交通路をに進出するが、明の時代になり新儒教の影響等から、1436年には皇帝が自らの船団を焼却し、1480年には軍事担当大臣 劉大夏が大遠征の資料を破棄している。

日本、襲撃とカミカゼのあいだ
日本には長い間、単純な平底船しかなかったが、1274年、1281年の元寇の失敗頃から、14世紀~16世紀に渡って倭寇として大陸を略奪していく。
朝鮮側の記録では、1376年~1385年に174回以上の襲撃があったとする。それらは1588年に豊臣秀吉が海賊行為を禁じるまで続く。

その後も外洋用のガレオン船を作る等し、1637年にはフィリピン侵攻計画支援をオランダ人に頼むが、翌年の島原の乱を契機に鎖国に向かったとする。

植民地の時代―新大陸発見~1945年
序文
新大陸発見の発端は貨幣とする金への渇望である。

船尾舵、平張り、羅針盤、天文学、ラテン帆、海図等の進歩が航海を後押しした。エルサレムを上にせず、北極星と羅針盤が示す方角を優先するポルトラーノ海図は、1290年代のピサ図が最古で、14世紀から本格的な海図が登場した。

ポルトガルの夢
ポルトガルの海上帝国はアヴィス王朝と一体出る。アヴィス王朝の創始者ジョアン1世は、1415年にイスラムの要衝セウタ征服に出発するとともに、三男のエンリケ王子にアフリカ大陸沿岸開拓用資金を与えた。

スペインのように解放すべき領土が無く、イスラム教徒の知識を活用した。さらに、ポルトガルはジェノヴァ人が東地中海と北海を結ぶ際の中継地点となる。

夢想にふけるスペイン
スペイン帝国は、1519年に神聖ローマ皇帝となるカール5世の広大な欧州の領土によって、海上帝国化に専念出来なかった。

カスティーリャの政策:
フランスと協調してイベリア半島全体と地中海南部の領土を確保する(1509年のアルジェリア征服)。

アラゴン王国:
地中海西部の支配のためにフランスと対立。

16世紀のスペインは世界帝国を目指し、1580年にはポルトガルと合同し、宗教戦争に介入した。これにより新大陸を統括する取引所や大西洋の輸送網を保護する海軍育成に注力出来ず、オランダや英国に敗れる事になる。

オランダ連合州、あるいは資本製造所
オランダでは、加工場に原料を供給する周辺経済を基盤とする植民地経済が築かれた。

オランダは、1570年のシュテッティン和約でデンマーク海峡の自由な航行を認められ、17世紀初頭にはエーアソン海峡を通る輸送の2/3を占めた。さらに1585年にスペインが中継貿易港であるアントウェルペンを略奪した事で、アムステルダムが香辛料貿易を独占するようになる。

1602年の東インド会社(バルト海通商で第一位)、1621年の西インド会社(オランダ領ギアナの砂糖栽培)は軍隊も保有し、構造的優位を持った。スペインが帝国内の地点を結んだのに対し、オランダは世界的に通商網を拡張子、収益性のある分野で独占権を獲得する。例えば、中国の絹製品と日本の銀を交換し、その銀で中国の磁器や香辛料を手に入れる。

その原型は15世紀のバルト海で、提供する製品の幅を広げるために、塩や鰊等の基本的製品の他に、香辛料やライデンの織物などの贅沢品も取引するようになった事に遡る。

原材料の輸出入だけでなく、砂糖精製や煙草工場、織物生産等を行う方は、英国等が貿易障壁を用いる事で優位を失った。

1720年に2/3を握っていたバルト海沿岸の用材は1760年には1/5になり、1710年代に独占状態だったライン地方のワインは1750年代には60%以上が失われた。

デンマーク同盟、あるいは氷の戴冠
クリスティアン4世は、1596年に22隻だった船団を1610年に60隻に増やし、1616年にデンマーク東インド会社を設立した。密貿易専門となり、英国やフランスの保護貿易政策によって利益を出した。1730年代~1740年代に需要が増えた茶は最も大規模な商品だった。

デンマーク西インド会社は、1671年にセントトーマス島、1718年にセントジョン島、1733年にセントクロイ島を入手し(ヴァージン諸島)、砂糖黍の農園とした。

北部にも拡張子、1776年に王立グリーンランド貿易会社は鯨油の取引独占権を獲得している。

この海外帝国は、1845年にインドの植民地、1850年にアフリカの植民地が英国に譲渡され、ヴァージン諸島も1917年に米国に譲られる等して衰退していく。

1814年にはノルウェーをスウェーデンに割譲し、アイスランドは独立、第二次世界大戦後にはフェロー諸島が自治領となった。

イギリス、海の女帝
百年戦争でカレーをギーズ公に奪還され、欧州の領土を諦めた事が英国繁栄の基盤となる。ハノーヴァー朝が生れたハノーファーを1866年の普墺戦争でプロイセンンに併合されるにまかせた。

英国が植民地獲得に乗り出すのは遅く、香辛料の三角貿易を基礎とした方法で植民地を獲得していく。その後、フランスをターゲットにして、スペイン継承戦争(ジブラルタル、メノルカ島、セントクリストファー島等の戦略拠点を1713年に奪う)や7年戦争(フランスの商船300隻を襲いフランス海軍から人員を奪う)等でフランスの海洋支配力を減じていく。

英国とフランスの対立では、産業革命を迎えた英国が優位にあり、植民地を獲得して砂糖や煙草を転売するフランスよりも、大規模生産した製品を持つ英国の方が経済的に栄えた。

重用なのは産業革命に不可欠な原料と、販売市場を確保する事である。

とぎれとぎれのフランス
フランスはハプスブルク家と境界を接する脅威から海の重要性を意識し難かった。

特に7年戦争(1756年~1763年)で海外領土の多くを失った痛手が大きい。それは1815年のパリ条約で確定する。

ドイツ帝国、深海獲得をめざして
細分化されていたドイツは統一後に海に進出するが、方法が古典的だった。

海外領土拡大を植民地会社の所有地を保護する形で実現し、太平洋の島々(リン、熱帯材)やアフリカのトーゴ(カカオ、綿)、カメルーン(ゴム、カカオ、象牙)、タンザニア(コーヒー、胡麻、銅)等を手に入れいた。

さらにラテン・アメリカにも投資し、1818年の入植以降、1880年にはドイツ人共同体の人数はブラジルで20万人程度となった。エミール・ケルナー将軍は1891年のチリ内戦で議会派軍を要請し、1900年~1910年には最高指揮官になっている。

これらの海外植民地は第一次世界大戦で全て失われる。

日本、陸と海のあいだ
明治維新後の日本は、1904年に米国が日本人労働者と新しい労働契約を結ぶ事を禁止し、移住地を閉鎖された事から、新たな領土を探す事が不可欠になった。

1910年の朝鮮保護下や南満州への進出はその延長にある。しかし、1920年頃のシベリアへの進出は失敗し、1939年のノモンハン事件や独ソ不可侵条約によって、太平洋に向かう事になる。

仮にドイツと協調して満州の石炭と鉱物を確保する戦略を採用出来ればソヴィエト連邦を打倒していたかもしれない。

ロシア、遅すぎた登場
ロシアの海の歴史はイヴァーン雷帝による白海への進出に始まる。

ピョートル大帝の時代にはバルト海やカスピ海に進出し、エカチェリーナ2世は1792年に黒海西岸を確保して不凍港を獲得している。

その後、1958年にソヴィエト海軍が世界二位の規模となり、1985年まで保つが、ソヴィエト連邦崩壊により、米国の海上支配に服している。

世界的な主役の時代―第2次世界大戦~現代
超大国アメリカ
アメリカの海上進出は19世紀末に本格化し、1914年に完成したパナマ運河が戦略の根幹になっている。

現在の国際体制には米国によって海上通行の自由と安全が確保されている事が不可欠であるが、衛生網や電波標識、沿岸信号所、海軍航空隊等を統括、維持する負担は大きく、米国は地中海と大西洋を他国に任せて、中国が台頭するインド洋と太平洋に集中する意見がある。

地域のを地域的に管理する代替部隊を求める動きは後期ローマ帝国とも類似しており、米国も同じ道を辿っているのかもしれない。

中国、未来の海の女王から?
中国には大陸派(海を防衛線と考える)と海派(海を扉と考える)の二つの意見がある?

中国海軍は、1992年2月25日の領海と隣接区域に関する2条により、中国海上領土を主張してベトナムからガベン礁を奪った。さらに1995年にはフィリピン海域内のミスチーム礁を占拠。海洋進出を加速させている。

中国海軍は世界第三位の規模であるが、技術的に外国依存度が高く、空母や航空機の確保が課題となっている。

インド、インド洋征服へ
インドの防衛努力の大半は中国やパキスタンへの対抗上、陸地に集中していたが、海上への進出も見られる。

2009年には国産空母である新ヴィクラントが起工され、1986年~2000年にかけてはロシアから潜水艦10隻を購入し、2009年に国産原子力潜水艦アリハントを進水させている。

経済発展によってインドでは欧州との通商路である紅海や、石油を輸送するペルシア湾の確保が不可欠になっており、インド洋を占有する目論見がある。

オマーンやモザンビーク、カタールとの防衛協定やマラッカ海峡の海軍司令部、紅海における海賊対策作戦への参加には自国の通商路を守る意志を感じる。

まとめ
海上を支配する事には、通商路の支配という意味がある。

交易のグローバル化は海に依存する原因でもあり、僅かな供給網の遮断が生産全体の麻痺の原因ともなり得る。さらに、現代では漁業以外の資源が注目されており、海底に含まれるレアアースの量は地表の1億200万tに対して900億tにもなるとする。

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