ドングリと文明

読んだ本の感想。

ウィリアム・ブライアント・ローガン著。
2008年9月1日 初版一刷発行。



温暖化が急速に進んだ紀元前1万年頃の世界において、中緯度温帯域の森林地帯でドングリを食料とする文化が生まれ、それが農耕文明に繋がっていくという仮説?

造船や皮なめしに活用する他、建材やインク、家畜の餌にも活用出来る。

オーク(ナラ/カシ/ドングリの木):
ブナ科コナラ族。広葉樹で北半球の亜熱帯から亜寒帯に広く分布。落葉樹が中心だが、照葉樹林泰に分布する種は常緑樹となり、ドングリが実る。

ドングリ文化という用語を考案したデイヴィッド・ヘインブリッジ(カリフォルニアのドングリ文化圏を研究)は、1000人の集落では、三週間の労働で二年~三年分の食料となるドングリを収穫出来たとする。

しかし、人口が増加していくと、燃料や建材として木材が使用され、オークの樹林帯は衰退したらしい。有史以降まで生き残ったドングリ文化は、カリフォルニア先住民文化のみ。

〇コピス・アンド・スタンダード
紀元前4000年頃の欧州で考案された森林管理システム。
森林をスタンダード(家屋、船等の耐力構造に用いる樹木)とコピス(定期的に伐採する萌芽木)に分けて、スタンダードは50年~100年に一回、コピスは5年~25年毎に地面の高さで伐採して活用した。

コピスはオーク、トネリコ、サンザシ、ハシバミ、ハンノキ、ニレ等の広葉樹であったらしい。

一コード(薪の計量単位で、幅1.2m、高さ1.2m、長さ2.4mの一山)のオークの木材は、2300万BTUの熱を発し、これは二等級の灯油100ガロン(約379ℓ)に相当するらしい。

鉄一トンを生産するには木炭84トンが必要で、ローマ・ブリテンのウィールド地方にあった六つの製鉄所では、120年~240年に9万トンの鉄が製造され、そのためには750万トン = 3万3571ヘクタール(ウィールド地方の森林の9%)の森林が破壊されたはずだったが、コピスの森林管理システムのため、それほど樹木は破壊されなかったらしい。ブリテン島の低地地方の森林の半分は、鉄器時代の到来からローマ占領までの700年間に鋤を使った農業で破壊されたとする。

〇造船
オークは強くて比較的軽く、丸太の周囲から中心に向かう放射組織に沿って割る事が出来るため加工し易く船材として活用された。
五世紀~六世紀にはいたを合わせて鉄材で留めて船の形に曲げる方法が見つけられた。

竜骨(細くて高さのある木の幹)、外板(丸太を割って作る)、厚板(喫水線に張る)、骨組み(船体にかかる応力を分散)。

森のオークは他の木と競いながら成長するため、まっすぐに高く伸びる傾向があり、かなりの高さまで枝が無いため、外殻から造る船に必要な長い厚板の材料となった。

ヴァイキング船の材料の90%は厚板で、骨組み材は10%だったが、近世に造られたフリゲート等の戦列艦の75%はの骨組み材で10%程度が厚材。平均的な戦列艦を作るには約24.3ヘクタール分の樹齢100年オークが必要だったらしい。

〇皮なめし
オークの樹皮を粉にしたものを動物の皮と一緒に水に浸すと、成分のタンニンが皮の腐食を防ぎ、皮をしなやかにする。

最高のタンニン樹皮は、樹齢25年~30年くらいのオークの樹皮を、春に剥いで作った。外樹皮を取り除き、内樹皮を石臼で細かく挽く。

皮なめしは以下の手順で行う。一年程度の時間が必要で、防水性を備え、腐食しない革になる。

(1)こすり
獣皮を水に漬けて柔らかくしてから、裏面をこすって脂肪や肉を削ぎ取る。

(2)石灰水
皮を石灰水に漬けて毛が抜け易くして、こすって皮を落とす。毛や表皮、裏側の肉質が取り除かれ、真皮(蛋白質が網目状に繋がった組織)が残る。

(3)アンモニア
皮を鶏糞と水を混ぜた溶液に浸す。数日の間に二、三回、こすって溶液に戻すのを繰り返す。アンモニアが皮に残った石灰と反応して取り除かれ、皮の毛穴が開く。

(4)タンニン
皮をタンニンの溶液に浸すと、タンニンが皮の空隙部分に入り込み、コラーゲンと架橋構造を作る。



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海を渡った人類の遥かな歴史

読んだ本の感想。

ブライアン・フェイガン著。2013年5月20日 初版印刷。



太古の航海について書いた本だと思う。

陸地から遠く離れた海上では、季節風を利用した航海をしたと予想する。

〇ポリネシア
東南アジアの狩猟民達は、紀元前3万年頃にはニューギニア、オーストラリアに移住し、紀元前3000年頃からラピタ人によるフィジー島までの航海が行われ、950年頃には東部ポリネシアへの移住が開始される。

赤道付近のポリネシアでは、夏に南風、冬には北東風が吹き、海流と風を予想し易い(航海回廊)。転覆し難い双胴のカヌーが定着した。

〇東地中海
紀元前3000年頃には、複数の島を結ぶ交易網が作られたとする。

夏のメルテミ(強風)、冬のエテジアンの北風が特徴で、風が強い6月と8月は帆走出来ない事がある。凪が続く事もある予測不可能な古代エーゲ海では人力でオールを漕ぐ方法が普及した。

〇インド洋
モンスーンでは、5月~9月に南西風、11月~3月には北東風が吹く。夏の暑さでインド洋北の大陸塊が温まって、上昇した空気が地表に低気圧を生み出すために海からの湿気を帯びた空気を呼び込み、冬にはこのパターンが逆転する。紀元前1000年頃にはインドとペルシャ湾を結ぶ航海は日常的に行われていたらしい。

中世インド洋交易の中心となったアラブの船はチーク材(南インドに分布し、耐久性が高い)とココヤシ材(モルディヴ、ラカディーヴ諸島にあり、繊維として使用される)から造られた。

〇北大西洋
紀元前2500年頃には外海を渡る航海は珍しくなかったとする。

紀元前4000年頃?の、オーク材の板をイチイの繊維で縫い合わせた縫合船が英国で発見されたらしい?

エスキモー達は海獣の骨、トドの皮を使用した皮船を使用した。

〇マヤ族
アカエイの棘(毒針)、コンク貝(法螺貝)、ダイオウショウジョウガイの殻(ペンダントにする)等をエクアドル沿岸との交易で入手したらしい。バルサ材の筏で北へ搬送し、銅の精錬法も伝播したとする。

バルサはブラジル南部、ボリビア、中央アメリカ南部に自生し、コルクより低密度で軽量。



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信長が宿敵 本願寺顕如

読んだ本の感想。

鈴木輝一郎著。印刷 2005年10月10日。



織田信長(改革派)と本願寺顕如(守旧派)という対立軸と、顕如と教如の親子間の葛藤を重ね合わせようとしたのだと思う。

物語は顕如が教如に本願寺の指導者としての地位を明け渡し、織田信長に恭順するところでクライマックスを迎える。後日談も合わせると、作者の試みは失敗しているように思えた。

P18:
家臣団と主君の関係は、江戸期のそれのような堅固なものではない。よく例えられるような、会社組織の社長と社員の関係とも違う。議員と後援会(特に商店や農家、建築業などの自営業者)との関係に最も近い。支援団体の意見統一と利益配分、そして権益保護に非力な者を担ぎだせば、たちまち失職するか、分裂する

P32:
浄土真宗本願寺派は宗祖親鸞の教えを忠実に守った。五逆をおかしたものも赦される、としたのだ。いわゆる『善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人においてをや』。すなわち『誰も救えない者をこそ救う』のが教義である。戦国期に浄土真宗本願寺派が爆発的にひろまったのは、この教義が時代に合ったためでもあった

P89:
織田家中の命令系統が、他の戦国武将と根本的に異なっていることだけは確実だった。織田信長という男は、いまだに家臣団の意見や提案に対してはまったく耳を貸さず、すべて自分で判断して家臣団に命令を下している
(中略)
織田の家臣団の意見や推論をどれだけ集めても、織田信長がどう動くのか見当がつかない

P133:
普通のひとびとは、来世の存在を実感をともなって信じていた。信長には、かれらの心理が―そして心理による行動が、理解できなかった

P194~P195:
織田信長が特異なのは、どれほど強大になっても、常に弱者の戦略を採ったことにある。豊富な資金を背景に、圧倒的な人員と兵站を一極に集中し、短期で決着をつけた
(中略)
何より織田信長の特異なのは、何度も敗北しようが、勝つまで勝負を投げることはしない、粘着質な戦いぶりにある

P346:
平和とは何のことか、存じません。信じることは、死ぬことです

P363:
本当に信長は本願寺に勝利したのか。信長は浄土真宗に帰依している下卒たちにおびえ、怠業を罰することすらできない。十年におよぶ戦いの、総大将である顕如に手をかけることもできない

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数学はなぜ生まれたのか?

読んだ本の感想。

柳谷晃著。2014年4月20日 第1刷発行。



第1講 0はなぜ偉大か?
最古の位取り記数法は紀元前2000年頃の古代バビロニアで作られ、紀元前後の中国、3世紀~9世紀のマヤ、6世紀~8世紀のインドでも作り出されている。

インドアラビア数学は位取り記数法(10進法)であるために記録と計算が便利。503と53を区別するために、5と3の間に0がある必要があり、それが無いと「503」は「5 3」と記す事になり、「53」と間違え易くなる。

0は位取り記数法を完璧に成立させる。

第2講 2次方程式の解の公式を覚えていますか?
古代バビロニアの粘土板の問題集は係数や定数を代入する箇所が無いために、問題集の文章を自らが解きたい問題に変換しなくてはいけない。

フランソワ・ヴェエト(1540年~1603年)は代数学の父と呼ばれ、公式の文字部分に数値を代入する方法を考案。未知数の前の係数や定数を文字で表現する事で2次方程式の全ての形を表す一般方程式を作った。

どのような2次方程式の解も、係数や定数から求める事が出来るようになる。

フランソワ・ヴェエトが仕えたアンリ4世は、ナントの勅令でユグノー戦争を終結させ、国家再建のために公共事業を行ったために数学の発展が望まれていた。

第3講 三角比はなぜ生まれたのか?
直角三角形の斜辺とその他の辺の比が、直角三角形の大きさに関わらず一定である事は土木建築において重要だった。

ギザのピラミッドには黄金比(1:(1+√5)/2)が使用されているが、√5を求めるには、底辺:対辺 = 1:2となる直角三角形の斜辺を求める。

第4講 古代ギリシャで「証明」が生まれたのはなぜか?
論理的な証明は対等な関係を結んだギリシャの都市国家間で必要とされたとする。

皇帝が存在する地域では、説得すべき相手が納得する話し方が必要であり、故事来歴のレトリックが重んじられた。

〇数学的帰納法
命題P(n)に対して以下を証明。

(1)n = 1の時
(2)n = kについてP(n)が成立していると仮定し、
  n = k + 1の時にP(n)が成立する事を証明する

つまり、(1)で n = 1の場合にP(n)が成立する事を証明し、(2)でk = 1とすればn = 2の時にP(n)が成立する事を証明し、n = 3,4,5と将棋倒し的に証明していく。

この方法論は、無限の扱いに注意する必要があり、帰納法が正確に証明出来るのは数学的帰納法のみとする。

〇背理法
数学の証明は真か偽の二つの結論しかない。そのため、AならばBが成立する事を示すと、Bを否定すればAも否定出来る。

背理法は紀元前五世紀のタレス、ゼノン、ピタゴラス等の哲学者の論争を起源とし?、無理数(分数で表現出来ない数)を認めないピタゴラス学派を批判するためにゼノンが考えた「飛んでいる矢が止まっている」パラドックス等に由来する?

時間と空間が点と瞬間から出来ているピタゴラス派の思想では、飛んでいる矢はこれ以上は分割出来ない瞬間に、自分と等しい空間を占有しており、隣の空間に移動する時は、瞬間的に矢の長さ分だけ移動しなくてはならない。

この方法論は現象の変化過程を説明するのには向いていないとし、現実には真偽二つの結論しか無い事象は少ないかもしれない。

第5講 アルキメデスに学ぶ微分積分:微積分入門Ⅰ
アルキメデスは、球の表面積や弓形の面積、回転体の体積を計算する時に積分法を見い出したとする。

円の面積を計算する時は、円の中心を頂点とし、円周の外側と内側に接する二等辺三角形を作っていき、円の面積が内側の二等辺三角形の面積の和と、外側の二等辺三角形の面積の和の中間とする。

二等辺三角形の頂点の角度を小さくしていけば円の面積を近似出来る。

アルキメデスは微分についても研究しており、微分を接線を求める方法とした?円の接線は、円の中心と接線を結ぶ線に垂直になる。

第6講 リンゴが落ちても、万有引力は生まれない
    :微積分入門Ⅱ

惑星軌道について研究したケプラー(1571年~1630年)は、惑星の楕円軌道における面積速度を求める際に、楕円を三角形で分割し、三角形の面積を足し合わせる事で楕円の面積を求めた(積分の応用)。

ケプラーの時代には積分が微分の逆の計算になる事が知られておらず、xの二乗を微分すると2x、2xを積分するとxの二乗のような応用が出来なかった。それが分かっていれば、微分の式に変換出来た?

エヴァンジェリスタ・トリチェリ(1608年~1647年)が物体の落下速度の計算から、微分積分の対応に気付いたとする。速度と位置を考えると、速度と時間軸で囲む部分の面積が物体の位置になる(=速度を積分すると位置になる)。そして物体の位置は放物線運動をしているため、その接線は速度にあたる(=位置を微分すると速度になる)。

さらにアイザック・バロウ(1630年~1677年)が微分と積分が逆の計算である事を証明した。

第7講 平行線が交わる幾何学:非ユークリッド幾何学の世界
ユークリッド幾何学の第五公準である「平行線が交わらない」は証明出来ていない。

第五公準が崩れると、平行線が一本だけという事が崩れるため、三角形の内角の和が180°である事も疑わしくなる。

第五公準:
一つの直線が、二つの直線と交わって、同じ側に足して180度より小なる内角を作る時、その二直線を限りなく延長すると、その内角のある側で交わる。

非ユークリッド幾何学」
ロバチョフスキー(1793年~1856年)とボヤイ(1802年~1860年)による、第五公準を捨てて、平行線が沢山ある定義を入れた幾何。平行線が何本も引け、三角形の内角の和が180°より小さくなる。

ケーレー(1821年~1895年)は、ユークリッド幾何学が無矛盾ならば、非ユークリッド幾何学も無矛盾とした。

リーマン幾何学:
第五公準の代りに以下の公理を使用。

(1)2点を結ぶ直線は、一本とは限らない
(2)平行線は存在しない

球面上の円を考えるとイメージし易いらしい。アインシュタインはリーマン幾何学を使用して相対性理論を作った。

第8講 コンピュータはなぜ2進法で考えるのか?
数学的な論理は、「かつ」、「または」、「否定」だけで式の形に出来るし、それを変形して別の命題を導く事が出来る。

つまり、数学の論理とは定義に従った論理式の変形である。

そのため、現実を完全に包括する事は出来ない。

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銀の世界史

読んだ本の感想。

祝田秀全著。2016年9月10日 第一刷発行。



16世紀、17世紀の世界市場に流れ込んだ大量の銀が世界を一体化の方向に引っ張った。

第一章 東西ヨーロッパの「棲み分け」
16世紀の西欧では以下が発生していた。

①人口増加
②穀物価格高騰
③黒人奴隷貿易伸展

1545年にはポトシ銀山の開発が始まり、16世紀末のピーク時には年間300tの銀を生産した。16世紀~17世紀前半にスペインの交易拠点セビリャに流れ込んだ銀は1万6000tで、その2/3はポトシ銀、残りはメキシコ産。

それまで欧州に銀を供給していた南ドイツの銀産出量は年間平均30t。新大陸銀は年間平均200t以上で、大量の銀流入は人口増加と相まって「価格革命」を引き起こし、16世紀の欧州の物価は平均3.5倍~4倍になった。

ポトシ銀が大量に流れ込んだのは1570年代からで、16世紀~17世紀にかけて1.5倍~1.7倍になった欧州人口が価格革命に影響している。

こうした価格革命により、西欧の資本蓄積(企業家が銀を蓄積)と東欧の領主農奴制(西欧への穀物輸出)という欧州の棲み分けが生まれた。

ネーデルラント:
ライン川やバルト海、地中海を繋ぐ交易拠点。英国の羊毛を輸入して加工し、毛織物として輸出する「ロンドン―アントウェルペン枢軸」を引き継ぐ。

ネーデルラント以外の西欧でも毛織物、オリーヴ油、ワイン等の工業部門を中心に資本主義経営が進展。不足した穀物は東欧から輸入され、東欧では地主制が復活し16世紀後半のポーランドの穀物輸出利益は3倍~4倍になった。

スペイン:
16世紀ハプスブルク朝(1516年~1700年)が誕生し、カルロス一世(在位:1516年~1556年)が神聖ローマ皇帝を兼ねると、スペインにはカトリックによる欧州統合の指導者という事になり、ルターの宗教改革やオスマン帝国膨張に対抗する義務が生じる。

スペインには過大な財政負担が発生し、軍事費による圧迫のため産業投資に資金を振り向ける事が出来なかった。

第二章 銀と国際政治が「世界のオランダ」をつくった
オランダの飛躍は、16世紀末に東欧の穀物を地中海のシチリア等に運んだ事等から始まる。シチリアは1501年~1570年で人口が60万人から100万人程度に増加し、東地中海を支配するオスマン帝国からは穀物供給を抑えられていた。

価格革命には東西でタイムラグがあったため、東欧の安価な穀物を南欧で大量販売する利潤は150%~250%程度?

スペインも造船用の木材、接着塗料のピッチ(樹脂)、タール(乾留液)、帆布、麻等をオランダを通じて東欧圏から買い付けていたため、新大陸銀はオランダに還流していた。

スペインは交易拠点たるオランダを支配すべく八十年戦争(1568年~1648年)を引き起こす。1585年にアントウェルペンがオランダ独立戦争時のスペインによる攻撃によって崩壊すると、アムステルダムに交易の中心が移る。1622年のアムステルダム人口の1/3は南ネーデルラント系市民だった。

フランス・スペイン戦争(1595年~1598年)ではフランス・英国・オランダの間に同盟が結ばれ、オランダは独立国として扱われるようになる。新大陸銀の3/4はオランダに集まるようになる。

以下はオランダの富の源泉。

①胡椒貿易
1602年にオランダ東インド会社を作ると、1619年に東洋貿易の拠点バタヴィアを建て、胡椒貿易の覇権を握る。

②奴隷貿易
1621年にオランダ西インド会社を作り、ブラジル北東岸を占領して、黒人奴隷を利用したプランテーションを始める。黒人奴隷はスペイン領や英仏植民地にも輸出された。

③武器貿易
三十年戦争(1618年~1648年)では製鉄所、製銅所、兵器製造所を持つオランダが大砲や弾薬を輸出した。

第三章 一七世紀のグローバル化と開かれた日本
16世紀にオランダがインド東部のコロマンデル沿岸、ジャワ島のバンタムを繋ぐ香辛料貿易のルートを構築。15世紀からインドは香辛料不足になっており、コロマンデルのオランダ交易の輸出品の約40%は東南アジア産の香辛料だった。

スペインもフィリピンのマニラを1571年に建設すると、アカプルコ貿易によってメキシコ銀を運び環太平洋貿易圏の中心となった。

1557年にポルトガルが明国のマカオに居住権を得ると、絹製品、生糸、陶磁器が明国に輸出され、大量に集まった銀は地税と丁税(人頭税)を銀納する一条鞭法の定着に一役買った。

日本からの銀も多く、オランダ東インド会社の拠点バタヴィアに1652年~1653年に集まった銀55.4万フローリンの内、日本銀は13.5万フローリンだった。ただし1668年に徳川幕府が銀の輸出を禁止する。

17世紀前半のオランダ東インド会社の買い付け品の半分以上は胡椒で、その他の香料も合わせると75%近くになる。1700年頃には綿布の率が半分程度になっている。

しかし、オランダの綿布買い付けはスマトラやジャワで香辛料を得るための交換手段(コロマンデルの安価な綿布をスマトラ・ジャワに運ぶ)であり、英国が欧州向けの主力品として綿布を扱ったのとは違った(グジャラートの高価な綿布を欧州に輸出)。

英国は領土拡張にも熱心であり、17世紀後半から人口停滞期に入った欧州では穀物貿易の利潤も低下し、英国が1651年に制定した航海法(英国領に入港出来る船は、商品を直接製造した国の船に限る)が中継貿易を主とするオランダを直撃した。

英国は銀山は無かったが、新大陸で栽培する砂糖、煙草、綿花のプランテーションで莫大な利益を手にした。

第四章 イギリスを頂点に押し上げた大西洋交易圏
英国では中国茶の消費が盛んになり、1765年~1769年の年間平均で117億9854万銀両の銀が中国に流れた。これは英国東インド会社総取引の73%になる。1795年~1799年の年間平均は386億8126万銀両。

茶の消費は砂糖消費も盛んにし、奴隷労働力供給とプランテーション確保、両者を繋ぐ工業生産システムが大西洋三角貿易を支えた。

英国の産業革命は伝統的な毛織物工業ではなく、非欧州的な綿織物生産から始まったが、これは熱帯で働く奴隷向けの需要だったのかもしれない。英国の1769年の綿織物輸出額は、欧州向けが8000ポンド、新大陸へは6万6700ポンド、アフリカへは9万8000ポンド。

英国は1765年にインドのベンガル、ビハール、オリッサの徴税権を手にすると、インドで物品を買い付けるのに貴金属をインドに運ぶ必要が無くなり、インドで徴収した税で払うようになる。インドから英国への銀の流出が発生し、インドではデフレが発生し、綿産業が壊滅的な打撃を受けた。

インドの綿製品模倣から英国は世界の工場となる。

スペインと異なり、英国は1693年に設けられた国債制度による国債発行によって外国からも戦費を調達したため、国内産業経済への負担が少なかった。

第五章 大英帝国の平和がアジアにやって来る
英国はアジアを主な市場に望むようになる。

1770年代に茶の輸入量が増えると、英国東インド会社は清国貿易に充てる銀確保が困難になり、初代ベンガル総督ベースティングス(在任:1773年~1785年)の意見でインドからアヘンを輸出するようになる。

1800年~1804年に年間平均3562箱だった清国のアヘン輸入は1835年~1839年には年間平均3万5445箱になり、当時の清国の一年の歳入約4000万銀両に対して、約1875万銀両の支払いが行われた。

18世紀以降、清国に溜まった銀は1830年代初期までに五億ドルを超えるとされるが、それがアヘンへの支払いに消えるようになる。

アヘン戦争以後、清国からアヘン交易を通じてインドに銀が流入してインドの購買力が増し、1820年の綿布輸出市場の構成比はインドと清国と日本を合わせても5.68%だったのが、1840年にはインドの比率が18.5%、アロー戦争後の1860年には30.83%になっている。

第六章 近代日本の銀はどこから来たのか
日清戦争で日本が得た賠償金二億両は、明治国家の歳入の二年分(アロー戦争で英仏に支払われた賠償金は1600万両)。

それは銀では支払われず、銀価を英国通貨ポンドに換算し、ロンドンで受け取った。これは英国からの軍事製品輸入増加を見込んだもので、賠償金をロンドンに預けておけば日英関係が良好になるという計算があったとする。

賠償金は1895年~1898年にかけて支払われ、そのために清国は列強から借款を得ており、清国と列強が貸借関係で結ばれるようになる。その延長にあるのは鉄道敷設権や鉱山採掘権等の譲渡であり、清国分割への呼び水となった。

一方で、日本は賠償金を元手に1897年に金本位制に移行している。1893年?には英領インドで銀貨鋳造制度が廃止されて銀相場が暴落し、銀本位制の日本は大幅な円安による輸入価格高騰に苦しんでいた。

賠償金を食い潰しても金本位制を維持出来るように、明治政府は殖産興業を行う。そのための資金集めに預金業務を行う普通銀行が設立されていく。

第七章 本書のエキス―中心・周辺と世界史のダイナミズム
今までのまとめ。

自由主義を土台とする近代社会(西欧:中心)が、原料供給地となる非近代社会(周辺)を必要とした事について。世界史のダイナ水は地球規模の分業体制から生じた。

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