逃げる「孫子」

読んだ本の感想。

守屋淳著。2004年8月15日 第1刷。



以下が、「逃走」を戦略的に使用する原理。

①迂回
目的地への速度を競う場合、敵と戦うよりも、迂回した方が早く到達出来る場合がある
②消耗
敵から体力や蓄えを削り、自分は体力を温存しておき、敵の余裕が無くなった時に戦う

<孫子十三篇の概要>
始計篇:戦争の影響の大きさ、臨機応変の重要性
作戦篇:長期戦の無謀を指摘
謀攻篇:戦わずに勝つ知謀に基づく戦い方
軍形篇:不敗の重要性
兵勢篇:奇正や勢い等の要素
虚実篇:主導権を握り、手薄に追い詰める
軍争篇:軍の行動特性や指針
九変篇:将軍が念頭に置くべき事柄
行軍篇:地形に応じた戦い方
地形篇:細かい地形毎の対処法
九地篇:地形における戦い方、部下への対処
火攻篇:火攻め、水攻め
用間篇:情報の重要性

<曹操>
各地に散在していた『孫子』を再編集し、一つに纏めて自らの注を施している。現在一般的に流通している『孫子』は曹操の再編集版。

200年に曹操(兵力二万)と袁紹(兵力十万)が戦った「官渡の戦い」は、『孫子』的思想では、戦ってはならない戦だった。しかし、逃げ場のない戦いであったために先頭を選ぶ。

曹操の戦術としては、まず延津に向かい、黄河を渡って袁紹の背後に回ると見せかけて、敵を引き付けてから白馬に急行して敵の不意を突いた。

⇒孫子 虚実篇における各個撃破の原理。敵を分散させ、味方を集中して戦う。虚実篇では敵を分散させる方法として、どこが攻撃されるか分からないようにするべきとある

⇒各個撃破のためには敵の情報を収集し、味方の情報を隠匿しなくてはならない

そして、曹操は袁紹軍の兵糧が積んである鳥巣を襲撃し、輜重を全て焼き払う事で勝利する。人間は食料と睡眠でエネルギーを補わなくてはならない

⇒その後の南方への遠征では、孫子 軍争篇における「五十里の遠征では、兵力や物資が半分しか戦場に到着しないから、上軍の将が討ち取られる」の言葉通り勢いが続かずに敗れる

******************

クラウゼヴィッツは、戦闘を決闘の拡大版として一対一の発想(敵の殲滅)であったが、孫子では敗戦部隊の大きさで勝利が確定するとして、敵が多数存在する状況を仮定している(自己保存)。ために謀略を使用して無傷で勝つ事を目指す

<毛沢東>
毛沢東が『孫子』を読んだのは、1935年頃(42歳)の時である。

1921年(28歳)に中国共産党に入党した毛沢東は、1927年(34歳)で井岡山を根拠地とし、朱徳と合流し、遊撃戦の思想を生み出す。

〇遊撃戦
敵が進めば退き、敵が止まれば攪乱し、敵が疲れれば襲い、敵が退けば追い掛ける。多い敵、他の敵部隊と近接している敵、堅固な陣地を持っている敵とは戦い難い

1930年末に、蒋介石の国民党軍の包囲討伐をうけた毛沢東は、敵を自軍根拠地に深く誘い入れて分散させ各個撃破する戦略を採用する。

しかし、李立三に消極的な戦術を批判されて実権を奪われる。李立三は都市での革命を実施しようとするが失敗し、次は李徳(オットー・ブラウン)、博古、周恩来のトロイカ体制となる。

李徳は、亀の甲戦術(堅固な陣地から一定距離机上離れない戦術)を採用する国民党軍に対し、敵殲滅を厳命するクラウゼヴィッツ的支持を与えるが、装備に優れた国民党軍が有利となる。

この苦境に付け込んで実権を奪い返した毛沢東は、長征を行い、延安に逃げ込む。その最中の遵義で行われた会議で『孫子』に言及があり、毛沢東は初めて『孫子』を読んで開眼する。

『孫子』における情報の重要性から、偵察や推論によって一般的に正しい指導を実現する事が可能とした。そして、逃げるためには堅固な根拠地が必要であり、そのためには広い国民の支持が不可欠と考え三大規律 八項注意という軍律を策定した。そして、退却しながら分進する敵軍の弱い部分を偵察し、地形を活かして各個撃破する戦術を採用。

<戦後の毛沢東>
中華人民共和国建国後の毛沢東は、対外的にはクラウゼヴィッツ的、対内的には孫子的に振舞ったとする。

〇国内
『孫氏』では、賞罰で人を動かす事が基本だが、他に以下のような記述がある。

九地篇:
兵士に作戦計画や軍の狙い等についての情報を知られてはならない

全軍を絶体絶命の窮地に追い込んで死戦させる

兵士に規定外の報奨金を与えたり、常識外れの命令を下す事で、全軍を自在に操作出来るようになる

⇒部下への情報を遮断して思考力の無い大軍を作り出し、逃げ道を奪って必死に戦うように仕向ける

毛沢東は建国後も、上記のような形を実行した。情報を遮断し、常識外れなキャンペーンを実施する事で、多くの人間が目先の指示に全力を尽くすだけの存在に陥った。そうして誰も自分に逆らえない体制を築く。

〇国外
戦争論的な殲滅戦の思想。

1950年代から米ソ冷戦が激化すると、核戦争が発生しても中国人が最も多く生き残るために有利だとした。

<ヴェトナム戦争>
ホー・チ・ミンは敵を麻痺させる事に対して『孫子』的発想を戦略の要諦として。

虚実篇:
敵の態勢に余裕があれば疲れさえ、食料があれば糧道を断ち、備えが万全であれば計略でかき乱す

軍争篇:
有利な場所で遠来の敵を待ち、休養を取って敵の疲れを待つ。これを「力」の掌握という

ゲリラ戦で敵を緊張状態に置く。対して米軍はクラウゼヴィッツ的殲滅戦略で対応。ヴェトナム人の多くが戦争を望んだために情報量で独立軍が有利であり、当時の国防長官マクナマラが重視した敵の死体数等の損耗率は、国全体を相手とする場合には不適だった。

損耗率を過大に評価する状態では、敵被害について虚偽の報告をする司令官が出世していき、正しい情報が伝わらない。1968年のテト攻勢では、40あまりの都市に攻勢がかけられ厭戦気分が米国内に蔓延。この時、ヴェトナム軍側もゲリラ戦でない正面攻勢のために被害が大きかったが、正しい情報が伝わらない米国はそれを活かす事が出来なかった。

ヴェトナム戦後に国防長官マクナマラが導き出した教訓は、「我々は敵も自分自身も知らなかった」という『孫子』の謀攻篇にある言葉と同じようなもので、以後、米国の国防大学では『孫子』の研究を組み入れていく。

<失敗について>
以下の二つの人間観。

①人間は間違える
②人間は強く美しくあらねばならない

『孫子』においては、②の立場であり、正しい指揮官が部下達を手足のように動かす事を理想とする。1960年代の米軍や経営理論も同様な思想を持っていたが、『孫子』における部下は地位を与えれば全力を尽くす甘い存在ではなく、死地に落として短期決戦で全力を引き出す視点があった。人間はボタンを押せばその通りに動く機械には成り得ない。

命令されるだけの駒扱いでは積極性が生れず、過ちが愚かさとして評価されない環境ではマイナス情報の隠蔽が生じる。

<ピーター・ドラッカー>
上記のような問題から、人間は間違えるという柔軟な思想を持つ経営哲学が求められた。

ピーター・ドラッカーの以下の視点。

・間違えない人間は信用出来ない
・経営者は自らの過誤を認識し得る能力に対して報酬を得る

計画を過信すると硬直化するため、間違いを柔軟に改めるべき。体系的廃棄 = 敗北を認める事が変化の原動力となる。

<マイケル・E・ポーター>
企業の強味、弱味について探究。

以下の三つの手法を提唱。

①低価格
②差別化
③集中

低価格か差別化のどちらかに集中し、中途半端はしない。

以下のような思想は『孫子』に近いとする。

〇勝者にも無益になるような消耗戦は避ける
〇ある事業単位に攻撃を仕掛け、他を疎かにさせる戦略
〇予告によって競争業者の気持ちを推し量る
〇競争相手に代替技術を奨励する
〇大抵の企業には脅威に対して過剰に反応する部門がある

<トム・ピーターズ>
以下の二つの原理を提唱。

①巨大組織を小さいユニットに分割
②年商二百万ドルを超えた組織は作り変える必要がある

権限を下に委譲する事で、他人任せの心理を排除し、水のように柔軟な組織にする。『孫子』の場合は指揮官と部下が分離するが、ピーターズは自分が自分の指導者になるように仕向ける。

『孫子』が志向するのは短期決戦であるが、長期戦では硬直化による弊害を避けるべき。『孫子』の「窮地」という方法は短期的に成果を出す事を目指すもので、ピーターズの「権限と責任」は長期的視点である。

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文明を変えた植物たち

読んだ本の感想。

酒井伸雄著。2011年8月30日 第1刷発行。



第一章 ヨーロッパ発展の原動力ジャガイモ
じゃが芋の原産地は、南米の東コルディエラ山脈と西コルディエラ・ネグラ山脈の間にある標高4㎞のアルティプラノ高原である。紀元前3000年頃には栽培が始まり、ティワナク文明(9世紀~11世紀)やインカ帝国発展の原動力となる。

芋類は地下で大きくなるので気候変動の影響を受け難く調理し易いが、水分が多いために保存に適さず、重いために大量輸送にも問題があり、同量のエネルギーを摂取するには穀物の四~五倍の芋が必要である。

<チューニョ>
乾燥じゃが芋。
四月~九月のアンデスは乾季となり、一日に30度以上の温度差が生じる。気温差が大きい六月~七月にじゃが芋を野天に広げて数日放置し、じゃが芋が凍結~解凍を繰り返すようにして水分を出し易くして、足で踏みつけて水分を抜いて、さらにそのまま乾燥させればコルク状の澱粉質のみが残る。生のじゃが芋の水分を80%とすると、重量が1/5になり、保存にも適すようになる。

⇒輸送や貯蔵に便利になった事で文明が発生した?

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じゃが芋は16世紀半ばにはスペインで栽培されるようになり、1580年代にはイタリアに、1588年にはオランダ、1600年までにはオーストリア、ベルギー、フランス、スイス、ドイツ、ポルトガルにまで伝わっている。

食糧としてのじゃが芋普及に貢献したのは、プロイセンのフリードリッヒ大王(1712年~1786年)で、じゃが芋の強制栽培令を発布している。冷害によって麦類の凶作が続く中、じゃが芋は救荒作物として有用だった。

フランスでは七年戦争(1756年~1763年)でプロイセンの捕虜になったアントワーヌ・パルマンティエが、帰国してからじゃが芋普及に活動し、ルイ16世の援助によってパリ郊外のレ・サブロンの原野で試験栽培を行っている。

18世紀頃にはアイルランドでも栽培されるようになり、1754年に320万人だった人口が1845年には820万人になり、1845年~1849年のじゃが芋の病気流行で大打撃を受けた。この時、米国に移住した人々がじゃが芋の栽培を米国に広めたとする。

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じゃが芋は麦類だけに頼った人々を飢饉から解放し、飼料としても活用された。寒冷地でもそだち、種芋を植えてから三ヶ月程度で収穫可能。

スウェーデン王位アカデミーのシャルル・スキテスは蒸留酒の実験で1747年に、一エーカーの土地から収穫したじゃが芋のアルコールを566とすると、同条件の大麦は156としており、じゃが芋は大麦の三倍以上のエネルギーを持つ事になる(アルコールは原料中の炭水化物を発酵させて作る)。

さらに、じゃが芋100gの中には35㎎のビタミンCが含まれており、じゃが芋の澱粉が水中にビタミンCが溶け出すのを防ぐ事から、水煮したじゃが芋には生の60%のビタミンCが残るとされる。新鮮な野菜が不足する北部欧州で、じゃが芋は壊血病予防に活用されたと思われる。

さらに余ったじゃが芋を豚の餌として活用するため、19世紀半ばには冬期にも食肉用に牛や豚を飼育出来る環境が整い、新鮮な肉を食べられるようになった。欧州を臭い肉から解放したのは香辛料ではなく、じゃが芋だった。

第二章 車社会を支えるゴム
<車輪>
紀元前3000年紀頃のシュメール人の絵文字に車を表すものがある。メソポタミアの出土品等から、当時の車輪は三枚の板を横木で繋ぎ合わせてから丸く切り出し、中心に心棒を通したものと推測される。車輪を長持ちさせるために外周部に皮を打ち付けて摩耗すれば取り替える。

紀元前2000年紀頃には、何本かの木を繋ぎ合わせて外周部を作り、それを木製のスポークで支える事で軽量化が実現した。

紀元前1000年頃にはケルト人が、車輪の寿命を延ばすために車輪に鉄の外周を付けるようになる。鉄の代りにゴムを使用するようになるのは、1845年頃?空気入りタイヤの特許取得は1888年頃。

<ゴムの使用>
南米から伝わったゴムは、1770年頃に鉛筆の字を消せる事が分かってから、1772年に消しゴムが英国で販売された。18世紀後半には生ゴムが精油に溶ける事が分かり、生ゴムを溶かして運ぶ方法が考え出された。

さらに、1839年にチャールズ・グッドイヤーが硫黄を混ぜる事で生ゴムの弾性を温度に関わらずに保つ方法を見つけ、カーボン・ブラック(細かい炭素の粒子)を練り込む方法を1900年?にモート?が発見した。

<ゴムの普及>
19世紀までの生ゴムは、アマゾン川流域のパラゴムの木から採取された。英国は、持ち出しが禁止されていたパラゴムの種子を1876年にヘンリー・ウィッカムに持ち出しさせ、1877年にはセイロン島でゴム栽培が始まる。

1889年には四トンだったマレー半島の年間生ゴム生産量は、1922年には世界生産量の93%を占めるようになる。1990年以降は、タイが生産量の世界一位で、1/3を生産する。

合成ゴムの研究では1933年に、ドイツのIG社がブナSの開発に成功し、米国も第二次世界大戦中に合成ゴムを開発し、1945年の生産量は82万トンである。

2009年現在の天然ゴム生産量960万トンに対し、合成ゴムは1200万トン。飛行機のタイヤ(高度一万m以上の低温と、着陸時の高温の落差)とコンドーム(0.02㎜の薄さ)には天然ゴムが使用されている。

第三章 お菓子の王様チョコレート
カカオ豆の利用は、紀元前1000年頃のメソアメリカのオルメカ文明に遡るという。高温多湿で育つカカオの豆は、以下の手順で利用される。

①発酵
果実から取り出した実を箱の中で放置し、果肉を液化させて実を取り出し易くする
②乾燥
カカオ豆の約55%は水分であるため、一週間~二週間で水分を抜く
③ロースト
苦味や弱くなり、香実味が生れる
④風選
実(ニブ)から殻(シェル)と胚芽(ジャーム)を除去する。実には脂肪が55%程度含まれるため、30度以上の高温で磨り潰すとペースト状になる。茶褐色のカカオマスの完成。

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チョコレートに砂糖を入れて飲むようになったのはスペインのカルロス一世とされ、1615年にフランスのルイ13世がスペイン王女アンヌ・ドートリシュと結婚するとチョコレートを飲む習慣がフランスに伝わる。1660年にマリー・テレーズがルイ14世に嫁ぐ頃にはチョコレートは上流階級の飲み物として定着していた。

1828年にオランダの化学者コンラート・バン・ホーテンがカカオマスから脂肪分の2/3を除去する方法を考案し、ココア粉の製造方法として特許を取得した。

英国のJ・S・フライ・アンド・サンズ社は、除去された脂肪分をカカオマスに加える事で、流動性のあるペースト = 固形チョコレートの元祖として1849年に発売した。

第四章 世界の調味料になったトウガラシ
紀元前8000年頃~紀元前7000年頃の唐辛子は、宗教上の儀式等に使用されたと推定される。やがて、蛋白質に塩味の単調な食事の中に、唐辛子の辛味がアクセントとなる事に人々が気付く。ペルーのアンデス山脈では同時期に唐辛子が栽培されている。

唐辛子は分類上は四種類に分類されており、ロコト(アンデス高地に分布)、南米大陸南部、アマゾン川流域、カプシコカム・アンヌーム(メキシコ原産)の内、カプシコム・アンヌームのみが世界的に普及している。

西洋では長らく観賞用の植物とされていたが、1806年~1807年の大陸封鎖令でアジアの香辛料が入手困難になると、唐辛子が香辛料として活用されるようになる。

***************

唐辛子の世界的普及に貢献したのはポルトガル人で、16世紀半ばには日本まで伝わっている。肉や魚にはアミノ酸のうま味が自然に備わっているが、野菜にはうま味が欠けているため、煮ただけでは美味にならず、澱粉質の単調な食事に唐辛子を使用する。澱粉質への依存度が高かったアジアやアフリカの国で唐辛子は短期間に普及した。

日本料理は、魚と野菜を中心に、素材の鮮度の味を引き出す料理であり、もともとがスパイスと縁が薄い。江戸時代に山葵を使用するようになったが、葱、芹、紫蘇、三つ葉が主で、唐辛子の普及は1825年にマイルドな七味唐辛子(辛味を中和するために胡麻や山椒、けしの実、蜜柑の皮の粉等を混ぜる)が売り出されてからだった。

江戸時代の辛味文化の中心である山葵と七味唐辛子は、客が使用程度を決定出来る事に特徴がある。

第五章 生活の句読点だったタバコの行方
タバコ属の植物は66の種があるが、その内45種はアメリカ大陸に生育する。喫煙用に栽培されているのは、タバクム種とルスティカ種の二種類だけである(両方ともアンデス高地原産)。

9世紀~11世紀に栄えたティワナク文明ではパイプを吸う太陽神の像がある。マヤ族やアステカ族にも喫煙の風習があったが神事であり、庶民が簡単に吸うもので無かった。

喫煙方法は種と関係があり、パイプの出土品がある地域はルスティカ種(乾燥すると細かくなり易い)の栽培地域と重なるし、噛みタバコ(南米北部沿岸、アマゾン川上流域)や嗅ぎタバコ(エイアドル、ペルー、ボリビア等)はタバクム種の栽培地域である。

スペインの植民地だったイスパニューラ島では1560年頃からタバコ栽培が始まり、スペインが栽培を独占していた。米国での栽培開始は、1607年のバージニア入植に求められ、1611年にジョン・ロルフが現地のルスティカ種でなく、欧州人好みのタバクム種の種子を入手し、1615年から英国に輸出している。タバコ以外には植民地経済を維持する産品は無かった。

<葉巻>
タバコは薬草として欧州にもたらされ、ペストや頭痛に効果があるとされた。19世紀まではスペインのローカルな風習だったが、1808年にナポレオン軍がイベリア半島に侵攻すると葉巻がスペインに駐留した英国人やフランス人にも普及した。

<嗅ぎタバコ>
ルイ13世の治世(1610年~1643年)のフランスでは嗅ぎタバコが嗜まれ上流階級に定着した。しかし、フランス革命後は嗅ぎタバコは旧体制の象徴として衰退するようになる。

<パイプ>
進出先の北米でパイプが使用されていた英国でパイプ喫煙が主流になり、1618年~1648年の三十年戦争によって、パイプ喫煙が英国からドイツ、オーストリアにも伝わった。

<シガレット>
細かく砕いたタバコの葉を樹皮等で巻いて喫煙するシガレットは中南米が起源で、スペインに伝わり、紙巻タバコになる。紙巻タバコはスペインからトルコ、ロシアにまで広まり、クリミア戦争(1853年~1856年)には英国やフランスにも伝わる。

何枚もの葉を必要とする葉巻は高価だし、陶器のパイプは壊れ易かった。紙巻は自分で刻んだタバコを吸うという簡易が気に入られた。

<煙管>
日本にタバコが伝来したのは、天正年間(1573年~1592年)までで、伝わった当初は高価だったタバコを活用するために煙管が生み出されたとする。刻んだタバコを一つまみ火皿に詰めるだけで、葉巻のように何枚もの葉を使用しない。

ならず者がタバコを吸い交わす事で誓いを結んだため、1609年には最初の禁煙令が出されるが、徐々に容認されていき、むしろ換金性の高い農産物として栽培が推奨されるようになる。

第六章 肉食社会を支えるトウモロコシ
玉蜀黍栽培はメキシコで始まったと考えられ、紀元前6800年~紀元前5000年頃の地層から原始的な玉蜀黍が見つかる。現在のような玉蜀黍は紀元前1500年以降の地層から見つかる。

以下の優れた特性。

①収穫率
播いた種から取れる種の量では、18世紀初頭の欧州での小麦が五倍~六倍、江戸時代の稲が三十倍~四十倍なのに対し、トウモロコシは八百倍
②面積率
玉蜀黍は同じ面積の畑で小麦の三倍以上の収穫がある
③適応性
北はカナダから南はアルゼンチンまで栽培可能

新大陸の先住民は紀元前1000年頃には、玉蜀黍、インゲン豆、南瓜を同時に栽培していた。玉蜀黍に含まれる蛋白質のアミノ酸価は13と低く体内での利用効率が低い。蛋白質を補うために、インゲン豆(全体の20%の蛋白質)や南瓜(ピタミンAや脂肪分)が副食となる。

欧州での玉蜀黍栽培は、メキシコ中央高原の栽培種が持ち帰られて栽培される1520年頃で、16世紀末にはトルコまで伝わった。しかし、食文化までは伝わらず、ルーマニアや北イタリアでしか日常食として定着していない(玉蜀黍の粉を練り粉状にして食べる習慣)。対して、16世紀中頃に伝わったアフリカでは主穀物となる。気温や日照時間が中南米と似ていたためかもしれない。

玉蜀黍には必須アミノ酸の一つであるリジンの含有量が低く、蛋白質を補う副食が必要である。さらに旨味が強いために、返って主食にすると飽きる。

現在では玉蜀黍の生産量の40%は米国であり、その45%程度が飼料として使用される。1935年に開発されたビタミンDの合成技術は紫外線を浴びずともビタミンを補給する事を可能にし、抗生物質の登場と合わせて家畜飼育方法を変えた。

牧草中心だった時代には体重500kg程度に牛を育てるのに三年以上が必要だったが、現在は生後一年以内に出荷可能であり、豚もかつては一年以上の飼育期間が必要だったが半年で100kg以上になる。

玉蜀黍はアミノ酸組成面で問題があるが、100g当たり350㎉のエネルギー量があり、大豆粕やコーリャン等の穀物と合わせる事で配合飼料にしている。

青い内に刈り取った玉蜀黍を、葉や茎と一緒に細かく裁断して乳酸発酵した飼料は繊維質を含むために、バランスの良い資料であるらしい。

終章 コロンブスの光と影と
新大陸に欧州人が入植した事の影響について。伝染病流行による先住民人口激減や梅毒の流行等。

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China 2049

読んだ本の感想。

マイケル・ピルズベリー著。2015年9月7日 第1版第1刷発行。



抽象度が低いため、鳥瞰的な視点から読む事が困難な本。

天安門事件を契機に、親中から反中に転向した著者の意見。

中国は、1949年頃から百年をかけて計画的に世界の覇権を握ろうとしていると主張。その本質は精密な工程表や詳細な青写真ではなく、態勢を整えておき、好機を逃さない事にある。

読んでいると、他者理解とは自己投影であり、自己と他者が同一でないと悟った時に憎しみが生じるように思える。著者は中国が米国に恐怖を覚え、支配されないために戦っているとするが、それは著者自身の姿勢でもある。

・中国に関する間違っていた前提:
①繋がりを持てば、完全な協力が得られる
②中国は民主化(米国化)への道を歩んでいる
③中国は脆い

米国はソヴィエト連邦への対抗上、中国を支援したが、中国は自らを偽って、弱く善良に見えるよう対外的に情報発信しており、報道からは真実を知る事は出来ないとする。

そうなると、本書に書いてある事の根幹は著者の推測という事になってしまう。以下の対中戦略は、著者が中国の戦略と呼ぶものと似ている。敵と戦うために敵になってしまうという事か。

・対中戦略:
①問題を認識する(中国を競争相手と認める)
②自分を知る(国内の対中支援者を知る)
③競争力測定(測れるものは改善可能)
④競争戦略を考える
⑤協力体制を作る
⑥反体制派を支援し、汚染者を突き止める

⇒他にもあったけど、全てを実行した場合、『中国』になってしまうんじゃないの?

【中国の思想】
毛沢東は資治通鑑を愛読した。その核は戦国時代の兵法であり、世界秩序は本質的に階層を成し、頂点には唯一の統治者が存在する。中国共産党の戦略は、容赦ない競争世界における生存競争を基本にする。

さらに歴史上の成功と失敗から具体的教訓を得ようとする。中国の公式発表や軍事政策においては、歴史上の出来事や格言が語られる。

以下は、戦略の9要素。

①敵の自己満足を引き出し、警戒態勢をとらせない
②敵の助言者を味方につける
③勝利するまで長期間我慢する
④目的のために敵の思想や技術を盗む
⑤軍事力は決定的要素ではない
⑥覇権国(米国)は地位を維持するために極端になる
⑦勢いを見失わない(騙す事と待つ事)
⑧自他を相対的に測る尺度を確立、利用する
⑨常に警戒し、騙されたり、包囲されないようにする

「鼎の軽重を問うな」とは、楚の壮王が、周王室に鼎(周が所有する釜)の軽重を問うた事から、周の所有物を奪う意図を疑われ、敵に対峙出来るまでは敵意を悟られないようにするという教訓に繋がる言葉。中国では、強くなるまでは欺くべきとする。

中華的思想からは、米国の競争と協力を繰り返す政策は、敵意と策略に満ちているように見える。

個人主義的な米国の価値観と異なり、中国には個人の権利が存在せず、中国が覇権を握る世界では民主主義が脅かされるとする。

【米国の中国支援】
1971年にニクソン大統領が対ソ戦略のために中国と交渉した事に始まる。

①インド軍の情報を提供
1971年9月、ニクソン大統領訪中を前に、第三次インド・パキスタン戦争について、インド軍の情報を中国に提供し、中国のパキスタン支援を認めた

②対ソ協力の約束1
1972年1月、ニクソン大統領は中国と協力してソヴィエト連邦に対抗する事を約束(対中禁輸措置からの転換)

③対ソ協力の約束2
ニクソン大統領は毛沢東と会談し、中国に対するソヴィエト連邦の攻撃行動に、米国が反対すると約束

④対ソ協力の約束3
ニクソン―毛会談と同じ日に、キッシンジャーは、葉剣英・喬冠華と対談し、中ソ国境のソヴェエト連邦軍の配置や核攻撃目標の情報を提供

⑤対ソ協力の約束4
1973年2月、北京で対ソを軸に米中協力して安全保障に努める事が確認される。

⑥対ソ協力の約束5
米国とソヴェエト連邦が交わす合意を全て中国とも交わす事を約束。1973年6月のニクソン―ブレジネフ会談の準備中に、キッシンジャーはその事を確認している

⑦人民解放軍への支援
1973年11月に北京を訪問したキッシンジャーは、ソヴィエト連邦が中国を攻撃した場合、「装備や他のサービス」を提供すると約束

⑧技術提供1
1979年1月31日、鄧小平は米国と科学交流を加速させる協定に署名。5年間で1万9000人の留学生が生れた

⑨技術提供2
1978年に調印された大統領指令43は、米国の科学を中国に伝えるプログラム創設を命じている

⑩軍事支援
チェスナット作戦。1979年頃に、中国北西部に信号情報傍受基地設立を許可。戦略情報収集で中国と協力

⑪軍事協力
1982年に米国とベトナム共和国軍が、中国、タイ、シンガポール、マレーシアの支援により、カンボジアプログラムをバンコクで展開。1984年にはその50倍の規模の協力をソヴィエト連邦をアフガニスタンから追い出すために行う。他にアンゴラでも対ソ協力している

⇒中国は弱者を装って米国から支援を引き出し、無為という戦略で他者同士を闘わせたとする

【米中対立】
著者は、1989年のソヴィエト連邦弱体化に伴い、中国政府が米国を危険な覇権国と見做すようになり、国内メディアを通じて米国に敵意を持つ者を育成するようになったとする。

1990年以降は愛国教育プログラムとして、米国が中国の繁栄を抑制しようとしてきた歴史が語られるようになる。中国国家博物館では、中国人民の歴史的優越と、外敵からの侵略に抵抗した歴史が展示されているとする。2004年から世界中に設立された孔子学院は、中国語と文化を学ぶ場として、中国の平和的イメージを外国に植え付けている。

中国古代の歴史を普遍的真実とするならば、米国は覇権国であり、戦国時代の覇権国のように利己的で疑い深く、無慈悲な振る舞いをするはず。

以下が、中国が米国に感じる恐怖。

①封鎖
中国の海岸線に沿って島々が並んでいるため、日本からフィリピンを抑えられると容易に封鎖される。領海内の資源等も奪取され、海上交易が脅かされる

②分断
広大な中国は陸路からの侵攻にも弱く、台湾やチベット、新疆などに分裂分子を抱える

【中国の軍事戦略】
越王勾践のように、中国は、機が熟するまで西洋に協力を約束し、弱体化するまで報復の機会を伺うとする。

人民解放軍の大佐が書いた『超限戦』という本では、直接的な軍事行動によらずとも、法や情報、経済によって勝利する事が出来る。

情報統制を重視しており、①直接的規制、②経済的利益と懲罰、③広告主等による間接的圧力、④サイバー攻撃等で、世論操作を行っている。

殺手鐗(強者に勝つための武器)として、敵を打ち負かすための新技術 = 非対称兵器の開発にも注力している。強襲レーダーやコンピュータウイルス等。安価な武器を秘密裡に開発し、敵が準備する前に使用する。米国軍は情報システムに依存しており、スパイ活動やサイバー攻撃に脆弱である。宇宙衛星への攻撃も手段の一つ。

【中国の米国理解】
特に1880年~1914年までの米国の外交史は、米国が英国を騙しながら覇権国の地位を奪取した過程とする。

共産党中央党校で学ばれている戦略プログラムでは、米国の繁栄は政府による企業支援にあるとしている。国内市場の保護や企業への経済支援を中国は模倣した。

助成金によって政府に育成された企業が市場を拡大し、醸造メーカー等が海外に工場を建てる事を支援している。また、米国は小麦やオート麦をシリアルに加工する技術等を欧州から盗み、ピルズベリー社が活用した。

1900年に製紙の新技術を持つドイツ企業を吸収合併して業界トップになり、鉄鋼業でも政府支援を行った。銅やアルミニウム製造、ゴム産業と石油産業は1880年代には世界的に支配した。

第一次世界大戦までに世界的指導者の地位になり、1914年からの50年間でエレクトロニクスや製薬も支配。

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海岸線の歴史

読んだ本の感想。

松本健一著。2009年5月8日 初版第一刷発行。



以下の三つの論点

①地形は人間の活動によっても変化する
②土地の経済的価値は社会変化によっても変わる
③経済以外の土地の価値

古代都市トロイアは、建設された頃の紀元前3000年~紀元前2500年頃はダーダネルス海峡に面していた。しかし、紀元前1800年~紀元前1275年頃には海岸線から3㎞~4㎞ほど内陸となり、現在では港の面影が無い。日本でも大浦や大津浜、大湊等の、かつては貿易港だったが、内陸の小さな川や漁港となってしまった土地が多くある。

人為的条件によって土地の価値が変わった例としては香港がある。1840年頃の人口は2000人程度だったが、2000年現在では800万人である。かつての沿岸交易では喫水の浅い船のために、外海の大波が入れない浅海が港として使用されたが、外洋交易が盛んになると、水深の深い港が活用されるようになる。

瀬戸内海の「鞆の浦」は、江戸時代までは海上交通の要所として潮待ち、風待ちに利用されたが、大型船が停泊出来ないために現在では小さな漁港になっている。鞆とは、外海から荒波が入り込まない湊口が狭い入り江の意。

日本の外洋交易港である長崎、横浜、函館、神戸も深い水深の港である。水深があって岸壁の切り立った湾は、そのままでは荷下ろしに不便なため、海岸部分を埋め立てる事になる。

<日本の海岸線>
日本は約3万5000㎞という長い海岸線を持つ。国土面積が25倍ある米国の1.5倍、26倍の中国の2.5倍。海岸線という言葉自体が、江戸中期以前には遡れない言葉で、西洋のコーストラインの翻訳語かもしれない。それまでは渚や汀という言葉が使用され、漁撈の場という感覚だった?

太平洋の荒波のために、近代以前の日本は日本海側の海上交通が発達。灘(舟が辿り着けない地)という地名は、日本海側では玄界灘以外に無い。それでも、国土の70%程度が山地であるために、海上交通が発達した。

また、凹凸に富んだ海岸線であるために、緩やかな曲線を中心とする中国の海岸と比較して、海洋生物を生む岩礁が多い。

<洋船と和船>
江戸期までの日本の船は、中央に帆を立てた椀型で、波の上に浮いて沿岸をつたって移動した。欧州の船は外洋の波を横切るため、中央に竜骨を備え、波を切る構造になっている。船内に波が入らないように甲板があり、水の中に入る船腹を大きくする。和帆船は水深5m~6mで十分だが、喫水の深い洋帆船は水深10m以上を必要とした。

和船の特徴は、瀬戸内海の浅海に適している。

<日本の歴史>
①古代
筏状の船に帆を立てて海岸沿いの浅海を走り、浅い湊についたと思われる。出雲大社や平戸島の志々伎が奈良や京都の朝廷と直接的に繋がっていた記述が日本書紀等にあり、港の重要性が伺える。

②中世
後醍醐天皇の隠岐の島脱出に村上水軍が関わっていた事等から、中世の幕府権力は水上まで支配していなかったと思われる。この頃から漁撈の場だった海岸を、交易を盛んにする地域権力が出現したのかもしれない。

③江戸時代
防風林として植えられた松から白砂青松の風景が形成される。新田開発が盛んにならなければ、潮風に強い松を海岸に植樹する行為は無かった。

米栽培以外にも、四木三草(桑、茶、漆、楮、綿、麻、藍)の栽培が奨励され、それらを港に運ぶ海上交通が盛んになった。織豊時代に1600万人程度だった人口が2600万人~3000万人程度になる。

④明治維新以後
近代日本の四大工業地帯は、京浜(横浜)、名古屋(名古屋、四日市)、阪神(神戸)、北九州(博多、門司)と近代的港湾とセットになっている。外国の資源を運び入れ、加工し、海に運び出す行為。


<江戸中期、寛政(1789年~1800年)の三奇人>
①林小平:「海国兵談」を著す
②蒲生君平:「山稜志」を著す。天皇関係の御陵を調べ直す
③高山彦九郎:内陸の上州出身。尊王を訴えた

1785年を初版とする「海国兵談」ではカムチャッカからの黒船が記述されている。国内交易のためだけに港を考えた時代から、国家の防衛を意識する時代。その危機に対処する意識から「海国兵談」は出版され、「日本」という国を明確化しなければ、防衛目的が定まらないとした。守るべきものを明確にする意識が、やがては国体や天皇という問題意識に繋がっていく。

そして、海国であり長大な海岸線を持つ日本の防衛方法は、大陸国家のように海岸線に砲台を並べるのでなく、船に大銃を備えるべきとした。

<日本的意識の変化>
近代の都市生活では海を意識する事は少ない。第二次世界大戦後は防波のために海岸が埋め立てられため、海辺の光景(安岡章太郎)、青幻記(一色次郎)、潮騒(三島由紀夫)のように海辺を描いた文学も少なくなっている。

1965年に発表された幻花(梅崎春生)は戦争中の海岸を描いているが、2000年頃に出版された海辺のカフカ(村上春樹)では海辺の光景は描かれていない。

高度経済成長を期に日本人は海岸を喪失したのかもしれない。著者は、経済的価値以外に、日本人的心性として、海岸を復活させたいのか?

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日本史の全貌

読んだ本の感想。

武光誠著。2011年9月15日 第1刷。



古代 日本国の起こりと貴族の時代
統一体としての初期日本は古墳に現れる。最初の古墳は、奈良県桜井市の纏向石塚古墳とされる。古墳には、弥生時代の墳丘墓のような地域性が無く、大和朝廷にならったものと思われる。六世紀には仏教が伝来し、当時の仏教文化は朝廷の置かれた飛鳥にちなんで飛鳥文化(飛鳥寺、四天王寺、釈迦三尊像等)と呼ばれる。

仏教以後も大陸文化の流入は継続し、国体も中央集権制が整い、遣唐使を通じて白鳳文化(薬師寺や法隆寺、興福寺)と呼ばれる唐風文化が栄えた。それは奈良時代の国際色豊かな天平文化(正倉院)につながる。

中央政権は初期には公営田等の朝廷が直接経営する領土を多く持ったが、貴族層が私有地を持つ流れを押し留める事は出来ず、10世紀には私有地の守護者たる武士が発生する。

その頃には日本独自の文化を尊重する風潮があり、11世紀初めには平仮名と片仮名の字形が一定になり、和歌が流行した。調度品として日本独自の蒔絵が生れるのもこの時期である。

中世 分裂から統一へ
11世紀の貴族対立である保元、平治の乱に加担した事で武家が勢力を拡大する。

源頼朝が諸国に守護や地頭を任命する権利を与えられ、個々の武士が持つ領地支配権を尊重し、幕府が裁判や朝廷との交渉を行う形の政権が成立した。

武家社会では一族の子弟に所領を分ける分割相続がとられていたが、鎌倉時代後期には実家の長である惣領の権威が後退し、守護等の有力武士の保護が求められるようになった。彼等は中小武士団を結集し、勢力を拡大し、鎌倉幕府に対抗するようになる。鎌倉時代は中央文化が庶民に浸透した時代でもあり、彫刻や絵巻物などの写実的なものが好まれた。

鎌倉幕府の次の室町幕府は、守護を通じた全国支配のために、地方武士を組織する守護の権限を拡大した(軍費調達のために守護に年貢徴発を任せる半済令等)。足利義満の頃の北山文化は、金閣寺や五山文学等、禅宗や中国の影響が強いとする。禅文化の広がりは、東山文化にも繋がり、幽玄、侘びという精神性が好まれた。

その後、室町幕府弱体化によって戦国時代となり、江戸幕府の支配が発生する。

近世 幕府支配下の安定の時代
1603年に征夷大将軍となった徳川家康が志向した政権は、兵農分離のもとで農村の自治を重んじた。日本全国を幕府の直轄領とする事は出来ず、1615年の一国一城令や武家諸法度等で大名を制限するものの、中央集権は出来なかった。

一方で農村の購買力は高まり、交通路の整備に伴い、三井(呉服)、住友(銅山)、鴻池(酒造)のように近代財閥の礎となる商人が台頭した。

文化的にも元禄文化として中下級武士や上流町人が生み出した文化を庶民が共有する文化が生じ、合理的な学問を広まった。

江戸幕府の支配力が低下していき、徳川吉宗が採用した年貢増徴策が小農民の生活を圧迫し、彼等の土地を吸収した大地主が台頭する。専売制や藩営工場を通じて農村で成長した資本家層を支配側に取り込む事は、小農民から少量ずつの年貢を取り立てるよりも効率的だったが、幕府は小農民の側に立つ政策を放棄出来なかった。

やがて外国勢力の到来によって新政府が確立する事となる。

近代 戦争の時代から国際協調へ
朝廷を中心とする新政府は、富国強兵を目指して西欧化を進めた。

外国貿易では綿織物業を重視し、国内で綿花を栽培し、綿織物に加工する体制が整った。そして日清戦争、日露戦争を通じて大陸に進出した日本は、韓国保護下や満州経営によって米国や英国の利権と対立するようになる。

開国による経済の発展は、安価な輸入品の流入等により、自給自足の形を破壊し、財閥の成長や社会主義運動を呼び起こす。義務教育によっても大衆文化が発展し、大量出版の時代を迎えた。

多くの大衆が文化の担い手となる事で、耽美派(谷崎潤一郎、永井荷風)、白樺派(武者小路実篤、有島武郎)、新思潮派(芥川龍之介)、新感覚派(川端康成、横光利一)等の多様な文学や芸術が栄えた。

日本は第一次世界大戦による欧州の没落により、ますます大陸に進出していく。自給自足によって戦後恐慌の被害をより直接的に被る人々は軍事による解決を望むようになり、満州事変や日中戦争、太平洋戦争が発生する。

戦争に敗北した日本は、米国を中心とする自由主義陣営に組み込まれ、冷戦下で高度経済成長を成し遂げる。

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