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「地政学」は殺傷力のある武器である

読んだ本の感想。

兵頭二十八著。第1刷 2016年2月29日。



第1章 栄えている者はなぜ栄えたかを知りたい!

地政学は、英国の富国政策の要諦を体系化し、応用するために欧米諸国が19世紀後半から確立した研究分野。

近世の英国は海外植民地と産業的に統合し、軍事力によって統治するシステムを開発していた。英国が強国となった学問的解説を最初に行ったのが米国海軍大佐アルフレッド・マハンであり、そこから地政学が始まる。

19世紀後半からは、蒸気船や蒸気鉄道の利用により英国以外の国家が隆盛し、また、進化論を背景とする適者生存の思想が闘争を煽ったのかもしれない。

第2章 マハンとセオドア・ローズヴェルトという
    史上最強のタッグ


以下は、Wikipediaの「アルフレッド・セイヤー・マハン」の記事へのリンク。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%B3

以下は、Wikipediaの「セオドア・ルーズベルト」の記事へのリンク。1882年に「1812年からの米英戦争における海戦の研究」を出版し、高い評価を得る。19世紀初頭のトマス・ジェファソン大統領が海軍整備を怠ったために、1812年頃の米英戦争において敗北したとする。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AA%E3%83%89%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88

マハンは政治家ローズヴェルトを理論的に援護し、米西戦争やハワイ併合等により米国の勢力を拡張した。

以下は、Wikipediaの「デニス・ハート・マハン」の記事へのリンク。セイヤー・マハンの父親。土木工学や地理に関わる「フランス学」を学んだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%B3

⇒マハンは父からフランス語の指導を受け、ナポレオンが英国に敗北した理由を思索した事が「地政学」の礎となっている?

セイヤーの名は、父デニスの師である「シルヴェイナス・セイヤー(1785年~1872年)」から取ったとする。ウェストポイントに米国初の工科大学を設立した人物。デニスは、セイヤーの学校で数学教官となっている。

19世紀後半の米国においては、ウィリアム・ハント海軍長官の下で「ニュー・ネイヴィー」の動向があった。ハードウェアの専門家(海軍諮問委員会)と、情報・作戦の専門家(海軍情報部:ONI、海軍大学校)の機関を別々に創設する。1885年からマハンは海軍大学校の教官となる。

⇒個人の働きでなく、世代を超えた学問の蓄積、専門機関による組織的研究により地政学が形成されていく

マハンの『海上権力史論』は、海軍整備を目指すローズヴェルトを理論的に支援した。大型軍艦を遠距離まで派遣する体制が最良の防衛とする。

マハンは、ナポレオン敗北の理由の一つを、ジブラルタルの英海軍基地とした。フランス海軍は大西洋と地中海に分断され、一体集合的に行動出来る英国海軍に対して不利だった。

⇒海軍の量的優位性を保つ事がマハン戦略の概要?

同じ轍を踏まないように、米国は中米運河を確保し、大西洋と太平洋の米国海軍を一体運用出来る体制を整えるべき。さらに、太平洋上の中間貯炭場としてハワイを併合すべきと主張(1898年にハワイ併合)。

⇒太平洋の島嶼を補給港として確保し、中国市場を米国が支配する

位置、軍事的強さ、資源の中では位置が最も重要とする。複数の中間拠点を計画的に確保し、敵国の交通線を側面から脅威出来る位置に基地を持つ。そして位置よりも、軍艦や水兵を補充する後方体制が重要である。英仏の戦いにおいては、後方体制に余裕がある英国の方が強気の行動を選択可能であり、20世紀には米国のみが潤沢な後方体制を確保した。

*******************

マハンは、マッキンダーやスパイクマンと異なり、ユーラシア大陸が単体の敵に支配される事態を心配しなかった。国家には適正サイズがあり、海が陸に優越すると考えたのかもしれない。

広大なロシアは、その不毛な土地に支えられており、温暖化によって土地が豊かになれば分離独立運動が活発化すると予想される。

1903年にマハンも参画して策定されたオレンジ計画(対日単独有事の事前策案)では、海上交通線を破壊するだけで日本は困窮するから日本上陸作戦は無用としている。

第3章 マッキンダーの地政学は何を語ったか?

以下は、「マッキンダーの地政学」の記事へのリンク。

http://nonono7.blog12.fc2.com/blog-entry-2046.html

マハン理論では説明出来ないドイツの隆盛。海軍を整備しなくともフランスに勝利した。英国は対独軍事増強を正当化するために、マッキンダーの理論を活用する。

マッキンダーは、冬季不凍の外界と水運系で接続していない陸地を「ハートランド」と定義した。そして、歴史的にハートランドから繰り返し発揮される世界戦争との対決を不可避とする。

<著者の理論>
地球が寒冷化する時は都市国家が栄え、温暖化する時は帝国が栄える。紀元前1万年頃の地球は温暖期であり、紀元前6000年頃には寒冷化が進展する。さらに1年~270年頃、800年代から1290年頃の欧州を温暖期とする。

1300年頃から地球の寒冷化が進み、サハラからの風が弱まった事により、アフリカ大陸伝いの航海が容易くなった事が喜望峰周りの航路開拓に繋がったとする。

****************

<西欧の特異性>
欧州は半島と見做す事が可能であり、ロシアや中国と異なって海に開かれおり、閉鎖されていないため単一勢力によって支配され難い。強い専制が無い事が人権思想を生む。さらに、地理的に異文化集団が進攻する方角は限定され、欧州勢力が後退するほど人口が稠密になる傾向がある。
対して中華大陸の地勢は、北方遊牧民族が北部や西部から広範囲に進攻可能であるため、防御困難であり裏切りのインセンティブが高いとする。

<プロイセン>
19世紀初めまで、プロイセンはスラヴと思われていた。統一後の帝政ドイツは意図的に部族主義を鼓舞し、それがナチズムの下地になったとする。



地球が温暖であった10世紀欧州において、人々の行先としてバルト海沿岸がドイツ騎士修道会等の攻略対象になる。12世紀後半には北方十字軍活動によってバルト地方のドイツ化が進む。その後の各勢力との争いを経過し、フリードリッヒ1世(1657年~1713年)が高度官僚化国家を人工的に創り上げる(寒冷気候下での生存と対スラヴ安全保障の要請)。

⇒マッキンダーは、軍隊が国家を所有する体制にフン族やモンゴル軍を想起したのかもしれない

<世界輸送革命>
1878年の以下の変化。

・北米にて蒸気鉄道が営業運転開始
・汽走鋼鉄製商船が大西洋にて営業運転開始

⇒大西洋の両岸で食料やエネルギー価格が急落する

ドイツ政府は輸送革命以降は安価な穀物を大量輸入し、第二次産業に注力する戦略を選択する。そのため、ドイツは長期戦において不利な体制となり、奇襲作戦による短期勝利を志向するようになる。

<マッキンダーの限界>
マッキンダーは、遊牧民が乗馬を武器に西欧を脅威したように、ハートランドが鉄道網を活用して英国を脅かす可能性を考えていた。しかし、第二次世界大戦において、航空機による爆撃で鉄道が破壊される事を予想出来なかった。さらに、朝鮮戦争においては鉄道を活用する共産圏と、空軍を活用する米軍では米軍の方が有利であった。

ドイツは、ドイツ騎士修道会がバルト海沿岸を支配したように、占領地を空野化して、ドイツ人を呼び込んだ場合のみに効率文化圏を拡大出来た。スラヴ人を住まわせたままドイツ人が君臨しても効率文化圏とはならない。

異文化の統一は困難であり、ハートランドを単独支配する勢力は現れなかった。

第4章 戦争と石油の地政学

第一次世界大戦以降、石油確保が重要な課題となる。

1939年における世界原油生産量は2575トンで、米国だけで1518トンを生産していた。エネルギー効率の高いオクタン価の高いガソリンをドイツは確保出来ず(米国の100オクタンに対し、87オクタン)、航空戦において不利だった。

1933年に政権を握ったヒトラーは、1939年までにドイツの石油生産量を3倍の年産450万バレルまで引き上げ、ルーマニアのプロエスティ油田活用や、ドイツ領内で産出される褐炭の液体燃料化を進めた。

しかし、戦争中の燃料確保は困難であり、バクー油田確保のために対ソ戦に踏み込む事になる。対ソ戦においてドイツは60日分の燃料しか調達出来なかった。

対ソ攻略の最重要拠点がスターリングラードである。スターリングラードは交通結節点であり、黒海からボルガ川を利用した運送を制御出来た。

第5章 シナ大陸の地政学
    ―マッキンダーの空白を補完する

以下の歴史。

○商(殷)
紀元前1600年頃~紀元前1046年頃にかけての黄河下流域に存在した都市国家。当時の北部中国は寒冷期であり、同時に湿潤化が発生していたらしい。著者は、東南アジア系の民族による集団と考える。

○周
殷よりも古くから黄河の大屈曲点に居住した「夏」の末裔。中央アジア系民族。周の戦車は古代オリエントデザインであり、古代中東文物の影響があるらしい。

○秦
紀元前778年に黄河最上流域に出来た国。乾燥したモンゴル高原に居住出来なくなった遊牧民?

紀元前316年に揚子江上流域を占領した秦は、寒冷化傾向にあっても夏場の高温が得られて農業用水も不足しない有利な土地を得た。その時代は、秦の領域のみが特例的に温暖・湿潤だった可能性がある。

さらに、隣接ステップ地帯の遊牧民が長期寒冷や乾燥によって弱まっているのなら、東方の国々に対して河川上流にある優位から自在に遠征を組み立てられた事にある。

⇒その後の秦の滅亡は、秦朝幹部が疲弊した他地域の実情を考慮せずに重税や重労働を課したためとする?

その後の隋や宋では、舟運の遡上限界が支配域となる。農耕が出来ない北部や西部のステップ地域の維持には莫大な補給が必要であり、大規模な北方、西方遠征は漢朝と唐朝が数度実施したのみ。

隋朝が天下を統一した589年~618年にかけては中華は温暖期にあり、砂漠が拡大して遊牧民が弱体化していたのかもしれない。それ以降、中華においては裏切りを誘発し易い地理的条件(末広がりで敵に回り込まれる隙が多く、勢力を結集し難い)に気候変動が重なり、農耕集団と遊牧集団の相克が継続していく。

<馬の利用について>
紀元前30世紀頃には、シュメール人がロバに戦車を曳かせたらしい。殷に戦車が出現するのは紀元前12世紀頃?人間が馬に跨る技術は紀元前14世紀頃の近東で発達し、東方へ伝播したらしい。



そして、中華においては紀元前300年頃までに乗馬技術を使いこなす遊牧民が脅威となる。

農耕集団において大量の騎兵部隊を常時維持する事は困難。広大な草地面積を活用して馬を肥育する遊牧生活でなければ騎馬軍団の確保は難しい。

温暖な気候が継続し遊牧集団が大規模化した後で、気候が不順化すると遊牧集団は集団維持のために侵略を引き起こす事になる。そこで、秦漢以降の中華政権は騎馬民族に貢納金を渡し、農民から飼料を購入させるようにする。乾燥が強まって草原が砂漠化すると、遊牧集団は有利に戦える地域が減少するため、農耕民の歩兵部隊に対して不利になる。

⇒著者の意見として、農耕民と遊牧民は北部中国において混血していたはずで、半分遊牧民となる者もおり、農耕民と遊牧民を完全に分かつ事は出来ないとする。

第6章 ドイツの地政学徒たちは何を言ったか?

○フリードリッヒ・ラッツェル(1844年~1904年)
国家は生物であり、国境は力の限界を表現する。国家は生体としての成長のために拡大せよと主張した。

以下は、Wikipediaの「フリードリヒ・ラッツェル」の記事へのリンク。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%AB

○ルドルフ・チェーレン(1864年~1922年)
地政学(ゲオポリティーク)という語を創作。スウェーデン人だがドイツ留学し、ラッツェルに師事する。国家を擬人化する思想を受け継ぐ。ドイツのための侵略外交を唱える。

○カール・ハウスホーファー(1869年~1946年)
地政学の有効性を説き、ナチスの理論的支柱となる。

以下は、Wikipediaの「カール・ハウスホーファー」の記事へのリンク。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC

第7章 スパイクマンは何と言ったか?

日米安保体制の理論的創始者?

以下は、Wikipediaの「ニコラス・スパイクマン」の記事へのリンク。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%B3

南北アメリカ大陸をユーラシアの攻撃から守るため、リムランド(ユラーシア大陸の臨海辺縁部にある海陸両棲的国家)の概念を創造する。リムランドは資源的には不毛だが、海による物資輸送のため人口と工業が密集する。

リムランド:
満州、朝鮮、中国、インドシナ、サウジアラビア、西欧半島(独仏伊)。シベリア極東沿岸やイラン、トルコ、バルカン半島はリムランドでもハートランドでもない。英国と日本はオフショア島、豪州とアフリカはオフショア大陸と定義した。

リムランドの工業力が単一勢力によって支配されれば米国にとって脅威になる。

ユーラシア戦争史を、「英国とリムランド」対ロシアか、「英国とロシア」対リムランドと表現する。マッキンダーがハートランド(ドイツとロシア)が最強としたのに対し、スパイクマンはリムランドがドイツを含むため、リムランドが優位とした。

そして、極東における島国の基地が将来的な中華への対抗のために重要とした。

著者は、現代においては米国のような空軍強国とリムランドが開戦した場合、海も陸路も封鎖されるため、補給において不利としている。

第8章 日本防衛の地政学

<英国と日本の違い>
風と海流の違い。

・英国
偏西風は冬季には弱まるが、風が一定方向に吹く。暖流であるメキシコ湾流が英国西海岸沖で南北に分かれ、南の海流はフランスやスペイン、北アフリカに、北の海流はノルウェーやフィンランドに行く。周辺の海水温が夏でも18度しかないため台風が発生しない。

⇒西風と潮流によって船は東にある陸地に自動的に近付く

・日本
季節的に風向きが逆転する。黒潮は太平洋に流れ込み、冬場の日本海は大陸からの強風で波が高い。周辺の海水温度が26.5度以上あるため台風が発生する。

⇒航海が困難

<薩摩の地政学>
島津斉彬の征韓論の骨子は、北海道防衛のために朝鮮半島経由で樺太付近のニコライエフスクまで日本陸軍が北上して会戦する事。そうすれば、樺太のロシアを後方から脅威するため、容易にロシア軍が南下出来なくなり、北海道侵攻を抑制出来る。

⇒沿海州を最前線、朝鮮半島を補給路、北九州を後方基地とする戦略

朝鮮半島を確保出来ない場合、ロシアに対して北南の二正面作戦となり不利になる。

著者は、日露戦争において南樺太が日本領になった後は、北部のロシア基地が無くなったため、朝鮮半島を確保する必要は無かったとする。

******************

仮に北樺太を確保出来た場合、石油資源を入手出来た。1925年~1936年(日独防共協定)?まで北樺太で日本が採掘を認められた油井から年20万トンの原油が生産されている(ピークは31万トン)。

1920年時点では、連合艦隊の作戦運用には200万トンの重油が必要だったが、平時であれば年間23万トンで訓練に足りたらしい。

<ワシントン軍縮条約>
1922年のワシントン軍縮会議における日本を批判する。

米英の6割の戦艦を認める代わりに、フィリピン群島全域、グアム島、香港等の軍港機能拡充や要塞化が禁じられた(ハワイは禁じられていない)。

⇒中国沿岸において日本艦隊の後方兵站線が優越する事になるが、一方では中国市場を奪い合うため、後の戦争の火種となる

日本も千島列島、小笠原諸島、奄美大島、沖縄群島、台湾、澎湖諸島、旧ドイツ領の南洋の島嶼の基地機能強化を禁止された。ハワイの要塞化を是認して、沖縄等へのインフラ投資が抑制された事になる。

⇒日本は群島国家であるため、米国と艦船量を張り合うよりも、辺境の島嶼を要塞化する事が現実的?

また、1929年の世界大恐慌の原因を、補助鑑定を制限したロンドン海軍軍縮会議にあるとする。軍艦の建造発注が無くなる事で不況になると連想?

<真珠湾のシミュレーション>
真珠湾奇襲において、地上タンクにあった重油の備蓄450万バレルを炎上させていた場合、真珠湾における重油補給機能が回復するまで数ヶ月は日本海軍の西太平洋での自由が確保されたという意見。

地上重油タンクは、一個7000トンで26基が配置されていた。重油は空気と接触しても常温では容易に着火せず、タンク1基を火災させても他のタンクも延焼するかは不明。よって、全てのタンクに正確に爆弾を配分しない限りは全量を焼亡させる事は不可能。

タンク炎上に拘った場合、敵航空機への攻撃が疎かになる可能性もある。

仮に真珠湾で全ての重油を焼亡させる事が出来たとする。その場合、インド洋において日本海軍がホウルムズ海峡を制御し、イランからカスピ海、ボルガ川を経由するソヴィエト連邦への補給を排除出来たかもしれない。

すると、1942年1月以降、ソヴィエト連邦の補給は困難になり、1942年6月発動のドイツ軍による青作戦によってドイツがグロズヌイ油田とスターリングラードを確保していたかもしれない。

ただし、日本の苦境は変わらない。蘭印では、開戦直前の時点で日量17万バレル(2万7030kl)の石油が生産されていた。1941年度の軍用を含む日本国内石油消費量は500万kl。1日に1万3700klであり、蘭印石油を全て日本内地に持ち込めれば良いが、1939年に日本が保有していたタンカーは合計43万トンで補充が難しい。そして海軍は毎日2900バレルの重油を燃やす。

『反戦反共四十年』(渡辺鐵藏著)では、1941年に日本が生産した石油は14万2000トンで、米国は1億8998トンである。

<近未来における地政学>
シェール・ガス革命とパナマ運河拡幅を地政学の新事態とする。

大型LNGタンカーがパナマ運河を通過可能になり、中国からの安全保障上のオプションとなる(東南アジア近海が機雷封鎖された場合)。

北米西海岸から中国沿岸を目指す場合、最短コースでは日本の津軽海峡を経由する。八戸港を揚陸ターミナルとする提案。将来的には下北半島に運河を設けて、青森市寄港をオプションにする。

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