悠久のインド

読んだ本の感想。

山崎利男著。1985年1月10日 第1刷発行。



第一章 インドの統一性と多様性
インド亜大陸はユーラシア大陸南方の半島である。1600年頃には、一億5000万人の人口があったと推定される。北はヒマラヤ山脈、三方はベンガル湾、インド洋、アラビア海に囲まれ、隣接地域からは明瞭に区切られている。

インド洋の交易は紀元前後から活発になり、東南アジアや地中海諸国との交流を行い、七世紀頃には陸上交通よりも盛んになる。

インド最初の統一王国は紀元前317年に興ったマウリヤ王国であるが、インド最南端までを支配出来ず、その後もインド全域を支配する王朝は現れず、諸王国の分立割拠の状態が常態だった。

<降水量>
雨季は6月初旬のモンスーン到来から始まり、四か月続く。この間に年間降水量の80%の雨が降る。また、12月から2月にかけてパンジャーブ以西に麦作に好適な降雨がある。そのため、大麦や小麦は北部のパンジャーブからガンジス川中流域が主な産地で、米は南部のガンジス川流域や東西海岸地帯、東南部等が主な生産地となる。デカン高原ではキビ類、モロコシ類が生産される。

<言語>
インドの七割の人々が使用するのはインド・アーリヤ語であり、紀元前1500年頃に西北から移住したアーリヤ人の言語から発達し、北インドやマハーラーシュトラに広がっている。

ドラヴィダ語は、アーリヤ人より前にインドに移住した民族の言語で、主に南インドで使用される。文章語の出現がアーリヤ語(1000年頃)より早く、紀元前後頃に文学作品が尽くされ、タミル語、テルグ語、カンナダ語で七世紀~十三世紀頃に多くの作品が書かれた。

アーリヤ語の地方語の出現が遅れたのは、サンスクリット語が文章語として圧倒的な地位を保持したからであり、やがてヒンドゥー系哲学や倫理を通じて、インド全域に広まりインド文化に統一性を齎した。

その中で、ペルシア語は十三世紀以後、インドを支配したムスリム諸王朝で公用語とされ、行政や財政の術語を齎した。パキスタンの公用語であるウルドゥー語は、十四世紀の西北インドの軍隊でヒンディー語とペルシャ語の混淆によって生まれたとする。

第二章 インド文明の形成
ヴェーダは人々の守るべき宗教的義務を伝え、紀元前1300年~紀元前600年頃にバラモンによって作られた祭式に関する文献の総称とする。最も古い『リグ・ヴェーダ』の言語はゾロアスター教の聖典『アヴェスター』の最古層の言語と極めて近く、インドとイランのアーリヤ人の近似性を伺わせる。

アーリヤ人のパンジャーブ移住は紀元前1500年頃で、半遊牧の部族民の戦闘体制や二輪車、青銅製の武器等によって侵略したものと思われる。アーリヤ人は先住民と混血し、両者の相違点として宗教と社会の規範が重視されるようになったとする。

『リグ・ヴェーダ』の記述の中心はパンジャーブに関する記述であり、ガンジス川は紀元前1000年頃に成立した巻から登場する。ガンジス川流域が開拓されると農作物が生産されるようになり、インド村落社会の原型が成立した。

第三章 ブッダの時代
紀元前五世紀から六世紀頃に仏教やジャイナ教が成立。ガンジス川流域を中心に幾つかの国が栄えたとする。

部族体制を基盤とした国から、コーサラ、ヴァッサ、マガダ、アヴァンティの四大王国が王制国家として登場し、他王国を征服した。その中でマガダ国がコーサラ国を破ってガンジス川流域を支配した。マガダ地方は鉄器の使用によって開拓され、米作農業が発達し、ブッダ等の新しい宗教者が集った。

この時代の特徴は都市の繁栄であり、紀元前八世紀頃に生まれたガンジス川流域の都市が政治や商業、文化の中心となり、商人が新興階級となっていた。交通路も北の道(西北辺境のタクシラからマガダ王国の王舎城に至る)と南の道(ガンジス川岸からデカンに及ぶ)が開かれ、金属貨幣や文字が使用された。

仏教やジャイナ教は通商路に沿って主に都市生活者に広まったらしい。

第四章 マウリヤ帝国
マガダ国の発展を受け継ぎ、紀元前317年にマウリヤ朝が古代帝国を完成させる。その基盤はガンジス川流域平野であり、それ以外では諸地域に地方長官を派遣し、交通路を確保したとされる。

マウリヤ朝はアショーカ王没後に衰え、紀元前185年頃に滅ぼされた。それからグプタ帝国成立までの約500年間は諸国家が分裂し、西北から異民族が相次いで侵入した。

紀元前二世紀頃にはバクトリアのギリシア人がガンダーラ地方を征服し、北インドのマトゥーラまで勢力を伸ばし、ヘレニズム文化を齎した(インド初の円形貨幣等)。紀元前一世紀には、西北からバルティアや釈迦が侵入し、後のクシャーン朝に征服される。

<クシャーン朝>
バクトリアで半農半牧の生活をしていたイラン系民族。一世紀後半に西北インドに侵入し、ガンダーラ地方からマトゥーラまで進出した。中国―ローマの東西貿易の中枢部を占めており、中継貿易国家として繁栄した。

貨幣にはインド、イラン、ギリシア、ローマの王の称号が列挙されており、表面には王の肖像とギリシア文字、裏面には諸民族の神が描かれた。王朝の金貨は約9.2gで純金分95%とローマ金貨と同質量だった。

三世紀にはササン朝の侵攻を受けて、中央アジアの領土が奪われるとクシャーン朝は衰退した。

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同期間の南インドは農業と商業の発達を基盤として、各地方に王国が形成され、サータヴァーハナ朝がデカンを統一した。サータヴァーハナ朝は三世紀前半に衰微し、各地で様々な王国が現れた。

ローマとの交易は輸入超過で、ローマ金貨を改鋳したクシャーン朝にたしいて、サータヴァーハナ朝は銀貨をそのまま使用したとする。

第五章 古代インドの宗教と社会
仏教は一世紀以後にマトゥーラ以西で有力となり体系的教理を樹立した上座部系の説一切有部と、各地方に広まった大衆部等に分かれた。

ヒンドゥー教もヴェーダの神に代わって、シヴァ、ヴィシュヌ、クリシュナ等の偶像を作成し、三世紀以後は寺院の建立が始まる。これらの神々はマハーバーラタとラーマーヤナの二大叙事詩にて物語られていた。さらに、二世紀~四世紀頃にバラモンの哲学体系が完成された。

三世紀にサータヴァーハナ朝が衰え、ローマ貿易も衰えると仏教が一時衰えたとする。

第六章 グプタ時代
320年から約200年間、北インドをグプタ朝が支配した。

この時代にサンスクリット文学が多く作られ、二大叙事詩や六派哲学の教典、プラーナ文献等の古典が現れた(古典時代)。

グプタ朝は、中央インドなどの辺境地帯の支配者を服属させ、貢租を納めさせたが、引き続きそれぞれの領土を統治する事を許した(マヌ法典等で推奨されるダルマの勝利)。

五世紀頃からは中央アジアの遊牧民であるエフタル民族の侵入を受け、西方世界との交易を妨げられた事で衰微した。それは金貨に表れ、五世紀中頃の第五代スカンダグプタ以後、金貨がスヴァルナという重量に改められ、純金分が減少した。

そして、550年頃、グプタ朝はビハールとベンガルに攻められて滅亡した。

グプタ時代には、階級と身分の文化が顕著となり、地位が世襲化された。ヒンドゥー寺院が盛んに建立され、社会秩序維持のための宗教支配が行われた。

仏教は衰微していき、八世紀以後、東北インドのベンガルやビハール、オリッサや東南アジアとの貿易港だった南インドのネーガパトナム等の僅かな地域に残った。仏教は十二世紀末にベンガルを征服したムスリムのゴール朝によって仏教寺院を破壊され、滅んだとされる。

仏教はジャイナ教と違い、在家信徒が独自の社会集団を組織せず、冠婚葬祭についての仏教独自の規範が無いため、寺院が衰微して僧侶が四散すると信徒が拠り所を失って仏教から離れたとする。

第七章 ヒンドゥー諸王朝の展開
八世紀中頃から、ガンジス川中流域、ベンガル、デカンで強大な三王朝(パーラ朝、プラティハーラ朝、ラーシュトラクータ朝)が栄えた。

十一世紀~十二世紀の北インドは、アフガニスタンのガズナ朝の侵入を受けながら、各地方に諸王朝が乱立しており、壮大な寺院が建立された。

八世紀~十三世紀頃にカースト制が確立し、土地所有農民や各種職人の分業体制が作られ、世襲化されるようになった。

第八章 ムスリムのインド支配
十二世紀末から十三世紀初にかけてムスリムがインダス、ガンジス川流域を征服した。

それ以前に侵入したクシャーン、エフタル等が数世代の内にインド文明に吸収されたのに対し、ムスリムはインドに大きな影響を与えた。

一神教と多神教、偶像崇拝、ヒンドゥーの火葬とムスリムの土葬、牛と豚等、二つの異なった文化の遭遇が発生した。

<ガズナ朝/ゴール朝>
十一世紀初にガズナ朝マフムードが北インドを侵略する。1031年までにパンジャーブを併合した。十二世紀後半にはガズナ朝は衰え、ゴール朝が台頭した。1198年にはベンガルを征服し、ガンジス川流域を支配した。ヒンドゥー系王朝は分裂していたため、団結してイスラムに対する事が出来なかった。

1206年にゴール朝のムハンマドが暗殺されると、奴隷出身のアイバクがデリーに政権を樹立しスルタンを称した。その後も奴隷出身のイレトゥミシュ、バルバーンがスルタンとなり(奴隷王朝)、1266年にはラホールに迫ったモンゴル軍の侵攻を防いだ。

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1290年に奴隷王朝に代わってハルジー朝がデリーを制圧し、北インドを掌握後、1306年~1317年に南インドを征略した。しかし、その後も南インドはデリーの王朝に完全に支配される事は無かった。さらに北部においてもムスリムの人口が少ないため、ヒンドゥーの領主層の地位を保障し、徴税と郷村統治にあたらせた。

ムスリム支配下では商業が盛んになり、デリー諸王朝は良質の貨幣を大量に発行したとする。

第九章 ムガル帝国
1526年にティムールの五代後裔のバーブルが、デリーとあーぐらを占領した。その孫、アクバルによって北インドは征服された。

〇アクバルの徴税
1580年までに10の州があり、地方長官、徴税官、裁判官等が配置された。徴税は土地を測量して単位面積あたり一定額を徴収する方式も行った。過去10年間の実績を調べ、農作物毎に貨幣で徴収する(ザプト)。

〇マンサブ制
軍事、行政の家臣を66に分けられたマンサブに叙任し、定められた騎兵と馬を維持する義務を課した。様々な出自の者を宗教に関係無く家臣団に編成する狙い。マンサブ保持者は二年~三年で給与地を変えられ、土地と結び付かないようにされた。

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1657年に即位した六代目のアウラングゼーブの治世50年の間にムガル帝国の版図は最大になったが、諸地域で反乱が起こるようになる。1642年には西北要衝の地カンダハールがサヴァヴィー帝国に奪われたため、アウラングゼーブはカーブル地方も警戒せねばならず、1660年代と1670年代のアフガン族の反乱に揺るがされたとする。

アウラングゼーブは、デカン平定のためにムスリムの武将達をマンサブに叙任し、マンサブ保持者の増加によって給与すべき土地の不足を招いた。

第十章 十八世紀前半のインド
ムガル帝国はアウラングゼーブの死後、急速に崩壊に向かい、各地の諸勢力が分裂した。この間に英国が利権を獲得し、18世紀中頃から植民地侵略に着手した。

フランスも1664年に設立した東インド会社によって、マドラスの南のポンティシェリー、カルカッタの北のチャンディルナガルを本拠地とした。1720年からはインドとフランスの貿易が活発になり、その後の20年間で約10倍(英国の半分)になり、英国を脅かした。

1740年のオーストリア継承戦争で英国とフランスが交戦すると、フランスのデュプレクスがカーナティックの太守継承をめぐる内紛に介入したのを契機に、両国はインドでも争い、1763年までの三度のカーナッティック戦争で英国が勝利した。

英国は1764年にはバクサールの戦いでムガル帝国、ベンガル・アウド両太守の軍をバクサールの戦いで破り、1765年にはベンガル、ビハール、オリッサの徴税行使権をムガル帝国から獲得し、北インドの植民地支配を開始した。

英国は郷村にまで英国人を派遣し、行政、徴税、司法等の面で間近に植民地支配を行った。英国は欧州文明の優越を信じていたため、英国の制度を容赦無く導入し、インド社会を変質させた。

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文明の生態史観

読んだ本の感想。

梅棹忠夫著。1974年9月10日初版発行。



第二次世界大戦から10年後くらいに書かれたエッセイ集。

<文明の生態史観>
各文明を系譜でなく、設計思想から読み解く。源が異なっても環境が同じであれば、同じようなデザインになる。

インドでバラモン教が仏教に発展し、発祥地でヒンドゥー教に駆逐され、東アジアでの信仰が主になっている。同じように、オリエントではユダヤ教がキリスト教に発展したが、発祥地ではイスラム教に駆逐されている。

以下の二つの地域。日本は極東にありながら、西欧と環境が似ているため、相似的変化を遂げる。

①第一地域:
日本や西欧等。第二地域から文明を導入し、封建制、絶対主義、ブルジョワ革命を経て、高度近代文明を発達させた。革命は主に内部から、封建体制によって養成されたブルジョワの力で発生する。中緯度、温帯、適度な雨量等により、技術水準が低い場合は文明の発源地になり難いが、ある程度の技術があれば容易い。

②第二地域:
ユーラシア大陸中央。専制君主体制を採用しており、革命は外部からの侵略等で発生する。封建制を経験しないため、ブルジョワが養成されず、近代における革命は、強力な指導者が共産主義という形式で行った。

以下の4つのブロック。

(1)中国
(2)ソヴィエト連邦
(3)インド
(4)イスラーム

古代における文明は、第二地域から発生し、影響された第二地域にて類似文明が発生する。第一地域では外敵の侵略が少なく、封建制が発達するが、第二地域では大帝国が現れても乾燥地帯から遊牧民の侵略を受け、破壊と建設を繰り返す。

第一地域における革命は、封建制度によって育成されたブルジョワが支配権を握り、資本主義体制を構築するが、第二地域ではよりドラスティックに旧体制下の皇帝が完全に消滅するため、伝統等が温存され難いとする。

日本や西欧では封建制の遺物たる「家」の重圧があったが、第二地域では血縁集団が解消され、超家族的集団(カーストや部族制等)が見られる。

<中洋>
インドやアラブ地域。

〇インド:
東洋に区分されるが、西方からの影響が強い。

アーリア人自身が西からの侵入者であり、その後もペルシャ人やギリシャ人、アフガニスタンの王朝やイスラム教徒等が西部から侵入し、ヒンドゥー語やウルドゥー語にはペルシャ語の影響が強いとする。

日本は中枢神経が発達した脊椎動物のようで、各地方が緊密に結ばれ、部分が影響を受けると全体が影響される。対して、インドでは各地域の独自性が強く、結び付きが緩やか。

中華と同様の正統意識があり、日本や西欧のような文化的劣等感が少なく、メディアの報道も自己礼賛的とする。

〇アラブ
以下の三地域に分かれる。

①イラン、アフガニスタン:アーリア族の一派
②トルコ
③アラブ諸国

イスラム教による統一原理がある。

<東南アジア>
第二地域に属する。

系譜が違う様々な民族が、互いに併立し、圧倒的に優勢な民族がいない。当初はインド方面から移動したモン族やクメール族の国があり、十三世紀の元朝侵入を受けて雲南からタイ族が大量移住、ベトナム族も中国南部から移動し十七世紀にはチャムを滅ぼして安南帝国を建てている。

日本と同様に隣接地域から文明が輸入され、類似文明が発達するが、別種族の侵入を受けて破壊と興亡が繰り返される。それは東欧と似ているかもしれない。

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歴史とはなにか

読んだ本の感想。

岡田英弘著。平成13年2月20日 第1刷発行。



第一部 歴史のある文明、歴史のない文明
歴史とは、「過去にあった事実」を一個人の体験を超えて把握する事である。

この時、歴史は空間(体感的に確認出来る)と時間(過去は確認出来ない)に跨っており、直接は認識出来ない時間に基準を作らなければならない。古来から、周期運動する天体運動が時間の基準となっており、一日(地球の自転)、一月(月の公転)、一年(太陽の公転)を単位とする。

このように時間は人工的にしか計測出来ず、東アジアで誕生日の観念が発生するのは、記録上では唐の玄宗皇帝が729年に自分の誕生日を「千秋説」と呼んだのが最初らしい。

<歴史を成り立たたせる要素>
①直進する時間の観念
時間が過去から未来に向けて、一定の速度で進行するという思想。

②時間を管理する技術
時間に日、月、年と一連番号を振って、暦を作り、時間軸に沿って事件を管理する。

③文字
④因果律の観念
過去にあった事件によって現在が形成されているという思想。

◎インド文明
輪廻転生を基本とするため、日付のある歴史はイスラム系の奴隷王朝が成立する13世紀までしか遡れない。輪廻転生では、現世の原因は前世にあるため、人間世界の事件では因果関係を辿る事が出来ない。さらに、時間は直線的に無限に進行するのでなく、繰り返し原初に戻るため、時間軸に沿って筋道を辿る事が長期では難しい。

そのため、インド文明では現象の説明に神話が使用される。

◎イスラム文明
因果関係が神によって説明されるため、基本的には歴史が無い。しかし、歴史ある文明であるローマ帝国と対立する過程で歴史を取り入れた。外交交渉において、相手が古証文を出してくるのだから、自らも対抗して古証文を出さなくてはならない。

◎アメリカ
米国は移民によって作られた国であり、合衆国で生まれた二世米国人が多数派になるのは1950年代である。そのアイデンティティの基礎は、1776年の独立宣言と、1787年の合衆国憲法の前文である。

その特質は外交交渉で明らかになる。「現状は不合理だ」という米国と、「歴史的事情」を説明する他国との交渉。現在の世界を考える際に過去を考えるのは不合理。

◎日本
七世紀頃の唐朝の影響により歴史が作られる。

720年に完成した『日本書紀』のテーマは、「天命を受けた正統の天皇」という思想であり、初代天皇が即位する年を紀元前660年とする。中国の建国は秦の始皇帝による紀元前221年なので、それより古い事になる。

神功皇后が新羅に出兵するのは二世紀頃で、それまで日本に大陸の影響は無かったとする。その後、千年以上に渡って天皇は外国と関係せず鎖国をしている。日本列島内部のみが天下であり、鎖国が国是となる。

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東洋と西洋の歴史観の比較。独自に歴史意識を作り出したのは以下の中国文明と地中海文明のみとする。

<中国文明>
以下は、歴史書の変遷。

①史記
司馬遷が紀元前二世紀から紀元前一世紀にかけて書いた中国最初の歴史書。

その目的は漢の武帝の正統化である。

五人の神話上の君主について書かれる「五帝本紀」を最初に置くが、最初の君主である黄帝は武帝の投影である。どの時代にも天命を受けた皇帝が存在し、皇帝だけが統治権を持ち、正統が禅譲や放伐によって譲られていくとする思想。

その後の記録は『史記』を踏襲するが、天下の変化を記録した場合、皇帝の正統が疑われるため、変化を記録出来ない事になったとする。そのため、東洋史学者は中国の歴史に発展が見られないという問題に直面した。

内藤虎次郎(1868年~1934年)は、中国史を上古、中世、近世に分け、北宋の時代から皇帝権力が強大化し、貴族が消滅し、平民が台頭した頃からを中国の近世とした。この枠組みによって中国史と欧州史を比較する。

②漢書
一世紀の班固が書いた。その目的は王莽の英雄化。

王莽は儒教で天下を経営しようとしたが、その経緯を書くため、漢の高祖から始めて漢一代の話を書く「断代史」の開祖となる。

③後漢書/三国志
『後漢書』は五世紀の范曄が一世紀から三世紀の後漢を書く。『三国志』はそれより古く、三人の皇帝が並立する事態を、魏だけを正統とする事で解決している。

④南史/北史
遊牧民の鮮卑出身だった唐の皇帝が編纂を命じた歴史書。漢人である晋の皇族が江南に建てた東晋も正統としなければならないため、南朝と北朝の両方の歴史を書いた。皇帝が二人いた事になり、『史記』と矛盾する。

⑤資治通鑑
北宋で1084年に完成した歴史書。

北宋時代に漢人とされた人々は唐末からの混乱によって家系の伝承を失っており、遊牧民の後裔が意識的には秦・漢時代の中国人の直系と思うようになった人々とする。

当時の宋は北部の遊牧民族に脅かされており、『資治通鑑』では南朝の年号、皇帝のみを正統とし、隋の中国統一を境に正統を北部の隋に移している。漢人を正統とし、隋や唐を引き継ぐ宋を正統化する無理があるとする。そうまでして北朝を異端とするのは、北部の遊牧民族を北朝に准える意図がある。

こうした「正統」に拘る思想が中華思想の起源とする。

⑥宋史/遼史/金史
モンゴル人の元朝が編纂した歴史。

モンゴル人の立場では、宋・遼・金という三つの正統が同時に成立していた。江南の文人 楊維楨がこれに抗議した記録がある。

⑦元史
明の太祖洪武帝が1370年に完成させた(元が中国支配を失うのは1368年)。しかし、北アジアの遊牧地帯の行政センターだった上都が1358年に紅巾軍に襲われて全焼した事や、伝統的な正史の枠組みにより、漢人地帯の記録しかない。

そのため、遊牧民の横並びの関係が、ピラミッド型の行政組織であったように読める。地理志でも、臨時的な行政組織である「行省」が都市を直接支配していたようになっている。

漢字で綴った役職名を使用していただけなのに、古来からの中国式統治を実践していた事になってしまう。

<地中海文明>
紀元前五世紀のヘロドトスを始まるとする。

ヘロドトスが書いた歴史書『ヒストリアイ』は、以下の三つの思想からなる。

①世界は変化するものであり、変化を語るのが歴史
②変化は政治勢力の対立・抗争によって起こる
③欧州とアジアは永遠に対立する二つの勢力

『ヒストリアイ』は、アナトリア半島のリュディア王国(紀元前七世紀~紀元前546年)から始まり、紀元前480年のサラミス海戦におけるギリシア勝利で終わる。

これはアジア勢力とギリシア勢力が対立し、ギリシアが勝利した事で対立が解決した事を示し、後の歴史書の範となる。トゥキュディデスは、ペロポネソス戦争をアテーナイの民主制とスパルタの独裁制の二つの原理の闘争として書いた。

〇ゾロアスター教/ユダヤ教
ゾロアスター教の教義では、世界は善と悪の原理の戦場であり、最後には善が勝利して、時間は停止して世界が消滅し、最後の審判があるとする。

ユダヤ教も同様の原理を採用し、ヤハヴェ神殿を破壊したウェスパシアヌスの息子ドミティアヌスの治世(紀元前一世紀頃)に書かれた「ヨハネの黙示録」ではユダヤ人のローマ打倒運動が反映されているとする。

第二部 日本史はどう作られたか
歴史書には、歴史家の目的と、読者の要求という二つの側面がある。

歴史は物語であるが、一般の人々は真実を求めるのでなく、日常から解放してくれる図を求める。だから歴史物語に登場する人間には、等身大よりも大きい人物を求める。

現在のように息苦しくなく、自由で偉大な人間がいたと思いたい。

そして歴史は他人の作成した資料を基にするため、以下の二つの段階がある。

①原始的神話
祭りや儀式の目的を説明する。
②政治的神話
上記①を組み合わせて使用し、王権の起源等の説明に用いられる。

<日本書紀>
『日本書紀』の目的は天皇家の正統化であり、壬申の乱における天武天皇の行動と、神武天皇の行動は近しい。

天照大御神は、天武天皇の時代に天皇家が初めて接した神であり、それ以前に伊勢の皇大神宮と皇室が関わりを持った証拠は無い。神武天皇紀には、「神風の伊勢の海の」で始まる歌が幾つかあるが、神武天皇が東征の最中に伊勢に入った記述は無い。これは神武天皇が天武天皇と考えれば不思議でないとする。

さらに、天武天皇紀によると、壬申の乱の最中に、高市県主の許梅という人物が神憑りになり、「神武天皇陵に兵器を捧げよ」、「西の道から敵軍が来る」と告げ、その予言通りに西方から敵軍が来たとする。神武天皇陵は畝傍山にあるが、古墳でなく自然の岡であり、神武天皇はこの時に出現したのではないか。

ヤマトタケルの小津応も天武天皇の行動と重なっており、ヤマトタケルの遺品である草薙剣は、八世紀の初めには尾張の熱田社にあるとされるが、天武天皇紀では、686年に天武天皇の病気が草薙剣の祟りなので熱田社に送ったとされており、草薙剣が天武天皇の遺品となる。

日本では神話が政治的な疑似歴史として形成されており、皇室の起源説話として利用された。それは中国文明を範としており、神であった黄帝が地上に実在した帝王のように整えられた事を見習ったためとする。

『日本書紀』の説話に反映されているのは、七世紀末から八世紀にかけての建国当初の事情であり、神話は現在の事象の説明であるため古い時代の記憶ではない。

人々の神話を求める気風は強く、第二次世界大戦後、日本の国史教科書の出発点だった『日本書紀』、『古事記』の神話が削除されると、穴埋めされる形で1948年に騎馬民族征服王朝説(皇室は北アジアの騎馬民族出身)が江上波夫によって提唱される。

1924年発表の小谷部全一郎の源義経 = チンギス・ハーン説は、1879年にケンブリッジ大学に入学した末松謙澄が、差別的待遇に怒り、英国人を装って匿名で書いた論文が、1885年に内田弥八が『義経再興期』として出版したものが元になっている。

神話の代替として自民族を高くするために考古学が活用される。明治以来、神以外の合理的解釈が必要とされ、英国のようにノルマンディー公がアングロ・サクソン人を征服したとすると欧州の歴史と対比し易い。

<魏志倭人伝>
三世紀に陳寿が書いた『三国志』の一部。『三国志』は魏書、蜀書、呉書に分かれ、魏書は三十巻からなり、四巻が紀(本紀)で二十六巻が伝(列伝)になっている。伝の最後にあたる第三十巻が、魏の皇帝の支配権の外側にある種族を扱った「鳥丸・鮮卑・東夷伝」であり、第一部は北アジアの遊牧民を扱い、第二部は東北アジアの七種族を扱う。倭人は七種族の最後に登場する。

陳寿が生きたのは、魏に仕えた家柄を祖とする晋の時代であり、魏を正統として扱う。そして魏を大きく扱うために誇張が見られるとする。「韓」の条には、「四千里ばかり」とあるが、一里 = 三百歩、一歩 = 左右の足を一回ずつ前に出して歩く距離 = 1.5mとすると、一里は450mであるから韓半島の大きさは1800㎞になりインド亜大陸と同等になってしまう。

倭も魏の都である洛陽から一万七千余里となるが、これは卑弥呼が親魏倭王(仲立ちをしたのが司馬)となる239年の前となる229年に大月氏王波調(仲立ちをしたのが曹仁)が親大月氏王となった事と関連しており、仲立ちした者の地位が同格であったため、両国が同じくらい遠方の同程度の大国とする必要があったためと思われる(大月氏の都カーピシーは洛陽から一万六千三百七十里)。しかし、これでは邪馬台国はグアム島あたりに位置する事になってしまう。

さらに方位も会稽群の東治県(福建省の福州市)の東方としているが、当時の敵国である呉の背後に持って来る意図があったとする。

<三国史記、三国遺記>
韓半島で一番古い歴史書は、1145年に成立した『三国史記』である。紀元前57年に新羅が建国され、半島を統一し936年に高麗が新羅を併吞したところで終わる。高句麗が紀元前37年、百済が紀元前18年となっており、新興の新羅が最も古い事になっている。

これは著者の金富軾が新羅王家の一族だった事と関係していると思われる。

『三国遺記』は十三世紀に一然という僧が書いた本であり、檀君という朝鮮建国の王が登場し、1908年生きたとする。

朝鮮半島は紀元前108年に中国皇帝の直轄地となるため、それ以前に民族独自の歴史を遡る事が難しいが、一然は気楽に歴史の限界を超えた。

第三部 現代史のとらえかた
現代史では細部が問題になり、十八世紀末まで存在しなかった国民国家が前提になる。

マルクス主義史観の世界が一定の方向に段階を踏んで進化する思想は、十九世紀に流行した進化論の影響を受けており、現実的でないとする。

しかし、歴史を記述する際には過去を幾つかの時期に分けなければ不便。

著者は、世界史は十三世紀のモンゴル帝国出現で準備されたとする。それ以前は東洋と西洋の関係は薄く、モンゴル帝国がユーラシアの大部分を統一し、十二世紀頃に華北で誕生した資本主義経済を地中海に伝えたとする。さらにモンゴルがユーラシアの陸上交易を独占した事で、外側の日本や西欧が海上貿易に進出したとする。1415年のポルトガルによるセウタ後略や、1350年の倭寇による高麗は襲撃は、その流れに沿うとする。

〇資本主義
十二世紀頃の金で発生したとする。金が支配した華北は商業が盛んだったが、銅の鉱山が無く、取引のための貨幣に手形を使用し、信用の観念が発達したとする。十三世紀にはモンゴル帝国の取引相手だったヴェネツィアに地中海で最初の銀行が出来たとする。

<国民国家>
米国の独立やフランス革命を起源とする。

王の私有財産を市民の共有財産とする。君主制の時代には、特定君主の財産である土地の間には、別の君主の土地が挟まっていて国境線は成立しなかった。革命によって市民が王から財産を奪うと、市民の範囲を設定するために国民の概念が生まれる。

フランス革命では、どこまでフランスでフランス国民の財産かが問題になり、1804年のナポレオン法典でフランス全土で同じ法律が適用されるようになった。全土に同じ言語を創出し強制する。

<立憲君主制>
国民国家という形態は、徴兵によって大規模な軍隊を組織するため、小規模な傭兵主体の君主国の軍隊よりも強い。対抗するために他の国も国民国家を採用した。

君主制を残したまま国民国家を採用したのが立憲君主制となる。

国民国家の主導権争いは、1848年に欧州を席巻し、君主が主導権を握る事になる。その後、都市の労働者が団結する事で国民国家の所有権を握る発想が生まれ、共産党宣言に繋がっていく。

<日本>
天皇家では、皇位継承が行われると陰暦十一月の上巳の日に大嘗祭がある。天照大神の寝床で食事を差し上げる儀式で、先祖代々の人格を引き継ぐ。

つまり、王家が長く続くとは代替わりに関係無く、同一の人格が継続している事になる。持続性のおかげで国民国家であっても君主の人格が国民を代表し統合の象徴となる事が出来る。

日本の明治維新は、以下の条件から国民国家化に有利な条件を備えていた。

①海
日本は海で囲まれており、どこまでが日本かは自明だった。国内に外国の領土は無い。

②鎖国
隣国と大規模な外国関係が無かった。海外に居住する日本人もほとんど無く、国内に居住する外国人も少ないため、誰が日本人かは自明だった。

上記のような条件下で、天皇が日本国民統合の象徴となる。近代化において苦労したのは国語。ラテン語はギリシア語を基にして、イタリアのラティウム地方の言葉に置き換えて作られた言語だが、ドイツ語も十六世紀にマルティン・ルターが『新約聖書』をラテン語から翻訳して開発した言語で、ラテン語と語彙や文法が一対一で出来ている。

日本語も漢文の訓読によって開発されており、品詞の区別や過去形の区別、能動態や受動態が無いため論理を表現出来なかった。そのため明治時代の日本人は、欧州の言語を日本語で表現するために漢文の古典に無い新しい感じの組み合わせを作成し、文体も散文を開発し、論理を表現出来るようにした。

<中国>
中国の国民国家化は、日清戦争で敗れた事が契機とする。

古典的な漢文の文体に代わって、日本文からの直訳体の文体が流行し、語彙も日本人が開発した漢字の組合せを使用した。それまで中国語という観念は無く、話言葉が違っても漢字で意思疎通をしていたが、言文一致の開発が進み、魯迅(1881年~1936年)は白話文として、日本語で考えた原案を漢字で置き換えた。

満州人の清帝国は皇帝による同名種族の連合体だったが、国民国家では同一の言語、法律による支配が志向される。

≪国民国家の終焉≫
著者は国民国家の問題を指摘する。

①観念
国民国家は、国民全員が平等な立場で国家経営に参加する前提であるが、実際には平等は実現し難い。

②国語
国民国家統合の象徴である国語は人工的であり、国民全員が同じ言語を話す事はあり得ない。標準フランス語はラテン語を基礎にして作られた人工言語だが、普段の話言葉は通俗ラテン語から発達したフランス語である。

歴史を書く時は人間集団に名前を付けなくてはならないが、その集団は不変でなく実体が無い。

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文明と野蛮の衝突

読んだ本の感想。

俵木浩太郎著。2001年11月20日 第一刷発行。



明治維新時の日本における、東洋文明と西洋文明対立の話がしたいのかな?著者の先入観が強い気がする。西洋文明が精神的に劣る事により、日本が第二次世界大戦に突き進んだとしている?

福沢諭吉の文明史観は以下の通り。

・日本人―定住農業―穏和
・西洋人―遊牧狩猟―粗暴

西洋:
文明とは都市化(シヴィリゼイション)であり、市民住民(キウィス)を源にする。

東洋:
周の建国者 文王に始まる?対置する野蛮は、朝(宮廷)とも対置される。

*****************

安定した定住農耕を基礎とする管理社会を歴史とする日本に対し、異民族との戦いを基礎とするキリスト教文明やイスラム教文明は野蛮を克服する武力を大切にする。

『旧約聖書』にも農耕民と遊牧民の対立が記述され、飢饉を避けてエジプトに入ったアブラハムは、「激しい疫病」の原因とされ、追放されている。モーセも神の命令によって農耕民から暴力的に略奪を行う。

その激しさはドイツ三十年戦争においても発揮され、マルティン・ルターは旧約聖書を受けて、敵を征服するまでは慣わし通りに殺戮し強奪し放火しあらゆる災害を敵に加える事がキリスト教的であり、愛の行為と主張している。

己の神のみが唯一絶対であると信じる人々が複数存在する場合、献身的信仰故に非妥協的に闘い合う事になる。

野蛮から文明に移行する過程においての同害報復思想(目には目を)は、文明に配されるものであり、野蛮は相手の命を奪うところまでいく。しかし、同害報復は同族間の掟であり、異民族は殲滅される事になる。

対して農耕を基礎とする東洋においては、「思い」を大切にする伝統があるとする。一定の安定した社会が継続するとパトス(情、感性、気持ち等)が重視されるようになる?

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