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信長と将軍義昭

読んだ本の感想。

谷口克広著。2014年8月25日発行。



織田信長と室町将軍 足利義昭の関係は最初から険悪だったわけでなく、当初の織田信長は室町幕府再興を目指していたとする。

二人の関係を以下の三期に分ける。

①連携時代(1568年~1569年:永禄十一年九月~永禄十二年十月)
織田信長が足利義昭を助けて京都に上洛し、翌年の永禄十二年四月には、二条御所を足利義昭に進呈している。

②確執時代(1569年~1573年:永禄十二年十月~元亀三年九月)
永禄十二年十月に、織田信長が北畠氏の伊勢大河内城を開城させた報告を足利義昭に行った際に喧嘩となり、岐阜に急に帰国した事が多門院日記に記されている。

③対立時代(1572年~1573年:元亀三年九月~元亀四年七月)
元亀三年九月に、織田信長は足利義昭の人格まで批判する十七ヶ条の異見書を提出する。足利義昭の行動が活発化しており、側近の山岡景友を山城半国守護に任命する等した事が警戒されたのかもしれない。足利義昭は挙兵するも織田信長に敗北し、京都から追放される。

元来、室町幕府の将軍と大名は相互補完の関係にあり、足利義昭の政権は当初から傀儡政権とは言い切れない。

織田信長が南伊勢一帯に勢力を張った北畠氏を従える際には、足利義昭に調停を頼んだと思われ、戦争で織田信長が借りを作った事が両者の喧嘩の原因かもしれない。永禄十三年一月には、織田信長は五ヵ条の条書を足利義昭に提出し、政治権力を制限しようとしている。

その後も浅井氏が離反した際には、江北への遠征に際して足利義昭の親征を予定しており、将軍の権威を利用して高島群や若狭国衆を従わせようという意図があったものと思われる。ただし、浅井氏に従っていた坂田郡の国人 堀秀村が織田信長に投降し余裕が出来たためか、将軍親征は中止されている。

織田信長は足利義昭を京都から追放後、天正三年(1575年)には従三位権大納言に叙任され、従三位征夷大将軍兼大納言だった足利義昭の位に並ぶ。天正四年(1576年)に足利義昭は備後鞆(広島県)に移り、御内書による外交を展開するも京都から離れた足利義昭の影響力は弱かった。

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ドイツの歴史

読んだ本の感想。

メアリー・フルブロック著。2005年8月10日 第1刷発行。



欧州の中央に位置し、分権的傾向が強く、周辺国や世界情勢の影響を強く受ける。

神聖ローマ帝国という枠組みの中でプロイセンのフリードリヒ大王が強大な軍隊を組織して各国と戦った歴史と、ワイマール共和国の中でナチス党が勢力を伸長させ世界大戦に参加した流れは同じパターンを踏襲しているのだと思う。

著者は、ドイツ史の特殊性を政治主体と国家が必ずしも一致していない点にあると言う。神聖ローマ帝国の家系だったハプスブルク家は帝国外に広大な領土を持ったため、帝国内の他の領邦と潜在的に対立する可能性のある問題を抱えていた(イタリア半島の戦争に介入した事等)。帝国レベルではドイツは非中央集権化し、領邦レベルでは中央集権化していく。

ドイツ史の始まりには諸説あり、843年のヴェルダン条約で東フランク王国が成立し、外部からの脅威に備えて部族大公制(フランケン、ザクセン、バイエルン、シュヴァーベン、ロートリンゲン)が生まれて弱体化したカロリング家に代わって領地を守り、911年にカロリング家が断絶すると、フランケン公コンラートがコンラート一世として初代ドイツ国王に選出される。その後、919年にザクセン大公ハインリヒが即位し、封建制を内包した王国が継続する。

1254年にシュタウフェン王家の血統が途絶えると、1273年にハプスブルク家のルドルフがドイツ王に選ばれ、ハプスブルク家は婚姻政策によって帝国外に領土を拡張しつつ、1806年に解体するまで続く。十五世紀の終わりには、帝国議会(帝国レベルの議題)と領邦議会(領邦レベルの議題)に政治が分化する。神聖ローマ帝国という緩い枠組みの中で多数の領邦国家が乱立するシステム。

教会によらず聖書を範とする宗教改革がドイツで始まったのは、分権的政治のためかもしれない。十七世紀半ばには、欧州各国においてフロンドの乱(1648年~1653年)、イギリス革命(1640年~1688年)のように、中央集権化を進める支配者と地方の抵抗が政治的動乱を引き起こし、ドイツでは帝国内の宗教的対立がドイツ以外の国も巻き込んで戦った三十年戦争(1618年~1648年)が発生している。

三十年戦争によって神聖ローマ帝国の力は弱まり、ドイツは多数の主権国家が併存する政治状況に置かれる。領邦の一つであるプロイセン王国のフリードリヒ・ヴィルヘルム一世は官僚機構を整備し、息子のフリードリヒ二世はオーストリア継承戦争(1740年~1748年)、七年戦争(1756年~1763年)を戦った。

フランス革命の動乱の後、1835年にニュルンベルク―フェルト間にドイツ初の鉄道が開通した事に象徴されるように、経済生産が活発化し、ドイツ関税同盟が1834年に成立し、ドイツ全体が一つの経済圏となっていく。

十九世紀後半にはドイツはプロイセン主導で国民国家として統一される。

プロイセンでは、ユンカー(地主貴族)の影響力が強く、工業化社会発達によるユンカーの強い政治権力と弱い経済力の矛盾が表面化し、急速に工業化が進む中、海外進出して市場と原料供給地を確保したい思惑が世界大戦へとつながっていく。

工業化以前の産業を基盤とする選良が、急速に工業化する社会を支配する歪んだ政治システムは、第一次世界大戦後も解消されず、政治システムの中に労働者階級を取り込む事が出来なかったために、議会制民主主義の枠内では利害対立を調整出来ずに、国内の緊張状態を過激な方法で解決するナチス党が支持を集める事になる。

ナチス党政権下でも、神聖ローマ帝国時代のような権力の二重性があり、ナチス党による新組織が、以前からの国の行政機構と重複する状況が続いた。競合する複数の組織を現実に機能させるために、カリスマ的な総統という最終的決定を行う個人が作り出される。

第二次世界大戦後のドイツは東西に分裂するが、それは東西冷戦という世界情勢の影響を受けたものであり、共産主義の体制崩壊が明らかになる二十世紀後半にドイツは統一される。

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フランスの歴史

読んだ本の感想。

ロジャー・プライス著。2008年8月1日 第1刷発行。



政府(官僚制)による統制が強い印象がある。

国の統制が強過ぎるために、貧富の格差が拡大し、再分配を求めて革命が発生するが、国を維持するためには強力な官僚制が必要であるため、期待されていたほどの平等は実現されない。

フランス王国は、カロリング朝帝国崩壊後、徐々に形成された。843年のヴェルダン条約によって分割された西部の国がフランスと呼ばれるようになるが、初期の記録は断片的にしか残されていない。当時は広い領土を統一する道路網、情報網が未整備であり、官僚制も未発達であったために、十二世紀まで権力と領土の分断が続く。

987年にカロリング朝の血統が途絶えた後に成立したカペー朝では、肥沃な王領地を背景に勢力を拡大し、封建制・領邦君主制を法制度・官僚制度によって代替するようになる。ルイ六世(在位:1108年~1137)で国王支配体制が安定したとする。

その後、英仏百年戦争やペスト流行による混乱を経て、アンリ四世(在位:1589年~1610年)に王権が強化される。王は神によって認められた国家統合の象徴であり、地域的権力を失った貴族は年金を与えられ、国王の統帥権が強化されたために、十八世紀初頭にはフランス軍の規模は約36万人にまで拡大され、戦争が繰り返された。

軍務の負担や凶作が合わさってフランス革命が発生したと思われるが、同年に集められた陳情書を見ると、各身分の代表者は代議制の政体を求めてはいるものの、革命までは求めていない。

革命後も多くの有力者は、自分達の引き起こした制度変化に唖然としていた節があり、旧制度から有力者が受けていた恩恵が密かに復活している。そのため、フランス革命によっても社会的・経済的構造は変化せず、1815年のフランスは前工業化社会に留まっていた。

名士達は、土地の没収や懲罰的課税、徴兵、宗教弾圧等の混乱を経験した事から、革命を禍の源と思うようにまでなったが、改革が不完全であったために、1830年、1848年、1870年代後半と断続的に変革が発生している。

経済成長は一貫して継続し、社会改革が行われるも、社会的移動の垣根が根本的に取り払われたのは労働者階級の間で、政治家や高級官僚には出身階層の制約が未だに残っている。

<対独協力国としてのフランス>
第二次世界大戦においてフランスを占領したドイツは、形式的な主権を与えたものの、フランスを間接統治した。国民全体としてドイツに協力する風潮があり、1940年に制定されたユダヤ人排斥法は、フランス政府独自の政策だった。
亡命政権を率いてパリを再占領したドゴールは、演説の中で圧倒的多数の国民がドイツへのレジスタンスを支援したと繰り返し、主張し、フランスを対独協力国でなく連合国の一員として処遇する神話を構築した。

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都市と都市

読んだ本の感想。

チャイナ・ミエヴィル著。2011年12月20日 印刷。



以下、ネタバレ含む。

2010年頃の話。

東欧にあると思われる架空の都市国家ペジェルとウル・コーアが舞台。

二つの街は地理的に同じ場所にあるが、厳然とした区別があり、両国の国民は互いに相手の国が存在しないものとして振る舞わなければならない。そのため、一方の国の国民は、他方の国の人間、建物、自動車等が見えない振りをして暮らしている。

仮に、見える・聞こえる素振りを見せる(ブリーチ行為)とブリーチと呼ばれる謎の組織が違反者を連行して罰を下す。ブリーチは、古代遺跡に由来する高い科学技術を持っていると思われる。

両国の文化(服装や仕草)、建築様式、車の年式は異なっており、ブル・コーアの方が経済的に豊かであり、何故、このような体制が出来上がったのかは考古学的に調査されている。

合法的に両国が交流するためには、旧市街の中心に位置するコピュラ・ホールを通る必要があり、一方の国の国民が、コピュラ・ホールを通ると、それまで見えない振りをしていたもう一方の国を認識する素振りをして良くなる。

********

主人公であるベジュル警察過激犯罪課 ティアドール・ボルル警部補が、身元不明の女性死体の捜査をする。捜査を続ける内に、女性が米国からの留学生マハリヤ・ギアリーであり、デイヴィッド・ボーデン教授が書いた『都市と都市の間に』に感化され、二都市の間にある第三の都市オルツィニーを探していた事を知る。

マハリヤの友人ヨランダ・ロドリゲスは、マハリヤがオルツィニーの秘密に近付いたために、殺害されたと思い、ボルル警部補を頼ってウル・コーアからペジェルに移動しようとするが、途中で射殺される。射殺犯を殺害したボルル警部補は、ブリーチ行為を犯した事でブリーチに捕らえられ、ブリーチの一員であるアシルとともに事件の調査を続行する。

マハリヤが古代遺跡から遺物を盗み出し、何者かに渡していた事を知ったボルル警部補は、マハリヤが遺物保管庫の鍵当番をした日に商業イベントが行われている事に気付き、大規模なバス事故等が同時多発的に発生し、ブリーチ行為が完全には取り締まれない混乱の中、商工会議所のメンバー ミケル・ブーリッチ(二つの都市を統一しようとしている)と相対する。ブーリッチは射殺されるが、彼の協力者コルインテック社イアン・クロフトにはブリーチの威光が通用せずに逃げられる。

マハリヤは、第三の都市オルツィニーからの指令と騙されて、古代遺物の密輸行為をさせられていた。参謀として協力したのはボーデン教授で、第三の都市オルツィニーが存在しない事を認められないために、マハリヤを騙し、自らの調査でオルツィニーが存在しない事に気付いたマハリヤを殺害した。ヨランダを殺害させたのは、ヨランダがマハリヤから密輸の話を聞いたかもしれないから。

ボルル警部補は、ブリーチの構成員が、ブリーチ行為を犯した者の中から選抜される事を知り、後の人生をブリーチで過ごす事になる。

P220:
パーラニウクの小説『ある国間追放者の日記』はペジェルでは禁書だ

P263:
ウル・コーマ人特有の時機をつかむセンスとペジェル人の楽観主義を両方受け継いだら、いったいどうなる

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苦悩に満ちた宮廷画家

読んだ本の感想。

王凱著。2010年4月30日 初版第1刷発行。



清朝の宮廷画家として活躍したジュゼッペ・カスティリオーネ(中国名:郎世寧)の話。

東西融合の新体絵画を作り出し、歴史資料として現代でも重要視されている。

1688年にイタリアで誕生した郎世寧は、1709年にイエズス会士となり、1715年に清朝時代の中国へキリスト教布教のために派遣された。当時の欧州はバロックからロココの転換期で、郎世寧は基本的に盛期ルネサンス美術の伝統を受け継ぎ、カラッチやカラバッジョの影響を受けた。

中国において郎世寧の絵画は中国風になり、特に人物に陰影をつけて西洋風にする事は禁じられた。

西洋では描かれない「泳ぐ魚」を描いた事を画期とする。西洋では、魚を食卓の御馳走として描く事が多く、魚に対して記録する態度で臨んでいる。中国では、荘子が秋水偏にて泳ぐ魚を姓名の象徴と連想しており、画家が魚になる気持ちで描く。

欧州では、絵画表現の基本は物質の現状をそのまま表現する事であり、遠近法や明暗法によって視覚に映った物を画面に反映する。中国では、主観的な認識と哲学で慣れた意識で絵画を創作する。

郎世寧の作品は、宮廷の様子を描いた物が多く、皇帝狩猟図や木蘭で行われた狩猟を描いた木蘭図が当時の伝統を伝える。木蘭では毎年秋分以後、軍隊の訓練を兼ねて狩猟を行った。

乾隆帝の戦争を記録する戦図冊は、中国の歴史上初めて銃、大砲、弾薬が描かれ軍事記録としての意味がある。

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