アスペルガー者に解けない問題?と放言

以下、何となく書く事。

①アスペルガーに解けない問題?
クーリエ・ジャパン DECEMBER 2012 VOL.097 『IQと収入の危険な相関関係』のP30から。米国の教育プログラム「マスカウンツ」で催している数学の大会。ノースカロライナ州で実施された大会では、出場した12歳の子供達が以下のような問題を数秒で解いたとされる。

【問題】
円形のプールに、1番から8番の水泳選手が、数字順に時計回りに並んでいる。2番から時計回りに1人置きにプールに飛び込むとすると、7番目に飛び込む選手は何番か?

【解答】
5番

********

どうして7番目に飛び込む選手が5番になるのだろう?僕は2012年10月29日(月)に雑誌を読んでから、幾度も計算したが、プールに飛び込むのは偶数番号の選手だけであり、奇数番号の5番がプールに飛び込む事は無かった。

今日、その理由に思い至った。これは無限問題ではなく、有限問題なのだ。プールへの飛び込みが幾度も繰り返されない事を前提にする必要がある。僕と出題者の間で前提条件が、以下のように異なっていた。

<僕が仮定した前提条件>
プールに飛び込んだ選手は、次の飛び込む順番が回って来る前に、プールから上がり、自分の順番が回ってきた際に再度の飛び込みを行う。
選手の内部条件(寿命、体力、生理的欲求、冠婚葬祭、職務、ETC)や外部条件(天変地異、設備の維持や回収、水道や電気、ETC)を考慮せずに、選手達の飛び込みは永久に続くものと考える。

⇒最初に飛び込むのが2番の選手、そこから一人置きにプールに飛び込むと考えると、飛び込む選手は偶数番号の選手 = 2番、4番、6番、8番に限定される。その結果、7番目に飛び込むのは6番の選手となる。


<出題者が仮定した前提条件>
プールに飛び込んだ選手は、他の選手が飛び込んでいる間は、邪魔にならないように泳ぐ、或いはプールから上がって休憩をする。

⇒選手達の飛び込みは永久に繰り返されない。

【前提条件を変える事の難しさ】
この問題は、規則(選手達が一人置きに、数字順に飛び込む事)と条件(飛び込む選手達が減っていく事)を組み合わせて考える事に難しさがあると思う。

僕は脳内でシミュレーションしてみたが、一週目に飛び込んだ偶数番号の選手達が、僕の気が付かない内に、プールから上がり、円形に並んでしまう。そうなると、一週目 = 偶数番号の選手が飛び込む、二週目 = 奇数番号の選手が飛び込む事になってしまう。そうなると、7番目に飛び込むのは7番の選手となってしまい、やはり間違ってしまう事になる。

実際には以下のように考える必要がある。

一週目:偶数番号(2番、4番、6番、8番)の選手が飛び込む
 一番目 = 2番の選手が飛び込む。
      残りの選手 = 1、3、4、5、6、7、8
 二番目 = 4番の選手が飛び込む
      残りの選手 = 1、3、5、6、7、8
 三番目 = 6番の選手が飛び込む
      残りの選手 = 1、3、5、7、8
 四番目 = 8番の選手が飛び込む
      残りの選手 = 1、3、5、7
二週目:奇数番号(1番、3番、5番、7番)の選手の半分が飛び込む
 五番目 = 3番の選手が飛び込む
      残りの選手 = 1、5、7
 六番目 = 7番の選手が飛び込む
      残りの選手 = 1、5
三週目:最後のターン
 七番目 = 5番の選手が飛び込む
      残りの選手 = 1

⇒僕には、二週目に3番と7番の選手しか飛び込まない事を直感的に理解する事が難しい。偶数番号の選手も計算に入れてしまうので、二週目に奇数番号の選手が全て飛び込む事になってしまう。

⇒ところで、この場合、最後に残った1番の選手は飛び込みを行う必要があるだろうか?一人置きに飛び込むのだから、7番目に飛び込んだ5番の選手に隣り合っていた1番の選手は飛び込む必要が無い?これで大丈夫だろうか?
 
②自己は否定出来るか?
週刊朝日 2012.11.9のP47、『池田教授の机上の放論』から。何故、クレームは増えるのか?

コラムの中では、それを近代化による事象としている。近代化は、分業システムと貨幣経済を基本にしている。水道や電気、食料等のライフラインを他の人間の行為に委ねている。

近代は、共同体から独立した「個人」という概念を一般化したが、現実には多くの人間は、分業体制の中に組み込まれ、体制の中でしか生きられない。それだから問題が発生すると、「クレーム」という行動に出る人間が増える。

近代の思想では、社会を動かしているのは、「個人」 = 「自己」 = 「自我」 = 「意識」であると考える。問題が発生するのは、関係する個人が、「いい加減」だからであり、「怠けている」からであり、「甘え」があるとする。だから、問題の解決は、個人の「意識」によらなければならないと考える。

耐震偽装、食品偽装、ETCと、監視組織の構築が問題解決の手段となる。個人から「怠け」や「甘え」を排除すれば、問題が発生するはずがないからだ。監視組織を構築したところで、問題は何も解決しない。「自我」は存在しないからだ。存在しない主体に働きかける事は無意味だ。

しかし、「自己」は僕達の思考を深く縛っており、その枠組みの中でしか人間は思索出来ない。

コラムの中では、近代以前の人間は、自給自足の生活をしており、現代のように家畜化していなかったとしているように感じる。

それは違うのではないか?

近代以前の社会では、「神」の存在が信じられていた。個人が共同体から未分化な状態であり、貨幣経済の倫理が発達していない社会では、「神」に祈りを捧げていたのではないか?

江戸時代には「生類憐みの令」という政策があった。実施されたのは1687年~1700年?将軍に世継ぎが生まれない理由を、神仏の祟りと考えたのか?信じられない話だが、記録上はそうなっている。

現代の感覚では奇妙な話だ。神も仏も存在しない。第一、祈った所で子供は生まれなかっただろうに、前提条件となる神仏の存在が疑われなかったのは何故なのか?

数百年後に人間社会が存在した場合、未来人達は、現代人が「自我」の存在を妄信していた事を不思議に思うだろうか?

社会構造の変革されなければ、「神」が否定されなかったように、「自我」の存在も現行の社会システムが維持される限り肯定され続けるだろうか?

否定は、人間を超える知性体によってなされると思う。それはどのような存在か?神は再臨するのか?

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